第14話
14、
ここ数日は気持ちのいい晴天が続いていたスカイナビアの上空だが、今日は少しばかり不吉な影が覆い始めている。
防弾用の土嚢を連帯して運び出している兵士たちと、山道の中を厳めしい車体を揺らしながらゆっくりと移動する戦車の傍らを通り過ぎながら、敬一は山の傾斜の中を登り続けていた。ほんの数センチながら、残り積もっている雪を踏みつける度に、足下から不安定な触感を伝わる。おぼつかない足場で、敬一はいつにも増して慎重に歩を刻んでいた。
新年が明けて、今日が三日目。
元旦早々敵軍の野営地を奇襲するという、クリスティーナ発案の作戦を遂行した敬一たちは、現在彼女が直々に率いる軍勢の中へ身を置いていた。防衛線の要であるジョンスピーングから兵を率いて出勢したということは、敵国王のスコルドと一戦交える腹積もりなのだろう。敬一は自ずとそのように推察していた。
出陣から二日経ち、現在クリスティーナの軍は、ジョンスピーングとヴォラスの中間にあたる土地・ウィリーセバムンに陣を築こうとしている。
ウィリーセバムンは、ジョンスピーングから西南西三十キロ、ヴォラスから北東十五キロほどの地点にあたる土地だ。五百メートル級の山が連なる同名の山脈を、西南西から東北東にかけて約十キロ近く縦断させているのが特徴である。
二つの都市を結ぶ道路や鉄道から見て北部にそびえるその山々の中に、クリスティーナは戦い拠点となる陣地の形成を行なわせていた。
ちょうどそこからは、ヴォラス方面からジョンスピーングに向かうための道や、その周囲に広がる林や平原なども一望することができるほどに見晴らしがよく、敵の接近も容易に視認できる上に迎撃も行ないやすい都合のよい地形をしている。敵軍を野戦で待ち構えておくには、うってつけといえる場所であった。
もっとも、実際にここで敵軍と一戦及ぶか否かは敵の動き次第である。
デーン軍が良い具合に攻め込んで来てくれれば御の字だが、こちらが迎撃の構えを形成している以上、容易く攻撃を仕掛けてくるとも思えない。ヴォラスに立て籠もったまま動きを見せないことも、あるいはヴォラスから軍を動かしたところで、ここを避けてジョンスピーングに攻め込もうと目論んでくる可能性もあった。
ただ後者に関していえば、大軍勢を動かすためにほぼ必須である道路をスカイナビア軍がこうして目の前で押さえているため、確率としては限りなく低い。ヴォラスとジョンスピーングを直接結んでいる道はこの一本しかなく、迂回して別の道を使って向かうという手もあるが、それだと本来一日の距離が三倍近くに伸び時間も要する。
もし敵がその方法でジョンスピーングへ向かったならば、馬首を引き返してそちらで迎え撃つか、あるいは先にヴォラスを奪還して相手の退路を断てば良いだけの話だった。
戦場となる土地がスカイナビア国内ということもあって、この辺りの地の利については圧倒的にスカイナビア側に分がある。
兵力についても、現在彼女が率いている軍が四万に対し、ヴォラス側が三万程度と、こちらもスカイナビア側が優勢だ。しかも、防備のためにジョンスピーングには五万弱の兵力が残されているため、各方面も含んだ上の戦況如何によっては、援軍が合流して更に膨れ上がる可能性もあった。
地の利・人の利はスカイナビア側にあり、残る勝敗を分かつ要素としては、天の利と、各将の頭脳と兵士たちの奮闘ぶりといったところか。
斜面を登りながら、それらの諸要素を統合したところで、やはりスカイナビア側が有利だろうと、敬一は推測した。
だいぶ歩いていたらしい彼が顔を上げると、その根拠である二人の人物の姿を視界に捉える。
標高六百メートルあるという山のちょうど中腹あたりで、敬一が来た事に気付いたクリスティーナは、手を振ってきた。紅の厳かな軍装に身を包んではいるものの、その所作といい、たまたま近くにあった手頃な岩に腰をかけているあたり、身分にふさわしい威厳は感じられない。
だが、地位に相応な立ち振る舞いによる自己の偽りでなく、あるがままの自分を見せつけるその姿は、そのまま彼女の王としての器を示しているようにもみえた。
