第8話
8、
デーン王国の首都・ハフニアは、デーン領内の中央部に位置する湾岸都市だ。
領土を東西に大きく分断する入り江の東の沖に位置するこの都市は、国の商品流通の拠点として知られている。かつては西洋北部の重要な港町として、諸外国の商船の往来も多かった場所であるが、スカイナビアとの戦争の影響で海外からの渡来船の数は著しく減少していた。そのせいもあってか、一国の首都にもかかわらず、都市全体が物静けさと寂寥感で満ち溢れている。
この都市の中に存在する、とある高級ホテル――その最上階に位置する一室に、椅子に腰かけながら書類に目を通すスーツ姿の青年の姿があった。部屋は宿泊用の物ではなく、会議やプレゼンテーションで使われるような内装が施されている。机を挟んで、片側の席に座った青年は、右手の人差し指の間でペンを揺らしながら、書類を一枚ずつ確認していた。
青年は大和国の外交官、スカイナビア王国との戦争の講和の仲介者としてデーン王国を訪れている司馬春馬である。伊達メガネを着用し、東洋人の顔立ちを備えたその青年は、すべての書類の文面を確認すると「よし」と頷く。
ちょうどその時、部屋の扉が開かれた。
春馬が顔を上げると、半分だけ開けられた扉からは、続々と軍服、スーツの男たちが入ってくる。
十人近い人間が入室してくる中で、最後に入ってきた人物の姿が一際視線を引いた。齢は五十代半ばの、厳粛な相貌が特徴的な褪せた金髪の男性だ。軍服姿であることから軍人ということは一目瞭然なのだが、その物腰は生粋の軍人というより施政者然としている。実際、彼は軍人上がりの政治家であり、デーン王国の宰相の地位にある要人であった。
オレル・ウール。人々からは「オレル将軍」と呼ばれている、現デーン王国軍の最高責任者であり、デーン王国の実質的ナンバー2の地位にある人物だ。
「お待たせしましたかな?」
「いいえ。さほどは」
椅子から立ち上がって会釈する春馬に軽く応えながら、オレルは春馬の前の席へと腰をかけた。それを見届けてから、春馬も腰を下ろす。
大和を仲介してのスカイナビア・デーン国間の講和交渉は、今回で七回目を迎えていた。
デーン側の代表、交渉の全権を任されているオレルは、机上に置かれた書類を整える春馬を密かに睥睨する。十年近くの長きに渡りデーン王国の宰相を務め、またそれ以前から軍人として輝かしい功績を持つ彼は、自分と親子ほどの齢の差があるこの青年を険しい目付きで見据えていた。
大和の外交官として席に着く司馬春馬は、二十一歳という現代の政治家として若すぎる人物だ。だが、その若さに反してこの青年は経験豊かな老人よりも頭が回り、道理や摂理を巧みに論じることに非常に長けている。
初め、この極めて年少の青年が外交交渉の官吏として送られてきたことを知ったデーン側は、嘲弄と憤激の声を所々で上げたものだが、今では逆に彼に対しては強い警戒と緊張を余儀なくされていた。それほどまでに、彼は外交官として卓越した手腕を、相手側からすれば悔しいほどに発揮しているのだ。
それは、宰相であるオレルも同様だった。
特にこれからの対談は、今までのものとは全く違ったものになることが確定している。
彼がどのような反応を見せ、どう対応を打ってくるかは十分に警戒しなければならなかった。
「さて。前回のこちらからの提示に対する返答を聞く前に、また新たな講和条件があるので、こちらの資料をお取りください」
オレルの内心など知る由もなく、春馬は机の上に置いてあった書類をオレルの前に差し出した。
それが、普段であれば手に取られて確認されることを知っている春馬は、相手の反応をわざわざ確認することもなく、口を開く。
「スカイナビア側で交渉を行なっている市川和将外交官によれば、以下の三点の条件に向こうは承諾したようです。一つは両国の国境線、二つ目に――」
書類に書かれた内容について口頭で改めて説明し始めていた春馬は、しかし途中でオレルの様子がいつもとは違うことに気が付いて言葉を止めた。
見ると、オレルは書類を手に取ることもなく、またその文面に目も通そうとしていない。彼の瞳は春馬を注意深く捉えていた。
