第3話
3、
「……困った」
敬一が意識を失った少女を連れ込んだ翌日、未だ昏睡状態である少女の視診を終えたアッシュが、不意に眉を顰めて呟いた。
「どうした?」
「……俺は、医者として致命的なミスをしたかもしれん」
リビングのソファーに腰掛けながら本を読んでいた敬一が、アッシュの言葉に眉根を寄せる。
医者として、ということは、彼が言っているのは十中八九少女についてのことだろう。
まさかこの男が、誤診でもしたのかと、敬一は密かに緊張する。
アッシュは言った。
「この娘の、着替えの服がない」
真顔で放たれた言葉に、敬一は横に崩れ倒れる。
ソファーにズドンと埋まり、寝転ぶような態勢になりながら、敬一は頬を引き攣らせる。
「まぎらわしいんだよ、テメェ! 思いつめた顔してたから何事かと思ったじゃねぇか……!」
「ん? あぁ、すまんな」
適当に謝りつつ、しかしアッシュは真剣な顔のまま言葉を続ける。
「だが、これは結構重要なことでな。ほら――この娘、汚れの多い服を着ているだろう? 身体の弱っている人間がこんなもの着たままなのは、不衛生極まりない」
指先でぽんぽんと少女の寝るベッドの縁を叩きながら言う。
意外と真面目な反応が返って来た事に敬一は驚きながらも、アッシュの言葉の内容を吟味し、そして表情を正す。
「確かにそうか。今はただの栄養失調でも、弱っている身体だと、また別の病気とか貰いかねないもんな……」
「そうだ。だからまともな恰好に着替えさせたいのだが……」
「急患用のパジャマとかはないのか?」
「ないな」
アッシュと敬一は、それぞれ腕を組んで考える姿勢を取る。
そんな二人からやや離れた位置ではサムが剣の手入れを行っていた。
彼は、おもむろに顔を上げて一言、
「寝込んでいる女の子の服を勝手に着替えさせるのって、若干犯罪臭が漂うね」
と、他人事のようにも、揶揄のようにも聞こえる言葉を放った。
その言葉に、二人はやや過敏に反応する。
「うるせぇ。下心あったらそうかもしれねぇが、今は緊急事態なんだから仕方ねぇだろうが」
「そんなこと言いだしたら、医者は異性の救命手術が行えなくなるな」
二人の反論に対し、サムはただ苦笑する。
この程度の冗談に真面目に反応する所で、二人の人間性というものを覗くことが出来て面白い。
アッシュが、気を取り直すように咳払いをつく。
「まぁつまり、この少女の着替えを調達しなければならないというわけだ」
「なるほどな」
「というわけで、行って来い、敬一」
アッシュは事もなげに敬一の肩を叩くと、踵を返してリビングの奥へと向かおうとする。
その服の裾を、敬一は素早く掴んだ。
「待てやコラ」
「何だ?」
「なに自然な流れで俺をパシらせようとしてんだ!」
敬一は苛立ちに満ちた目で怒声を上げる。何の前置きもなくこんな頼みされたら、誰だってこのようにキレるだろう。
だが、アッシュは平然とした顔を崩さない。
「お前、一つ大事なことを忘れてないか?」
「は?」
「この少女の治療費」
アッシュは少女を指差した後、頬を強張らせた敬一に、医者とは思えないひどく嗜虐的な笑みを浮かべる。
「ここで俺の頼み通りに服を買って来るか、それとも法外な治療費ボッタくられるか、選択は二つに一つだ」
「条件提示してるように見えて、完全に脅迫してんじゃねぇか!」
敬一はまたも怒鳴り声をあげた。
いくら寝込んでいる少女のためとはいえ、年頃の少年が、同年代の少女用の服を買いにいくというのはおかしい。
完全に公開処刑である。
だが、敬一のそんな反論を聞き入れることなく、アッシュはふと思いついたように拳で掌を打つ。
「あ。ついでに市販の薬の買い物も頼もうかな。八種類ぐらい残り一割切っていたようだし」
「おい明らかに治療費と関係ない要求が混ざってんぞ!!」
「あ、敬一。僕も頼んでいい? よかった。じゃあ、銃を整備するための作業油を――」
