第4話
4、
「……何故、お前がここにいる?」
敬一は、髭面の男の屍を挟み、突如現れた銀髪碧眼の美女に尋ねる。
先ほどの戦いの最中でも崩さなかった余裕を仕舞い込み、警戒とも緊張と呼べる張り詰めた空気と、苛立ちによる刺々しい眼光が放たれている。
一方、美女は鋭利な視線を晒されても動じる様子なく、悪戯っぽい微笑を浮かべた。
「おや? 私がこんな辺境の国に現れることがそんなに不思議なことか?」
「当たり前だ。海をまたいで大陸を渡って来てるんだ。何か目的があるんだろう?」
美女の揶揄を、敬一は冷たく打ち払う。そのつれなさに、美女は苛立つことなく、更に敬一をからかうような表情で腕を組み、首を傾げた。
その反応が敬一には気に食わなかったのか、舌打ちでも打ちそうな顔で目を背ける。決して敵ではないのだが、しかし相手をするのは厄介な相手だった。
美女の名は、メディア・メイガス。
容貌は二十代後半に見えるが、実際の年齢は当人も覚えていないほど重ねられており、また美しい容貌とはかけ離れた残虐さにより、かつては【世界最悪の魔女】と呼ばれた過去もある女だ。
先ほどの傭兵は、自分の名声を上げるために敬一を狙ったが、もし敬一と彼女とを天秤にかけ、討ち取ってより名を馳せられると思われるのは、この女の方であろう。
そんな相手であるがゆえに、彼女と対峙する敬一にも自然と警戒感が露わになっていた。
敵でないことは、考える必要なく確定している。
だが、ここ数年は『アルカム』という自立都市にこもってばかりいた彼女が、突如として敬一の前に現れたのは、はなはだ不審であった。
敬一の疑念の視線に対し、メディアはくすりと微笑む。
「ふふ……そう睨むな。もちろん、用事ならあるさ。だが、その前に――」
話を一旦中断して、メディアはさっと右手を差し出す。
コートの中から出されたのは、魔女、という名前からは連想しがたい白く繊細な指だ。
その手を見て、敬一は怪訝そうに目を細める。
「……何だよ?」
敬一が問うと、メディアは先ほどまでとは違う種の笑みを浮かべ、顔を傾ける。
「アイス、奢れ」
「……………………………………は?」
昼の公園というのは、基本人の出入りというものは少ない。人がここに来るのは、主に昼食を取った後の時間帯であるため、まだ正午も回っていないこの時間帯に、公園へと遊びに来ている子供や親子連れは皆無であった。
そんな閑散とした公園の一角において、敬一は辟易とした様子で天を仰いでいた。ベンチの背もたれに体重を預けながら、彼は横目で隣を見やる。
そちらでは、銀髪碧眼の美女が知的な顔立ちには合わない無邪気な笑みを浮かべていた。
「ふむ。一度五段アイスというものを食べてみたかったのだ」
そう言いつつ、彼女は五つの楕円状に積み重なったカラフルなアイスへと舌を這わせた。
季節はまだ、冬と春の合間である。こんな時期に公園で店を開いている業者がいるのも驚きだが、それを買う人間がいるのもまた驚きだ。しかも、立派な大人の女性が一回りも下の少年にそれを買わせるのだから、余計に珍しい。
涼しげな風がなびく中で、メディアは非常に幸せそうな様子でアイスを食べている。その顔を見ていると、彼女が魔女などと呼ばれ、本来は忌み嫌われている存在であるということを忘れてしまいそうになる。それほどまでに、邪のない明るい顔であった。
そんな子供っぽい表情に、敬一は対照的にうんざりとした表情で、視線を明後日の方角に逸らしていた。幸せそうな彼女とは真逆、不機嫌さ全開の顔であった。
不満も自然とこぼれる。
「自分で買えよ。いい歳して」
「何を言う? こういうのは、他人に奢らせるから美味いのではないか」
「いや。その論理はおかしいから」
メディアの滅茶苦茶な回答に、敬一は頭痛でもしたのか、額に手を当てて俯いた。
無理やりアイスを奢らされた上、更に会話が噛み合わないとなると疲労感は、ひとしお大きく押し寄せてくる。すでに朝からトラブル続きであった敬一は、今日はもうこれ以上面倒なことへ体力を使いたくなかった。
「というか、お前はまさかこれだけのために来たんじゃねぇよな?」
「そこまで馬鹿ではない」
メディアが一番上のイチゴ味のアイスの一端を齧り取る傍目にしながら、敬一はさりげなく話を先に進める。
敬一の言葉に、メディアは心外そうに唇を尖らせた。