その様子に、当然春馬は不審がる。
「……どういたしましたか、オレル将ぐ――」
「誠に残念ながら、デーンはこの書類の案件に目を通すことはない。その必要がなくなった」
その言葉に、春馬がますます訝しげに眉を持ち上げると、オレルは一拍ほど間を溜めて続きを告げた。
「今朝、御前会議において国王からの聖断が下った。司馬殿ら大和側とのこれまでの交渉はすべて白紙に戻せとの仰せだ」
その言葉に、春馬はぴたりと動きを止め、何やら考えるように視線を下げる。しばらく目を伏せながら静止した後、音が立たないように考慮しながら深呼吸をついた。
「それは、何ゆえに? こちらの態度に、何か不快なことでもありましたか?」
「いいや」
「では、これまで提示した条件の中に、何か不都合なことでもありましたか? もしそうならば、スカイナビアにいる市川外務官に連絡を――」
「いいや」
固い声で、オレルは否定だけを示す。
その反応に、春馬はそっと室内を見回した。視線を這わせた先では、デーン側の護衛の軍人や秘書官たちが、皆一様に表情を硬くしている。
胸騒ぎを覚えつつ、それを悟られない様に、春馬は平静を装ってオレルに視線を戻した。
「……どのような理由か、御聞かせ頂けるでしょうか? こちらとしては、どのような理由でこれまでの交渉が破棄されたのかを知らずにはいられません」
微かに恫喝の響きを込めて、春馬は尋ねた。
これまで六度重ねた交渉は、春馬の中では手応えのあるものだった。相手にとっての好条件を先手を打って提示し、それでいてデーン側が欲を出して求めた条件は巧みに躱し、彼らが納得し了承せざるをえないような会話へと誘導し続けた。過去数十年前の西洋諸国の外交交渉記録をほぼすべて脳裏に叩きこんでいた彼は、相手の外交官やオレルを完全に手玉にとって、思い通りに講和交渉を進めていたはずだ。
実際、彼の交渉が効いている証拠に、デーン政府の首脳陣には交戦から講和へと国家運営の方針転換を企図する者も出だしている。昨日のスカイナビアから伝えられてきた交渉材料を使えば、ほぼ〝詰み〟となるであろうと、春馬の計算していた。
それが突然、国王の声一つで台無しにされたのである。しかもその内容が、これまで両国が行なっていた平和的解決に向けた交渉を無に帰すという、国家同士の外交の意味も無視した理不尽極まることだった。
これには、春馬は自身の面子が潰されたという事以上に、非常識な対処に国家としての品格を疑う気持ちを強く抱いた。
そのような姿勢を見せるからには、当然それに正当な理由が付随しているはずである。そうでなければならないはずだ。
しかし、
「悪いが、理由は私も存じ上げぬ。ただ王は、この講和交渉そのものを破談にせよと仰せになった。分からないことは、申し上げられない」
オレルは、その理由の回答すら拒否した。詳しくは聞かされていない――これは事実化もしれないが、その返答自体は許容できるものではない。
春馬は、もはや相手に考慮する必要もないと感じ、音を消すことなく溜息を洩らした。その顔には、失望がありありと浮かんでいた。
「分かりました。今、これ以上の対談は無意味ということですか。また後日、改めて理由をお聞かせ願います」
春馬はそう言って席を立つと、部屋の出口に向かって歩き出す。オレルが、デーン側がこちらの質問に一切答えない、それ以前に対話すら拒むというのであれば、春馬にこれ以上話し合う意味は皆無だ。
ゆえに部屋から出ていくことを、春馬は選択していた。
しかし、出入り口に向かう春馬の前に、護衛として室内に招き入れられていたデーンの軍人たちがおもむろに立ち塞がる。
春馬は目を細めた。
「……何の真似です?」
そう訊ねつつも、春馬は内心、これから起こる事態について大方理解する。
咄嗟に後ろへ飛んだ瞬間、目の前に立ち塞がっていた軍人が袖に隠し持っていたトンファーで殴り掛かってきたのだ。間一髪でそれを鼻先で掠めるに留まった春馬は、そいつから距離を取りつつオレルの方に振り返る。
