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悪魔たちの正義  作者: 嘉月青史
1st はじまりの三人
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第7話


 乱暴に開かれた扉の音に、アッシュは柄にもなく驚いたようだ。

 また治験でも行おうとしていたのか、白衣の上から手術用のビニール製コートを羽織っている。彼は一時間足らずで戻ってきた敬一とサムの姿に、瞬きをしながら硬直していた。

 敬一が何も言わずにリビングへ視線を向けていると、やがて驚きから立ち直って、相貌に不審感を広げていく。

「……どうした? ここを出て行ってからまだそんなに――」

「幸はどこだ?」

 アッシュの言葉を、敬一の険しい声が遮る。

 その声同様の厳しい視線が、リビングに設置されたベッドに固定されていた。

 その様子に、アッシュは更に不審感を強めるように目を細める。

「どこって……そこで今も寝ているだろ?」

「………………」

 怪訝な顔をするアッシュを、敬一は一瞥する。その目には、相手の真意を覗うような疑念が浮かんでいる。

 敬一の横を、背後にいたサムがするりと抜けていった。

 彼はベッドのそばに立つと、一瞬双眸を鋭く細め、そして敬一同様にアッシュに目を向ける。その目の輝くまでも、敬一と同質だ。

「アッシュ……彼女はどこだ?」

「……は?」

 敬一と同じ問いかけに、アッシュは思わず頓狂な声を漏らした。

 二人から全く同じ質問をされたためか、アッシュは妙な顔をする。その顔には、疑問と同時に苛立つような険しさが含まれる。

「お前たち、馬鹿か。今もベッドの上で寝てるだろ」

 言葉同様馬鹿馬鹿しそうな顔をして、アッシュはベッドの上に指を向ける。

 彼の向けた指の先では、幸がぐっすりと深い眠りについていた。敬一やサムが出ていったから十分経ったあたりで、彼女は再び睡眠を取り始めたのだ。まだ身体が回復しておらず、また敬一たちとの会話が疲れたのだろうと、アッシュは推測した。

 アッシュは溜息まじりにそう言った後、ふと顔を上げて敬一とサムを見る。アッシュの言葉に、敬一は何かしてやられたと悔やむような顔、サムは不審と混乱に染まった表情を浮かべていた。

 訝しげに、アッシュは二人の視線の先へ目を向ける。

 二人の目は未だ幸の眠るベッドに向いている。そこでは、幸が今も微かに肩のあたりを上下に揺り動かしていた。

 だが、二人の表情と目の色から、アッシュはそこでようやく違和感を覚える。自分は当然なことを答えただけだが、それはまるで、二人にとってはありえないことであるような、そんな不思議な感覚にとらわれる。