「ここの売店は、お前を探していたら偶然見つけたのだ。アルカムにはこのような出店はないからな。この際、無理やりにでもお前に奢らせて食おうと思ったのだ」
「……要は、たまたま目に入った食い物を用事ついでに食べたかった、と」
「そうだな」
メディアが鷹揚に頷くと、敬一はますます鬱陶しそうな様子で溜息を吐く。そこには、この女の話相手をするのは億劫だ、という彼の苦悩が物の見事に表していた。
側頭部に手を当てながら、敬一は細めた双眸を横目にしてメディアに言う。
「餓鬼か、貴様」
「何を言う。生きた年数なら私はお前の数十倍だぞ?」
「そうか。つまり五百歳児、か」
「?」
敬一の揶揄に、メディアは怪訝な顔をする。どうやら、彼の言っていることがよく分からなかったらしい。
メディアはその言葉の意味を考えるようにアイスを舐めたり齧ったりした後、言葉の意味は分からずとも、どのようなニュアンスで放たれたかについては認識した。
ギロリと、憤然とした目で敬一を睨む。
「お前、もしかして私を侮辱しておるのか?」
「――で、わざわざ俺に会いに来た理由はなんだ?」
メディアの詰問を、敬一は完全にスルーする。
その反応にメディアは再びむっとするが、敬一がそれを気に留めることはない。先ほどメディアがこぼした言葉によるならば、彼女は自分に何か用があって尋ねてきているのが確実であった。
敬一が、疑念を静かに湛えながらメディアの方を見る。
しかしメディアは、不満げな表情のまま、敬一から視線を逸らした。そして、当てつけのように言う。
「まぁ待て。まだアイスを食べ終わっとらん。別に今すぐ答えずともよかろう」
「……貴様のそのアイス、顔面に叩きつけてやろうか?」
「な! 食い物を粗末にするとは、貴様はどういった教育を受けて来たのだ!」
敬一が感情なく呟いた一言に、メディアは慌てて五段アイス――いや、すでに頂上のものは食い終わられているので四段になったアイスを慌ててガードする。
その様子に、敬一は今日何度目か分からない溜息を吐く。
おそらく彼女とのやりとりは、周囲から見たら齢の差カップルの痴話喧嘩のように映っていることだろうな、と敬一はぼんやりと考える。
――不快だった。
敬一は話を急かすことにする。
「……で、何しに来たんだよ」
「だから、アイスをまだ食い終わっておらんといっておるだろうが」
「………………」
駄々をこねつつ、メディアは再びアイスを食べ始めた。
その言動に、敬一は恐ろしいほど無感情な真顔になる。一瞬、彼の脳裏に、本気で彼女の顔にアイスクリーム叩きつけようかという考えが浮かんだ。
だが、流石にそれは大人げない行動だと考え直し中止する。この魔女に対し、真面目に話をするように催促する事自体がそもそも無駄なのだと、自分を落ち着かせるように言い聞かせた。
しばらくの間、疲れきった様子で空を見上げる敬一と、敬一が突然行動をしてこないか警戒しながらアイスを舐めているメディアの間で、会話が止まる。
再び口を開いたのは、メディアの方であった。
敬一がだいぶ辛抱し、彼女の手元のアイスが、たった一つの配色を残すのみになっていた。
「――相棒を、見つけたらしいな?」
言葉が発せられたタイミング、またその内容が唐突であったため、敬一の反応は遅れる。
敬一が目を瞬かせながら振り向く中、メディアは続けざまに言う。
「なんでも、サム・ヘルヴェイグと名乗らせているだとか」
「あぁ、そうだ……ん? というか、どこでそんな情報手に入れたんだ、お前」
「どんな男だ?」
敬一の疑問を無視して、メディアは矢継ぎ早に尋ねてくる。
その表情には、先ほど五段アイスを食べていた最中の無邪気が完全に抜けきっていた。彼女の顔つきの変化に敬一は怪訝そうに眉根を寄せたが、特に追及することはなかった。
「別に普通の男だよ。面白い奴ではあるのは確かだが、穏やかかと思ったら腹黒かったり、平和主義かと思ったら時々俺でもびっくりするぐらいのキレ方するところがあるけど、それ以外は特に変なところもない奴さ」
「……強いのか?」
「ん? あぁ、まあな。現時点でS級ぐらいの実力はあるだろな。傭兵定期認可の手続きは三月だから、まだ正式な傭兵ではないけど、審査が厳密に行われればすぐにそれぐらいの認定がされるだろうな」