子供っぽいが天真、落ちつきはないが奔放、悪くもあるが良くも映る所作に、敬一は無意識に口角を持ち上げながら近づいていく。
敬一が声の駆けられる距離まで近づくと、彼女は待ちわびたように口を開いた。
「――うむ。ようやく来たか」
「指定された時間よりは早く来たはずだが?」
「ここでじっと待っているのが思ったより寒くてな。辛かったのだ。ぐずぐずしおって」
「知らねぇよ」
彼女の勝手な言い分に、敬一は呆れるような笑いを洩らす。
笑みで細められたその視線が、ふと彼女の横に流れた。
そこには、大和の外交官である市川和将の姿がある。背後に護衛役である蛍を付き従えた和将は、敬一と視線を合わせても表情を変化させなかった。
一方で、以前険悪な口論を交わしたまま離れ離れになっていたことを思い出した敬一は、一瞬ながら表情を強張らせる。その差は、彼ら二人が以前の会話への割り切りをしてきたか、して来なかったかの違いでもあった。
だが、敬一はすぐ何もなかったように、クリスティーナへと視線を戻す。
「で、いきなり呼び出した理由は? こちとらお前の部下から嚢を積まされる作業を手伝わされていた途中だったんだが」
「ほお、そうだったか。まぁそれこそ余にはどうでもいいことだが」
敬一からの苦情を悪びれなく笑い返すと、それに対する彼の苛立ちの反応を確認することなく話を進める。
「直にデーンも動いてくるだろう。早ければ今日の夕刻にも開戦だ」
「夕刻、か」
「あくまで早ければ、だぞ?」
すでに確定していることのように言葉を反芻した敬一に、クリスティーナは念のため口を挟んだ。
「現実的には、交戦開始は真夜中か明日の午前中になるだろう。或いは、向こうがこの地へ到着した後も動かなければ、睨み合いの長期戦になるかもしれん」
「……そうなった場合、どちらが不都合になんだ?」
「デーン側、だろうね」
クリスティーナへと向けられて放たれた問いに、和将が先んじて答えを口にした。
この前の件で別れてからの第一声であるが、敬一と違い、彼には気負いも淀みも微塵も感じられない。
「堅牢な防衛線を構築して迎撃に万全を期しているスカイナビア軍に対し、デーン軍はそれを突破するために攻撃を仕掛けるだろう。だが、容易には攻略できるとは思えない。確実に苦戦は余儀なくなり、戦いが長引くにつれて士気も下がっていくはずだ。何せこの戦争は王の独裁によるものといってよく、兵士一人一人も躍起になって行なっているものでないしね」
「それに、長期戦となることも確実にない」
饒舌に根拠を語った和将とは対照的に、クリスティーナは手短に断言した。その言い草に、敬一は訝しがるように目を細める。
「何故だ?」
「……少なくとも、明日の午前中にはデーンが攻撃を仕掛けざるを得ない状況が完成されるだろうからな。そなたちに伝わるのは戦後になるやもしれんが、デーンがそれ(・・)を知れば、慌てて我が軍と交戦を開始するだろう」
確信に富んだ言葉に、敬一はますます不審気な顔つきとなる。どうやら何か、スコルドが率いるデーン軍を自軍へ攻め込ませるための策略を張っているようだが、それがどのようなものであるかは見当がつかない。
気になるところではあったが、敬一は詳しく追及することをこらえる。訊けば話してくれるかもしれないが、話の流れからみてもかなり上位の機密に分類される話であろうし、興味本位の無用の深入りは禁物だった。
代わりに、自然と脇道に逸れていた話題を本題へと戻す。
「それで、いい加減俺への用件を話せよ。話を逸らすな」
「おう、すまんな。デーンとの戦闘が始まったら、そなたたちは前線には出るな」
そう言うと、クリスティーナは腰を下ろしていた岩の上から飛び降り、敬一の横まで進み出たところで、前方へと人差し指を突き出した。
彼女が指差す方向に、敬一は目を向ける。指し示されたのは、目下に広がる平原や林などの一帯だった。
「おそらく、主戦場はあそこを伸びておる道路を中心に、歩兵、戦車入り乱れての激しいものとなるだろう。そなたたちは、最初からそこに参加することなく、まずは余の近くで控えておれ」
