第4話
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周囲に散らばる大鷲の死骸、そこから生まれた血の池の様子を確認すると、敬一は抱き寄せていたスーを一度地面に降ろした。抱きかかえられた状態であった彼女は、地面に足をつけると眉根を寄せて苦悶の表情を浮かべる。盲目の彼女は、足裏から伝わった感触からようやく周囲の惨状を理解したのだろう。胃の奥から吐き気でも込み上げてきたのか、口元を覆い、何かこらえるに小さく喘ぐ。
そんな彼女を視界の隅に収めながら、敬一は目を細める。
「お前、やっぱりただの餓鬼じゃないな」
その一言に、スーはびくりと肩を揺らし、不安な表情を浮かべる。
彼女の緊張の面持ちで顔を上げると、それを迎えたのは、敬一の鋭い猜疑と不審の視線――かと思いきや、彼女の頭に乗ったのは、彼の大きな掌だった。
髪を通じて頭に伝わってくる温もりに、スーは驚きから呆然となる。
「……まぁ、いいさ。何か事情があるみたいだが、それは後で、気が向いたら話してくれ」
相手を安心させる優しい声で、敬一はスーの頭を撫でる。
その言葉と撫で触りは、先ほど十五体ものフレスハプスを葬った男の物とは思えないほど穏やかで柔らかい。微かに漂う硝煙と血の匂いさえなければ、スーは敬一が傭兵であることを忘れていたかもしれない。それほどまでに、敬一の声も手も、優しげであった。
自分を茫然と見上げているスーの表情に敬一は微笑みをこぼし、すぐに気を引き締めるように唇を一文字に引き締めると、意識を前方へと集中させた。
建物の物影からは、彼の呼び掛けに応じて二つの影が生じていた。
「見事な腕前だな」
現れたのは一組の男女で、そのうちの男の方が口火を切った。
「その位置から、魔法陣を発動させた術師の位置を、なんの魔術も異能も使わずに突き止めるとは……敵ながら驚嘆に値する」
やや伊達な言い回しで敬一に賞賛を与えた男は、短く刈りそろえた銀の髪に紺色の瞳を有す端麗な面持ちを備えていた。
「たかが傭兵風情……そう思って静観しておりましたが、なかなかの腕前でございますこと」
男に続き、女側も口を開く。
婉然とした口ぶりと声色、また青い髪の知的な風貌からは冷静沈着な人物という印象を感じそうであるが、双眸に宿る赤い瞳は、彼女が実は内面に情熱秘めた人物であることを証明していた。
男女は共に二十代後半と思われ、そして同じような黒の外套を身に纏っていた。
その外套に、敬一は目を細める。
一見普通のコートやマントと同じに見えるそれは、しかし細部に普通のものと違い――端部の装飾や、保護色を利用して描かれた魔法陣など――が見受けられ、彼らの正体を暗に示している。
さらにその推測を確証へ昇華させるものとして、青髪の女の手には、樫の木で出来た杖が握られていた。
「貴殿の腕を見込み、提案がある」
黒装束の魔術師の片割が、紺色の瞳を細めながら提案する。
「我々の目的はその娘だ。どうか素直に、彼女を引き渡してくれぬか?」
「無駄な争いは、我々の本意ではありません」
男の言葉を、女が引き継ぐ。
一見それは提案に聞こえるが実際の意味は異なる。それはつまり、拒むのならば攻撃すると、暗喩交じりの脅迫であった。
それを、敬一は鼻で笑った。
「馬鹿か、お前ら。そういうことを言えるのは、お前らの手の中にある物騒なものをしまった奴だけだ」
阿呆らしいといった具合に敬一が吐き捨てると、男女は共に険しい様子で眉根を寄せた。不快げなその表情は、提案を断られたことに対するものというより、彼の悪態そのものに対するものだろう。
一方敬一は、相手の反応など歯牙にかけず、二人を観察する。
