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悪魔たちの正義  作者: 嘉月青史
1st はじまりの三人
6/99

第5話

5、


「遅かったな。何かトラブルでもあったか」

 敬一が帰ってくるなり、アッシュが放った第一声はそれであった。

 両手に買い物袋を持っていた敬一は、目を丸めた後、苦笑を浮かべる。

敬一が外へ出ていたのはほんの二、三時間ほどだが、買い物を済ますのならその半分の時間で事足りる。それは暗に、途中で何かあったことを証明するようなものであった。

 アッシュの問いかけに対し、敬一はわざとらしくおどけた表情を取って見せる。

「おや、どうしてそう思うんだ?」

「顔に出さずとも、臭いで分かる」

 淡々としたアッシュの言葉に、敬一は思わず笑みを消した。聞きようによってはアレな台詞だが、彼が言う匂いとは、この場合何を言っているのかは想像に難くない。間違いなく、服の端に微かについた血のことであろう。

 アッシュが覗き見るように向けた視線に、敬一は肩を竦めながら息をつく。そこに含まれた憂鬱にアッシュが怪訝な顔を浮かべる中、敬一は言う。

「――糞魔女に会った以外は、特に何もないさ」

「糞魔女?」

 敬一の言葉に、部屋の隅で本を読んでいたサムが振り向いた。メディアとの面識がないサムには、その人物が誰の事を言っているのか分からず、訝しむような顔色を浮かべる。

 そんな彼に、敬一は苦笑を向ける。

 

 ――その修という男、貴様を殺すために差し向けられたスパイではないのか?

 ――そいつはお前に助けられた風を装い、いずれはお前を――


 サムと目があった瞬間、敬一の脳裏にメディアの言葉がよぎった。しかし敬一は、頭を振ってその言葉をすぐに払いのける。

 その様子に、サムは更に不思議そうな顔を、アッシュは何か察したように険しい表情をそれぞれ浮かべる。サムと違い、アッシュはメディアとも面識がある。もしかしたら敬一が何を言われたのか、見当がついたのかもしれない。

 二人が異なった表情を浮かべる中、敬一は手にしていた袋のひとつをアッシュに差し出した。

「はい。頼まれた品」

「御苦労。彼女にも渡してやれ」

 アッシュが頼んでいた薬品を受け取りながら言うと、敬一は眉根を寄せる。ややあって敬一は振り返り、得心がいくように声を漏らした。

 敬一の視線の先――リビングに設置された療養用ベッドの上で、いつの間にか敬一が連れ込んでいた少女が目を覚ましていた。病み上がりで顔色はまだ青白いが、意識ははっきりとしているようだ。

 少女の表情は、昨晩同様にほぼ無表情でありながらもやや緊迫した様子で、敬一が自分を見ているのに気がつくと、掛け布団を持ち上げて顔の下半分を隠した。

 そのリアクションを敬一はあまりに気にすることなく、軽い調子で手を挙げた。

「おはよう」

「………………」

 比較的返事が容易な挨拶だったが、少女は無言のままだった。布団の隙間から覗かれた目からは、興味かあるいは不安のようなものが見え隠れしている。

 その視線に、流石の敬一も押し黙った。ジト目、とでも言うべきか、感情のいまいち掴みにくい瞳で凝視され、どう言葉を続ければいいのか、戸惑いを隠せない。

 もしかして、勝手にこのような闇医者の家に連れ込まされたことに憤りを感じているのではないかという推測も脳裏によぎる。

 相手の意思がいまいち掴めないために、敬一は黙って反応を待った。その間に、サムに向けて頼まれていた品を放り投げ、サムが慌てて空中でそれを掴む様子をせせら笑ってみたりしていた。

 たっぷり一分ほどの、沈黙。

 少女が口をきいたのは、唐突だった。

「……ありがとう」

 最初、それが自分に向けたものだと、敬一は気がつかなかった。

 少女の言葉に、敬一は目を丸める。

「ん? なにが?」

 思わず敬一がそう反応すると、少女は目を瞬かせ、その後少し哀しげに目を伏せた。「――あ、やばい」と口の中だけで呟いた敬一に、アッシュが厳しい声色で言う。

「普通に考えて、助けた礼だろう。察せ」

 アッシュの呆れつつも責めるような口調に、敬一は憮然とする。しかし、自分の返しがまずかったことも分かっているので、それに対する反論を口にはしなかった。少女からすれば、敬一に助けられたとはいえ、目が覚めたら見も知らぬ場所に連れ込まれていたのだから、謝辞を述べるのにも複雑な気持ちがあったはずだ。