「状況を見て、俺らを随時戦場へ投入するってことか? 遊撃兵として」
「そういうことだ。もっとも――」
敬一の言葉に頷きながら、彼女は指差した手を引っ込めて自分たちが立つ山の周囲に視線を巡らせる。
「一番の目的は、敵の本陣強襲への備えだ。かような戦場だ、中央で激しい攻防を繰り広げる中で、敵が少数精鋭で密かに余の首を狙ってくることも有り得る。そうした際に、そなたやそなたの仲間が一人でもおれば安心して奇襲部隊を迎撃できる」
「いや。そうなったら普通に逃げろよ」
好戦的な雰囲気とともに、もし自分を狙う敵兵が来たならば返り討ちにしてくれると息巻くクリスティーナに、敬一はやや呆れを含んだ視線を応じた。
彼女は自信満々であるが、敬一から見てクリスティーナはそれほど自衛能力が高いわけではない。秒単位で一変し、瞬時に適確な判断が求められる戦場の中で、彼女のような立場の人間は、窮地と悟ったならばまずはその場を離れるようにするというのが常識だった。上手く躱そう、撃退してくれようなどと欲張った者は、哀れな末路を辿ることも多い。
そういう意味もあって警告する敬一であったが、クリスティーナにその意図は伝わらなかったのか、彼女はむっと不満げに頬を膨らませた。
「冗談を言うでない。余が敵の戦場での刺客に恐れをなして逃げるわけにいかぬだろう」
「……あぁ、そうですかい」
強気な姿勢を崩しそうにない彼女を見て、敬一は説得をすぐに諦めた。
なんとなく、今の彼女に道理を説いても感情論で聞き入れられないだろうことを、これまでの付き合いで予測することが出来る。
横で何やら和将がくすくすと忍び笑いを洩らしているようだったが、敬一は聞かなかったことにした。
「ともかく、戦いが始まったら余の近くにおれ。いいな?」
「あぁ、分かった。若干一名、不満を言いそうな奴がいそうだけどな」
「?」
敬一が了解の後に付け足した言葉に、クリスティーナは不思議そうな様子で首を傾げる。
そういえば彼女は、彼の相棒である某戦闘狂と面識はあれど、性格までは知っていなかったなということに思い至ったが、しかしわざわざ説明する必要もないため、すすんで語り出すような事はしなかった。
クリスティーナの方も、詳しく追及するようなことはない。
「……これまでなら、余の警備など傭兵に任せる必要はなかったのだがな」
代わりに、彼女はぽつりと呟く。
その独白に敬一は一瞬眉根を寄せて怪訝な表情を作るが、すぐにその言葉の意味を理解した。
彼女が口にしたのは、つい十日前まで彼女の近辺を守っていたある男の存在だ。
皮肉にも、彼は現在クリスティーナを狙う敵の立場として、デーン軍のどこかに身を置いているはずだった。
「レオは、この戦いに参加してくると思うか?」
独り言でなく、明確に敬一に対して発せられた問いに、敬一は口を噤む。
回答によっては、彼女の心理に悪影響を及ぼす懸念があるかもしれないと危惧するが、それについてはすぐ否定できた。そもそも返答によって傷つくようなことを、彼女は自ら尋ねてくるほど馬鹿ではない。少し前までならともかく、今の彼女はそんな浮ついた人物ではなかった。
やや思案してから、敬一は首を振る。
「さぁな。奴が今どこで何をしているのか分からない以上、俺には答えようがない」
「そうだな」
「逆に訊くが、お前は奴がまた自分の前に現れたらどうする? 戦えるのか?」
半ば興味から、半ば懸念から敬一は尋ねた。
「決まっておろう」
軽く鼻を鳴らして、クリスティーナは淡い微笑みを浮かべる。
ついでに、左手で右の拳を受け止めながら、
「意地でもとっ捕まえて、一発思いっきりぶん殴ってやらねば気が済まん」
「――はは。その意気だ」
思わず声を洩らしながら、敬一は笑う。
シンプルなその回答が可笑しかったとともに、笑みには安堵が混ざっていた。どうやら彼女は、すでにレオナルドの件について心の整理をきちんとつけているらしい。或いは自分のように、まだ苦悩は持ちつつも一方で割り切っているかもしれなかった。