彼の洞察では、女が樫の木の杖という魔術師としての得物を有しているのに対し、男は外套の内側に何か棒状のものを隠している。おそらく剣か、あるいは女の物より一回り小さい杖であろう。ちなみに敬一は、彼らが二人一組で行動しているだろうという仮定から、バランス的に前者である可能性が高いと分析していた。
いずれ来る激突の瞬間に備え、スーの頭に手を置く際、刀の柄と共に右手で握られていた銃把を左手に持ち変えながら、敬一はふと背後の気配を探る。
敬一に悟られぬよう、背後から慎重に迫って来る気配があるのを、敬一の並外れた五感が捉えていた。前方の敵にもそのことが見破られぬよう、敬一は挑発気味に口の端を吊り上げる。
「それに、そっちはそもそも俺を生かして帰ろうとも思ってないだろ? 御託はいいからさっさとかかって来い。相手してやるからよ」
「――仕方、ありませんか」
好戦気味な敬一の口上に、男は表面上嘆くようにかぶりを振った。
背後からの気配は、すでに十メートル近くまで接近していた。その気配に気がついたのか、スーが顔を上げて何か言おうとするのを、敬一が素早く抱きとめながら口を塞いだことで遮られる。その行為に彼女はぎょっとするが、同時に彼がどうしてこのような行動に出たかも思い当たったらしく、安堵と信頼を口元に密かに浮かべる。
それに気がつかず、男は外套をめくると、その中に隠してあった得物を取り出した。敬一の予想通り、中にあったのは細長の剣であった。
彼はそれを引き抜くと、女の前に数歩進み出で、敬一に対して切っ先を向ける。
「ならば、いざ尋常に、勝負」
「あぁ、そうだな」
魔術師でありながら騎士のように振舞う男に、敬一は侍のごとく悠然と頷いた。
それを、隙と見たのだろう。
隠密で動いていた気配は一気に距離を接近すると、前方の男性に気取られている敬一めがけて襲いかかる。それを読んでいた敬一は、スーを抱えたまま横手へと跳躍した。すぐ右手を縦断する烈風を感じ取りながら、敬一は刀を翻す。人一人抱えた状態、しかも跳躍中に放たれた一撃にもかかわらず、刃は一条の銀の軌跡を鋭く描く。
手応えとともに、敬一は舌打ちをする。
奇襲を仕掛けた敵へ逆に攻撃を仕掛けた結果、敬一の刃は背後からの敵に命中していた。が、それは致命傷を与えるまでにはいたらない。攻撃を躱された敵も、敬一の反撃に素早く反応したのだ。しかも、横へと逃れた敬一に向かって、追撃の一撃を横殴りに放ってきた。そこでようやく相手の得物――木を砕くほどの破壊力を有す武器・バトルアックスを視認し、敬一は後方へと飛び退いた。
後方へ退く中、敬一はそこでようやく、背後から襲って来た男の姿を捉える。相手は二メートル以上の巨体に黒鉄の肌、切れ長の双眸を浮かべる厳つい禿頭の巨漢であった。先の男女と同じ黒い外套に身を包んでいたが、その一部は敬一の斬撃によって切断され、じっとりと血が滲んでいる。その苦痛からか、厳粛なその顔にはやや鬱陶しげな色が見受けられた。
およそ十メートルの距離を置き、敬一は足を止めスーを腕から離して横へと押しやる。一見横暴にみえる扱いであったが、スーは文句の一つ言わない。逆に敬一の意図を目敏く察したらしく、彼女は黙って近くの建物の影へと避難した。
いくら敬一といえども、三人もの魔術師を相手にスーを抱えたまま戦うことは厳しく、彼女にはどこか安全な場所へ身を隠してもらう必要がある。当人も自分が足手まといになることを理解しているのか、建物の陰でできる限り小さく体を縮こまらせていた。
スーの理解の速さに敬一は感心するように微笑むが、すぐにそれを掻き消して視線を戻す。
「――チッ。何だ、気づいてやがったのか」
敬一に奇襲をあっさりと躱され、銀髪の男は悪態をついた。その口調は、先ほどまであった優美な雰囲気とは打って変わって粗野で刺々しい。
おそらく、こちらが本来のその男の素で、先ほどまでのは演技だったのだろう。
