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悪魔たちの正義  作者: 嘉月青史
1st はじまりの三人
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第1話


 酒場では、ムーディなジャズミュージックが流されていた。レコード盤で奏でられているメロディーは、バーの雰囲気を今より数十年ほど時代を逆戻ったかのような錯覚を感じさせる。

 たいして客足が多いわけではないものの、傭兵バーはそれなりの賑わいを見せていた。来ている客の人種、年齢は様々で、すでに初老の域に達しているだろう男性から、まだ酒も飲めないような年齢の少年が、同じ席に談笑している光景がとりわけ印象的だ。

 傭兵バーとは、その名の通り傭兵を職種とした人間が多く出入りする酒場のことである。

 傭兵同士で交流を図ったりお互いの情報を交換しあったり、あるいは傭兵たちが依頼を探す際に出入りする場所である。中にはただ純粋に憩いの場として利用している者もいるのだが、そういう人間はあくまでごく少数である。本日の客の多くも傭兵たちだ。その証拠に、多くが傍らに剣などを携え、また銃を収めたホルスターを腰やら脚に吊り下げている。

 カウンター席に座っている少年も、彼らと同様である。

 鼻筋の通った整った顔立ちに、短くも長くもない黒髪と同色の瞳。黒いロングコートの端からは、腰に下げた愛刀の鞘が映る。齢はまだ十代も半ばという若さであるが、齢の割に泰然とした印象があった。

 少年の名を、天野敬一という。

 その若さにもかかわらず、傭兵の世界ならびに『裏社会』においては、ここ最近よく名前が挙がっているちょっとした有名人だ。西洋の大陸では珍しい東洋人独特の顔立ちは、西洋人ばかりのバーの中では少しばかり浮いている。

 そんな彼のコートの二の腕部分を、細長い指がつまんで引っ張っていた。

 敬一は、横手から伸びて来たその方向へ目を向け、訝しむように眉根を寄せた。

「……なにか用か?」

 敬一の視線の先で、いつの間にか敬一の横に座っていた相手がこくりと頷く。

 相手は敬一と同じぐらい、あるいはやや年下の少女であった。

 彼女に気がついた周囲の人間の幾らかは息を呑んでいる。

 少女は、柳のような眉に涼やかな黒い瞳、綺麗に通った鼻筋と薄らとした赤を含んだ柔らかな唇、微かに茶色を含んだ柳髪に透き通るような白い肌という、おおよそ美女の形容として用いられるものすべてを備える容貌をしていた。感情のない、能面のような表情であるが、きっと笑ったりしたその日には、ほとんどの男は籠絡できるだろう。それぐらいの、信じられないレベルの美少女ということである。

 また、彼女も敬一と同じく東洋人の顔かたちであった。年端もいかない東洋人の美男美女(敬一はそこまで美青年ではないかもしれない)が、西洋の傭兵バーに並んで座っているというのは、なかなか珍しい光景である。

 ただ、少しばかりおかしな点もあった。

 少女の服装である。彼女は何故か、手術前の患者が着るような薄い緑色の服を身につけている。しかもそれはだいぶ汚れており、まるでどこかの病院から抜け出してきたような感じであった。

 敬一は少女の姿に不審な顔をするが、それについて尋ねるよりも早く少女が口を開く。

「……教えてほしい……」

「何を?」

「……食べ物の、貰い方」

 そう言って、少女はカウンターバーに立てられているメニュー表に指をさした。

 敬一は少女の頼みに、しばし無言のまま戸惑う。

「もしかして、注文の仕方が分からないのか?」

 念のため敬一が尋ねると、少女はためらうことなく頷く。

 敬一はすっと目を細める。

 彼女ぐらいの年齢であれば、外食での食事の頼み方ぐらい知っていて当然だ。むしろ知らない方がおかしい。世間知らずのお嬢様などであっても、店で食事を取る時は、店員を呼んで食べたい物の名を言うことぐらい知っている。