どちらにせよ、仮に彼が面前に現れたとしても、彼女は迷うことはないだろう。戦場で彼に会ったとしても、クリスティーナはいつも通りに傲岸かつ不敵に振舞うはずだ。
危惧は杞憂であることを察した敬一に、クリスティーナは笑みを深めた後、何やら思い出したように腕の時計に視線を下ろした。時刻を確認した彼女は、そこで半歩後ろへ足を引く。
「悪いが、これからオクセンと打ち合わせることがあるので失礼するぞ。わざわざ呼び出してすまんな」
「いいさ。気にすんな」
「……まぁ余よりも、そなたに用があるのは市川殿の方であろうがな」
クリスティーナは、揶揄の意味を込めた笑みを和将の方へ向けた後で、踵を返す。
去り際に、明らかな火種を撒いていった按配の彼女に、和将は苦笑を浮かべてその背を見送った。
彼女の背が、声を張らねば向こうが気づかぬほどの距離になったところで、敬一も和将も、視線を向け合う。
今まではクリスティーナがいたが、今度は完全に二人きりでの対面だ。一応、彼の背後には護衛役である蛍の姿はあるが、気を遣ってかかなり遠くの位置で控えていた。
あの時以来の対面であり、敬一の顔にはまだ少し険しさが残っている。
一方和将の側は、特に緊張や固さはなかった。
「この前あった陣地への奇襲戦、見事な活躍だったらしいね。部下から聞いたよ」
「……アンタの部下と、一緒に戦った覚えがないんだが」
先に口を開いた和将に、敬一は記憶を辿って訝しがりながら言葉を返す。
あの時は確か、敬一たちは敬一たちで戦い、大和の部隊とは共闘していなかったはずだ。あるいは世辞だったかと思いながら彼が言うと、和将は気を害した様子なく、軽く肩を竦ませた。
「君らが討ち取った人数ぐらい、敵の損害の中からこちら側が討ち取ったと思われる数を引けば、簡単に導き出すことが出来るよ。ざっと百人から百三十ほど……三十分でこれだけの数を討ち取るとは大したものだ」
確かにその方法なら、敬一たちの戦いぶりは分からずとも、彼らが挙げた具体的な戦果は把握できるだろう。
ただ、
「そもそも、どうやって敵の死者をほぼ正確に把握してるんだ?」
「そんなもの、戦いの後に忍たちに調べさせれば簡単に分かることだよ」
敬一の疑問に簡単に答える和将だったが、敬一はその回答に意味が分からないように顔をしかめた。
「なんで死体の数なんて調べさせるんだよ……」
「おや? 敵にどれぐらいの損害を与えたかも重要な情報だよ? 加えて、味方の戦績を評価する、大事な基準にもなるからね」
「もし、調べた奴が不正に報告していたらどうするんだ?」
「その時はまぁ……ふふふ。聞きたいかい?」
「いや。大体想像ついたからいいや」
話の雰囲気から、そいつがどのような目に遭うのか容易に連想できた敬一は、わざわざ確認する事もなく話を切る。話しているうちに、だいぶ敬一の表情から険や張りは薄らいでいた。アクの強い内容だが、他愛のない話を続けたことで緊張は解けたのだろう。
ようやく敬一は、彼の前で薄ら苦笑を浮かべられるだけの余裕を取り戻しつつあった。
だがその時ふと、彼は和将からじっと顔色を窺がわれている気が付いて笑みをかき消す。和将は急に真剣な眼差しで、敬一の表情の変化を見逃すまいといった様子で鋭く注視していたのだ。
それを、敬一は胡乱気な目で見つめ返す。
「何だよ?」
「いや……。随分、いい顔つきになったなと」
微かに双眸の奥にある光を緩めながら、和将は微笑みを浮かべる。
対して敬一は、ますます不審そうに眉根を寄せた。
「この前会った時は、瞳の奥隅に翳りが潜んでいた。突っつけば簡単に出てしまうものだったが、今はそれがない。なにか、いいきっかけでもあったのかい?」
「誰のせいだと思ってんだ」
思わず、前回の口論の話題をぶりかえしてしまい、敬一は苦そうに口の端を歪める。
が、和将は特に気分を害した様子なく、自らに対しての失笑を浮かべた。
「そうだね。あの時のことは、ほんの少しは反省もしている」
「少しは、かよ」
「うん。ほんの少しだけね」
持ち上げた右手の親指と人差し指をほんの少しだけつまむジェスチャーをして、その量を示してみせた和将に、本当に微量でしか反省していないと言われたも同然の敬一は呆れ果て、そして思わず笑みをこぼす。失笑だった。
