第2話
2、
路地は漆黒に覆われていた。
月明かりと星の光、そして街灯で照らされているとはいえ、辺りは太陽が昇っている頃に比べて格段に暗い。
それにもかかわらず、街路には不良ぶった若者や会社勤めの帰途の最中であろうスーツ姿の壮年の男たちの集団、むしろこの時間帯における活動が主である娼婦たちの姿などがあり、まだまだ夜独自の静寂が訪れるにはほど遠い空気が見てとれた。
そんな道の中を、敬一とサムが早足で通り過ぎていく。
通りすがりの人々の間をするすると、路地から路地へ、二人は無言で進んでいった。二人の顔には、ほんのわずかながら、切迫するような固さが浮かんでいる。
やがて二人が辿りついたのは、街の中心から少し外れた閑散とした住民宅の中の一角であった。
二人の目の前に、庭の一切存在しない、一階建ての白い壁の家が建っている。豪勢とまではいかないが、しかし貧しさとは程遠い立派な邸宅である。
両手を塞がれている敬一の代わりに、サムが呼び鈴を鳴らすと、家の主は十数秒ほどで姿を現した。
出て来たのは、灰色の髪に赤い眼をした青年である。気真面目で堅苦しそうな顔立ちに、相手を威圧するような目つきの悪さが特徴的だ。
男の名は、アッシュ・ギルバード。
白衣の上に、手術専用の青色透明の服を羽織っていること姿から想像はつくだろうが、彼は医を生業とする人間である。
突然やって来た敬一たちに対し、アッシュは不機嫌そうな表情をしていた。
それは決して来客によるものではなさそうだったが、尋ねて来た相手が、敬一やサムを確認するなり、彼はその鋭い目でギロリと二人を睨みつけてくる。
「……何の用だ?」
用がないなら、あるいは下らない理由であれば帰れとでも言いたげな様子で、アッシュは言う。
その剣幕に、敬一とサムはやや押されながらも、すぐに敬一が口を開いた。
「緊急で、見てほしい患者がいるんだが……」
敬一に言われ、アッシュは彼が誰かを背負っている事に気がついたようで、視線を移動させる。
彼の背中には、気を失った少女――敬一とバーで会った、あの少女の姿があった。
死んではいない。ただ意識を失っているようで、また呼吸もひどく浅かった。それは、いつ消えてしまっても不思議がないほどに儚い。
年端もいかぬ美少女のその様子に、アッシュは怪訝な顔で目を細める。
その表情からは、すでに先ほどまでの不機嫌さは消えていた。患者を診る医者としての顔が、すでに出来あがっている。
「ワケありか?」
アッシュの問いに、敬一は曖昧に頷く。
この少女と敬一は、つい数十分前にあったばかり赤の他人同士だ。
だが、何か特別な理由があるかどうかと訊かれれば、バーでの一件がある。
敬一は、その辺の事情をアッシュにどう説明するべきかと悩む。
だが、敬一のその様子を見たアッシュは何故か納得がいったように頷き、
「――入れ」
そう言って、躊躇うことなく二人と少女を自宅へと招き入れたのだった。
家に入るなり、アッシュの指示に従い、敬一は少女をベッドに寝かしつけた。
アッシュの家は、内装自体は普通の民家と変わらないが、置いてある物は一般的ではないものばかりであった。
本来リビングであろう部分に、カーテン付きのベッドが設置されており、また壁際には、医療の専門書や論文集などの太い本ばかりがぎっしりと詰まった本棚、薬品ばかりの入った棚に、人体についての説明や臓器についての解説がなされたポスターが所狭しと貼られていた。
外見は民家の筈なのに、部屋の中はさながら病院の診察室そのものである。しかもその中身は、地方の小さな病院ではなく、一国の首都の大病院のもののように充実している。この風景を見れば、アッシュ・ギルバードという青年がどれほどの医者であるのかは、自ずと分かってくるだろう。