「貴様もどさくさにまぎれて注文してんじゃ――って俺は一言もOK出してねぇだろうが! お前が自分で買いに行けや!!」
いつの間にかアッシュに加勢し、しかも関係のない買い物を頼んでくる相棒に、敬一は裏切られた憤りと苛立ちをぶちまける。
だが、サムは敬一の剣幕を気にする様子なく、微苦笑と共に言った。
「いやだなぁ、敬一。俺、最近まで買い物自体がよく知らなかったのに、この子に着せるのに適した服なんて選べるわけがないじゃないか」
「あぁ、なるほど――じゃない! お前絶対にそれは建前で、本当は自分だって公開処刑みたいな目に遭うのは嫌なだけだろう!!」
「うん」
「こいつ即答しやがった!!」
「おい。いい加減行けよ」
徐々にヒートアップしていく敬一を、アッシュが冷たい目で見据えてきた。
そのぞんざいな声と言葉に、敬一は愕然とする。
正当な反論を口にしていただけなのに、何故こんな目で見られるのか、敬一には訳が分からない。
結局彼は、二人に言われるがまま、買い物のためにアッシュの家を出ていくこととなった。
*
がっくりと、敬一は肩を落としながら街路を歩いていた。
そのヘコみようの凄まじさたるや、彼とすれ違う通行人が、思わず二度見して確認してしまうほどのものである。
アッシュ邸から追い出された後、結局敬一はアッシュとサムに頼まれた品の買い出しを行った。その結果として、現在敬一の右手には薄緑の服屋のビニール袋、左手には薬局と武器屋の紙袋がそれぞれ握られている。買っているものの統一性のなさや、彼自身の哀愁漂う様子は、周囲の人間の目が敬一に向けられやすくなる原因となっていた。
周りから奇異な視線で見つめられているのを尻目に、敬一はふと気がつく。
「……というか、もめるんならサムも一緒にこればよかったじゃねぇか。何故今頃それに気がつく」
最後の一言は、心からの嘆きであった。
悔い嘆くように乾いた笑みを浮かべながら、敬一は買い物の途中であった出来事を思い出す。
予想通りというべきか、服屋で少女用の服を調達する際、敬一は店中から変な目で見られた。できるだけ中性的な服装をチョイスして済まそうと思ったのだが上手くいかず、結局当初の懸念が的中するかたちになってしまった。普段自分のファッションに頓着していなかったことも、この悲劇をもたらした原因ともいえるだろう。
その時の状況を思い出すたび、敬一は深々と溜息を洩らす。よく「溜息をつくと幸せが逃げる」などという人間がいるが、今の敬一の心境においては、溜息でもつかない限り、胸に溜まった憂鬱を吐き出す手段がなかった。
そうやってとぼとぼと歩いている内に、敬一は進路を大きな街路から人気のない裏道へと変更する。ほんの数分ではあるが、そちらの道を通った方がアッシュ邸に帰るまでの時間が短縮できるのだ。
裏道は、人気のない小型のビルとビルの間に伸びた薄暗い場所である。最初は薄気味悪い印象を受ける通りだが、敬一がそのような感想を抱くことは当然ない。すでに何度も通った経験もある道であったし、この程度の暗さで敬一が怯みなどありえない。
両手の袋が壁に擦らないよう、敬一は気をつけながら進む。道幅は五メートルほどあるが、所々ゴミ箱や古びた自転車などが転がっているために、実際の間隔よりも道は狭く感じられた。
地面に落ちる障害物に注意しながら進んでいた敬一であったが、ふと、その足が止まる。
人気のない薄暗い道の途上に、先客で陣取っている集団がいた。
ちょうど裏道も半分を過ぎたあたりで、道全体の中でも、幅が数メートルほど広くなっている空間である。
集団の数は二十人ほど。その顔つきを見れば一目で分かるような、品相の悪い青年の群れである。
嫌な予感が、敬一の脳裏に走った。
向こうの人間たちも敬一に気が付いた様子で、不審と苛立ちを濁った瞳に浮かべている。その中の一人が、驚きと殺気の入り混じった表情を浮かべたのに、敬一は目敏く感づいていた。