「まぁ……おかげでいろいろ溜まっていたもんを晴らすきっかけにはなったけどな。和将さんが言ってくれなかったら、幸たちに隠したままだっただろうことも事実だし……」
「その様子だと、仲間たちとの折り合いをつけられたか」
「あぁ。いい仲間を持ったんだと、再確認できたよ」
信じられることを信じて待つと言った幸、力で自分たちを引っ張ればいいと言ったサムの二人の姿を脳裏で思い出しながら、敬一は薄らと穏やかな微笑みを浮かべる。
「あいつらは俺に助けられたって言ってたけど、俺は現在進行形であいつ等に助けられてるんだな。そのことに気づかせてもらえたことについては、素直に感謝している」
「……それは、少し見当違いな感謝でもあるけどね」
軽く苦笑しながら、和将は敬一が自分に向ける感謝が意図したものでないことを告げた。
そして、感慨を込めた口調で言う。
「悩み越え、迷いなき心で振るわれた剣でこそ、真にその者の実力は十全に発揮される――君の父君が、昔俺へと教えてくれた言葉だ」
「……知ってる。俺も言われたことがある」
「だろうね。実際、君は昔の方が自分の力を全力で使えていた」
躊躇いも気負いもなく放たれたゆえに、一瞬敬一はその言葉を軽く聞き流しかけた。
しかし、聞き捨てならないその言葉に気づくと、敬一は怪訝な眼で和将を見返す。怒りはしないものの、詰問の気色を宿す視線に、和将は怯むことなく口を開いた。
「決して、昔に比べて君実力が下がったと言っているわけではないよ。むしろ昔と比べれば格段に成長している。それでも俺の目には、君が全力を発揮できているようには思えなかったということだ」
「そのために、けしかけたと?」
敬一にはっきり尋ねられると、和将は少し躊躇うように間を置いてから、首肯する。
「自覚はないだろうが、君はたった一人であらゆる状況を打破し、困難を打ち破り、不利な形成を逆転させるだけの強靭な才がある。本来それだけの力を君は有しているんだ。だが、まだ君はその才を開花しきれていない。それがむず痒く思えてね。どうせなら、今回の戦争で俺の役にも立つように荒療治してみることにしよう――と考えたわけだ」
「……それって、今ここで言うことか?」
「隠しておくと、余計に寝覚めが悪いからね。それに、問題が一つ解消されただけで、未だ君の本領が完璧に発揮されるようになったというわけでもない」
悪びれもなく言う和将に、敬一は一瞬苛立つ目つきも浮かべたが、叱責の言葉は吐かない。理不尽さも感じる主張であるが、彼なりに敬一が成長していくために必要なきっかけを作ったわけでもある。
ただ自分の全力の件に関しては、敬一には若干過大評価のようにも感じたが。
内心彼からの高評価ぶりに呆れすら感じる敬一に対し、和将はふと背後に立つ蛍へと視線を向けた。彼が視線を向けると、蛍は腕時計を見てから顎を引く。
何やら、時間らしい。
「……敬一。提案がある」
もうあまり言葉を交わせる時がなくなったように、和将は改まった口調で話を振りだした。
またも何か真剣な話を持ちかける按配の彼に、敬一は特に気張った様子なく向き直る。
「なんだ?」
「俺の部下にならないか?」
時が止まったかのような、完全なる沈黙が生まれた。
数秒の間固まった後、敬一は困惑したように目を瞬かせる。
「えっと……いきなりなんだ?」
「本当は、この戦いが終わってキリがついたら言うつもりだったんだけどな。この際、伝えておく。仲間も一緒に、俺の部下になれ」
苦笑交じりに切り出した後で、和将は表情を整えながら彼に切りこんできた。
その双眸は真剣そのものである。
冗談でも揶揄でもなく、本気で自分の許へ来るようにという勧誘の言葉だった。
驚きを覚えながら、敬一は若干話を濁すように苦笑を浮かべる。
「アンタに、俺が必要だと思わないが」
「……俺個人は、確かに君の力は必要ないかもしれない。けれどいずれ、お前の力を必要とすることになる」
具体的な言葉は発しないものの、和将は敬一の手を借りたいのだと告げる。