 アッシュがその奇妙な感覚に訝しがる中、敬一が突然踵を返した。

「アッシュ」

「……なんだ?」

 アッシュが敬一に目をやる。

 すると、敬一はしばし躊躇った後、


「それ(・・)が見えているのは、お前だけだ」


 その言葉に、アッシュはやや間を置き、ぎょっとベッドへ振り向いた。彼の視線の先では、幸が未だ深い眠りについている。

 しかし、敬一の言によれば、それはアッシュの視界のみの出来事――敬一やサムには、幸の姿など映っていないということだった。

「幻術、かな?」

「……まぁ、そんなところだな」

 サムが疑わしげに呟くと、敬一が頭を掻きながら答えた。その顔は、憤りによって険しさを増している。感情の矛先は、おそらく自分自身だ。

「幻術だと?」

 アッシュが、思わず敬一に尋ねた。

 彼の目には、今もベッドで横になっている幸の姿が映っている。それが幻であるのが到底信じられないのか、彼は珍しく動揺するように瞳を揺らしていた。

 その様子に、敬一は薄く笑う。嘲りによるものではない、乾いた笑みだ。

「あぁ。その様子を見る限り、非常によく出来たものみたいだな」

「……急に戻ってきたのには、それが関係あるのか?」

 動揺しつつも、アッシュは自分の視覚より、敬一の言葉を信じたらしい。

 ある意味話の核心をついた彼の問いに、敬一は笑みを消して頷いた。

「サム、お前はここに残っていてくれ。【ベレシス】の連中が、こっちに来る可能性も否めない」

「ということは、君が彼女を探しに行くんだね?」

 敬一は、サムに目も向けぬまま首肯する。

 アッシュの目の前にいる幸が幻覚――それはつまり、本物の幸がここにはいないということである。何故ここにいないかは――もはや考える必要もないだろう。

 敬一が再び外へ出ようと出口に歩き始めると、サムが目を細めて尋ねる。

「彼女を見つけて、どうする気だ?」

 問いかけに足を止めて敬一は振り向き、自嘲気味に口の端を吊り上げる。

「そんなの、見つけてから考えるさ」

「――待て、敬一」

 再び踵を返そうとした敬一を、アッシュが引き止めた。

 彼は、敬一が足を止めるのを見ると、隣の部屋へと向かう。一分足らずで彼は戻って来ると、その手に握られていたある物を敬一に向け投げた。敬一はそれを、片手で掴み取り確認する。携帯電話だ。

「お前持ってないだろ。詳しい事情はこれからサムから訊いておくが、何かあったら連絡を入れろ」

 すでに事情をおおよそ呑みこんだのか、アッシュは提案する。彼にはまだ幸の幻術が作用しているのか、未だ胡乱気な目でベッドの方に視線を配っていた。

「――ありがとな、アッシュ」

 一言礼を述べると、敬一は再び家から外へ飛び出した。


   *


 どうして気がつくのに遅れたと、敬一は自身の鈍感さに臍を噛む。

 今になって振り返ってみれば、その『答え』を導き出すのは決して難しいことではなかった。彼女自身の口から答えを待つ必要などなく、自身の知識や経験を持ってすれば解けるほどに、ヒントは多量出されていたのである。

 初めて出会った時、彼女は入院患者のような出で立ちで、またあまりに世間知らずな言動を取り続けていた。彼女が口を滑らせて洩らした「施設」という単語を加えて考えれば、彼女はそれまでどこかの施設、閉鎖的な環境の中で生活をしていたということは予測できる。そして彼女がそこから抜け出してきたのだろうことは、至極普通に察せられた。

 また、バーにて彼女は、「食事を取るのは五日ぶり」とも言っていた。それは、彼女が五日間に渡り食事をとれない環境にあった、あるいは食事をとれない事情があったことを意味する。どちらが正しいかは断定出来ぬが、先の推測を照らし合わせて考えると、施設を意識的に抜け出したあるいは逃げ出したために、安心して食事をとる暇がなかったとみるのが一番手っ取り早い。バーでの異様なまでの食事の速さは、ようやく一息ついて食事が取れることへの安堵感の表れでもあったのだろう。

 そして、――【ベレシス】というテロ組織の名。メディアの口から出されたそのワードは、その時はあくまで、メディアがサムについての危惧を敬一に諭すため、また彼らの一部が実際にこの街へ差し迫っている警告として発せられたものだ。メディアにしても敬一にとっても、彼らの存在は自分たちにのみ関連するものと捉えていた。

 自分たち以外の所で、彼らが関わりを持っているとは思っていなかった――このことが、敬一が幸についての『答え』に気がつくのが遅れた原因といえなくもない。

 以上のことから、結論をまとめよう。

 幸は、どこかの「施設」から「逃亡」していたという事実――

 そして今日、【ベレシス】が、「敬一やサム以外の誰か」を標的に、戦闘に長けた構成員を派遣してきたこと――

 この二つが無関係であるとは、到底思えるはずがない。

 そしてそれを証明するかのように、幸はアッシュに対して自分が共にいるような『幻覚』を見せ、そしていつの間にかいなくなっていた。

 何故逃げ出したのか、その心情は理解できない。だが、逃げる理由があったのははっきりしていた。

 これらすべてを統合した上での、敬一の推測はこうだ。


 ――町村幸は、【ベレシス】関連の施設から逃亡した少女、それも【ベレシス】自身が戦闘部隊を送り出すほどの重要人物である。


   *


「――さて、どうするかな……」

 幸を追うべく街に飛び出した敬一は、一人思案しながら呟いていた。

 アッシュ宅から飛び出したものの、幸が現在どこにいるかなどかについての手掛かりはゼロだ。敬一たちが一度出ていた後で彼女も抜け出したであろうから、まだそう遠くへは行っていないのだけは確かだ。