顎にガーゼを貼り付けたその男の顔に、敬一は見覚えがあった。
敬一は、今日一日の中でもっとも盛大な溜息をつき、天を仰ぐ。どうやら今日は厄日なんだろうと、敬一はぼんやりとした思考の中で考えた。
一方、敬一の目の前に居座った不良軍団は、ガーゼを貼った男の指示によって動き出す。一番手前のものが敬一の斜め前方に迫り、集団全体が敬一の進路を絶つような位置取りを図る。狭い通路のため背後に回り込むことは出来ないようだったが、敬一の逃走が困難になるような配置である。
不良の中央から、ガーゼの男が顔を出して歩み寄って来る。
敬一があからさまに嫌そうな顔をすると、男は対照的にニヤリと嗤った。
「よう、昨日はお世話になったなぁ……」
その男は、昨日敬一が傭兵バーにおいて一瞬で打ち倒した、あのゴロツキである。
あれほど無様に敬一に失神させられたのにもかかわらず、どうやら彼は恐怖よりも怒りの方を覚えていたらしい。
もっと厳しく殴っておくのだったかと、敬一は今更ながら反省する。
ゴロツキは、にやりと敬一に笑みを向ける。その笑みには、暴力的な感情が伴っていた。
「こんなに早く会えるとは思ってなかったぜ。ここであったが百年目だ!」
「……その脅し文句、未だに使う奴がいたのか」
敬一は、面倒くさそうにゴロツキの啖呵に相槌を打った。彼の記憶の中で、その台詞を聞いたのは、確か十歳になる前に妹と見ていたアニメ番組以来である。
だが、ゴロツキはそんな敬一の揶揄を全く気にしていない。それだけ敬一への報復への気持ちが強いのだろう。
また敬一に対し、人数の面で圧倒的優位に立っているのも大きい。敬一が一人であるのに対し、ゴロツキは仲間を含めて二十人以上だ。この状況で、集団側に自分たちが負けると思う人間がいるはずがない。現にゴロツキの仲間の不良たちは、まだ十代も半ばであろう少年に対して、完全に舐め切った下衆な笑みを浮かべている。
敬一は、その笑みがやや癇に障るのを感じながら、しかし表面上は阿呆臭そうに息をついた。
「なぁ。提案なんだが、道を開けてくれねぇか? 今帰り道の――」
「ごちゃごちゃうるせぇぞ!! 野郎ども、やっちまえ!!」
「「「――っしゃあ!!」」」
無駄だと思いながらも平和的交渉を試みた敬一の行動は、やはり無駄に終わる。
男の指示に従い、左右正面の三人の不良青年たちが、敬一に向かって一斉に襲いかかって来る。
「――その台詞実際に使う奴、初めて見たよ……」
敬一は呆れたようにぼやきながら、手にしていた買い物袋を道の隅へと放り投げる。
襲いかかって来るチンピラは、皆一様に少年を甚振る興奮からか嗤い顔である。
その様子に敬一は呆れながら――しかし直後、不吉な笑みを浮かべる。
鬱屈を晴らす相手を見つけた――そんな嬉々とした笑顔は、後に不良たちにトラウマとして植え付けられることとなる。
カタをつけるには、数分で事足りた。
首と肩の関節をコキコキ鳴らしながら、敬一は、横に放り投げてあった袋を掴む。
裏道には、敬一に襲いかかった結果返り討ちにされたチンピラどもが、憐れにも全員地に伏していた。
彼らは、まず間違いなくこの状況で負けるとは思ってなかったはずだ。
チンピラは全員、手足いずれか、あるいは両方の骨をへし折られて地面に転がっている。その中には、顔の骨格が変わってしまったものさえいる。意識ある者、気絶した者はそれぞれであったが、彼らの顔には、信じられないという驚愕や敵に回した相手への恐怖が染みついていた。
なおその中には、一人として死者はいない。
これは、敬一が適度に手を抜いたおかげだ。
もし彼が本気で彼らと戦っていれば、ここにいるチンピラ達は一分足らずで全滅していたことだろう。そのことを思えば、たかが骨二、三本の怪我で済んだ彼らは幸運ともいえる。