いつもほど饒舌に理由を述べることがない分か、声の端々には熱意が込められていた。
敬一は、真剣な眼差しを向けてくる彼に戸惑いを露わにする。和将とは幼少時代から親交があり、彼の人柄は個人的にも気に入っていた。また和将が、政治家として高い能力を持っている事も知っている。
彼の部下になることへの魅力については、敬一も熟知していた。
「……アンタの部下になるのは、面白そうだとは思うよ」
おもむろに口をついた言葉に、和将は神妙に目を細める。
が、次の瞬間には口元を綻ばせた。
「思う、か」
「あぁ」
「つまり、今は興味ないといったことか」
迷いながらも頷いた彼をみて、和将は少しだけ未練を感じさせる笑みを浮かべる。そこに恨めしげな様子がなかったおかげで、敬一も気を楽に保つことができた。
「やぶさかではないがな。今は、まだそんな気にはならない」
「何か、理由があるみたいだね?」
「あぁ。とある馬鹿から指摘されたモノを、まだ見つけていない」
そう言って、敬一が鋭く双眸を細めると、事情を知らない和将は片眉を持ち上げて不審げな表情を浮かべる。
だが、特に追及も加えることなく、また彼の決断を引き留めるような真似もしなかった。
「……分かった。では、この件は『保留』という事にさせてもらうよ。俺も、君ほどの人材をそう簡単に諦められるほど寛容ではないのでね」
暗に、今後もアプローチは仕掛けることを含ませると、和将は敬一から顔を背けて斜面を下り始めた。歩き出す彼に、距離を置いていた蛍が近寄って来たところ見ると、これからどこかへ向かうらしい。
「敬一。ここからはしばらく別行動だ。今度会うのは、この戦いに決着がついてからになるだろう」
「なんだ? 本隊とは別行動でも取るのか?」
「あぁ。少し、重要な役目を頼まれていてね」
悪戯っぽく唇の前で指を立てながら、和将は何やら極秘の仕事を頼まれていることを示す。
本来、女性がするのはともかく男性がやっても気色悪いはずの所作であるが、彼がやると様になっていた。
「不要な心配だろうが、くだらない死に方だけはするなよ。武運を祈る」
去り際、和将は敬一に対しての警告と激励の言葉を送る。
そう言い放った後、彼は敬一に対して完全に背を向けて山を降っていく。
「……和将さんもな」
その背中を、敬一は小さく激励した。
「おい、敬一」
クリスティーナや和将との対話を終え、敬一もサムたちの元に戻るべく山を降っている最中、横手から聞き知った声が掛けられた。
呼び止められた敬一が振り向くと、そこでは予想通りの白衣の男性が待ち構えている。だが、彼の姿を見た敬一は首を傾げた。
「あれ? アッシュ、お前もここに来てたのか?」
「あぁ。従軍医師の一員でな。ちなみにそこが本部だ」
背後のテントを指で差し示しながら、彼は敬一の許へと歩み寄ってきた。
戦争時には、軍隊に帯同して戦場に赴き、負傷者が出るとその場で治療や手術を施す医師というのが存在する。それが従軍医師と言われる生業の者たちだ。
今回の戦いに先立ち、スカイナビア軍はジョンスピーング在中の医師から数十名を選抜し、軍医として医療班の中に組み込んでいた。その中に、渡り医者としていくつもの戦場への帯同経験もある彼がいたとしてもおかしくない。軍からその経歴を買われ声が掛かったとも、あるいは自ら志願した可能性もあった。
理由を聞いて敬一が納得すると、今度は逆にアッシュが疑念を露わにする。
「で、お前の方こそ何をしている?」
「さっきまで、姫さんたちに呼び出されていた」
そう言うと、敬一は先ほどクリスティーナから伝えられた命令の内容をアッシュに語る。特に機密性のある命令でもなく、味方に伝える分には問題はなかった。
彼女との話の中身を聞き、アッシュは得心言ったように顎を引く。
「なるほどな。そうなると、俺たちの配置と近いな」
「そうなのか?」
「あぁ。従軍医師たちも、戦いが始まったら本陣近くに配備されるからな」
当然のことだが、医師は兵士と違い戦力にはならない。負傷した兵士は戦場から奥へと引っ込んでいくのだから、アッシュたちが本陣近くに配置されるのは必然ともいえた。