 自分の軽率な返答を反省する敬一に、アッシュは呆れた顔のまま注意する。

「彼女はまだ身体が上手く動かせないらしいから、無理はさせるなよ」

「……いつ、起きたんだ?」

 敬一は、アッシュではなく少女に尋ねた。先の失態を取り戻すべく、本人と直接会話を交わす算段であろう。

 少女はやはりというべきか、すぐには言葉を返してこない。しかし先ほどの半分ほどの時間で少女は答える。

「……一時間ぐらい、前」

 どうやら起きたばかりではないらしい。おそらくすでに、どうして自分がこんな場所にいるのかの経緯については、アッシュかサムが説明してくれているだろう。

「そうか。あ、そういえば――」

「?」

 敬一が何か思い出したように視線を上げると、少女は不思議そうに目を瞬かせる。

「まだ名前を言ってなかったな。俺、天野敬一って言うんだ。お前は?」

 敬一は自分の名を言うと、そして未だ名の知らない少女へと尋ねる。

 しばらく、少女は目を伏せながら瞳を揺らす。どうやら名前を名乗り返すべきか迷っているようだ。昨晩も同じように尋ねられ、その時は拒否したが、今回は敬一に助けられた恩があるために、名乗りを拒むことへの後ろめたさを感じたのだろう。

 少女は、しばらく口の開閉を繰り返した後、意を決するように口を開いた。

「……幸」

「みゆき?」

 か細い声に、敬一が聞き返すと、少女はコクリと頷く。

「町村、幸」

「やっぱり、大和の人間か」

 少女の姓名に、敬一は思わず喜色を浮かべる。

 大陸の遥か東に、『大和』という島国がある。そこは敬一の祖国にあたる場所でもあり、思いがけず同郷の人間に会えた嬉しさが、敬一の笑みから覗えた。

 だが、少女は少し迷った後で首を振る。

「ううん。生まれはそうだけど、育ちはこっちの方」

「あぁ、なるほど。ちなみに、あっちの二人は――」

「名前なら、もう、聞いた」

「あ、そう」

 どうやら、敬一がここに来るまでにサムとアッシュは自己紹介を済ませていたらしい。

 敬一は二人に向けていた指先を引っ込めながら、ふと思う。

 すでに二人の素性を聞いていたのなら、どうして幸は先ほどあんなに緊張していたのだろうか。二人が正体を告げていたのなら、警戒を解かぬまでも、あんなに強張った表情を浮かべる理由がよく分からない。