「どういうつもりですか、これは……」
「言った通り、そして見ての通りだ。王は、『大和側との交渉を破棄し、同時に交渉に当たっている貴方の身柄を拘束せよ』と仰せである」
表情は微塵も揺らすことなく、冷たい声でオレル将軍は告げた。
彼が立っているのは、先ほど春馬が座っていた椅子の付近であり、その足元では、春馬を護衛する役割のあったSPたちが二人気絶している。今の一瞬で、オレルは二人の意識を奪ったのだ。
護衛をやられ、今春馬を守る者は誰もいない。対してデーン側は、オレルを含めて軍人と秘書官の合わせて七名が、彼の逃走経路を塞いでいた。
この状況に、春馬は口角を歪める。
「無駄な抵抗をやめろ。たとえこの部屋を脱しても、ホテルには警備の名目で配置された兵士が五十人いる。到底逃げ切れはしないよ」
「これは、間違いなく大問題ですよ?」
おとなしく縄目につくよう勧めてくるオレルに対し、春馬は言う。そこには、自分の身の安全も含めての危惧が浮かび上がっていた。
「講和の仲介を務めただけの外交官を拘束する――そんなことをすれば、まず大和は黙っていない。大和だけではない、西洋諸国、世界各国からの信用も失いますよ?」
「構わん。聖断である」
春馬の話に耳を傾けることなく、オレル将軍が右腕を挙げたのを合図にして、部屋の軍人たちが彼に歩み寄ってくる。丸腰の、しかも一外交官である春馬に、抵抗の手段はなかった。
背後から彼を捕えようと、軍人が手を伸ばす。
だがその時、男の手と春馬の間に小振りの人影が現出した。
咄嗟に軍人が手を引っ込めると、彼女は背を向けたままの春馬を横から抱きしめる。
「逃げるよ、ハル!」
「あぁ――助かった」
瞬間、彼女と春馬の間に巨大な穴が生じた。床が割れたのではない、どこに繋がっているか分からない暗黒に染まった空間に、春馬と彼女は一瞬で吸い込まれる。割れ目は彼らを呑みこむと同時に塞がり、瞬時に反応した軍人たちが放った銃弾を弾き返した。
三秒にも満たない、わずかな時間での脱出劇に、秘書官たちは愕然と立ちすくみ、軍人たちは慌てて懐の通信器を取り出す。
「テレポートの類、か。まさかこの行動を読まれておったとは」
春馬を呑みこんだ穴が生じていた床の辺りに目を馳せながら、オレルは独白のように口を開いていた。どうやったのかは知らないが、このような展開が生じることを大和側はすでに見通しており、そのための緊急脱出手段を備えていたらしい。交渉役の春馬が危険になったのを悟り、外部から空間移動系の異能ないし魔術の使い手の少女が彼を救出していったというところか。
まんまと相手に逃げられ、オレルはここで初めて表情を変える。
微笑だ。
それは決して和やかなものではなく、幾度となく死地を乗り越えてきた強者のみが浮かべる、不敵かつ威圧感を内包したものであった。まるで一筋縄ではいかない獲物を見つけた狩人のように、オレル将軍は自分の心が不穏な渇望が蠕動するのを感じる。
そんな中ふと、オレルは自分の足元に目を落した。春馬を追い詰める際、意識を奪い取った彼の護衛の二人が、そこには倒れている――はずだった。
今は、誰もそこには倒れていなかった。
あろうことか、逃げたのは春馬だけでなく、気絶した筈のSPたちもこの場から消え失せていたのである。
この不可解な事実には、オレル将軍も思わず目を見開いていた。
「……逃がした、だと?」
重く低い声が、室内を反響する。
デーン王国ケブンハーゲン宮殿――王族の居所であるこの場所に、オレル・ウール将軍は呼びだされていた。
華やかな内装で飾りつけされた、王国内で一部の人間しか立ち入り出来ないその場所で、椅子に座した男が一人、オレルを見据えている。
「はっ、申し訳ありません。護衛を気絶させた後、身柄を取り押さえようとしたその瞬間、外部からの救援により脱出されました。すでにハフニアから脱出したであろうと見て、包囲網を敷いております」
相手の問いの声に、オレルは固い表情で頭を垂らした。軍部の最高責任者と宰相を務め、王国において最高の地位にいるはずの彼が頭を下げるのは、国内でも片指程度しかいない。