その男が放つ紺色の殺気を、だが敬一は愉しげに受けとめる。
「バレバレだ。たとえ気配を消しても、存在を消せなければ俺には意味がねぇよ」
「貴方……何者ですか?」
銀髪の男とは違い、女は依然変わらぬ口振りで、敬一を凝視する。
敬一は肩を竦める。
「名乗るほどの者じゃないさ。それより――もう始めていいよな?」
不敵、そして凶悪な笑みを湛えながら、敬一は尋ねる。
その笑みに答えたのは、雄々しい男の咆哮だった。
敬一と男女の間で、両者のやりとりを静観していた禿頭の男が、敬一の挑発に答えるように襲いかかったのだ。十メートルあった間合いはあっという間に消失、バトルアックスが敬一の脳天めがけて振り下ろされる。斧の攻撃を刀で受けるのは不可能と悟った敬一は、横へ身を捌いてそれを躱すと、返す刃で男の首筋へと斬光を叩きこむ。それが手応えなく空を切り、敬一は口笛を鳴らした。
禿頭の男はその巨体に似合わず俊敏で、攻撃が躱されるのを悟るや回避行動に転じていた。素早く間合い外へ逃れた禿頭の男に、敬一は実に愉しそうに嗤いかける。チラリと横へ視線を流し、銀髪の男と青髪の女に依然動きがないのを訝しみつつ、敬一は禿頭の男へ目を戻す。
「――ッ! 避けてください!」
突然の背後からの警告に、敬一は素早く後方に退いた。刹那、敬一を鋭い烈風が通過し、軌道の延長線上にあった建物の壁へと激突する。壁は破砕音を響かせ、斜めの裂傷を刻む。
その現象に、敬一は再び視線を、戦いを静観するものと思われた男女へと戻した。そちらでは、男が剣を振り切った状態で舌打ちを洩らす。十中八九、今のは彼の攻撃のようだった・
その攻撃の正体を、敬一は知っていた。
「〝風刃〟、か」
その名を口にすると同時に、敬一は苦々しく口の端を歪めた。
〝風刃〟とは、風属性の魔術に分類されている技の名だ。主に刀剣などの鋭い刃の周りへ空気を凝縮し、それを投影し文字通り風の刃を、空間を渡って射出させる――原理自体は非常にシンプルな魔術であった。だが、実際は周囲の空気を手持ちの武器に纏わせるだけでも至難の業で、魔術を完成させるには素養のある者でも五年はかかるとされている。しかも刃を飛ばせる距離は決して長くなく、二十メートル前後が限界だというのが常識だ。
しかし、今の男の斬撃の距離は、優に三十メートルを超えている。これは、男の腕の優秀さを示すと共に、その厄介さも表していた。銃以外での遠距離戦が不可能な敬一に対し、相手は数十メートルの刃圏と、味方二人を有しているのだ。
試しに敬一は左手の銃で銀髪の男へ弾丸を発する。だが、その弾丸は男が放った〝風刃〟によって迎撃され、相殺された。
敬一は荒々しく舌を打ち、銀髪の男は勝ち誇るような笑みを浮かべる。
この状況、敬一は圧倒的劣勢に追いやられたといわざるをえない。巨漢が放つ斧の凶刃だけでなく、遠距離から飛んでくる斬撃にも気を向けなければならないからだ。
しかも、そこに追い打ちをかける一手が待っていた。
「『汝、我が契約に基づき、その力を振るいし精霊――」
銀髪の男に守られるように背後へ立っていた青髪の女の口から滔々と紡がれる文言に、敬一は口の端を苦々しく歪めて後退する。回避行動に移る敬一を、しかし女は焦ることなく、その呪言を口にした。
「――我に仇為す敵を、その業火にて焼却せよ!!』」
刹那、敬一の前方の空から、紅蓮に燃え盛る炎球が姿を見せた。人間など軽く呑みこめよう巨大な球体は、女の詠唱に従い、敬一を葬るべく殺到する。追尾ミサイルのように後退する敬一へと炎の追撃に、敬一は一度足を止め、それを正面から待ち構える。僅か一瞬の停滞は、両者の距離を瞬く間に消滅させ、直後球体が内部から爆ぜるように四散した。複数出現した球体が一斉に炸裂し、敬一が立っていた場所を中心に激しい気流を撒き散らす。
