第8話
8、
ほんのりと苦みのある鉄の味に、幸は涼やかな顔に翳を落とした。
壁へしたたかに叩きつけられた彼女の身体は、ずるり地面に崩れ落ちる。壁に背を預けながら座りこんだ彼女は、口から痰程度の大きさの血塊を吐き出す。粘り気のある深紅は、彼女の足元と、穿いていた黒色のチニに零れ落ちた。
この服、結構気に入っていたのにな――という場違いな考えが、不意に彼女の脳裏に浮かぶ。
同時に、この服を用意してくれた少年の顔が思い出した。
(……やっぱり、怒ってたな)
幸は、そっと自嘲気味に微笑する。
先ほどまで発動させていた幻術を通し、敬一の声は幸の脳に届いていた。
幸が生み出した幻は、離れた位置からそちら側の景色や感覚を享受することもでき、また自分の意思をもって自在に操ることが可能である。
敬一を自らの意思で欺いた幸は、彼の憤然とした様子を思い出す。
(これで、諦めてくれればいいけど……)
敬一が自分を追って来ることがないようにと、幸は本心から望む。
そのために、自分を追ってこないようにというのは繰り返し言った。同時に彼が自分のことを嫌い、疎んじるような台詞も吐いたつもりだ。
うまく敬一が自分の望み通り、諦めてくれているかはあの様子では微妙だ。しかし今は、祈るしかない。
幸の視線が、少しずつ霞んでいく。
靄がかかりはじめる視界の中、幸は、自分の前に立つ全身を装甲服で固めた人間の姿を確認する。明らかに一般人とは隔絶した恰好の彼らの手には、その印象をより強くする、近距離戦に適したオート・ピストルと、アサルトナイフがそれぞれ握られている。
彼らが、自分を追ってきた【ベレシス】の部隊であることには、幸もすでに気づいている。
そして、そもそも彼らからたった一人で逃げ切れることなど無理であったということも、最初から分かっていたことだった。
脇腹の辺りから、ジクリと痛みが走った。
そこには銃弾が貫通してできた傷がある。敬一を撒く際、幻覚に意識を集中していた隙をつかれて負傷したものだ。
その弾丸に誘眠効果のある薬品でも仕込まれていたのだろう、幸の瞼が徐々に重くなっていく。それに抗うように半眼になる彼女を、周囲の装甲服たちは囲むように動いて歩み寄っていた。
幸は、何とかもう一度だけ抵抗を試みようと地面に手を当てるが、力が入らず立ち上がることが出来なかった。
彼女はその時、何を思ったか。
直後、糸が切れるように、幸の意識は遮断された。
意識を失った幸に、装甲服の男たちは駆け寄った。
その足取りが非常に慎重なのは、おそらく、彼らは幸が異能を持つ人間であることを知っているために、必要以上に警戒しているからだろう。
男の一人が、幸に触れる。
脈を取り生存を確認した後、彼女の意識が途切れているのも確認し、周囲の人間に対して頷いた。それを見て、周りから安堵のような空気が漏れた。
「おうおう――ようやく見つかったか。まったく、手間かけさせてくれやがって」
幸を確保した装甲服たちの背後から、その男は遅れて現れた。
いずれも屈強な体格をした装甲服たちより、更に一回り以上大きな体躯を持つ巨漢で、その巨体や横断した生々しい傷痕のある相貌が相まって、彼からは自然と威圧感が溢れだしていた。
先ほどまではいなかったその男の登場に、周囲の男たちは即座に姿勢を正す。その機敏な反応には、敬意よりも畏怖がこめられていた。
男の名は、フォレス・ベルフォード。【ベレシス】の戦闘部隊の隊長を務める男だ。
フォレスは、隊員の一人が抱えていた幸の姿を見ると、鼻を鳴らして唇を歪めた。いかにも悪党然とし、冷血かつ恐怖的な嘲笑が浮かび上がる。
周囲の隊員が思わず顔を強張らせるが、フォレスはすぐに幸から視線を外し、近くに立っていた部下の一人に尋ねる。
「市街地の状況はどうなってる?」
「……はっ。今のところ、我らの行動に気がついた民間人はいないようです」