敬一は買い物袋を手に取ると、鬱憤を晴らした気分の良さゆえか、鼻歌まじりに歩きだした。進路には、まだ意識のある者もいたが、誰一人として敬一に襲いかかろうとはしない。彼への恐怖が身にしみついているのか、誰もが敬一と視線を合わせないように目を伏せ、畏縮していた。
一方敬一も、彼らのことに構う様子はなく、死屍累々――もといぶっ倒れたチンピラたちの中を悠々と進んでいく。その目には、すでに彼らの存在さえ映していないようにも見えた。
ふと、その視線が地面へと降りる。その先には、顎にガーゼをはった男の姿があった。
「……あ……ご……」
「ん? 顎が痛いって? ご愁傷様」
二度目の返り討ちで顎を完全に破壊されたゴロツキを、敬一はけらけらと笑いながら嘲る。そして、口からボタボタと血をこぼしながら言葉にならない声で悶絶しているその男の後頭部に、彼は容赦なく靴裏を叩きつけた。
「――ったく。勝てない相手に戦いに挑んでも意味がないってこと、もう少し自覚・反省しておけってんだ」
額から地面に叩きつけられたそいつは、今の衝撃によって完全に意識をなくす。
敬一は、その様子にぎょっとするチンピラどもを一瞥して黙らせ、再び歩き始めた。
裏道は、存外と長い。
チンピラを倒した場所から数分歩いたところで、ようやく敬一の視界にも出口が見えた。
そこまでの距離はおよそ三十メートル。
敬一は、ほんの少しだけ歩を速める。
上空から影が降りて来たのはその時だった。
敬一は慌てることなく素早く後方へ飛び退くと、一歩遅れて衝撃が地面を襲った。天から雷のごとく叩きつけられた銀光が、直前まで敬一の立っていた場所のアスファルトを粉砕する。
舌打ち。
衝撃の原因を作った者からのそれが、敬一の耳朶を打つ。
素早く買い物袋と再び地面へと放り投げつつ、敬一は愉しげに嗤った。
「……いつから気付いていた?」
敬一の前に現れたのは、三十代半ばぐらいの髭面の巨漢であった。
ダークブルーのボディースーツの上に、簡易なプロテクターを装備している。右手には、地面の破壊をなし得た太幅の剣が握られている。武骨なその刃は鈍く輝いており、幾度もの戦いを経験した際についたのだろう傷痕も目立っていた。
その見た目からして、おそらくは傭兵かテロ組織の戦闘員といった所だろう。単独でいることを考慮すれば、前者の可能性が高い。
闘気を纏いながら怪訝に眉を寄せている男に、敬一は不敵な笑みを返す。
「服屋出た少し後だな。それからずっと、俺を尾行してただろう?」
敬一のからかうような声に、男はすっと目を細める。
不意を打って襲ってこられたのにもかかわらず、その顔つきには一切の動揺も物怖じも感じさせない。泰然自若と、抜き身の剣を持つ敵と向き合っていた。
その様子に、男もやがて愉しげな微笑を浮かべた。
「なるほど……流石だな」
「で、何の用だ? 俺を殺したところで、どこからも賞金は貰えないと思うぞ? 俺賞金首じゃないし」
後頭部を掻きながら、敬一は尋ねる。
両者の距離はわずか五メートルほど。一瞬で消滅する距離であるにもかかわらず、敬一にはまだまだ余裕があった。
男は言う。
「金は手に入らずとも、貴様を倒せば名を上げることはできよう」
その言葉に、敬一は舌を打った。
男が何を言っているのかを瞬時に理解し、それが予想通りだったことにが気に食わなかったようで、敬一は面倒くさそうな表情を浮かべる。
一方、相手の男はそれを歯牙にもかけず、自分の目の前に立つ敬一の姿に滾るように声を震わせていた。
「天野敬一――弱冠十四歳、史上最年少で傭兵ランクSS級まで昇り詰め、その戦いぶりと実績から【死神】の異名をもつ凄腕の傭兵。活動期間はまだ一年足らずだが、すでに世界中でその働きと強さは知れ渡っている、生きる伝説の一人――」
「買いかぶりすぎだ。あと、SS級になったってのも、十四じゃなくてほぼ十五歳でだよ」
自分の経歴をベラベラと喋った男に、敬一は辟易とした様子で細かな訂正を口にする。