 疑念を頭によぎらせる敬一だったが、その思慮をサムの笑い声が遮った。

「もっとも、名を聞いたのは今が最初だけどね」

「どういうことだ?」

 敬一が小首を傾げながら振り向くと、サムは付け加えるように言う。その顔はどこか楽しげだ。

「俺らが訊いても、名前は全然答えてくれなかったんだ」

「へぇ。そうなのか?」

「………………」

 敬一が訊くと、幸は目を背ける。おまけに、掛け布団を持ち上げて再び顔の下半分を隠して縮こませた。答えたくないらしい。

 その態度に、敬一は微苦笑を浮かべる。何となくその動きに、小動物のソレを連想した。

「そういうことはどうでもいいが、いい加減着替えさせろ」

 微笑ましいやりとりが広がる空間に、冷たい声が割り込んできた。

 声の主はアッシュである。彼は妙に苛立った表情で敬一を睥睨している。幸が患者でなかったならば、おそらくそちらも同じような目で見て来たことだろう。

 少し間の悪いアッシュの静かな恫喝に、しかし敬一は嫌な顔をしなかった。

「あぁ。これな」

 そう言って、敬一が未だ手にしていた買い物袋を幸に差し出す。

 幸は、掛け布団越しに自分の上にそっと置かれたそれを、不思議そうに目を瞬かせて見つめる。

「これ、何?」

 あぁ、と敬一は相槌を打ってから、

「あそこの灰色ヘッドのおっさん曰くな――」

「誰がおっさんだ。解剖するぞ」

 指先だけ敬一に向けられたアッシュは、憤りも露わに即座に切り返してきた。

 彼はまだ二十代も折り返しに入ったところだ。決しておっさん呼ばわりされる齢ではないと自負しているのだろう。

 ムキになって言葉を返したアッシュに、敬一は楽しそうな笑みを浮かべる。冗談の通じない彼に、この手のフリをすると非常に面白い。

「冗談だよ。でな、その服だと――」

「不衛生だから着替えろって、さっき言われた」

 敬一の言う事を察知した幸は、彼が言おうとしたことを先んじて口にする。

 どうやらその件についてもすでに説明済みのようだった。

 ふと、苦笑する敬一を幸が不思議そうな目で見つめてくる。「どうした?」と敬一が訊くと、幸は言うべきか迷った後、

「女性の服買ってきて、恥ずかしくなかったの?」

「……なんでそういうことは知っているんだ、貴様」

 敬一がきつい視線を返すと、少女は反射的にまたも布団で顔の下半分を隠した。なお、背後ではサムとアッシュが噴き出すような音が聞こえたが、敬一は聞かなかったことにする。

 少女は、口をへの字にして黙りこむ敬一を訝しげに見上げるが、ややあってから敬一が買ってきた服を袋の中から取り出して、物色し始める。

「ふふ。果たして敬一はどのような服を買ってきたか――ファッションセンスが問われるね」

「うっせぇ。ここに残って俺だけ恥ずかしい目に合わせた鬼畜め」

 背後から聞こえて来たサムの揶揄に、今回は敬一も流石に反応した。苛立ちに満ちた目線に、サムがくすりと笑いを返すと、敬一は憮然とした顔のまま、何気なく幸へと目を戻す。

 彼の目の前で、幸は、着ていた服を脱ごうとしていた。

「――待て!!」

「ん?」

 敬一が思わず静止の声をかけると、幸はそれに従って動作を止めた。

 だが、その動作も中途半端だった。

 薄緑の手術服のボタンは上二つ以外が外され、なお開かれた服の合間から、幸の透き通るように白い肌、胸のやや下辺りから腰回りまでが露わになっている。胸元からは、微かに下着も見えていた。

 今着ている服を完全に脱いでいるわけではないが、しかしきちんと服を着ているわけでもない。一般的な基準で言えば、この恰好はアウトだ。

 敬一は、幸の格好には特に反応はしないものの、彼女の唐突なその行動には思わず声を張り上げる。

「こんな所でいきなり脱ぐな! あと、着替えるなら着替えるって言え!」

 敬一の怒号に、幸は不思議そうな顔で首を傾げている。

 その様子から察するに、異性の前で服を着替えて素肌を晒す事に対する羞恥心というものが、彼女にはまったくないらしい。

 幸は、しばらく不思議そうな目で敬一とサムとを見た後、

「……着替える」

 そう一言言って、服のボタンをすべてに外した。

 白く華奢な彼女の肉体が露わになる寸前、敬一とサムは慌てて顔を逸らした。別に見たところでどうかなるわけではないが、なんとなく罪悪感と、そして彼らの方が恥ずかしさを覚えたのだろう。

 どこか滑稽なその光景に、アッシュは馬鹿馬鹿しそうな表情で溜息を洩らした。彼は二人と違ってそんな慌てた反応はせず、とりあえず視線を別方向に逸らしている。

 数十秒の間、リビングの中に妙な緊張感が降りる。

 それは、幸が着替えを終えるまで続いた。

「終わった」

 幸のその言葉に、敬一とサムは警戒感も露わになった顔で振り向く。彼女の事だ、もう一段階罠があってもおかしくない。

 二人が振り向いた先、幸はきちんと服を着ていた。とはいっても、布団から見えるのは上半身だけだ。藍色のブラウスに黒のカーディガンを羽織った姿は、彼女の雰囲気と非常によくマッチしている。