スコルド・オルデン――オレルの前にいるこの壮年の男が、現デーン王国の国王であった。
直立姿勢で頭を下げるオレルを見て、スコルドは目を細める。色の薄れた金髪に青の眼、青年期はさぞや美丈夫であっただろう整った容貌だが、目周りの皺や口辺りの髭が厳かな雰囲気を醸し出していた。齢はオレルより三つ年下だが、五十代としては少し老けている印象もある。
椅子の肘かけを指で叩きながら、スコルドはオレルから視線を外した。
「それで、大使館の人間は捕縛したのだろうな?」
「はい。こちらは勘付かれることなく確保いたしました」
オレルは頭を下げた姿勢のまま首肯する。
二人が話している案件は、デーン王国にスカイナビアとの講和を薦めてきた大和の外交官・司馬春馬を取り逃したことだ。
彼を交渉現場で取り押さえ、同時に大使館の職員も拘束せよ――スコルドはそのように、オレルへ命令を下していた。が、その命令は後半部こそ達成したものの、前半の司馬春馬の捕獲に関しては失敗した。
それを聞き、スコルドは至急現場で指揮をとっていたオレルを呼びだしたのだ。
スコルドは、二つの指令のうち一つを遂げたオレルに顎を引く。
「そうか。だが――」
そして、もう一つの指令に失敗した彼へ、鋭い眼差しを向けた。空気から叱責の気配を感じて頬を強張らせるオレルへ、スコルドは予想通りの憤懣を口にする。
「あの外交官、確か名を司馬春馬とか言ったか。彼奴を取り逃がしたのは失態だ。あの若造は、我が臣下たちの心を揺るがし、誑かした。他の者はともかく、あやつだけは我が国に害為す者として必ず裁かねばならなかった」
一度言葉を切り、スコルドはオレルを睨みつける。
依然厳粛に頭を下げたままの彼に、スコルドは厳しい口調で続けた。
「さて……どう責任を取る気だ、オレルよ。此度は完全にお主の油断が招いたこと。申し開きがあらば――」
「お待ちください、陛下」
スコルドの言葉を遮って、オレルの背面から声が放たれた。女の声だ。スコルドが視線を馳せるのに対し、オレルは振り返るのはおろか微動だにしなかった。
知っている人物の声であり、また王の前ということで迂闊な動きをしない彼の横へ、その人物は進み出ていた。
二人がいる王の私室は、立ち入るには当然許可のいる場所で、無断での侵入は極刑クラスの大罪だ。
だが、ごく例外として部屋に入ることを許される人物もいる。彼女は、その唯一の人間だった。
豪奢な桃色系のドレスに身を包んだ、三十代前半ほどの銀髪の女だ。知的そうな美貌に華奢な身体は、共に男性の理性を蕩かすような色香に満ちている。
彼女の姿に、スコルドは不審げに眼光を緩めた。
「ゲフィオンか。何用だ。今儂は――」
「大和の外交官を取り逃がしたと、オレル将軍に責を問おうとなさっていると聞きました。どうか、御考え直しください」
王の言葉を二度も遮り、彼女はオレルの斜め前で頭を下げた。
ゲフィオンという名を持つこの女性は、地位は皇后、つまりはスコルドの正室である。正確に言えば二代目の正室――要するに後妻で、元は地方貴族の一人娘でありながら、その美貌と才覚を買われて十年前にスコルドに嫁ぐや厚い寵愛を受け、その半年後には皇后へ立后したという人物であった。
突然スコルドとオレルの謁見に乱入し、あまつさえ意見を口にした彼女へ、オレルは頭を垂らした体勢のまま視線を上げる。ゲフィオンは、胸に手を当てながら、スコルドのすぐ横まで歩み寄っていた。
「ゲフィオンよ……。あまり、国の政に口を出すものではない」
「いいえ、それは出来ません。オレル将軍はこれまで幾度も国難へ立ち向かい、陛下のために骨折り忠義を尽くしてこられた御方。そんなオレル殿を、たった一度の失策で罰するなどあってはなりませぬ」
王へ詰め寄りながら強い意思の灯った瞳ではっきりと告げる彼女に、スコルドの幻覚だった表情に揺らぎが生まれる。十年前から変わることのない寵愛を向けている相手、しかも聡明と知られる彼女に反論され、王の心も揺るぎ出したのだろう。