傭兵は国際社会における最高行政機関である世界連合に認可されている職種であるが、正式に傭兵として登録が行われるのは三ヶ月に一回である。ちょうど三の倍数の月の間に申請され、その際に行われる様々な審査と、その後最大三ヶ月の活動内容によって傭兵ランクが定められる。
規定として、十四歳未満は認可をされない他、最初の三ヶ月以内で何の成果も挙げられない場合は、傭兵ランクを付けられず、正式な傭兵としては認められないこととなっている。そのために、正式に傭兵として認められるのに数年かかる者も少なくない。
その一方で、敬一のようにその三カ月以内でいきなり大仕事をやってのけて破格の傭兵ランクを手に入れる実力者が出ることもある。敬一の場合は常軌を逸しているが、いきなりA級以上のランク付けをされる人間は、数年に一人は出る。敬一の予想では、サムは間違いなくそういう人間として認可される可能性は十分にあった。
敬一は、そんなことをぼんやりと頭の隅に思い浮かべながら、突然メディアがサムのこと――正確には、敬一の相棒について話題を振ってきた事を訝しがる。
なんの意図もなく、放たれた質問だとは思えない。
「――で、それがどうした」
「………………」
横目で尋ねる敬一に、メディアは五段あったアイスの最後をパクリと一息に口内へと放りこむ。時間が経ち、やや温くなってしまったそれをしっかりと咀嚼し終えた後、彼女は言った。
「手を切れ」
「……は?」
最初、敬一は彼女の言葉への理解が出来なかった。
敬一が反応に困って押し黙る中、メディアはアイスを乗せていたウェハースの先端を口にする。彼女の目は、先ほど食べたアイスの冷たさが影響したかのように冷たい光を宿していた。
その目に、敬一の心中の靄は一気に霧散する。無意識のうちに、頬が強張った。
「……今、なんて言った」
「手を切れと言った。そのサム・ヘルヴェイグ、いや、黒神修とのタッグは解消しろ」
メディアは冷たい声色で言葉を返した。
先ほどまでの親しげな様子はすっかりとなりを潜め、放っておけば冷笑すら浮かべそうな雰囲気さえ漂っている。
敬一は、音もなく目を細める。薄くなった双眸からは、彼女の言葉に対する苛立ちが徐々に露わになっていく。これは当り前の反応だ。いきなり信用する相棒との関係を断てと他人から言われれば、誰だってこのような顔をするだろう。
だが敬一は、そんな表情とは裏腹に思考回路を冷静に働かせる。メディアとの付き合いが深い彼には、彼女がいきなりこんなことを言いに来たのには、何か理由があると踏んでいた。
「何故だ?」
「黒神修は、元は【ベレシス】にいた男だろう?」
確認するようにメディアが横目を向けると、敬一は不機嫌な顔のまま頷いた。
【ベレシス】――それは、世界最大規模を誇る、犯罪組織の名だ。特定の活動拠点を持たない代わりに、世界各地、ありとあらゆる地域に出没し、要人の暗殺や民間人に対するテロ行為を手の活動にしている集団である。また彼らはドラッグや奴隷、兵器の密売や、紛争や戦争の火種を撒くといった行動も行なっており、この世界における大罪のほとんどを行っている狂人者の集まりでもあった。
彼らの規模の大きさは、世界で起こる犯罪のうち、二割近くが彼らと何らかの関わりがあるということからも覗える。特に、発展途上国で多発するテロの実に三割は【ベレシス】が背景に潜んでいると言われており、その絶大な存在感は、恐怖と憎悪を一般人の意識に塗りつけている。
その肩書だけでも十分狂っているといえるが、彼らは更に、尋常ではない活動を行っている。
大量殺戮兵器と、生体兵器の開発である。
これは、裏の世界のほんの一握りの人間しか知らないことなのだが、彼らはより多くの人間を仕留めることのできる兵器の発明、さらに、生物の身体を解剖し、実験し、生物の躯を持った殺傷能力と生存力に秀でた生命体の研究を行っているのだ。
あまりにも現実味がない話であるために、世間ではゴシップネタとして面白おかしく扱われており、その噂を本気で信じている人間などほとんどいない。
だが、それが事実であることを、実際に彼らのアジトに踏み込んだ事のある者は知っていた。
敬一も、その一人である。
彼とサムが初めて出会った場所も、そんな彼らのアジトの一角であった。
その時のことを思い出したのか、敬一が顔をしかめると、メディアは先ほどの続きを口にする。