 だがその格好に何か、二人は違和感を覚る。瞬時にその原因も見抜いた。

「……おい」

「何?」

「前と後ろ、逆だぞ」

 敬一の指摘に、幸は視線を落とす。

 内に着ているカーディガンが、敬一の指摘通り前後が逆さまになっていた。

 呆れる敬一に対し、幸は何故か合点がついたように頷いた。

「……どおりで、首元が、苦しいと思った」

「普通、気がつくだろう――ってまた急に脱ぐな!」

 すぐさまカーディガンを脱ぎ捨て、更にブラウスをまくり始めた幸に、敬一はぎょっと声を上げながら再び視線を逸らす。サムも同様だ。

「楽しそうだな、お前ら」

 少年少女たちが繰り広げる喧騒に、ただ一人アッシュだけが冷静にぼやく。彼は呆れ顔のまま、一人部屋の奥へと向かって行った。



「出ていく?」

 幸の非常識ぶりに振り回されたしばし後――敬一は突然、今からここを出ていくという旨をキッチンで食事の準備をしていたアッシュに告げた。

 敬一の言葉に、アッシュは怪訝な表情を浮かべる。今朝はそんな話をしていなかったにもかかわらず急にそんなことを言われれば不審に思うのは当然であった。

 敬一は、その理由をアッシュに話す気はなかった。

 急にアッシュの家を出ていくことを決めたのは、メディアに告げられた言葉が原因であった。

 ――【ベレシス】の戦闘部隊がこの街に向かっているらしい

 メディアの忠告が事実なのであれば、彼らの狙いは、敬一とサムであろう。彼らと遭遇した場合、平和的に話が進むことは皆無だ。相手は世界最大のテロ組織――無関係な人間も巻き込む、物騒な事態になることも十分考えられる。

 そのため、あまりこの場に長居するのは得策ではない。もし敬一たちがここにいることを突き止められ、襲撃を図られれば、アッシュや幸も巻き込ませてしまう事態になるだろう。それは、敬一たちにとって本意ではない。

 そんな理由を抱え、しかし敬一はそれを素直にアッシュには話さなかった。ごまかすように、まったく本来の意図とは違う事を口にする。

「あぁ。いつまでもここにいたら邪魔だろ?」

「まぁ、患者というわけではないしからな。しかし、どこに行く気だ?」

「元々近くにある格安のホテルに泊まっておく予定だったからな。その辺は問題ねぇよ」

 想定通りのアッシュの問いに、敬一はあらかじめ容姿しておいた回答を平然と答える。

 アッシュは、その言葉を素直に信じたようで、納得するように頷いた。

 どうやら疑いを持たずに済みそうだ――と敬一は思った。

 だがアッシュは、急に双眸を細めると、横を向いたまま、

「急にそんな事を言うとは、何かあるんだな?」

「………………」

 独り言のように、鋭く囁いた。

 敬一は無意識の内に頬を強張らせる。アッシュの慧眼は、やはり話の唐突さや敬一の言葉にあった不審点を見逃さなかった。既にすべて見透かしているかのような確信が、彼の声色には籠もっていた。

 しかし、アッシュはそれを具体的に口にすることはしない。

「分かった。あの少女は快復するまでここで休ませておく」

「……悪いな」

 アッシュが追及もせずに引きさがったことに、敬一は内心驚きつつも礼を述べる。

 彼は間違いなく、敬一が不穏な理由を隠していること、それが何なのかある程度予想をつけているはずだ。それにもかかわらず訊いてこないのは、アッシュの度量の深さ、そして彼が敬一に寄せる信頼ゆえだ。もし信用がなければ、アッシュの性格からして、強引にでも問いただしたはずである。

 敬一が謝辞に対し、アッシュは苦笑する。

「お前がそう礼儀正しい態度を取るとはな……。明日は嵐かもな」

「……かもな」

 揶揄するようなアッシュの言葉に、敬一は笑わない。

 虚空に目を向けながら、敬一は自嘲するかのような笑みを浮かべて呟いた。

「血の雨、がな」

 その言葉に、アッシュが浮かべていた苦い笑みも消える。ひとつ細長い息をついて間を置くと、目の前に置いてあったあるものを敬一に差し出した。

「――ここを出る前に、彼女に喰わして来い」

 敬一は、視線を落とす。

 アッシュから差し出されたのは、水粥の入ったお椀であった。白く濁った汁の中には、ぐちゃりと茹でられた米粒が浮かんでいる。

 それを見て、敬一はアッシュに怪訝な目をする。

「コレ、お前が作ったのか?」

「何だ。悪いか?」

 敬一の疑念が心外だったのか、アッシュはほんの少し視線を厳しくする。

 一方、敬一は可笑しそうに、からかうような微笑を浮かべる。

「お前、いい主夫になれるな」

「………………」

 押し黙るアッシュを尻目に、敬一はその茶碗を受け取ると、キッチンからリビングへ向かう。その最中、背中に妙にはっきりとした視線を感じたが、振り返ろうとしなかった。目を合わせるのが怖い。