アッシュが診療の準備を進める最中、敬一は彼に事情を話した。
バーでこの少女に会ったことと、その際にゴロツキたちと小競り合いがあったこと、その直後に、少女が急に意識を失ったこと――そして少女をここに連れて来た理由についてだ。
本来、急に意識を失った少女は、近くの病院へと運ぶべきであっただろう。
しかしこの少女は、服装また言動などの点から、一般人とは異なるなんらかの事情を持った人間であるのは明らかであった。
そんな人間を容易に一般の病院に運びいれるのは躊躇われた。敬一もサムも、そうすることで何かまずいことが起こるのではないかという不審があったためだ。
また、だからといって少女をそのまま放っておくわけにもいかない。敬一が退散させたゴロツキが戻ってくる可能性もあったし、あるいは先ほどのとはまた別の者が少女に魔手を伸ばして来ることも考えられたためだ。
よって敬一たちは、信頼を置けて、また一般の病院とは違って情報も秘匿にしてくれる人物の許へと向かったのである。
それが、アッシュというわけだ。
アッシュは闇医者とよばれるような医者ではないが、彼はどこか特定の病院に属すことなく、自宅などで仕事を行っている医者であった。『渡り医者』などと呼ばれている者で、世界各地を回りながら、その土地ごとで出会った患者に治療を施す人間であった。
敬一とサムも以前彼に世話になったことがあり、二人は彼にかなりの信頼を寄せていた。
敬一が事のあらましをすべて説明し終えたのは、ちょうどアッシュが隣の部屋から点滴の入った灌注器を引いてきた時だった。ローラーで転がりながら動くそれを、少女の寝そべっているベッドの側に留め、アッシュは点滴の入った袋に繋がる針を少女に刺す準備を始める。
事前の注射で血を抜くと、アッシュは二人に目を向けることなくに口を開く。
「――お前の後ろにある棚に、上から三段目、左から二番目の部分にオレンジの蓋のされた瓶があるからよこせ。それと、台所に白湯の入ったポットをコップと一緒に持ってこい」
彼の指示に、敬一もサムも頷いて行動を始める。
敬一が薬棚を探すと、アッシュの言った通りの場所に、言われた通りの瓶があった。薬の種類と位置を全部把握しているのかとやや驚きつつ、敬一は瓶を持ってアッシュに手渡す。
蓋を開け、アッシュは半透明の掌サイズの紙に薬を載せる。粉薬のようで、それを少量、微調整しながら紙の上に広げる。それを、サムが持ってきたコップの中に入れると、ポットから白湯を入れ、指でかき混ぜる。
そして、充分にかき混ぜた後、少女に近寄り、いきなり少女の口の中にそれを押し込むように流し込んだ。
無意識の少女に、無理やり薬入りの白湯を呑みこませるアッシュに、敬一もサムもぎょっとする。少女も無意識のまま苦しそうに咳きこむが、アッシュはその口元を抑え、呑みこませた薬を吐き出させないようにする。
少女は苦しそうにしながらもアッシュが押し込んだ薬と飲むと、やがて何事もなかったかのように再び呼吸をし始める。
それを見て、アッシュは少女の口元から手を離した。
「これでよし。しばらくすれば意識も戻る。数日あれば、体調も元通りになるはずだ」
「あ、あの……」
事もなげに言い放ち、少女の血管に点滴の針を通すアッシュに、おずおずとサムが手を上げる。その表情は、今しがたのアッシュの凶行を目の当たりにしたせいでぎこちない。
「何だ?」
「随分粗雑で、しかもあっけなく治療が終わったけど、病状の原因は……?」
サムの問いに、敬一の表情が驚愕から真剣な顔つきに変わる。
傭兵バーでおいての彼女の気絶っぷりは尋常ではなかった。療法はめちゃくちゃであるが、治療を行ったアッシュは、当然彼女の体調異変の原因が分かっているはずだ。
果たして、少女の身体に何が起こっていたのか。