 少女の言動や身なりから、敬一は少なからず不審感を抱く。

 しかしそれでも、彼はあまり追及することはせず、比較的親切とも呼べる対応を取る。

「どれが、食べたいんだ?」

「この……パイ」

 敬一が尋ねると、少女は無表情のまま、メニュー表についてある写真つきの料理を指差した。

 オレンジパイである。

 敬一はそれを見て頷いた後、念のため尋ねた。

「ちなみに、これがどんな食べ物かは知ってるのか?」

「……知ってる。そんなの誰でも当たり前。あまり馬鹿にしないでほしい。常識外れ」

 一瞬、聞こえるはずのない、青筋が立つような音が鳴った気がした。

 少女が目を瞬かせるなか、敬一は小さく深い息を吐き出す。

「現在進行形で馬鹿にされているのは俺の方だと思うんだが……」

「?」

「あぁ、もういい」

 紳士的な対応を取ったら、これである。

 少女の疑問顔に一瞬頬を引き攣らせた敬一だったが、少女のあまりに無垢な表情に怒鳴る気を失わされる。悪意のない暴言とはこういうものかと、敬一は腹の底からこみあげてくる疲労感を、溜息として吐きだした。

 その後、敬一はちょうど近くにいたマスターに声をかけて少女の所望したオレンジパイを注文してやる。普通ならば少女自身が注文すべきだろうが、何となく敬一には、この少女に頼ませると更に厄介なことが起こりそうな予感があった。

 注文を終え、敬一は自分を不思議そうな目で見つめてくる少女に言う。

「今頼んでおいた。後は待つだけだ」

「……本当に? 私のオレンジパイ、これで来るの?」

 あぁ、と敬一はもはや苛立つ気力もなくしたように適当に相槌を打つ。

 ぐったりと頬杖をついた彼を、少女はしばらく首を傾げていたが、やがて視線を正面へと戻した。

 それと入れ替わるように、今度は敬一が彼女に横目を向け、観察する。彼女の姿恰好を今一度確認しつつ、彼女が何者であるかについて、敬一は答えの出ない疑問へと頭を巡らせる。

 一分ほど経過した頃だろうか。

 少女が敬一に目を戻し、口を開いた。

「……ねぇ」

「なんだ?」

「料理、いつ来るの?」

 少女の問いに、敬一はやや黙考してから答える。

「確かここの食い物は裏で料理しているはずだから、あと五、六分はかかるんじゃないかな」

「何で? 料理はすぐに出せてこないの?」

「いや……だから今言っただろ。後ろで店員が作ってる最中だから、まだ時間かかるんだよ」

「え? 料理って、人が作ってるの?」

 敬一の言葉に、少女は驚いたように目を瞬かせる。敬一の言葉が嘘だと思ったかのような反応だ。

 だが、このやりとりで本来驚くのは彼女よりも敬一の方だった。

 店での注文の仕方――これが百歩譲って知らないことでもいいとしよう。だが流石に、料理というのが人の手によって作られるものという常識を知らないというのはおかしい。

 この少女は、明らかに何かがおかしい。常識知らず、という言葉で足りないほど、知識が欠落している。

 敬一は、もはや隠すことなく、疑念に満ちた瞳で少女を見据える。

「お前、何者だ?」

「………………」

 敬一の視線に、少女は口を閉じたまま、目を逸らした。

 彼女は、下唇をそっと噛んだ。少し後悔するようなその仕草を敬一は見逃さない。

「じゃあ、質問を変える。お前、名前は?」

「……言いたくない」

 明確な拒否――その回答に、敬一は音もなく目を細める。

 明らかに、この少女は何かを隠している。それが、人には言えない何かであろうことは、ここまでの流れからして明白だ。

 敬一の疑いの目に、少女は目を背けて視線を合わせないようにする。誰がどう見ても、やましいことがあるのが分かる反応だ。

 敬一はますます疑いを抱き、そして――

「じゃあ、いいよ。もう」

 少女は、驚いたように敬一に振り向く。しかし敬一は、苛立つような顔つきで少女とは絶対目を合わせないように顔を反対に向けていた。

 てっきり敬一が根掘り葉掘り聞いて来るだろうと予感していただけに、こうもあっさり追及を打ち切った敬一の行動が、少女には意味が分からなかった。人の優しさというものも知らないのかもしれない。

 わずかに見える目の端から、彼の表情に気付いた少女は、首を傾げる。

「……何で怒ってるの?」

「原因は貴様だ」

 ぶっきらぼうに敬一が言った事で、その後少女は、何も言ってこなくなった。



 その数分後、敬一は、再び呆れることになる。

 注文したオレンジパイが届くと、少女はそれを少しずつちびちびと食べ始めた。ハムスターみたいな喰い方する奴だなと、敬一はそんな感想を抱きながら水を飲んでいたのだが、気がつくと彼女は、自分で注文をはじめ、あっという間にパイの乗っていた皿が、幾重にも積み重なるという状態になっていた。