小声だがはっきりと答えた隊員の言葉に、フォレスは満足げに頷く。
フォレスの部隊は、隠密に任務を遂行することを基本とした部隊である。彼らは主に【ベレシス】にとって都合の悪い集団あるいは要人を密かに暗殺すること、また【ベレシス】から抜け出した構成員などを捕縛するために派遣され、出来得る限り世間に存在を公表されないように命令を完了させる。
今回、幸を追ってこの街にやってきたのも【ベレシス】上層部からの密命であり、彼女の回収も、決して人目につかないように完遂しようとしていた。
「さぁて。それじゃあ餓鬼の回収も済んだし、とっとと帰るとしようかね」
装甲服の何人かが、幸に手錠などの拘束をかけているのを横目にしながら、フォレスは言った。
すでに目標を捕らえたためか、その声には若干緊張感が欠けている。しかしそこから油断と呼ばれるものがまったく漂っていないのが、多少なり無気味であった。
そこに、先ほど彼の質問に答えた男が声をかける。
「しかし隊長。その、一つ気になる事がありまして……」
「ん? 何だ?」
「標的――町村幸をかくまっていたと思われる者に差し向けた隊員が、未だ戻って来ていません。それだけでなく、連絡も途絶えています」
その言葉に、フォレスは表情を剣呑なものに変える。その変化には、周囲の隊員の顔色も変わり、怯えているのか、彼らは皆一様に青ざめる。
「連絡が途絶えた、と。つまり……やられたってことか?」
「……も、申し訳ありません。そこまでは、まだ」
フォレスの重い声色に、部下は掠れた声で応答する。彼だけでなく、周りの隊員たちも、フォレスが放つ物騒な空気に生唾を飲んでいる。
先ほどから続くこの異様な様子から見て、フォレスという男が、いかに部下たちに恐れられているかは一目瞭然だ。
数秒の沈黙の後、フォレスは浅い息をつく。ほんの少し、剣呑な空気が緩んだ。
「ま、匿った奴らについては、また別の奴を差し向ければいいだろう。今は、この餓鬼を連れてとっとと退くことを優先させろ。分かったな?」
一見穏やかにフォレスが周囲に目を馳せると、装甲服たちは慌てて頷く。フォレスの表情から苛立ちはまるで見えないが、隊員たちはその表情の裏に刃のような激情がると思ったのか表情を強張らせている。
装甲服の集団は、すみやかにフォレスの指示に従うために動き出した。
彼らは目的――幸の捕獲を完了したことから、すみやかにここを去ろうとする。
その時だった。
突然、路地の端に陣取っていた装甲服の隊員数名が、轟風と共に吹き飛んだ。狭い通路に並んで陣取っていた彼らは、一様に背中から押し寄せた烈風によって身体をくの字に仰け反らして宙に舞う。そこに尾を引くように、深紅の飛沫が弾け飛んだ。
その光景に、装甲服の男たちは一斉に振り向き身構える。唯一フォレスだけが、胡乱気な目で悠然と振り向いた。
合わせて十以上の視線が向いた先に、血を垂らす刀を振り切った姿勢の、ロングコートを身に纏った少年の姿があった。
「……なんだテメェ?」
フォレスは、スカーフェイスに不審気な光を浮かべて尋ねる。
獲物を凝視するような獣の視線に、晩冬にもかかわらず額に汗を浮かべた少年は不敵な笑みを返す。
「貴様らが連れていこうとしているその女に用がある」
やや息を荒げながら、敬一は刀をゆったりと降ろした。刀を納める様子はなく、刀身に付いた血を地面に滴らせながら、フォレスを始めとする装甲服の集団に対峙する。その視線は彼らを捉えておらず、今は意識を失っている幸に注がれていた。
もし彼女が起きていたら、この状況にさぞ驚いたことだろう。
なにしろ、敬一が幸のかけた幻術に気がつきあの場から走り出してから、まだ五分程度しか経っていないのだ。こんな短時間のうちに二度も居場所を嗅ぎつけるとは、名著推理小説の探偵も愕然とするだろう嗅覚であった。
もっとも、今回敬一が彼女の居場所を掴めたのはただの偶然だ。