正式に敬一が傭兵ランクSS級――傭兵の中でも、怪物並みの強さを持つ者たちだけが与えられるその称号を手に入れたのは、まだ一年も経っていないつい最近である。十四歳十カ月という若さでのSS級傭兵の認可は、それまでの記録、十七歳三カ月を遥かに凌ぐ速さでの達成であった。
当然、その前代未聞の快挙に世界中が大騒ぎになり、敬一は一躍時の人となった。その快挙といい若さといい、また彼の出自も当時はひどく話題となった物である。
まもなく一年といったところで、ようやくそのほとぼりが冷め始めていたところであった。ただ、一般の世間の間からの興味は外れても、傭兵たちや裏社会の間では、未だ彼の存在は大いに騒がれている。
その知名度・存在感は、わずか十五、六の少年のものとは思えないほどに大きいもので、あと十年、あるいは現時点においても、彼を世界最強の傭兵と呼ぶ者はいた。
「そんな貴様を倒すこと、それは傭兵にとって世界に名を馳せることに等しい……そうだろう?」
髭面の男は、好戦的な笑いを浮かべながら、剣の切っ先を向けてくる。
力ある者を倒せば、その倒した者の名が高まる。これは必然のことだ。
つまりこの髭面の男は、敬一を斃す事で名を世の中に知らしめたいということらしい。
実に明快かつ単純すぎるものの考え方であるが、傭兵の中には、時たまこのような人間が存在する。生きていくために傭兵になったのではなく、自分こそが最強であるということを世に認められたいがために傭兵になった者――いわゆる戦闘狂の類のような者たちである。
「一体いつの時代の武芸者だよ、まったく」
呆れるように、敬一は深々と息を吐いた。
男の凶暴な考え方が理解できないというわけではない。単純に分けるならば、敬一もこの男と同じく、戦闘狂の類の思考の持ち主だ。
だが、ここまで安直なことをしようとは考えない。
傭兵は確かに殺し合いの中を生きる者であるが、SS級だとか最強を求めるためだけに生きていくものではない。それは、結果として得られるものである。傭兵にとって必要なのは、称号などではなく、いかな理由で戦うかであると敬一は考えていた。それは、昨晩アッシュが敬一に忠告したようなものに近い。
しかし、この男はそれを全く分かっていない。
たかが自分の浅薄な欲望のために剣を振るい、名誉を手に入れようとしている。それが果たしてどんなに浅ましいことか――敬一は、不快げに目を細める。
対して男は、すぐにでも殺し合いを始めようと、闘気と殺気を身に纏いながら敬一を待ち構えていた。
「抜け、【死神】。この俺に斬られるがいい」
「自分の半分もいかない年端の餓鬼を斬って何が愉しいのかねぇ……」
意気揚々としている男とは対照的に、敬一は嘆息するように呟きをこぼす。
だがその直後、彼は男の目を見ながら口の端を吊りあがる。笑みの種類は、嘲弄と憐憫だ。
「あるいは、そんな餓鬼だからこそ自分でも斃せるんじゃないか――そういう夢想でも思い描いてんのか? そうだとしたら、戦闘馬鹿じゃなくてただの愚図だな」
「……抜け」
「さっきは不意打ち仕掛けて来たくせに今度は『抜け』か。言ってることとやってる事が噛み合ってないぞ、おっさん」
「早く抜け。でなければ斬るぞ?」
敬一の嘲笑に、男は苛立ちを露わにする。ここですぐに攻撃を仕掛けてこない点、彼はチンピラなどよりも遥かに戦いの場数を踏んでいる証拠であろう。
安易な挑発には乗らず、しきりに抜刀を促してくる男に、敬一は呆れるような顔で目を伏せる。
面倒くさそうな様子を装いながら、敬一は男の足下から自分の足元へと視線を移動させる。それに何の意味があるのか、男は気がついただろうか。
「言動の一致が見られない時は剣が鈍っている証拠だ。アンタじゃ俺に勝つのは無理だ。帰んな」
「弄言を要すぐらいならば、刀で語ったらどうだ」
完全に見下すような敬一の台詞に、男は眦を決した。