この光景に、銀髪の男は会心の笑みを浮かべ、女は驚愕に目を見開いた。
直後、紅蓮の炎が巻き起こした煙と砂埃の中から、黒い人影が飛び出した。その姿を確認し、銀髪の男も瞠目する。だが、空中へ飛び退いた彼の姿を見て、すぐさま彼に向けて〝風刃〟を射出する。あの状況で炎球の直撃と爆撃を回避した敬一は、身体の周囲に爆発で発生した黒い煙を纏いながら銃口を持ち上げる。昇り上がった炎と煙を裂いて迫る〝風刃〟へ、敬一の銃は火を噴いた。不可視の鎌鼬は、爆炎を裂いたことで姿を晒し、敬一の放った銃の着弾の衝撃で打ち消される。
青の魔術師と銀の魔剣士の攻撃を捌いた敬一は、後ろ向きに地面へと着地し、しかし停滞することなく上体を反らす。遠くの二人に気取られているうちに肉迫していた禿頭の巨漢が放った横殴りのバトルアックスは、敬一の鼻先を掠めて空を切る。敬一は上体を反らした勢いを利用して空中に後転しながら跳躍をすると、華麗に着地を決め、刀を構え直した。
攻撃を躱された禿頭の男は、敬一を仕留めそこなったことに悔しげに喉を唸らせる。敬一はそれにシニカルな笑みを返し、その背後の銀髪の男の視線が自分とは別方向に向いていることに気がつく。
その視線の先に何があるかは、目を向けずとも敬一は理解した。
「そのままそいつを押えていろ!」
銀髪の男は禿頭の男に指示を飛ばし、地面を蹴る。彼が向かうのは、建物の影でこの激戦を静観しているスーの許だった。
銀髪の男が向かってくるのに気がつき、スーは慌ててその場から逃げだすために、立ち上がろうとする。
「そこを動くな!!」
この場から離れようとするスーへ制止の警告を発するや、左手に握っていた銃をホルスターへと仕舞いこみ、敬一は疾走する。
銀髪の男がスーを確保するのに動いた状況からすれば、スーがこの場を離れようと動くのは当然だ。だが、今ここで彼女に動かれ、敬一の目の届かぬ所に行かれでもしたら、もし影から彼女が襲う人間が現れた場合に敬一が助けることが出来なくなる。しかもスーが隠れている場所は、戦いが繰り広げられる大通りと、その向こう側にある住宅地帯へと続く小さな抜け道。建物が乱立している住宅地は死角が多く、そこに敵がいれば襲うに易く、それを防ぐのは困難だ。
ならば敬一がここで取るべき最善の手段は、目の前の黒い禿頭の巨漢は瞬殺し、銀髪の男より速くスーの許へ辿りつくことだ。
敬一は先ほどから後手に回っていた中で、初めて自ら敵へと突き進んだ。
その突進に、巨漢はいささかも動じることなく、斧を振り上げた。
常識なら、敬一はまずその一撃を躱し、返す刃で男に斬りかかろうとするはずである。現に、攻撃を繰り出した禿頭の男の脳裏にも、その動きの予測とその場合の対応も頭にはあった。
ゆえに、敬一は敵の思惑の〝虚〟を突いた。
敬一はあろうことか、振り下ろされた斧の一撃に刀の斬撃で応じたのである。
それは、刀剣の使い手と斧の使い手が戦う際のセオリー……鋭利だが鋼の薄い刀剣は、鈍いが重厚な斧と打ち合えば、間違いなく刀は斧にへし折られ、敗北するという基礎中の基礎を忘れ去った自殺行為だった。
敬一の行動に、敵三名の目をそれぞれ瞠目させ、同時に心中に嘲笑を浮かべたことだろう。スーを救うため焦るあまり、信じられない悪手を打ったと、三人は同時にほくそ笑む。
――よもや重厚な斧の刃が、薄刃の刀の斬撃に斬り飛ばされるとは思いもしなかったはずだ。
「――ッ?!!」
厚さ一センチ弱、幅三十センチ強の必殺の鋼がバターのように斬り飛ばされ、禿頭の男は驚愕の呻きを洩らす。敬一の両腕の斬撃の勢いに押され、両手を万歳するように掲げたまま、彼の目は驚愕に目を見開いた。
それは、敬一相手には致命的な隙だった。