その情報を伝えたところで、アッシュはふと敬一へ告げる。
「なお、スカイナビアの兵士には無料だが、貴様たちの治療には金を取るからな」
「いや……ふざけんなよコラ」
「俺の依頼を途中で投げ出したペナルティだ。発想を変えれば、怪我さえ受けなければ違犯料を払わずに済むということだ」
「無茶いいやがる」
冗談なのか本気なのか――アッシュのことだから本気で言っているのだろう。筋が通っているようで暴論でしかない彼の言い草に、敬一は辟易とした様子で頬を引き攣らせた。敬一程の実力ならば、確かに余程の敵でないかぎり傷を負うこともないが、今回はその余程の敵が少なくとも一人存在している。
戦いの前から暗い気分にさせられ、敬一は思わず溜息をつく。
それからふと、思いついたように口を開いた。
「なぁ、アッシュ」
「なんだ?」
「俺では絶対に勝てないものって、一体何だと思う?」
敬一が寄越した不思議な問いに、アッシュはぽかんと数回目を瞬かせた。
口を閉じたまましばし絶句すると、やがて我に返った彼はせせら笑う。
「なんだ。並みの相手じゃ不足になってサム化したか?」
「違う。つーかなんだよサム化って。大体想像はつくけど……」
苦っぽい笑みを浮かべた後、敬一は横目でアッシュと視線を交える。口元は綻んでいるが、目元は真剣なその顔に、アッシュも真面目な問いだと悟ったのか笑みを消した。
しばらく宙を仰いでから、言葉は放たれる。
「当てはまるものは山ほどあるな。むしろありすぎて困る」
「たとえば?」
「国単位で敵に回したらお前だって間違いなく死ぬ。それに個人でも、今のお前じゃ勝てないだろう人間はいくらか心辺りはあるだろう」
「……まぁな」
指摘されると敬一は頷く。
いくら敬一個人が卓越した実力を持っているとはいえ、一国家や国境を越えて構成されている巨大組織などを敵にすれば、戦って勝つことはまず不可能だろう。相手によっては、逃げ切ることさえままならないはずだ。
また、敵がたとえ個人であっても、現段階の敬一の能力ではまず勝てないという、彼以上の化物もこの世には存在する。某テロ組織の首魁や彼の知り合いの魔女などが本気を出したならば、まともに太刀打ちできないであろうことは敬一本人も自覚していた。
そんな彼に、返答を口にしたアッシュは不審そうに眉根を寄せる。
「だが、急にどうしてそんなことを訊いてきた?」
「あぁ。前にメディアから、それを見つけて来いって言われてな」
メディアの名に、アッシュは一瞬訝しげな顔をした後、頭の記憶に残っている魔女の姿を思い出してから納得したような声を洩らした。敬一とは違い、アッシュは彼女との接触は数度しかない上に、どれもが敬一を通じての邂逅であるゆえ、印象が薄いのだろう。
「何となく、意味が分かった気がしてな。一人じゃどうしようもない問題ってのは、世の中に満ちているってことじゃないかなぁ、と」
「……かといって一口に、仲間がいれば乗り越えられるものでもないと思うがな」
「知ってる。けど、孤独で臨むよりは数は減るだろう?」
「それもそうだな」
敬一の言葉に、アッシュは頷く。
「でも、それだけじゃない気がするんだ」
そう言って、敬一はアッシュから視線を外して目を細めた。
「あの馬鹿魔女が、たったそれだけのために一年を費やせなんて言ってくるはずがない。何か他に、俺が身を持って知らなければならないことがあるってことなんじゃないか、と」
「それで俺に訊いて、てっとり早く答えを見つけようと?」
「せめてヒントを貰おうと思った、と言ってくれ」
批判的な意見に言い訳を口にしながら、敬一は苦笑する。
彼女曰く、敬一はそれが何なのか分からなければロキには勝てるだけの強さは手に入れられないとのことだった。
果たしてそれが敬一の持っていない何かであるのか、それとも敬一は元々持っていながらも失ってしまったものであるかは不明だ。
「まぁしかし、容易に見つからない答えなのかもしれないからな。ゆっくり探していくよ」
「そうか。あの女のことだから、特に意味がない可能性もあると思うが」
「あぁ……。確かにな」