 しかし、闇雲に捜せばいいというものではない。

 閑散とした街であれば少しは楽だったであろうが、この街はなかなか賑やかな所である。人込みも多く、一度見失った相手を捜しだす事は困難であった。

 敬一は、何か妙案がないかを考えながら、早足で進みつつ周囲を見渡す。

 彼女が敬一の推測通り【ベレシス】の追手から逃げているのであれば、まず人通りの多い場所にはいないはずだ。街の通路、景色から死角になろうで場所に重点を置きつつ、敬一は目を馳せる。

(そういえば、アッシュに使った幻術は、魔術(・・)異能(・・)、どちらなんだろうな?)

 幸を捜す最中、敬一はそんな疑問を覚えた。

 世界には、人間の常識や知識では原理を説明することのできない超常現象(・・・・)というのが無数存在するが、その中でも、人間自身が使う説明不明の力に、魔術と呼ばれるものと異能と呼ばれるものがある。

 魔術は、特定の条件を満たす、または所作を行うことで超常現象を起こす一種の技術だ。特徴としては、使用者本人よりも主に外的な力を借りて現象を起こすものとされていて、古来より世界各国、あらゆる種類と系統によって使用されてきた。また世間ではあまり知られてはいないものの、強力な術を除いた基礎的なものならば、修行や訓練を行うことで誰でも習得可能なものでもあるのだ。

 一方異能は、誰もが習得できる魔術とは異なり、各々が独自に有している特殊な能力のことである。これは自分自身の精神エネルギーが何らかの現象として具現されるものであり、分類分けは出来ても、一定の法則を持たないモノである。この使用者には、〝先天性〟と呼ばれる生まれつきそれらの力を持っている者、あるいは〝後天性〟と呼ばれ誕生時点では異能を持っていなかったにも関わらず、その後生きていく中で能力を得たした者の二通りがある。体系化された魔術と比べると謎が多く、未だ誰もその原理を解明できる者はいないとされていた。

 幸がアッシュに見せていた己の幻影は、果たしてどちらの分類に入る現象だろうかと、敬一は思案する。

 一般的に、幻術は魔術として使われているものが多く、それを基礎としている系統も存在する。

 だが、魔術となれば当然それを教える師の存在が必要だ。あの幸が、誰かに師事していた様子など、敬一にはイメージ出来ない。むしろ、幻を他人に見せるという異能が彼女にはあると考えた方が無難であった。

 そんな些事に思考を巡らしていた敬一だったが、ふと、その足を止める。

 顔を横に向ける。そちらの方向には、小さな雑木林がある。

 まだ冬が開けていないために木々まだ新緑の葉を実らせておらず、昨年の落し物であろう灰色の枯葉が、わずかに枝に残っている。林はどこかの公園の横にでも設置された散策路なのか、木々の間には更地となった細い道を見えていた。

 わずかな逡巡の後、敬一はそちらへと足を進める。

 理由はない。直感だ。

 ただしこういう場合の直感は、何故か理屈などよりも遥かに正解率が高いということを、敬一は経験上知っている。

 そしてその予感は見事的中する。

 林の中に踏み入り、進むこと数分。

 彼の視線の先に、見覚えのある黒中心の服を着た少女の後ろ姿が映った。

「……すげぇな、俺の第六感」

 一人消え入るように小さい声で呟き、敬一は彼女へと近づいていく。後ろ姿の幸は、まだ敬一に気が付いていないらしく、林の道よりも周囲の木々の影に気を配りながら歩いていた。昼をとっくに過ぎているが日はまだ高い。にもかかわらず、木々の生い茂った林の方は薄暗い。その方向から、何かが飛び出してこないかを警戒しているようであった。

 そんな林の暗がりに意識を割く幸を嘲笑うかのように、敬一は道を進んで幸に歩み寄って行く。もっとも、その動作には一切の物音も気配も伴っていないため、幸が横の木々ばかり気を配っていなかったとしても、気がつけたかどうかは分からない。