剣を携えている手が怒りに小刻みにゆれ、男の気迫が一層強く敬一の許へと吹きすさぶ。実際のものではない空気の流れを感じながら、敬一は呆れかえるように肩をすくめた。
「よぉく分かった。だがアンタ――」
敬一は、視線を上げる。
男の殺意に満ちた目と向き合った途端、笑みを消す。
「興奮しすぎで、肚が浮いてるぞ?」
刹那、敬一は一切の予備動作も音もなく男の懐に飛び込んでいた。左手は鯉口、右手は柄にすでに添えられ、一筋の銀光を鞘から解き放たんとする。
男の反応も早い。
敬一の神速の接近に驚愕に目を剥きつつも、男は即座に攻撃に転じる。抜き身の剣を振りあげ、そして敬一の脳天めがけて叩き落とす。銀の閃光は敬一の頭を切り裂き、そして一気に地面に突き刺さる。破壊力抜群の斬撃は、敬一もろとも地面を爆砕する。
だが、男が振り下ろした剣には、人間の肉体の手応えはなかった。
残像。
揺らいだそれに男が気づいた時、彼の真横で旋風が生じていた。
直後、男の背後数メートルの地点で、誰かが舞い降りる音が響く。
振り返る必要は、なかった。
男は、自分の左の首へと手を当てる。ジワリと、生温かい熱が、噴出するように溢れている。背後からは、鞘に刀が納められる際の、独特な金属音が聞こえた。
――全く、見えなかった。
だが、一体何をされたかについては、男には不思議と理解できた。
敬一は男の懐に飛び込んだ後、慌てて振り下ろされた男の斬撃を、横手に身体を旋回させるようにして躱したのだ。それと同時に居合い気味に鯉口を切り、竜巻のような鋭い疾風に剣を乗せ、男の首筋を薙ぎ、横を跳び越えたのである。
男は、髭面に笑みを浮かべた。
ゆっくり振り返ると、視界の隅で、少年が薄らとした笑みが浮かべていた。
「悪いな。だが俺、見ての通り未成年だからよ――」
身体が横に傾き、視界が曇り、そして首から灼熱感が押し寄せてくる中で、男は敬一の言葉を聞いていた。
「自分を殺そうと挑んでくる奴を殺さないで済ませられるほど、大人げあるわけねぇんだよ」
敬一が言い切った瞬間、男は地面に倒れ伏す。
血の溜まりを作るその男が立ち上がることは、もう二度となかった。
頸動脈を切断され、血潮と共に地に沈んだその男を、敬一は冷たい目で見下ろしていた。
自分を斃す事で名を上げたい――そういう者には、以前から何度も出会ってきた。しかしこれでも最近では少なくなってきた方で、一年前などにはこの男のような者が、毎日毎日敬一へと戦いを挑んできたものだ。
世間ではすでにほとぼりは冷めているといえ、未だにこのような人間がいるということに、敬一は胸に、苦い思いが押し寄せてくるのを感じる。
どんなに世間の噂から遠ざかったとしても、傭兵などの名を上げたい人間などからしてみれば、敬一は賞金の懸った犯罪者と同じなのだろう。この手の者により、今後も常に命を狙われることになるかもしれない。
それはすでに覚悟していたこととはいえ、こうやってわが身を守るためだけに刀を振るって命を奪うのは、敬一にとっては気分のいいものではない。
敬一は、男の屍を飛び越える。
置きっぱなしだった買い物袋を手に取り、そして再び、彼は瞳に苛立ちのような光を浮かべて振り返った。
「――で、今度はお前か」
彼の視線の先には、また新たな人物が姿を見せていた。
敬一と目が合うと、相手は朱色の唇をゆるりと吊り上げる。
女である。しかも、信じられないほどの美女である。
透き通るような白い肌の上に浮かぶ、絹糸のように滑らかな銀髪と一切の濁りがない碧の瞳。華奢な身体の上に、黒いビロードのコートを羽織っている。首の付け根から脹脛までをほとんど覆い隠した外見は、女の二十代後半の容貌に、ほんの少しだけ幼い印象へ染めていた。
「……久しいな、敬一」
「なんの用だ……糞魔女」
艶やかに笑う美女に、敬一は刃のような鋭い眼光を突きつける。
魔女と呼ばれたその女性は、その視線にまったく怯まずに、笑みを浮かべ続けていた。