 幸のところに辿りついた敬一は、彼女のベッドに備えつけられてある、折りたたみ式の机の上へと水粥を置いた。敬一が買ってきた服に着替えていた幸は、何やらぼうっとしていたようで、机にお椀が置かれた音で意識を取り戻し、視線を向ける。

「まだ何も食ってないんだろ? これ、食っとけよ」

 敬一が言うと、幸は目を瞬かせた。まるで、敬一の言っていることの意味が分かっていないようだ。

 その反応には、敬一も訝しげに瞬きをする。

「何だ、食べないのか?」

「ううん。食べる」

 かぶりを振って、幸はお椀を両手でそっと持ち上げる。そして、箸やスプーンなどを使うことなく、それを口に含み始める。水で蒸かされた米は、確かに箸などを使わずとも食べられる。しかし、まるで茶道のように水粥を食べる幸に、敬一はやや呆気にとられた。

 幸は、二・三口粥を飲み干すと、そこで一度お椀を机に置いた。どうやら、いきなり全部食べ干す体力はまだ残ってないらしい。

 その様子を見て、

「今はまだ身体が弱ってるから駄目だけど、体調良くなればもっとうまいもの食えるようになるからな。早く治せよ」

 敬一は、そう励ましの言葉を幸にかける。

 すると、幸は首を傾げる。

「施設だと、これが基本だったけど、やっぱり外は違うんだ……」

「……ん?」

 幸が思わず漏らした言葉を、敬一は聞き逃さない。同じくリビングの隅で本を読んでいるサムの目も、静かに細められた。

 敬一が訝しげに首を傾げると、幸ははっと目を見開いた。どうやら無意識の独白だったらしく、その顔には、明らかに動揺が見られた。

 だが、それも一瞬のことだ。次の時は、彼女は何事もなかったような、平然とした顔つきに戻っていた。

 しかし、敬一はそれでごまかされるような人間では勿論ない。

「施設、ねぇ」

「……何のこと?」

 あくまで白を切るように、幸は首を傾げる。それに対し、敬一は思わず微苦笑する。

「自分で口にしておいて、そのごまかし方はないだろ」

 敬一の静かな指摘に、幸は口の端を歪めて顔を逸らした。ごまかそうとして、墓穴を掘った事に気づいたのだろう。あくまで無表情を貫こうと取り繕っているが、瞳には動揺が浮かんでいた。

 どうやら幸が、今までどこか施設にいたのだろう。それは、彼女の失言の数々で確実だ。

 しかもそこは、外界と隔絶された環境の場所である可能性が高い。昨晩の傭兵バーでの会話の数々、常識知らずな言動、中途半端な知識――それらが、その仮説の信憑性を高めている。

 問題は、そのことをどうして隠そうとしているかである。

 一般的に考えれば、その背後には何かやましいことがあるという可能性が非常に高い。

 だが、これは敬一の直感であるが、彼女の場合は決して口には出せない何か大きな『理由』がある気がした。それが一体何かまでは分からない。だがそれは、少女が何より露見されることを恐れていることであるように感じた。

 敬一が凝視するのに対し、幸は顔ごと目を背けている。今、目を合わせて詰問すれば、疑問を全て明らかにすることも可能に見える。

「……おい」

 唐突に、敬一は幸に対し右手を伸ばす。それは、彼女の顔に突き出された。

幸はその掌に恐怖でも感じたのか、反射的に肩を振るわせる。ほぼ無意識の内に、彼女は目を瞑って身体を縮こまらせる。

 そんな彼女へ、敬一の手が――

 ポン、と

 敬一の掌は、幸の頭に乗せられた。

 両目を閉じていた幸は、頭上に突然かかった微かな重みに、驚いたように、恐る恐ると片目を開く。

「話したくないことなら深くは追及しない」

「え?」

 幸の黒い瞳に映ったのは、敬一の柔らかな微笑であった。

 普段の彼とはどこかかけ離れた、ひどく穏やかで相手を安堵させる類の、柔らかい笑み。

 数秒前まで怯えていた幸は、拍子抜けするように口を半開きにする。

 それを見て、敬一は笑みを深めた。

「頑なに言わないってことは、それだけの何か理由があるんだろう? なら、それを無理やり訊くようなことはしないさ。けどな、隠し事はほどほどにしておけよ。あんまり隠し事してても、いいことなんてないんだから、な」