 敬一は幸の背後、わずか一メートルまで接近する。

 しかし、幸はまだ気がつかない。

 その様子に音もなく溜息をついてから、敬一は声をかけた。

「幸――」

 突然の背後の声。

 それに対する幸の反応は、過激であった。

 敬一の手前、彼の視界から幸の姿が唐突に消える。膝を折り態勢を低くした彼女は、背後には一目もくれずに鋭く身を捻り、旋回の勢いに乗じて踵を敬一めがけて振り抜いた。鎌を連想させる鋭い蹴撃は、視界に収めていないはずの敬一の首筋へ吸い込まれる。

 それが敬一に届く手前、幸の視界が横転した。突如目の前の景色が反時計回りに円転し、幸は地面に受け身も取れずに叩きつけられる。勢いよく地面に激突したその結果が、彼女の驚愕をありのままに表していた。

 突然の幸の凶行を、あっさりと受け流した敬一は、涼しい顔のまま彼女を見下ろす。

 更なる攻撃を繰り出すつもりだったのか、勢いよく立ちあがって態勢を立て直した幸は、敬一の姿を視認するなり動きを止め、そして驚愕に目を見開いた。

「……敬一?」

「いきなり、随分と苛烈な挨拶だな」

 にやりと敬一が口の端を吊り上げて言うと、幸は目を瞬かせる。

 よほど動転しているのか、これまではほとんど無表情であった彼女の顔に、戸惑いや混乱がはっきりと浮かび上がっていた。

 口を小刻みに開閉させ、幸は点となった目で敬一を見上げる。そんな彼女の様子に、敬一は苦笑気味に頭を掻いた。

「――ったく、アッシュの所から出たのを追って来てみればいきなりこれか。栄養失調だったはずだろ、お前は」

「そんな……どうして、こんな早くに――」

 思わず口から洩れた言葉に敬一が振り向くのを、彼女は慌てて口を噤んだ。

 彼女の予測では、きっと自分の幻覚にアッシュが気づくのはもっと遅くのはずであったのだろう。そのため、もし敬一たちが自分を捜すにしても、それは今よりもっと遅くに始まると思っていたはずだ。それがまさかたった一時間で、追跡をされる上に発見されることになろうとは到底想像していなかったのだろう。

「――まぁ、それは置いとくとしてだ」

 敬一は自分の右手に目を落とすと、それを開閉して感触を確かめる。幸の蹴りを受けとめた方の手だ。

「今の動き……お前、やっぱりただもんじゃねぇな?」

 相手の反応を覗うように細められる敬一の目に、幸は身体を竦ませた。

 幸の放った一撃は、とても素人の放てるものではない。背後の敵に対し、目もくれずに距離感を掴んだこと、相手の死角へ素早く潜り込んだ身のこなし、振り抜かれた蹴りの鋭さ――それら一連の動作は、何かしらの訓練を受けた人間でなければまず不可能な動きであった。

 敬一の疑念に対し、幸は否定するような言葉も動きも示さなかった。

 もはやごまかすことを諦めているのか、それともよほど動揺していると見える。

 言葉を返さぬ幸に、敬一は更に尋ねる。

「――お前、やっぱり【ベレシス】の人間だな」

 断定調で放たれた言葉に対し、幸は無反応であった。

 ややあって、訝しげな表情で顔を上げる。それは自然なようで、どこか不自然な表情だ。

「【ベレシス】? 何それ?」

 その単語が初耳であるかのように、幸は首を傾げる。

 敬一は、思わず舌を打ちそうになった。

 これまでの彼の推測や、彼女が今見せた動きからして、彼女が【ベレシス】と何らかの関係があることは、ほぼ確定したといってよい。仮に推測だとしても、ここまでの情報で充分整合性が取れ、納得のいくことが多いためだ。