その様に、この場では助けられている立場であるはずのオレルの瞳に一瞬鋭いものが宿った。
二人はそれに気づかぬまま、やりとりを続ける。
「しかしな、そのたった一度の失策というのが重大事であったのだ。他の臣への示しとして、オレルにも処罰を負わせる必要があるのだ、ゲフィオンよ」
「いいえ、その必要はありませぬ。確かにオレル殿は件の外交官を取り逃しました。けれども、聡明で厳格でいらっしゃる将軍が失敗したということは、他の誰がやっても同じ結果になっていたでしょう。他の者は、オレル将軍が彼らを取り逃したことを聞いて、『将軍が失敗するなら仕方がない』とは思っても、『何故将軍はこの程度の職務を全うできないのだ』とは思いません。それは皆が、将軍の能力を認め慕っているからです」
彼女はそう言って、オレルに向かって掌を差した。
頭を下げた姿勢のまま表情を崩さない彼を見て、スコルドは思案するように目を細める。その表情に、王の心の機微を感じ取ったようにゲフィオンがすかさず言葉を重ねた。
「陛下。今とるべきは、将軍の責を問うことではありません。むしろオレル殿には、引き続き任務を任せるべきだと存じます。一度彼らを取り逃がしたとはいえ、将軍自らが変わりなく包囲の指揮につけば、将軍を慕う下の者たちも奮い立ち、より大きな働きを見せてくれるでしょう」
「……なるほどな。一理ある」
ゲフィオンの言葉に納得したのか、スコルドは鷹揚に頷いた。
彼の反応を見てゲフィオンは安堵の笑みを浮かべ、視線をオレルへと向ける。彼女の目に気づき、オレルは一瞬目を合わせた後、すぐに畏れ入るように視線下げた。
そんな彼へ、スコルドの声が放たれる。
「オレルよ」
「……はっ」
「引き続き、大和外交官・司馬春馬とその一派の捕縛の指揮をとれ。よいか、断じて国外へ逃がすでないぞ!」
「承知」
王の命令を受け、オレルは再度深く頭を下げる。
彼に処分が下されなかった安心感からか、ゲフィオンは一人、満足げに吐息をついていた。
オレルは周囲に人気がないことを確認すると、突如壁を拳で殴りつけた。重く鈍い、聞くものをぞっとさせる肉とアスファルトの衝撃音が、清潔に整られた廊下へと響き渡る。
王の私室を出て宮殿内を歩いている最中、人知れず暴挙に出た彼の顔には怒りの色があった。
「――女狐、め」
普段はあまり露わにしない心情を面に出し、掠れた声を絞り出していた。
憤激の矛先は、オレル自身とゲフィオンである。
王の私室において、オレルはゲフィオンの口添えがあったおかげで任務の失態の責任を負わずに済んだ。普通であれば、自分を庇ってくれたゲフィオンに恩義や感謝を感じるところであろうが、オレルはそれとは真逆の、憎悪と憤怒の激情の炎を燃やしていた。
彼にとって、ゲフィオンの存在は邪悪以外の何ものでもない。
まだ若く、しかも田舎貴族の出でありながら、生まれもっての美貌と明晰な頭脳を持ってスコルドの寵愛を受けているゲフィオンであるが、彼女はその立場と王からの好意を利用し、国政に対しても平然と口を出し、王や政府が定めた方針を覆したことは一度や二度ではなかった。一見聡明で慈悲深い人柄を装っているが、その裏には怜悧な野心があるだろうと、オレルは常日頃から彼女を警戒している。
ゆえに、今回彼女から助けられたことも、オレルは素直には受け止めていなかった。
賢い彼女であれば、普段オレルが自分を疎み嫌っていることぐらい分かっているはずだ。だからこそ、このような場を利用して弁護することでその警戒心を解かせることを、あるいは恩を売ることで今後自分に反抗しづらい関係を構築することを意図したのだろう。
無論、それが勘繰りであり、彼女の言葉は何の偽りも他意もない可能性もする。が、それは彼女が善人だった場合の話であり、彼女が野心を秘めた女だと見ていたオレルはその可能性を皆無と端から切り捨てていた。
そこまで考えておきながら、まんまと彼女の擁護を受け責任を逃れる形になってしまい、オレルは強い自噴を感じずにはいられない。五十年以上も生きているにもかかわらず、壁を叩くような行動を取ったのは、その激情の大きさを表していた。