「生まれた時から、肉体改造と人体実験を繰り返され、『人体兵器』として完成された世界史上唯一の人間。ソレ(・・)をお前が、無理やり【ベレシス】の施設から連れ出したというではないか?」
メディアの口にした内容に敬一は目に鋭いものを浮かべる。
確かに、サムがかつて【ベレシス】に属し、そして人の身体を持ちながら常人から明らかに逸脱した身体能力をもつ『人体兵器』であることは、まぎれもない事実だ。
だがそれは、本来メディアが知りえるはずもない情報であった。それについての証拠は、【ベレシス】が未だ抱えているだろう機密情報以外、敬一が一ヶ月前にほぼすべて破棄し終えていたからだ。
サムがかつて【ベレシス】に属していた情報が漏れるならばともかく、彼が黒神修という名の『人体兵器』であったことをメディアが知っているのは、敬一にとって予想外のことであった。
敬一は、果たしてメディアがどこでそのことを突き止めたのかについて警戒しつつ、表面上はその動揺を覆い隠すような憮然とした態度を取る。
「連れだしたんじゃねぇ。助けたんだ。それに、あそこを飛び出したのはあいつの意思だ」
受け身の形ではなく、あくまで彼自身が、自分の意思で【ベレシス】を抜けたのだと、敬一は強調した。
だが、メディアはそれに対し薄らと嘲笑を浮かべる。
「生まれも育ちも【ベレシス】の人体兵器が、自分の意思でお前の誘いに乗って【ベレシス】を抜けるだと?」
その言葉に、敬一の眉がピクリと震える。
彼がゆっくりと視線を上げるのに対し、メディアは嘲り、切り捨てるような口調で言う。
「ありえんな。お前、そいつに騙されているのではないか? お前とあのテロ集団は、並々ならぬ確執を持っている。その修という男、貴様を殺すために差し向けられたスパイではないのか?」
「……なんだと?」
メディアが口にした疑念に、敬一の目つきが変わった。
しかしメディアは、敬一の表情の変化に気がつくことなく、あるいは気がつきながらも無視して、淡々と自分の考えを口に出す。
「考えられぬことではあるまい。そいつはお前に助けられた風を装い、いずれはお前を――」
――衝撃は、メディアの身体へ間接的に伝わってきた。
破砕音は、彼女のすぐ横からだ。
彼女と敬一、両者が座っていたベンチの僅かな間隙が、突如として真っ二つに割れる。
メディアが反射的に立ち上がる中、ベンチは音もなく綺麗に分断していた。脚がそれぞれの端部にあるため、ベンチは重心を崩して傾き倒れる。その音も微小であったため、人通りの少ない公園内外の通行人でさえ、ベンチが突然割れたことに気がつかなかった。
厚さ数センチの木製のそれが、音を発さず、破片もほとんど飛ばさず、そして紙きれのように断たれたのを見て、メディアは驚きを押し隠すような固い顔で、敬一に目を向ける。
彼はちょうど、刀を静かに納めるところだった。
「――知った風な口を叩くな、メディア」
感情を噛み殺すように、敬一は言った。
斬撃はおろか、その動きの気配や余韻さえ察する事の出来なかったメディアが額から汗を滴らせる中で、敬一は静かにメディアに歩み寄る。敬一の身長では、メディアの頭の先が眉の位置になるため、至近距離では敬一がメディアを見下ろす形になる。
敬一は、わずか三十センチほどの距離までメディアに近づくと、素早くその手を彼女の首元へと突き出す。それに気がついたメディアは咄嗟に下がろうとするも、敬一はそれを許さず、彼女の胸倉を掴んで、彼女の眼へと、己の眼光を叩きこむ。
彼の双眸には、烈火のごとき怒りが浮かんでいた。
「お前は、あいつを見たことあんのか? 話したことあんのか? あいつがどんな理由で、どんな状況で拘束されていたのか知ってるのか?」
至って静かに確認するような声色で、しかしその中にありったけの憤りを込めて、敬一は言う。
メディアに詰問する中で、敬一の脳裏に、サムと初めて出会った時の光景がフラッシュバックする。
――アジトの奥深く、閉ざされた研究室と、敬一に抵抗したために斬られた白衣の狂人
――刀で叩き斬った部屋の中にいた、全身を鋼鉄と革のベルトで拘束された、人影
――その楔が解けるや、凶行に出た彼の憤激と殺意
自然と、敬一の手には力が籠もった。
あれが演技だったというのか?
あの怪物のように成り果てていた彼の姿が、偽りであったというのか?