 ただ、幸自身はこの推論に対し曖昧な態度をとっている。ここで彼女がそれを認めれば決定的な証拠となりえるのだが、彼女はそれを敬一に掴ませる気はないらしい。

 どうやらごまかし通すつもりらしく、またその様子は以前の失敗から学習したのか、格段に上手くなっていた。敬一にとっては、厄介この上ない。

「惚けるな。それと、どうしてアッシュに幻術をかけてあそこを抜け出したのかについても答えろ」

「……そんなこと、やってない」

「嘘をつくな」

 視線を逸らす幸に、敬一は詰め寄る。

 未だ立ち上がらない幸と敬一の相貌が、至近距離でぶつかりあう。

「あの状況で、アッシュに幻術をかけてお前がベッドに眠っているように見せられるのはお前自身だけだ。それに何より、そうする必要があるのもお前しかいない」

「……してないったら、していない」

 敬一が論理的に問い詰めるのに対し、幸は駄々をこねるように否定する。

 絶対に敬一の主張を認める気がないらしく、彼女の眉間に皺を作って、表情を険しくする。

 意固地に反抗する幸に、敬一は今まで彼女には向けなかった鋭い光で睨みつけた。幸は、それを平然と受け止めるが、目だけは合わそうとしなかった。

 しばらく、二人は険しい睨みあいを続ける。

 幸から真相を問い質そうとする敬一と、頑なにそれを拒む幸。

 先に口を開いたのは、幸であった。

「――どうして……貴方は……」

 下手をすれば聞き逃しかねないような声に、敬一は目を細める。幸は、敬一から視線を逸らして俯くと、消え入るような声で呟き始める。

「……どうして、貴方は私なんかに構うの? 昨日会ったばかりなのに。見も知らない他人同士なのに。散々、こうやって貴方からの問いかけを拒んでいるのに」

 泣いているのだろうか――彼女の肩が、上下に揺れている。

 先ほどまで険しかった顔つきが、まるで仮面が剥がれおちていくかのように変わってゆく。

 唐突な彼女の変化に、敬一は黙したまま耳を傾ける。

「急に絡んできた相手を私の代わりに倒したり。気絶した私を人目につかない医者のところに運び込んで治療まで請け負って。こんな服まで買いに行って、私が言えない事情があるならば待つとか、変なこと言って――」

 今まで口数が少なかったのが嘘だったように、幸は饒舌に言葉を吐き出していく。

 消え入るような声には、溢れんばかりの感情が籠もり、今まで彼女が隠してきた心情が、包み隠すことなく露わになっていく。

「やめてよ。私なんか、構わないで。私なんか、助けないで。私なんか、私なんかを、いい加減見捨てて。見捨ててくれれば、どれだけいいか――」

「嫌だね」

 黙って幸の独白を聞いていた敬一だったが、その懇願には即座に声を挟んだ。

 幸が顔を上げる。

 泣いてはいない。だが、今までの相貌はまるで仮面でも被っていたかのように、今の彼女の顔には、驚きや困惑などが張り付いていた。まるで、それこそが彼女本来の素顔であるかのように、目元涼やかな顔立ちに感情が溢れていた。

 そんな彼女に向かって、敬一は言う。

「悪いが、俺は見捨ててなんて言われて、はい分かりましたって退くような人間じゃねぇんだ」

「でも――」

「俺は、もう充分に見捨てて来たからな」

 何か反論を口にしようとした幸を無視し、敬一は言った。静謐だが重く、そして深い自噴と悲哀に満ちた声だ。

「助けたかった人間を、何人も、何十・何百・何千と見捨てた。そうまでして、俺は生きた。たった一つのもののために、俺は全部、捨てて来た。だからもう、これ以上簡単に目の前で苦しんでいる人間を放っておくわけにはいかないんだよ」

 静かに、しかし断固とした口調で、敬一は言った。

 それは、幸に対してというより、敬一本人に言い聞かせるような言葉である。

 目の前の少女を見捨てるな、過去の過ちを繰り返すな――そんな声がどこかから、敬一の脳裏に直接響いて来る。

「幸……話せよ。一体お前は、何を隠してる? 何を恐れてる? 教えてくれ」

 比較的穏やかな声で、しかし強い意志で据わった目を持って、敬一は尋ねる。

 今の彼ならば、彼女がどんなに自分を取り巻く複雑で困難な、また絶望的な事情を口にしたとしても、それを聞きいれるだろう。そして、彼女の力になろうとするだろう。そう確信できるほど、敬一の眼差しは真摯であった。