いかなる診断結果を言われても怯まぬように、敬一とサムは気持ちを整えた。
そんな二人に対し、アッシュはすっと目を細めながら、
「何を馬鹿な事を言っている。この餓鬼は、ただの栄養失調だ」
鼻で笑われた。
その返答に、二人はポカンと固まる。
「……栄養」
「……失調?」
敬一とサムが茫然とする中、アッシュは妙に憐れむような目で二人を見て言う。
「おそらく、ここしばらくの間まともなものを飲み食いしていなかったんだろうな。あとは、それとは別に、若干胃と腸の様子も変だ。空腹の中で、何かたくさんの物を食ったんじゃないか?」
アッシュの指摘に、敬一は顔を伏せながら額に手をやる。
心当たりがありすぎる。
確かにオレンジパイをチビチビと高速で消化しながら、食事は五日ぶりだとか言っていたはずだ。
敬一は、少女の顔を上目遣いで確認する。
すやすやと、眠る顔まで無表情な彼女を見て、何だか無性に腹が立つのを感じた。
「……人騒がせな――ッ!」
「お前たちが勝手に勘違いしただけだろうが」
敬一の怒りは、アッシュのそんな正論によって挫かれる。
がっくりと肩を落とす敬一。その横では、同じく脱力するようにサムが微苦笑を浮かべていた。
そんな二人の姿に呆れたように息をつき、アッシュは少女の口の周りをハンカチでそっと拭う。
「それにしても、貴様はサムの時といい、ずさんに人を助ける男だな」
「ずさんに助けるって何だよ」
反射的に不満な目をする敬一に、アッシュは口の端を皮肉気に吊り上げる。
「そのままの意味だ。責任も持たずに、なりゆきで人に手を貸してしまう。そしてそのせいで苦労する。心当たりはないか?」
「ねぇよ!」
少女に対しての苛立ちをアッシュに向けるように、敬一は思わず怒鳴った。
その様子に、アッシュは依然呆れるような顔で肩を竦める。その様子はまるで、駄々をこねる息子を見る親のようであった。
敬一がその視線に苛立ちを募らせる一方で、アッシュは敬一からサムへ視線をシフトする。
「修。お前もよくこんな男の相棒を引き受けたな」
「ふふ。敬一といると退屈しなさそうだしね。あと……今はそっちの名前じゃなくて――」
「サム・ヘルヴェイグ、だったな。すまん」
サムの修正に、アッシュは苦笑する。
その反応にサムが笑みを消して目を細める中、地団駄を踏みかねない勢いで苛立っていた敬一が、アッシュに疑問の目を向ける。
「ところでアッシュ。お前こんな夜中にそんな服着て何してたんだ? 俺らより先に急患でも来たのか?」
手術用のビニール製のコートを着た彼の姿に、敬一は訝しがる。
アッシュは特定の病院に属していないが、彼の名を聞いて尋ねてくる患者がごくたまにいる。『渡り医者』などと呼ばれている彼の腕は超一流で、難病にかかって途方にくれた患者などが、最後の望みとしてアッシュを求めにくることがあるのだ。
敬一はその現場を実際見たことがあるわけではないが、以前アッシュに聞いたところ、実際に何度もそのようなことがあったらしい。
また、敬一たちのように、普通の病院での治療がまずい患者が訪れることもある。彼らより先に、そういう人間が尋ねて来たのかもしれなかった。
だが、アッシュはそれを否定する。
「いいや。治験をしていただけだ」
「治験?」
「あぁ……。そうだ、ちょっと来い」
アッシュはそう言うと、敬一たちの位置とは逆方向、リビングの一番奥の部屋へと歩き出しながら手招きをする。敬一とサムは目を合わせた後、敬一だけが彼の招きに応じた。サムは少女のベッドの側に控えたままで、彼女の様子を見守るつもりなのかその場に残る。
アッシュは敬一を先に部屋に通した。
敬一の目に飛び込んできたのは、薄暗い部屋の中に、大量の医療器材が立ち並ぶ光景であった。機械は先ほどリビングに置いてあったものとは比べ物にならないほど精密なものばかり――リビングが診察室ならば、ここはさながら手術室のようであった。