宛ても手掛かりもない状態で街中を走り回っていた敬一は、偶然……というよりも奇跡的にこの場所の近くを通ったのである。そして、幻覚の時同様、常人離れした直感によって彼女の存在を察知し、フォレスたちに連れ去られるギリギリのタイミングで駆けつけたのである。
おそらく、もう一度同じようなことをしてみろと言われたとしても、一万回やっても上手くいかないであろう。それぐらいの神懸った椿事であった。
敬一は、今一度周囲に目を馳せる。険しい顔つきをした男たちの服装を見ても、彼は眉ひとつ動かさない。敬一にとって見慣れた恰好であり、この件ではすでに想定して出来ている状況であった。
それでも、敬一は念のために言う。
「聞くまでもないが、貴様ら【ベレシス】だよな?」
「――よし、殺せ」
質問に対して返ってきたのは、そんな素っ気ない言葉であった。
フォレスが唐突に出した敬一への殺害命令――それに対して、装甲服の男たちは即座に動く。
敬一の手前、アサルトナイフを持った戦闘員が、左右二方向から攻めよせる。狭い通路の中、斜め前から迫る挟撃に対し、敬一は下がることも待ち構えることもなく前進した。一瞬で三者の間合いは消滅し、敬一は自ら二人に挟まれるような立ち位置となった。装甲服たちはこの動きに驚きつつも、これを好機とみて即座に凶刃を敬一めがけて突き出した。
それが空を切った時、男らはまるで鏡映しのように瞠目する。初動からの移動の速度を上げナイフを躱していた敬一は、即座に身体の向きを切り返し、棒立ちとなった男たちに横薙ぎを叩きつけた。銀の残像を残した鋭利な斬撃は、彼らの首筋を的確に捉える。頸動脈ごと首が吹き飛ばされ、二人は断面から血の噴水を放出した。
刀を振り切り、敬一は身体を屈める。その頭上を、背後から放った弾丸が掠めた。二人の人間が敬一を挟み込むように肉迫し、正面からは銃弾を撃ち込む――狭い通路を利用した集団戦法は、敬一に完全に見抜かれていた。態勢を低くした敬一は、そこから鋭く身体を捻りオート・ピストルを構えた男に向き直る。旋回の最中に刀を握る左手とは逆、右の手で銃を抜いた敬一は、それをそいつに突き出した。
銃声。
回転中に、しかもぞんざいに構えられた銃から放たれ弾丸は、見事その男の眉間に吸い込まれる。肉と頭蓋が割れる鈍い音とともに、そいつは額から血の華を吹いて仰向けに倒れ込む。その手からピストルが滑り落ち、フォレスの足元へと放りだされた。
敬一が三人を瞬殺して顔を上げると、彼らに続いて敬一に襲いかかろうとした装甲服たちは皆足を止めた。鮮やかなまでの敬一の動きが、思わず彼らの殺意を揺るがしたのである。それは本質的には恐怖からのものだろうが、この場合もっとも賢明な態度であった。
口笛が鳴る。足下のピストルに目を向けているフォレスが吹いたものだ。
「おいおい。随分惚れ惚れとする動きじゃねぇか」
からかうような言葉と共に、フォレスは好戦的な笑みを浮かべた。
その目には、部下をやられたことに対する怒りなどは微塵もない。ただ戦いと血肉を求める、獰猛な肉食獣のような衝動と狂気が湛えられていた。
眼光に伴って溢れたプレッシャーが、通路に吹きすさぶ。実際には存在しないはずの重圧に、敬一の髪が微かに揺れた。
一瞬で複数の相手を余裕で斬り捨てたはずの敬一だが、その顔には喜色と緊張が浮かびあがる。どうやら、今の僅かな闘気だけで、フォレスの実力を感じ取ったらしい。額からはここまで全力駆けて来たために出たものとはまた別の汗が、少しずつだが浮かび上がっていた。
「……彼女を返して貰おうか」
敬一は、右手の銃と左手の刀を持ちかえながら、フォレスを静謐な目で見据える。言葉には、それを拒めばどういった行動を取るか、それが容易に分かるほどの鋭さが含まれている。
フォレスは、むしろそれを望むような声で言った。
「こいつが何者か、貴様はすでに知っているのか?」