すかさず、斧を絶ち切った敬一の愛刀は、頭上から身を翻して男の右脇腹めがけて疾走する。銀の光の尾を残し撫で払われた刃は、禿頭の男に回避の暇を与えなかった。
上下に分かれた男の脇をすり抜け、敬一は勢いを緩めることなくスーの許へとひた走る。背後から響き渡る断末魔の怒号をも利用しているかのように、敬一のスピードは加速する。
足止めを行うはずの禿頭の男が一瞬で斃され、同じくスーへと疾走していた銀髪の男の顔には驚愕と焦燥が浮かぶ。少しでも敬一の疾走を阻もうと、彼は再び〝風刃〟の斬撃を振り抜いた。同時に、女も詠唱する。
「『汝、我が契約に従い、その力を振るいし者。我に仇なす敵を灼熱の螺旋にて打ち払え!!』」
「――何度も通じるか、阿呆」
敬一は嘲るようにぼやき、速度を緩めることなく斜めに身体を傾ける。〝風刃〟は、急所にあたらずとも相手に大きな傷を負わせることが可能な斬撃を長距離で発揮できる強力な攻撃手段だが、すでに敬一はその欠点を見知っていた。
戦況に応じ縦横無尽に振り回される斬撃と違い、〝風刃〟はあくまで射出される一振りの斬撃だ。つまり銃の弾道と同じく、剣の振られる角度と傾度さえ見られれば、刃の軌跡を見切るのはたやすい。
本来、銃の弾道も斬撃の角度も見切るのは容易なことではないが、幾多の戦場と修羅場をくぐり抜け、傭兵界の最高峰であるSS級に位置する敬一には、それは児戯に等しい。
傍らを通り過ぎる〝風刃〟から洩れた余波の気流に触れつつ、敬一は怖れることなく疾走する。
その途中、女の詠唱によって発露した炎の槍が、敬一めがけて上空から降り注いできた。敬一の進路をあらかじめ予測して、炎は彼と同タイミングで地面へと激突、荒々しい爆撃音を轟かせる。直撃ならば即死、また間接的にも炎によって大火傷は免れない攻勢に、しかし敬一は爆炎の合間にできるわずかな間隙を結って疾走する。その人間離れした動きと、反応速度に、術者である女が息を呑んだ。爆発の連鎖によって発生した黒煙を尾に引くようにして、敬一は炎の中から飛び出し、スーへと疾走する。
敬一と銀髪の男、どちらがより速くスーの許へ到達するか――
その結末は、片方が諦めることで終着した。
スーは、自分の目の前に立ちはだかった男の背を見て、不安だった表情に安堵の笑みを浮かべた。
「……天野、敬一さん」
「敬一でいいって。よく留まったな」
背を向けたまま、敬一は口元に不敵な笑みを浮かべて賞賛する。
「貴方を、信じた甲斐がありました」
幼き天使が嬉しげに微笑むと、敬一はおどけるように肩を竦めてそれに応える。
同時に、十数メートルの距離を経て対峙する銀髪の男に嘲笑を差し向けた。
「どんなもんかと期待したが、所詮はこの程度か。つまらん」
先にスーの許へと到達され、悔しさと怒りの両方を浮かべていた男は、敬一のその一言に眦を決す。
「あまり舐めるなよ、餓鬼が」
「その餓鬼に、ご自慢の剣技を見破られたはずだけどな」
呵々と嗤い、男の顔が憎悪に歪むのを満足げに見下すと、敬一は刃を振り下ろす。刀身を濡らしていた禿頭の男の血糊を地面に叩きつけ、敬一は銀髪の男、そして離れた位置で詠唱を放つ隙を覗う青髪の女を見て、鼻を鳴らした。
「お前たちとのお遊びはもう飽きた。死にたくないなら、とっとと背中を向けて走り出せ。取るに足らない雑魚の背に斬りかかるほど、俺は小物じゃない」
「貴様――ッ!!」
敬一の明白な侮蔑に、憤怒を覚えた男が反射的に剣を振るった。何度も放たれた〝風刃〟の斬撃が、敬一へと肉迫する。
それに対し、敬一は避けることなく刀を振るった。見えざる飛ぶ斬撃を、敬一の振るう刀の軌道が的確に捉え、相殺する。
あっさりと行なわれたその所業は、しかし敬一以外のその場の人間の目をまたも剥かせた。飛んでくる不可視の斬撃を的確に読むだけでも常軌を逸しているにもかかわらず、その上で同じ斬撃で〝風刃〟を打ち消してくるとは、彼らの想像を遥かに飛躍していた。