 だが、幸はその顔を見て、泣きそうな顔で首を振る。

「いや……」

 初めて会った頃の無表情が嘘のよう――幸は今にでも大声で泣き出しそうな子供のような顔で、頑なに答えるのを拒む。

「お願い……お願いだから、私にはもう、構わないで!」

 最後の方は半ば叫ぶように言うと、幸は素早く身を起こし、敬一から逃げるように走り始める。

 それを敬一が許すはずがない。

 幸の走ると速度を嘲笑うかのように、敬一はあっという間に駆け出す幸に追いつき、その腕を掴む。敬一の膂力は、走る少女の身体をあっさりとその場に縫いつけ、幸は前のめりに転倒しかける。彼女は危うく顔から地面に倒れかけるが、敬一が腕を強く引っ張ったことでそれを免れる。

 幸は睨むようにして敬一に振り返った。

「離して!」

 逃亡を遮れた彼女は、今まで聞いたことのない声色で敬一に言い放つ。

 そんな彼女を見ず、敬一は訝しむように顔をしかめていた。

 違和感が、あった。

 それは、幸を掴む手の感触だ。曖昧とした、不明瞭なものであるものの、何か不自然な感覚を敬一の触覚と直覚を刺激する。

 視線を、握った二の腕から華奢な身体、そして強い眼光を湛える顔に移動させ、敬一は疑念に目を細める。

「おい……幸」

「離して! 頼むから、私なんかに構わないで――」

「お前……本物は今、どこにいる?」

 ピタリと、敬一の腕を振りほどこうとしていた幸の動きが止まった。

 その反応に、敬一は確信する。

「やっぱり幻術か?! 一体いつかけやがった!」

 敬一は、驚愕も露わに問い詰める。

 目の前にいる幸は、彼女が作りだした幻――つまり偽物だ。

 微かな触感からそれに気がついた敬一は見事といえようが、しかし彼には一体いつ彼女の幻術にはまったのかが分からなかった。はっきりといえば、彼女の後ろ姿を見た時から今の今まで、彼女はずっと幻ではなく本物だと思っていた。

 幸は、動揺で再び無表情に戻りかける相貌に、少しだけ勝ち誇るような微笑を浮かべる。

「よかった……。どうやら、最初から上手く、騙せたみたい」

 その言葉に、敬一は目を剥く。

 すなわち、初めて幸の背中を見た――あるいは彼女の気配を直感で感じ取ったあたりから、すでに彼は彼女がいつの間にかかけていた幻覚の術中にはまっていたということである。

 目の前に立つ幸は、そうと気がつかなければ本物とまったく変わらない。

 きっとアッシュも、このような感覚によって彼女がベッドで寝ている様に誤認したに違いなかった。

 敬一は、まんまと幸にはめられたことに憤りを覚え、しかし表面上は不敵に笑って見せる。

「意外とやるじゃねぇか……。で、今本物はどこにいるんだ?」

「……教えるわけがない」

 敬一の問いかけに、幸は再び無表情を取り戻す。そこには、若干の緊張が孕まれている。

 彼女が敬一にも幻術をかけたのは、間違いなく自分を追ってきた敬一を足止めするためだ。非常によくできた幻術で、まるで本物の意思でも持っているかのようである。彼女の瞳からは、本物の自分を逃すため、ここで敬一を少しでも止め、撹乱してみせるといった、使命感にも似た感情が浮かんでいた。

 それを読み解いたのか、敬一は目を細める。

「お前自身が意思を持って俺を止めているのか、それとも本人と意思を共有しているかは知らねぇ。しかし、随分高度な幻術みたいだな」

「……そうね」

「だが、どっちにしても、まだそう遠くに言ってないのは確実だな」

 確かに幸の幻術によって足止めをされたのは事実だが、しかし基本的な状況は変わらない。

 ここに彼女がいないとしても、結局彼女がアッシュ邸から出てからまだ一時間程度という前提条件に変化はない。敬一の言うように、ここからそんなに離れていない場所にいるのは確かだった。