「いいや」
敬一は、言葉だけで否定を示す。
「だが、だからといって彼女を見捨てる気はない。見捨ててもいい理由にもならない」
「……おいおい。とんだ甘ちゃんだなぁ」
フォレスは、呆れるように失笑を浮かべる。
嘲笑ともとれるその侮蔑の態度に、しかし敬一は口の端を吊り上げた。
「あぁ、そうだよ。俺は甘い」
左手の銃をホルスターに仕舞い込みつつ、敬一は首肯する。銃をわざわざ納めたのは、刀を振ることに専念するためだ。たとえ相手が銃を使ってきたも、近接戦闘ならば敬一の敵ではない。
「けどな……甘いと分かっていても、明らかな間違いを選択するよりはマシだろ?」
皮肉るように敬一が言うと、フォレスは今度こそ完全に嘲笑を浮かべる。
敬一の口にした言葉のすべてを、侮蔑するかのような表情だ。
「なんだ……。ちったぁ出来ると思ったらただの青二才か」
「言葉面で相手を見るようじゃ、貴様もまだまだだな」
フォレスの悪態に、敬一の嘲弄が重なる。
それが引き金になるように、二人は足裏に力を込め――
敬一の背後から、警笛が鳴り響いた。
それに引き続き、路地の入口の方から複数、誰かが駆けつけて来たのか足音が聞こえてくる。
敬一はフォレスを見据えたまま動かないのに対し、フォレスは敬一の向こう側に目を馳せ、顔をしかめる。その表情に、敬一は足音の正体を察知した。
「……き、貴様ら! 全員武器を捨てて手を上げろ!!」
驚きと怯えに震えた声――そこで読み上げられた台詞は、もはやお決まりともいっていいものだった。
警察である。
おそらく、今の戦いでの、あるいは《プロフィンドゥーム》のメンバーが幸を捕らえる際に放った銃声を聞きつけてやって来たのだろう。
すでに複数いるのは、敬一とサムが【ベレシス】の刺客十人を路上で殺害したことで、周囲で集団捜査を行っていたためだろうと、敬一は頭を高速回転させてそう推測した。
撃鉄が引いたのか、背後で軽くあがる鈍い金属音に、敬一、フォレス双方は舌を打つ。それは、これから戦いを始めようとした所に取るに取らない人間が干渉してきた事に対する苛立ち、また単純に相手するのが面倒臭だという彼らの心境を如実に物語っていた。
「――ほら! 早く言う事を聞け!」
再び挙がった声に、敬一は静かに目を細める。
背後にいる警官の言葉は一見威圧的にみえるが、そこからは内心の怯えを押えこむような緊張が孕んでいる。声質からして、まだ若い警官なのだろう。武器を手にした集団と対峙した経験が少ない、あるいは初めて体験しているのかもしれない。警告を発するだけでもかなりの神経を使っているのが、声だけでも察する事が出来た。
敬一は、呆れるように息をつくと、警官の言を無視してフォレスに刀を突きつける。背後を取っているとはいえ、警官には何も出来ないと判断したらしい。敬一のその動きに、フォレスも同じようなことを考えていたのか、ニヤリと口の端を歪めた。
突然の銃声は、その時、発せられた。
予想外の轟音に、敬一はぎょっと刀を背後へ振り払う。一体何を考えたのか、背後にいた警官が突如発砲したのである。敬一の胸板を背後から弾丸突き破ろうと迫ったが、それは敬一の神速の刃によって打ち払われる。刀を振り払いながら、敬一が銃弾の出元に目を受けると、紫煙をたなびかせた童顔の警官が、口元をわななかせていた。その様子からするに、緊張のあまり思わず引き金を引いてしまった、といったところか。
その銃撃が、皮肉にも敬一の隙を生んだ。
敬一が思わず背後に振り返ったことで、フォレスが地面を蹴って敬一に肉迫する。その速度は、彼の巨体とは吊りあわないほどの俊敏で、敬一がそれに気がつくよりも早く間合いに侵入した。
フォレスの手に得物はない。