特に〝風刃〟を得手としている銀髪の男の驚愕は一塩大きかった。先ほどまで向けていた敬一への怒りの眼差しはかき消え、代わってその目には戦慄が浮かぶ。
愕然とする男へ、敬一は最初の時とはうってかわったつまらなそうな顔で、男へ向けて肉迫した。一秒たらずで男との距離を詰めた敬一は、神速の袈裟切りを男へと振りかざす。
だが、理性が戦慄と驚愕の中で、男の本能は変わらず機能していた。敬一が放った斬撃を、男は紙一重で躱すと、返す刃で敬一の首筋に斬撃を叩きこむ。見事なタイミングで、〝風刃〟ではない生身の剣はひた走った。
それが何の手応えもなく振り抜かれた時、男は見開いた目で、反射的に横へと視線を向ける。
銀髪の男の斜め下、そこで彼が見たのは、邪悪に頬を歪めた少年の相貌と、それを遮る銀の軌跡だった。
一閃――。
袈裟斬りの斬撃を躱された後、上体を屈めて敵の剣をくぐり抜けていた敬一は、初手で踏み込んでいた右足を軸にし、全身を旋回させながら刀を突き上げる。剣を振り抜いてがら空きになった男の首筋へと迸る銀の稲妻は、相手に躱す暇を許さなかった。
神速の斬撃は、鮮やかなまでに斬首を成功させた。見開かれた男の頭部は宙を舞い、首から下の体部は二・三歩よろめいた後、前のめりに倒れ込んだ。地面にひれ伏し、痙攣しながら血を噴きだすその身体の真横に、男の頭部は落下し、転がった。
〝風刃〟を有する魔剣士さえもあっという間に斬り伏せた敬一は、そこで最後の一人へと目を向けた。残る敵は、炎の魔術を使うらしい青髪の女だ。
だが、その女は敬一へと立ち向かうことはしなかった。
彼女は、銀髪の男がやられるのを見るや、一目散に逃走に移っていた。仲間が二人やられてにもかかわらず、彼女は敬一に背を向けて走り出していた。
その行動に、敬一は咄嗟にホルスターから銃を取りだしたが、照準をすることなく、銃口を地面へと垂らした。
つい先ほど、『死にたくなければ背を向けて走り出せ』と言ったように、逃げ出す相手の背に斬りかかるようなみっともない事をする気はなかった。この程度で逃げ出すような相手、先ほど言ったように、あの程度の魔術の使い手など、別に放っておいても自分の敵ではない――そう判断した敬一は、女の追撃を行わず、すぐにスーの元へ向かおうとした。追撃を行わなかった理由は相手が雑魚だからというだけでなく、もしかしたら今の者たちよりも厄介な敵が、どこかに潜んでいる可能性も否めなかったためだ。敵の正体がわからない今、行動は慎重に取らなければならない。
だが、その動きが急に止まる。
敬一が足を止めたのは、彼が見逃した女が原因だった。
彼女が、何かしようとしたわけではない。
ただ突然、ここからの逃走を図っていた女の身体が、奇妙な体勢で硬直したのである。本来ならありえない、腕と右足を前に踏みだした疾走途中の体勢で、女の身体は止まっていたのだ。
敬一は訝しげに目を細め、ふと彼女の足元が光に包まれているのに気がつく。その正体は、先ほどスーを飲みこもうとしたものと瓜二つの模様の、異なる青い光を放つ魔法陣であった。
「――おやおや? まさか、敵前逃亡かな?」
声は、敬一でもスーでも、驚愕で顔を強張らせる女のものでもなかった。
「まさか、僕を敵に回しておいて、そんなくだらないことが許されると思っているのかい?」
どこからか響く声に敬一は眉根を顰める。
気のせいか、その声に敬一は聞き覚えがあった。
やがて女が拘束された場所のすぐ横の建物の影から、ゆっくりと姿を現した人影があった。
その人物の姿を見るや、敬一は驚きで目を見開いた。
現れたのは、神父のような白い修道服を身に纏い、人好きされそうな爽やかな東洋人の相貌を持った、齢十四・五歳ほどの少年だった。