アッシュは、部屋のドアを閉めると敬一の前を進み出て、先に進んでいく。敬一はそれに続く。
部屋には更にもうひとつドアがあり、アッシュはそれを開けて、今度は先に進む。
その部屋に入った敬一は、口元をほんの少し歪めた。目に飛び込んできたのは、常人なら思わず怖気をおぼえるような場所であった。
治験室――とでも呼べばいいか。
部屋の真ん中には机が一つ置かれ、そして部屋の周囲には、扉と面しているところ以外の壁すべてに透明なショーケースが設置されていた。一辺三十センチ立方の小さな穴付きの透明な箱で、中にはクリーム色の毛を持つネズミが一匹ずつ敷き詰められていた。その総数は、百はまず下らないだろう。
机の上に置かれたメモや書類を整理し終え、アッシュは壁のケースの中の一つを取り出す。そのケースの表面には、『No.24‐増殖回避成功体』と書かれた付箋が貼られており、中にいるネズミは生きているものの、力なく横になっていた。
「マウスか。ということは、何か薬の治験なのか?」
「あぁ、そうだ」
アッシュは頷き、どこからか注射器を取り出した。
箱型のショーケースの上にある蓋をあけると、アッシュはそれを即座にネズミへと差し込む。その手際の良さはネズミに注射の針から逃げる間も与えぬほどに素早い。注射器の中に入った薬物を打ちおえるとアッシュは即座に蓋を閉じた。
アッシュが打ちこんだ何かの効果はすぐにあった。
ネズミは突然身体を震わせると、そのまま悶えるように暴れ始める。横に転がりながら脚をばたつかせ、何か苦しむような反応をみせる。
その動きは、二十秒も続かなかった。
ネズミは不意にぴたりと動きを止め、そのまま全く動かなくなる。
その様子に、アッシュは舌を打つと、机に置いてあったメモ用紙のひとつを手に取り、ペンを走らせる。
敬一は、目から輝きを失っていくネズミをじっと見つめる。
「……死んだのか?」
「あぁ。やはり、効き目が強すぎて身体に負担がくるか。そうなると、あの毒素をどう取り除くかになるな……」
アッシュの独白めいた言葉に、敬一は「毒素?」と首を捻る。アッシュは敬一に振り返ることなく、何やらメモをしながら口を開く。
「この前にお前、テロ組織の拠点潰してきた帰りとかに、そこにおいてあった薬品を見つけたとか言って持ってきただろう? 『容器に入った妙な液体を見つけた』とか言ってな」
「ん――あぁ、あれか」
心当たりがあるのか、敬一は天井へと視線を向ける。
アッシュはメモに短い文を箇条書きで記しつつ、何か化学式のようなものを書き始める。
「あれは、俗に『増殖毒』などといわれる化学兵器の原液だ。生物の体液に触れることで毒性の成分、あるいはウイルスが凄まじい速さで増殖する。それにより生物に抗体を作らせる時間も与えず、被毒者をわずかな時間で死に至らしめるというわけだ」
さらりと、アッシュは恐ろしい言葉を口にした。
敬一も、その兵器の名前は耳にしたことがある。詳しくは知らないものの、ここ数年の間に発明されたという危険な兵器ということぐらいは知っていた。
「そんなにやばいものだったの? アレ」
「あぁ。……ちなみに今のマウスは、そのウイルスの倍増効果を停止することに成功した固体だった」
ペンの先を向けて屍となったネズミを指し、それからアッシュは説明を続ける。
「『増殖毒』と呼ばれる兵器から身を守るには、まず毒の増殖を抑え、次に毒を中和していくしか方法がない。二つを一遍にやれる特効薬でもあればいいが、その前に身体が持たない公算が高い」
アッシュの口から流れる解説に、敬一はへぇと相槌を打った。
説明は続く。