彼は駆ける勢いそのまま、敬一の首筋めがけて裏拳を振り抜いた。素手の一撃――だが、空を切る音だけで、それの威力が並はずれていることは容易に想像がつく。敬一がフォレスのアクションに気がついた直後、疾風のごとき速さで繰り出された一撃は、敬一に直撃した。咄嗟にフォレスとは逆方向に飛び退き左腕で首を守った敬一だったが、予想外の膂力と重みが身体を貫いた。敬一は半ば錐揉みしつつ吹き飛び、路地の入口に陣取った警官たちへと突っ込んだ。敬一の激突に、そこにいた警官は全員巻き込まれ、その場に全員勢いよく倒れ込む。
警官たちと身体を絡ませ、しかし敬一はすぐに態勢を立て直した。すぐさま片膝立ちで身体を持ち上げ、敬一はフォレスの追撃に備えるように身構える。
――軽やかに宙を舞いながら、それは敬一の眼前へと放り投げられていた。
敬一が視認したそれは、楕円状の、黒い鉄の塊で、
直後、フォレスの嗤い声と爆音が重なった。
放り投げられた手榴弾の束は同時に爆発する。炎と風を乱舞させて敬一たちを呑みこもうと牙を剥き、敬一は無意識に舌打ちしていた。
彼は手榴弾の爆発とほぼ同時に、反射的に右手を差し出す。
だが、
「使うな(・・・)!!」
警告は、敬一の耳元で突然発せられた。
その声に、敬一は目を剥いて眼球を動かす。視線には一瞬だけ、艶やかな銀が舞った。
直後、爆炎は敬一の身体ごとその周囲一帯の空間を業火で呑みこんだ。
*
鈍い衝撃が、背中へ響いた。
地表数十センチの高さから地面に叩きつけられ、敬一は苦悶の声と共に肺から息を絞り出す。
背中と後頭部に疼く痛みに顔をしかめた後、上体を起こした。周囲に目を巡らし、どうやらどこか小高い丘か野原にいるらしいと、敬一は把握する。眼下には先ほどまでいた街の景色を望むことでき、地面に生えた芝生が高所から吹き寄せるそよ風によって軽やかに揺れていた。
「――あれはなかなか危なかったなぁ」
敬一の背後で、女の声が生じる。
聞き知った声に、敬一は眉を歪めつつも悠然と振り返った。その声に微塵も驚いた様子がないのは、自分の身に何が起こったのか、すでに把握しているからであろう。
彼が爆発に巻き込まれそうになった時に声をかけ、そしてここまで一瞬で空間転移をおこなったのは、間違いなく彼女の仕業だ。
敬一の背後に立った銀髪碧眼の女は、含みのある笑みを浮かべる。
「まったく、最近の警察は若い者の資質が低いな。緊張するのは分からなくもないが、相手がお前じゃなかったら誤って殺害しておるところだったぞ」
「……何でお前があそこにいたんだ?」
敬一は、努めて冷静に相手に尋ねる。
言葉面では警官を糾弾し、しかし内心では敬一の災難を面白がっていた女――メディア・メイガスはしばし黙った後、やがて敬一に再び含みのある表情で振り向いた。
「さぁて。何故だろうな」
「お前も【ベレシス】に何か用があったのか?」
ごまかす態度のメディアに、敬一は単刀直入に斬り込む。
確信が含んだその声に、メディアはやや笑みを薄め、軽く顎を引いた。
「まぁな。少し個人的な用があってあやつらを見張っておってな。ちなみに、私があの場にいたのはお前が来るよりもずっと先だ」
メディアの言葉に耳を傾けながら、敬一は立ち上がる。その際、側頭部に頭痛が走り、敬一は顔をしかめる。おそらく、前触れもなく長距離の空間転移の魔術を受けた副作用のようなものだろう。
彼女が口にした個人的な用というのが敬一には引っ掛かったが、しかしそれが何かを訊こうとはしなかった。聞くだけ無駄――彼女も敬一同様、あの組織とは何らかの確執があるということは敬一も知っており、そしてそれがよほど忌々しいものなのか、訊いたところで彼女が絶対に口に笑ないという事も目に見えているからだ。
敬一が側頭部にあるツボに指を当てる中、メディアはそんな仕草を気にすることなく話を続ける。
「奴らが誰か、見知らぬ少女を連れ去ろうとしておるのを見たから出ていくつもりだったんだが、その前に突然お前が現れてなぁ。出るタイミングを失って様子を見ていたうちに、どっからか警官がやってくるやら、奴らがおぬしに爆弾投げつけるやらで――」