「悪いが幻と分かった以上、今のお前と関わっている時間はない。あばよ」

 敬一は淡白にそう言うと、彼女から手を離して踵を返す。

 だが、その背後から突如何者かが抱きついてきた。

 ややぎょっとして、敬一は振り返る。

 彼に抱きついてきたのは、今しがた別れを告げた、幻覚の幸であった。

「行かせない」

「……まさかとは思ったが、こっちの感覚だけじゃなくて、物理的に干渉可能な幻覚なのか?」

 敬一は、自分の身体にかかった少女一人分の負荷に、口の端を歪めた。

 幻覚の幸は、本来存在しないまやかしであるにもかかわらず、敬一に実際の体重を感じさせていた。幻術というものは、基本相手の神経を騙すタイプの物で、被術者の五感を狂わせ、実在しない感覚をあるかのように体感させる。

 だが、この幸の幻術は、それとは次元が異なっていた。

 彼女の幻術は、本来幻覚であるはずのものが、実際の物理現象として周囲に影響を与えているのである。もし彼女が敬一を叩いた場合、それは「実際に叩かれたように感じる」のではなく、「実際に叩かれた」ことになるのだ。

 敬一は、背後から抱き締めた偽物の幸の腕によって、服が乱れ、刀の柄が軽く軋む音からそれを洞察した。

 幸は、ごまかす事なく頷いた。

「そう。私は、貴女を決して私の元には向かわせない」

「……どうして、そこまで俺が行くのを嫌がるんだ?」

 敬一は、何が何でも敬一を離さないといった様子の幸に、怪訝な目を向ける。そこには、自分を邪魔することの苛立ちよりも、純粋な困惑が浮かびあがっていた。

「……ひょっとして、俺のことが嫌いだからか?」

「ううん。むしろ、好き」

 からかうように訊いた敬一はその返答に鼻白む。そんなことを、あっさり告白されても困る。

「でも、私は貴方に助けてほしいなんて言ってない。私は、貴方の助けがなくても――」

 幻覚である幸は、言葉の途中で口を途切らせる。

 それは不自然な仕草で、まるで喋る途中で何か不慮な事態が起こったのを連想させる。

 敬一は、顔だけ彼女に振り返り、瞠目する。

 幻である幸の口――そこから、血が零れおちていた。

「な――ッ?! おい、どうした!」

 腕の力が緩まったのを良い事に敬一はそれをほどき、身体を斜めに傾けた幸を、幻であるのにもかかわらずに抱き止める。

 幻覚であるはずの幸は、敬一と目を合わせると、薄らと微笑む。口から血さえ垂らしていなければ、さぞ愛らしい表情だ。

「……思ったより、早く、追いつかれた……」

「なに?」

 悔やむように洩れた言葉に、敬一は目つきを鋭くする。

 そんな彼の前で、幸は咳きこみながら言った。

「敬一……私には、もう……かかわら、な――」

 幸は、喘ぐように紡がれる敬一を突き放すための言葉を、最後まで口にすることは出来なかった。

 元々幻であった彼女の身体が、夢幻のごとく一瞬で姿を失くす。それによって、敬一の腕から彼女の重みがなくなり、両腕が虚しく空を切った。

 敬一は、しばし茫然とするが、すぐに我に返って眦を決す。怒りの矛先は、幸に対してだ。

「ふざけんじゃねぇ……言ったはずだ。見捨ててって言われて見捨てられるほど、俺は諦めの速い人間じゃねぇんだ」

 敬一は一人呟くと、踵を返す。

 幸の居場所など、まったく分からない。

 だが、あの消え方からして、彼女の身が何か危険に晒されているのは間違いない。

 どこにいるかなど、立ち止まって考えている余裕などなかった。

 敬一は当てもなく、しかし風のような迅速さで、雑木林を脱すべき走り出す。


 周囲の景色を背後に残していきながら、敬一は思う。

 幸は逃げる時間を稼ぐため、敬一に幻術をかけた。これは疑いようのない事実だ。

 だが幻の幸が見せた、震え、怯え、哀しみの表情は、果たして本当に幻だったのだろうか、と。

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