相変わらず辛辣なアッシュの言葉に、敬一は同意する。本人が近くにいないこといいことに酷い言いがかりであった。
と、二人が他人への悪態を交わしていたその時、周囲の人間からざわめきが起こる。
原因が何なのかは、すぐに敬一たちも勘付いた。
「――来たか」
「あぁ、来たみたいだ」
山から見晴らせる前方の地平、山々に囲まれて伸びる道路の向こう側から、こちら側へと向かってくる大量の車体が、少しずつ姿を見せ始めていた。一般の車両とは異なる造形は、それが民間用でなく軍用であることを示している。
兵士を乗せた軍用車――デーン軍の登場だった。
敬一たちがいる山からは大体五キロほどしかない距離に現れた敵軍の先端に、二人のみならず周囲の兵士たちの間にも緊張が走る。
「いよいよ、開戦か?」
アッシュがそう疑問を洩らすと、敬一は頭を振った。
「いやすぐには攻めてこないだろうな」
「……何故分かる?」
怪訝そうに目を細めるアッシュに、敬一は不敵さの伴った微笑を浮かべる。
「こうやって堂々と姿を見せてきた時点で、すぐさま攻撃を仕掛けるとは思えない。おそらくは、ここから対面にある手頃な山に陣地を構えてくるはずだ。何より今の奴らからは、攻撃の意思が漂っていない」
戦場では、意外と敵の殺気や闘志が離れた距離を置いても伝わってくるものだ。
だが、今の彼らからはまだそのような気配は伝わってこない。それよりも、慎重に進みながら何か見繕っている雰囲気が強かった。
そうなると、敬一の言葉通り、どこか軍営を構えるのに適した場所を探していると思われる。
「だが、こうして目の前に現れた以上――」
「衝突は近い、ということだな」
アッシュが引き受けて放った言葉に、敬一は顎を引く。
否が応にも、緊張感が周囲には高まりつつある。
スカイナビアとデーンの戦争は、こうしてまた新たな局面を迎えつつあった。
*
先頭を走る車両から、スコルドの乗る車両にスカイナビア軍の姿を捕捉したという連絡が入ったのは、敬一たちが彼らの姿を見つけてからおよそ一分後のことだった。
他の軍用車よりも、幾まわりか装甲の分厚い車両に乗っていたスコルドは、通信で伝えられた情報に対し、後部座席で背もたれに体重を預けながら、
「……陣を構えるぞ。すぐに支度に入れ」
「すぐには攻めないのですか?」
彼の指示に、運転手を務めている部下が意外そうに尋ねてくる。
一瞬その眉が苛立ったように震えたが、怒号が放たれることはなかった。
「あぁ、攻めぬ。あのように迎撃に万全な体制を取っている敵に攻め込む馬鹿がどこにいる。今しばらく、睨みあうぞ」
「はっ、申し訳ありません! すぐ指示いたします」
謝罪を口にしながら、運転手は通信機へと彼の指示を伝え始める。
その後ろ姿を鋭く睨み据えてから、スコルドは車体の前方の窓から遥か先の景色に目を凝らした。彼の位置からは、まだスカイナビア軍の姿も、また彼らが陣地を築く山々すらまだ視界には入らない。
だが、彼はまるでその姿を捉えたかのように、双眸を細める。
「――なぁ、もういいよなぁ」
呟きは、口の中だけで放たれた。
彼の指示を伝えるために言葉を紡いでいた部下には、その言葉が届くことはない。
「いい加減、面倒くさいしなぁ……。そろそろ、演じるのもおさらばでいいよなぁ……くふぅッ……」
視線を車両の床に下げ、スコルドは口元を掌で覆い、そして微かに肩を震わせた。
遠目にからみれば、気分を悪くして苦しんでいるようにも映るがそうではない。
彼は、夢遊病者のように虚ろになった双眸と半開きになった口という魂が抜けかけているような表情で、それでも溢れんばかりの喜色を浮かべていた。
「くひっ……ひひひ……くひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ――」
押さえつけられた口の端より忍び漏れる凶笑は、軍用車の駆動音と運転手の声によって掻き消される。
周囲から聞こえないほどの小さな、しかしもし聞こえたならば誰もが戦慄を覚えざるをえない狂った笑い声は、スコルドの喉から絶えず鳴らされ続けていた。