「……助けられたのは事実だから、礼は言っておく」
メディアが何故あの場にいたのか――その事情をあらかた理解したのか、敬一はいささか憮然としつつもそう言って頭を軽く下げる。その行動に、メディアは不思議そうに目を細めた。
「む? 意外と素直だな。何か変なものでも食ったのか?」
「急いでるんだ。すぐに戻らないといけない」
敬一はそう言い、足下に広が街へと目を向ける。その一角で、なにやら黒い煙と炎が生じていた。おそらく、つい数分前まで敬一がいたのはあそこだろう。
すぐそちらへ戻るため、敬一は足を踏み出す。幸はまだ【ベレシス】に捕らえられたままのはず――急いで彼女を奪還せねば、下手をすれば命にかかわるのは確実だった。
「あの少女はお前の知り合いか?」
歩き始めてわずか数歩で、敬一は足を止める。
振り返ると、メディアは真剣な表情で敬一を訝しげに見つめていた。
敬一は、少し躊躇った後で頷く。
そしてすぐに、幸との関係について説明し始めた。彼女との関係をメディアに隠さなかったのは、下手な不審感を彼女に募らせ、足止めされるような事態へと発展させないためであった。また【ベレシス】がこの街に来た本当の理由を、彼女にもしかと把握させるためでもある。
敬一の説明を、メディアは神妙な顔で押し黙りながら聞いていた。
【ベレシス】がこの街に来たのは、敬一との確執が関係していると思い込んでいただろうメディアは、敬一の説明に半信半疑といった様子であった
「……なるほど。つまり、私がお前の相棒を疑ったのは、お前が主張したように、私がただ勘繰りすぎていただけだったということか」
説明を聞き終わり、メディアが洩らした自嘲気味なその言葉を、敬一は肯定も否定もしなかった。
「ともかく、あいつらの目的はあの女――町村幸だ。彼女が一体何者かは分からないが、あれほどの男が率いている部隊を送り込んでくるくらいだ。相当何か、奴ら組織にとって大きな意味があるんだろう」
「確かにあの少女、何やら異能を発動している空気だったな。もっとも、それが敵に何の影響も与えていないようだったのが不思議だが」
メディアは何気なく呟いた言葉に、敬一は頬を歪める。彼女が口にした異能の気配とは、おそらく敬一にかけていた幻覚に対するものだろう。
ややあって、メディアは敬一の表情が急に険しくなったのに気がついて眉根に皺を刻むが、敬一はその視線を気にすることなく別の事を尋ねる。
「メディア。お前の魔術で、あいつらの居場所って分かるか?」
真剣な目で訊く敬一に、メディアは目を伏せた。
「残念だが無理だ。何しろ、奴らに対する手掛かりがない。何か奴らの触媒でもあれば、話は別だがな」
「そうか」
敬一は特に残念がる様子もなく頷いた。元々あまり期待はしていなかったのだろう。
「なら、早く戻って自力で捜すしかねぇか……」
「水を差すようだが、闇雲に捜したところで見つけられるものではないと思うぞ?」
再び街に戻ろうと身体を翻そうとした敬一に、メディアは素早く言った。
気を急かす敬一へと放たれた言葉は、案の定敬一を硬直させる。
敬一が鋭い視線を飛ばすのに対し、メディアは淡々と言った。
「あそこからここまで、お前の足を持ってしても戻るだけで十分はかかる。【ベレシス】の奴らの逃げ足を考えれば、お前があそこにつくころには痕跡すらなくしておるだろうよ」
「じゃあ、お前の空間転移の魔術でもう一度向こうまで俺を飛ばせ」
メディアの正論に、敬一は苛立つように言った。
自分の足で駆けつけると遅いならば、ここまで退いたのとは真逆の経路で、また空間を渡ればいい――敬一の考えは、一見的確に聞こえる。
だが、メディアはその考えにも首を振る。