否。そのようなこと、あろうはずがない。
生きる意味を見失い、それでも死を選択することなく復讐に身を焦がしていた彼の姿は、まぎれもない、真実の姿だったはずだ。
そして、その後の事も、決して演技や偽りなどではない。
敬一と共に自分の命を弄ぼうとした【ベレシス】から抜け出し、敬一とともに、相棒として生きていくと決めた時の彼の表情は、絶対に嘘ではない。それを、誰も否定することなどできはしない。させはしない。
言葉には出さぬまま、しかしそんな強い覚悟でもって、敬一はメディアを至近距離から見据えた。
その剣幕に、メディアは頬を引き攣らせる。そこに恐怖は一重も浮かんでいなかったが、しかし敬一のプレッシャーに圧倒され押し黙るほかない彼女の心境が隠すことなく表れていた。
「分かったような口であいつを騙るな。これ以上、俺の相棒を侮辱するというなら……殺すぞ」
「――私を、殺せるのか?」
嚇怒に彩られた双眸の敬一に、メディアは何とかおかしそうな顔で首を傾けることに成功する。
敬一は片方の手を刀の柄に置いている。しかも踏み込むのに必要な距離はない。
仮にここで敬一が斬りこんできたら、メディアは確実に斬り殺されるだろう。メディアは決して戦闘能力が低いわけではないが、敬一の斬撃は、文字通り相手を瞬殺する速さと威力を有している。
メディアはそんな危機的状況の中、しかし何故か柔らかい微笑を浮かべた。からかうような、それでいて少し淋しいような光が、細くなった瞳からこぼれる。
「お前に……私が、殺せるのか?」
「殺す」
柔らかいメディアの目に対し、敬一は言葉通りの突き刺すように鋭い眼光を放つ。脅しではなく、実際にそれを行動に移せる、剣呑な顔つきだ。
「殺せる、か」
「お前への恩は十分返したつもりだ。それに……これとそれとは別問題だ」
冷たく敬一は言うと、メディアの胸倉から手を離した。
不意に身体を解放され、メディアは驚くように目を丸めるが、敬一は不機嫌な顔のまま、視線を逸らす。
突然彼女を自由にした理由は、わざわざ口には出すまでもなかった。
言葉にせずともそれは伝わり、メディアは思わず口を綻ばせた。
「……まったく、こういった意固地さは、カインの奴によく似ておるな」
「話は済んだな?」
敬一は、自分はもう話す事は何もないとでも言いたいのか、ベンチから転がり落ちていた買い物袋をやや強引にすべて左手で抱えると、踵を返す。
その行動、そして背中からは、彼女の提案は絶対に受け入れないという、強い意志が宿っている。
メディアは、その背中を細めた双眸でそっと眺める。浮かべた表情は、普段の彼女ならば決して浮かべない類のものだ。
「……ひとつだけ、忠告しておくぞ」
「サムについての話だったら、斬り殺すぞ」
背にかかった言葉に、敬一は足を止める。だが、振り返りはしない。
その憮然とした態度にメディアは微苦笑しつつ、
「理由は分からんが、【ベレシス】の戦闘部隊がこの街に向かっているらしい」
再び真面目に発せられた言葉に、敬一の表情が変わった。
雰囲気でそれを察したメディアは、そっと言葉を付け加える。
「お前が信じている通りに黒神修が白ならば、彼を連れ戻しに来たかあるいは殺しに来たということだろう。黒の場合は――まぁ言うのはやめておくが、どちらにしても注意しておけ」
そう言いながら、メディアは敬一がどういう反応をしてきてもいいように心の準備をする。ありえないことだろうが、もし突然振り返って斬りかかってきたとしても驚かないように胆を練る。
幸いそれは杞憂に終わり、敬一は半身だけ振り返って顎を引いた。
「……頭の隅には、置いておく」
それだけ言って、敬一は今度こそ踵を返して歩き出す。その途中、確認するように振り返ると、そこにはすでに、メディアの姿はなかった。おそらく、彼女の十八番である空間転移の魔術でも使ってこの場を去ったのだろう。
言いたい事だけ言って、すぐに姿を消した彼女に、敬一は軽く苦笑する。
サムを侮辱した事に対し、あれ以上の暴言を吐いたら斬ろうと思ったのは、決して出まかせではなく、本意であった。だが同時に、彼女と出来るだけ事を構えたくないのも本心である。
何せ、元は命の恩人だ。
「戦闘部隊か」
敬一は、メディアの言い残した言葉を反芻する。
自分から彼らのアジトに乗り込んだことはこれまでに何度もあるが、向こうから襲撃を受けたことはまだない。
しかし、敬一は敵の襲撃を恐れる様子なく、一人ぼやく。
「いいぜ。かかって来いよ――【ベレシス】」