「――ははは。どうしたんだい、オレル」
突然背後から放たれた声に、オレルは悠然と振り向いた。その顔には、いきなり背後に現れた相手に対する驚きはない。憤激で頭を真っ赤にしていたオレルだが、背後からやってくる気配にはすでに気づいていた。その時点で、彼は憤怒の兆候を一切消していたのである。
振り返った先で佇んでいたのは、金髪青眼の青年であった。二十代後半から三十代前半、今がまさに盛りといえる年代の男性で、白い軍服を着たその姿は勇猛さと凛々しさを漂わせていた。
軍人、ではない。
服装は軍のそれだが、それは彼が王に代わって前線の指揮も務めるからだ。
青年の名は、クリスチャン・オルデン。デーン王国国王スコルド・オルデンの実子、王位継承権を持つ、デーン王国王子であった。
宮廷内ゆえか付き人の一人も付けていない彼に、オレルはすぐさま頭を下げようとする。が、生真面目な彼のその作法を止めて、クリスチャンは微笑んだ。
「大和の外交官の件で父上に呼び出されたみたいだけど。その様子だと、義母上と何かあったのかい? かなり苛立っているようだけど」
「いいえ。ゲフィオン様とは特に何も……」
からかうような口振りでありながら、すでに事情を知っているかのような鋭い言葉を投げかけてくるクリスチャンに、オレルは頭を振った。
すると、クリスチャンは笑みを深める。
「そうかい? オレルが顔色を変えるのは、国家の大事の時か義母上の時だと評判だよ?」
「……誤解です。むしろゲフィオン様にはご助力をいただきました。おかげで、陛下から責を問われることなく、今後の任務も全うできることになりました」
「――なるほど。だからか」
疑惑に否定の言葉を返したオレルに、クリスチャンは確信を得たように頷く。その反応に、オレルは不審がる。
「だから、とは?」
「オレルが苛立つ訳さ。義母上に助けられて責任を免れたとあっては、オレルの心中穏やかでないのは当然だろうね」
相変わらず揶揄するように断じてくるクリスチャンに、オレルは一瞬顔を強張らせた後、苦笑する。
「まったく……優れた洞察力です。いつもながら感服いたします」
「そうかな? 臣下の心を見極められるか否かが王としてもっとも必要となる資質だと、そう口酸っぱく教え込んできたのはオレル、君だよ?」
「そういえば、そうでしたな」
クリスチャンから指摘され、オレルは唇を苦っぽく歪めた。
国家の重鎮であり、デーンの宰相を務める彼が、ここまで心の裡を開く人間はこのクリスチャンのみだ。
オレル将軍とクリスチャン王子は、主の子息と臣下という繋がりだけでなく、かつては世話役として、幼少の王子に学問や帝王学を教え込んだ師弟の間柄でもある。独り身で妻子も持たないオレルにとっては、クリスチャンは息子当然――否、実の息子よりも尊い存在だった。それはクリスチャンも同様で、施政で幼少時から共に過ごすことの少なかった実父のスコルド国王よりも、彼にとってはオレルの方が父親の立場に近い。
事実こそないが、義理の親子のような関係を構築していた両者は、主従の壁を越えた深い絆で結ばれていた。
ゆえに、この相手だからこそ打ち解けるという話も多数存在する。
他人に自身の心境を吐露することが少ないオレルにとって、彼が皇后のゲフィオンに悪感情を抱いていることをはっきりと知っているのもこのクリスチャンだけだ。その事実については、クリスチャンも彼の信頼に応えて一切漏らしておらず、実の父や三歳しか違わない義理の母もその情報を聞き及んではいなかった。
そのため、オレルがゲフィオンに弁護されたことを聞き、オレルがそのことで憤るなど想像できるのもクリスチャンただ一人である。彼はオレルの苦い顔をみると、可笑しそうに笑みを深めていた。
「しかし、義母上がオレルをねぇ。オレルが父上に呼び出されたのを聞いて後宮を出たというのはここに来る途中聞いていたけど……」
「はい。陛下が私への処罰を決めようとしたまさにその時、お越しになりました」
その時の状況をオレルは告げ、場の空気が重くなるのを配慮したのかすぐさま続ける。