 そう、優しく紡がれた言葉に、幸は唖然としていた。

 まったく予期していない敬一の態度に思考がついていっていないのか、その様子は、心ここにあらずといった状態だった。

 敬一は彼女のそんな様子に、不思議そうに首を傾げた後、からかうような悪戯っぽい微笑を浮かべる。

「それとも何だ? 無理やりにでも問い詰めて欲しかったか?」

「………………」

 思わず首を横に振りかけ、幸は押し黙る。

 その様子に、敬一は耐えきれなかったのか小さく噴き出した。

 そして、立ち上がる。

「――アッシュ。俺たち、そろそろ行くわ」

「え?」

 キッチンの方からこちらの様子を見守っていたアッシュに敬一が言うと、幸は驚くような声を上げる。敬一の言葉を受け、サムは立ち上がって玄関の方へと向かう、

 敬一がここを去ろうとするのは、彼女にとっても唐突であった。その声に反応し、敬一は振り向く。

「ん? このまま一緒にいてほしいのか?」

 からかうように尋ねて来た敬一に、幸は言葉を詰まらせる。

 こう混乱している状態の中で畳みかけられては、彼女には為す術がない。

 口を真一文字に引き結び、黙り込む幸に、敬一も流石にやりすぎたかと反省し、その頭上へもう一度掌を添えた。目を見開いた彼女に対し、敬一は安心させるような口調で、

「また来るからよ。あまり、無理はするなよ」

 その言葉は、幸を今までで最も動転させた。彼女の瞳が、動揺と葛藤により酷く揺れる。もはや微塵も隠すことなく、隠す事が出来ずに、彼女は懊悩を面へと露わにしていた。

 幸の表情に、敬一も笑みを消して口を開きかけるが、それをきつく引き結ぶと、踵を返した。

 二人の様子を静観していたアッシュが、静かに目を細める。

 玄関へ繋がる扉に向かう敬一の背中は、まるで彼女が何か言葉をかけてくれるのを待っているかのように、アッシュの目には映った。

 しかし、結局幸が敬一を呼び止めることはなく、また敬一も迷う様子なく、リビングと玄関を繋ぐ扉を開き、奥へ進み、そして扉を閉める。

 後ろ手でドアを閉めた敬一は、そっと息を漏らした。その顔には、失望とも葛藤ともいえるものが浮かびあがっていた。

「いいのかい?」

 すでに玄関で敬一を待っていたサムは、敬一の表情を見て尋ねる。

 幸には、『話したくないなら無理には追及しない』と言い切った敬一だが、本心は彼女が抱えている秘密を聞きたくてしょうがないはずだ。それでも、彼女が自分から言い出すのを待つと言ったのは、彼の甘さ、また強すぎる優しさゆえだろう。

 サムの気遣いに対し、敬一はバツが悪そうな顔をした後、一転して不敵な笑みを浮かべる。その表情の意図が分からず、サムは片眉を吊り上げた。

「察しはついてるだろ? 俺たちは、これからあいつらとぶつかるんだ」

 その言葉に、得心がいったように、サムは頷いた。

「まぁ、ね。ここいて、あの娘を巻き込む訳にはいかないしね」

 どうやら、幸からあえて事情を聞かなかったのは、そうすることで彼女を自分たちの戦いに巻き込まないよう突き放すためでもあったらしい。

 敬一の本意を理解したサムは、しかしふと何かに気がついたように目を点にする。

 自分の脇を通り過ぎる敬一に、サムは言う。

「もしかして、惚れちゃった?」

「――ねぇよ」

 サムのからかうような言葉に敬一は失笑を浮かべ、玄関の扉を開いた。

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