「駄目だな。空間転移は本来かなり危険な移動魔術だ。元々何か物体が置かれた地点に移動すれば、それに人体が穿たれることだってある。さっきとまったく同じ場所に移動すれば、ほぼ確実に火だるまになろう」
それは空間を移動する魔術、あるいは異能において最も欠点であることだった。
一般に空間を一瞬で自由に行き来する出来る能力は便利に思われるが、実際に術者が移動できる範囲は、大抵視界に入っている範囲内である。というのも、メディアが今言ったように、もし元々なにかある場所に移動してしまうと、その物体に移動者の肉体が貫かれてしまうからだ。
テレポートやワープ系の異能スキルを持つ人間が、誤って建物の中に身体を移動させてしまい自滅してしまう例は有名である。実際に視界にはっきりと映っていないところに移動するということは、危険性があまりに高いのだ。
メディアが敬一を爆発から救った際、わざわざここまで運んだ理由もそのことに関係している。爆炎で視界が遮られた状態で、無闇に近くに移動してしまう事はためらわれたのだろう。おそらく前もって、『ここなら移動しても安全だ』といういわば緊急回避地点を予め認識しており、それがこの丘だったということだろう。
危険性が高いために空間転移を拒んだメディアを、敬一は凝然と見据える。
走って駆けつけても手遅れ、空間転移は許さない、ならばどういう行動をとればいいというのか。敬一の目に、はっきりと苛立ちが浮かび上がる。
涼しげに街を見下ろすメディアを睨み、敬一は口を開く。
それを遮ったのは、無機質な電子音だった。
音の出元は敬一の懐――鳴っているのは、家から出る際にアッシュから受け取った携帯電話であった。
突然の着信音に敬一は眉根を寄せるが、あまり逡巡することなく応答する。
「……もしもし」
『敬一、今どこにいる』
聞こえて来たのはアッシュの声だった。
おおよそ予想のついていた言葉に、敬一は小さく息をついた。電話の相手が気になるのかこちらを見ているメディアを横目にしながら、敬一はアッシュの質問に答える。
「街の少し外れにある所にいる。幸は一応見つけた」
『本当か?』
「あぁ。だが――たぶん今頃【ベレシス】にどこかへ運ばれている」
暗に救出に失敗したと言う響きだった。
電話越しに、おそらくサムから事情を聞いているだろうアッシュは小さく唸った。
だが、すぐに気を取り直したように、改まった態度の声が聞こえてくる。
『分かった。そのあたりの状況は後でゆっくり聞く。話があるから、一度こちらに戻って来い』
「話?」
敬一が疑問符を浮かべると、アッシュが頷くような気配が伝わってきた。
『あぁ。少し、気になっていたことが分かってな。直接、しっかりと説明をしておきたい』
「……分かった」
アッシュの提案を敬一は了承すると、二、三言葉を交わして通話を切る。
敬一は、依然こちらを訝しげに見ているメディアに振り向いた。
「……ということで、俺は今から戻るからな」
「いや……。どういうことかはよく分からんのだが……」
メディアは呆れ気味に微苦笑を浮かべるが、特に追及する様子はなかった。
敬一に何か用事が出来たことは、おおかた理解したのだろう。彼女は、ふと指を持ち上げると、自分の背後の方を指差した。当然敬一はそれを訝しむが、メディアはその意図をすぐに説明する。
「ここから奥の森の中に、私の隠れ家がある。【ベレシス】の件でお前を勘違いした件と、お前の相棒を疑ったことの詫びだ――何か用があったら一つだけなら快く協力してやろう」
「お断りだ」
好意によって提案されたメディアの言葉を、敬一は素っ気なく却下する。
あまりの切り返しの速さに相手が目を丸めるのも見ることなく、敬一は踵を返し、今度こそこのなだらかな丘の傾斜を下り始める。
そんな無愛想な敬一の様子に、メディアはそっと溜息を洩らした。
そこには怒りや苛立ちはなく、彼の意固地さに呆れるような、それでいてどこか嬉しそうな、不思議な感慨が含まれていた。