「さっきの固体は、俺が調合した薬剤によって、毒の拡散は封じていた。だが、毒を中和するまでの効果はなかった。別の消毒成分を入れてみたのだが、やはり身体が持たないようだ」
眉間に皺を作りながら、アッシュはペンの動きを止めてネズミを見据える。
実験によって息絶えたそいつを見ながら、彼は苦悩するような光を瞳に宿す。医師として、具体的な対策の取り方は分かっているのに、それをすぐに形とすることが出来ないことに苛立つような目でもある。
敬一は、難しそうな顔で呟いた。
「俺にはよく分からない話だな。要するに、その『増殖毒』とやらに完全に対抗するための薬は完成してないってことか?」
「……まぁ、そんなところだ。一応、薬剤以外に限れば、治療用の切り札は完成しているがな」
「薬剤以外? 何それ?」
「ナノマシンだ」
アッシュの放った単語に、敬一は合点がついたような表情を浮かべる。
ナノマシンとは、細菌や細胞などよりも一回り小さい、小型の精密機械のことである。0、1から100nmの機械で、かつては理論こそあれど実際の製造は不可能とさえ言われていたが、とある発明家がその開発に成功、数年前から徐々に実用に向けての開発が進められていた。
この機械装置の発明により、今後人類は科学的にも医療的にも発展するといわれている。現に、細胞レベルの小型の機械は、人の手では除去が困難な、超小型のウイルスの分解さえも可能にできるからだ。
アッシュの言う切り札とは、そういうことだろう。普通の薬剤では除去不能な増殖毒も、ナノマシンの分解能力を使えば消去が可能ということだ。
しかし、それを喜ぶような気色はアッシュにはなかった。理由がある。
「知っての通りナノマシンは、超がつくほど希少な機械だ。コストが高すぎる上に製造にはかなり緻密な作業を要する。量産化が難しい点から見ても、医療としてはあまり妥協したくはない」
「最新鋭の化学兵器なんだから、それくらいのリスクは仕方ないんじゃないか?」
「化学兵器だからこそだ。兵器はもっとも直接的に、多くの人間に牙を剥く。そういう敵に対抗することのできる、最も効率よく、普遍的に通用する医療技術を見つけること――それが俺の使命だ」
淀むことなく断言する。
使命、とはどこか大袈裟な響きにも聞こえるが、しかしアッシュは真剣だ。医者でありながらひとつの施設に留まることなく、世界を回りながら患者を救う――そういう人間であるがゆえに彼の医師としての使命感や人命を救いたいという気持ちは、人一倍強い。
敬一は、真剣な目で増殖毒へ対抗できる薬の用法を考察するアッシュに感嘆の目を向けながら、一方で彼を量るような目で見据える。
「なぁ、疑問なんだが」
「何だ?」
「どうして、俺にこれを見せたんだ?」
化学式を計算し続けていた、アッシュの手が止まる。
しばらく、メモ用紙をペンの先で軽く叩きながら、彼は黙り込んだ。
敬一が答えを待つように凝視続ける。
やがてアッシュは、おもむろに口を開いた。
「お前のような傭兵と、俺のような医者――両者の共通点が何か分かるか?」
「は?」
予想していなかった問いに、敬一は眉根を寄せる。
人を殺すことさえ厭わない職種である傭兵と、人を助けることを目的とする職種の医者――この二つのどこに、共通点などあるのだろうか。
敬一も、当然そのような考えを抱く。
「……共通点なんてあるのか?」
「ある。理由がどうであれ、誰かを救うことと――そして、戦うことだ」
アッシュが放ったその言葉に、敬一は口を噤む。
矛盾のようにしか聞こえない台詞に、しかしアッシュは話を続けた。
「傭兵は依頼を通す過程で、結局は誰かの命を救う事に繋がる活動をしている。標的を大量に殺すような時でも、その背後には、より多くの人間の命が控えているものだ」
止まっていたアッシュのペンが、再び動き出した。