「おかげで、以後も変わることなく職務を全うできます。必ずや大和の外交官を捕え、また怨敵・スカイナビアの殲滅に全力を注ぐ所存です」
「……そのこと、なんだけどさ」
意気揚々と告げるオレルに、クリスチャンは相貌に翳を落とした。
「オレルは、二日前の軍事行動について聞いているかい?」
「? 二日前、何のことでしょうか?」
「そうか。やはり、知らないんだね」
オレルの反応を見て、クリスチャンは口元に苦いものをよぎらせる。
その表情に当然オレルが不審がると、クリスチャンは少し迷ってから、渋々口を開いた。
「実は二日前、父上の密命を受けた精鋭部隊が、スカイナビアの都市・ヴォラスを急襲したらしい。結果、都市の中枢部に多少の損害を与えたが、部隊は壊滅したそうだ」
「………………なんですと?」
クリスチャンから伝えられた情報に、オレルは寝耳に水と云った様子で硬直する。
デーンの軍事の最高責任者であるオレルには、軍部のすべての行動と作戦が伝わることになっていた。だが、今クリスチャンから打ち明けられた情報は、彼すら知らない作戦行動であった。王の密命ということだが、たとえ密命であっても、オレルには本来なら伝えられるべきものだ。
唖然とするオレルは、しばらくすると厳粛とした表情を取り戻す。
「それは、確かなものですか?」
「あぁ……。先ほど、父上の側付きの者から聞いた。戯言とは思えない」
話の信憑性に、オレルの喉から唸り声が洩れた。
彼の反応を見て、クリスチャンは一度周囲に目を馳せる。人気がない、盗み見聞きしている者がいないのを確認してから、重く口を開いた。
「……オレル。僕は、不安を感じずにはいられない。スカイナビアとの戦争が始まってから、父の様子がおかしく思えて仕方がないんだ」
「――と、言いますと?」
「戦争を始めたのは父上だ。その理由や意義に関しては、父上らしい考えに基づいているし理にかなっている。だが、その行動や考えの裏に、僕は狂気を感じずにはいられない」
彼が何を言わんとしているのに気が付いたのか、オレルの顔に驚きと動揺が走る。
「まだ父上は五十過ぎだ。しかしすでに耄碌してしまったというのだろか? そう思ってしまうほど、父の行動は不審だ」
「……王子。滅多なことは申すものではございません」
疑惑と困惑に満ちたクリスチャンの告白に、オレルは声を潜めながら釘を刺す。
クリスチャンは閉口し、オレルに横目を流した。オレルは頭を垂らす。
「陛下は、何の変わりもございません。これまでとなんら変わりなく、我らがデーン王国の繁栄のために御身を削り、大望を成就させようとなさっています。狂うだの耄碌しただの、断じてありえません」
オレルは、クリスチャンの疑心や憂慮を掻き消すように、はっきりと否定の言葉を口にした。本心は如何であれ、これ以上の彼の発言は、王子といえども反逆罪に当たり、国家的大事件へと発展しかねない。
婉曲的に諌められる形となり、クリスチャンは苦っぽく唇を引き結んでいた。
そんな彼へ、オレルは更に言い添える。
「今のことは、決して他の者に話してはなりません。陛下の耳に入れば、王子といえどもただでは済みますまい」
「……分かっているさ。オレルはきっとそう言ってくれると思ったから、話したんだ」
頷きながら、クリスチャンは微笑を浮かべる。その言葉は暗に、この話をこれ以上は口にしないことを誓う発言であった。
ほっと安堵の息を洩らすオレルを見て、クリスチャンは微笑を笑みへと深めながら、
「しかし講和を拒み、以後もスカイナビアと戦うつもりのようだが、一体どうする気だ? 戦線は膠着、しかも戦局は向こうが優勢だ。何か打開策や秘策はあるのか?」
「無論、次の手はすでに仕込んであります」
懸念するクリスチャンに、オレルは悠然と顎を引く。
それからふと、壁付近に備えられた窓から外の景色を、空を見上げた。
「後は、機が熟するのを待つのみです。ご安心を、必ずや王子や陛下には我が国の勝利を献上いたします」
天気は快晴といえず、空を漂っていた積雲が、ちょうど太陽を覆い隠すところだった。