メモ用紙の上には、敬一では分からない数式が書きこまれていく。
「一方、お前たちが戦場で戦うように、俺ら医者も日夜戦っている。敵は――自分自身だ。各々が生涯のうちに、果たして何人の人間を救う事ができるか、そして何千何万の命を救える薬や技術を生み出せるかどうかというな」
ゆっくりと言葉を刻みつつも、アッシュの手の動きは止まることはない。
敬一に説くような口調で語りかけながら、同時に自分の使命のための活動を止める様子は一切なかった。
しかし、ふとその目に、自責の念のような光が宿った。
話を黙って聞いていた敬一はそれに気づき、訝しむ。
「……それと同時に、多くの命を奪い取ってもいる。ここにいるマウスがそれだ。より多くの命を救うために、人と同じ生命を、何十・何百・何千・何万と――ひたすら、奪い続けている」
重く深い声が、治験室の中に響く。
敬一は、先ほどの注射によって狂死したもの、そして、これからアッシュの実験のために死んでいくだろう周囲の小さな命に目を馳せる。
そこには一縷の同情もない。だが、彼らの命が決して無駄に終わることはないのだろうという確信が、そこには浮かんでいた。
アッシュは、そんな敬一の反応をまったく見もしないまま、一人自嘲するような微笑を浮かべる。吊りあがった口の端からは、皮肉気な心境がこぼれている。
「それでも、たとえ多くのこれらの命を奪う結果になってでも、俺たちには救わねばならない命がある。ここにいる何十倍、何百倍ともいう数のな」
ペンの動きが止まった。
アッシュは、ペンの文字で真っ黒になったその紙を机に置くと敬一へと向き直る。
正面から敬一と目を合わせると、彼は強調するように間を溜めてから、言った
「――救うために戦うというのは、言葉以上に覚悟のいることだ」
ずしり、と。
目には見えない重い何かが胸に叩きつけられるのを、敬一は確かに感じた。
その擬似的感覚に、敬一は思わず驚いたような目で視線を下げる。
当然ながら、彼の胸には、何も当たっていない。
だが、確かに何かが当たったような感覚が、敬一にはあった。
その反応を見て、アッシュは満足げに薄く微笑み――そして即座にそれを掻き消すと、普段の仏頂面に戻って言葉を続ける。
「一応警告しておく。人を助けるならば、それ相応の覚悟を持っておけ。むやみに、無責任に人を助けることは、時として法で捌けぬ罪のひとつとなることもある。それを決して忘れるな」
そう言いながら、アッシュは一度治験室から出て、やがて何か色つきの液体が入った、不透明な白い容器を数個、治験室中央の机の上に並べる。
敬一は、右手を胸に当てた状態で、依然として怪訝な顔をしていたが、やがて切り替えるように顔を上げて、ちょうどこちらに振り向いたアッシュに向けて、肩を竦める。
その若干軽い仕草は、すっかりいつもの彼そのものであった。
「御高説、痛み入る。だがな、アッシュ。俺があの女をここに連れて来たのは――」
「別に理由を聞く気はない。分かったならそれでいい」
敬一の言葉を遮り、アッシュはぶっきらぼうに言い放つ。
更に彼は、その存外な返答に口を尖らせる敬一に、ここに来た時同様の不機嫌な顔を浮かべて言う。
「――話は以上だ。これから治験を再開する。邪魔だから出ていけ」
「……はいはい」
少しばかり理不尽とも思えるその言い草に、しかし敬一は反抗することなく素直に頷く。
あの不機嫌な表情は、彼なりの照れ隠し――みたいなものである。
敬一はアッシュに急かされるまま、治験室から出て、更には医療器具が並ぶ手術室を慎重に進みながら、アッシュや少女が待つリビングに続く扉のノブに手をかける。
「……助けるという覚悟、ね」
部屋を出る直前、敬一はおぼろと、アッシュの言った言葉を繰り返した。