 少しずつ齧るように食べているとはいえ、恐るべき早食い、そして大食いである。

 ――さっきまで俺から真剣に疑われていたのに、よくこんな勢いよくパイ食えるな……。

 呆れるというか、もはや感心するように、敬一は彼女を見る。すると、少女はその視線に気がついて振り向いた。

「……おいしい」

 無表情でそう言われたため、敬一の反応は遅れる。

「そいつはよかったな」

「五日間、何も食べてなかったからかな?」

 水の口に含みかけた敬一は、思わず変な所に水を詰まらせてしまい咳きこんだ。

 ゴホッゴホと苦しげに咳をつく敬一を、少女は相変わらず無表情のままふしぎそうに首を傾げる。

「どうしたの?」

「いや……もう……突っ込んだら負けなんだろうな……」

「……さぁ? 私には、よく分からない」

 ………………。

 敬一は、とりあえず自分を落ち着かせるように盛大な溜息を洩らした。

 正直、この少女をまともに相手していても疲れるだけということを、敬一は認識する。

 疲れ切った表情の敬一だったが、ふと自分の背後の気配に気がついた。突然背後に生じたそれに、しかし敬一は慌てない。相手が誰かは、分かっているからだ。

「……そうか。敬一もナンパとかしたりするんだな」

 低く柔らかな声がかかり、敬一は振り返る。

 彼の目に飛び込んできたのは、敬一と同じかやや上の年代の美青年であった。やや長めの黒髪に紫紺の瞳、また彼と同じタイプのコートを羽織っている。敬一がやや固い感じの面持ちであるのに対し、彼はやや甘く柔らかい容貌をしている。目鼻のかたちは、東洋人とも西洋人ともとれる曖昧なものだ。また、彼の最大の特徴は細長い体型とアンバランスな長身で、背丈は一九〇を下らない。

 そんな青年の長身を、バーに座っている敬一は自然と見上げる態勢になる。

 敬一は、からかうような青年の言葉に対し、しかめ面を浮かべる。

「ナンパなんてしてねぇよ」

「またまた、照れちゃって」

「殴るぞ」

 敬一が目つきを鋭くして言うと、彼は朗らかに笑いながら両手を小さく上げて降参のポーズを取った。

 彼はサム・ヘルヴェイグといい、敬一の相棒を務めている男だ。

 もっとも、二人がコンビを組んでからの期間はまだ短く、また互いに相方を持つのは初めての経験であるために、相棒というよりは友人、あるいは仲間といった関係に近かった。

 余談ながら、サムはこう見えても人見知りが激しいらしく、こういう柔らかい表情が見えるのは、敬一の側にいる時だけである。

 そのことを証明するかのように、サムは敬一の横でオレンジパイをがっつく謎の美少女を見ると、笑みを消し、やや警戒も含んだ目で首を傾げる。

「――で、この子は?」

「別に誰でもいいだろ。それより、いい仕事は見つけてこれたのか?」

 質問を無視し、敬一は尋ねる。

 ぶっきらぼうなその反応に、しかしサムはまったく不快そうな顔をすることなく、敬一の隣の席に腰をかけた。幸とは逆方向の位置である。

 懐から、メモ用紙のような紙切れを取り出しながらサムは微苦笑を浮かべる。

「いい仕事かは君が判断してくれよ。俺にはまだ、傭兵の仕事の事はよく分からないからな」

「まぁ、そうだな」

 敬一は頷いた。

 彼の相棒サム・ヘルヴェイグという青年は、敬一の相棒だけでなく、傭兵業というのを始めてまだ間もない。そこらの傭兵たちと比べて段違いの実力を有してはいるが、まだ敬一のようにこの仕事に慣れているわけでもなかった。

 そんな彼に出来るだけ早く傭兵の仕事という物を理解させるため、敬一はサムに、現在依頼されている仕事の確認に行かせていた。サムがつい先ほどまでここにいなかったのはそのためである。普段は敬一がやっていることなのだが、今回は物の試しにサムにやらせたのだ。

 傭兵バーの中には、会社の求人案内のように、依頼の書かれた掲示板のようなものがある。仕事の依頼といってもピンからキリまであり、その内容のよしあしを見抜くことも、傭兵業をやる上で必要なことであった。

 果たして成果は、と敬一がひそかに期待する中、サムが調べて来た内容について口にし始める。敬一の横には少女がいるものの、パイをひたすら食べている彼女の事を、二人はとりあえずスルーしておく。

「とりあえず、ここの近くで値が高く、また見返りがいいのは三つかな。二つは最近この国で暴れているテロリストの捕縛、あともうひとつが犯人捜しだ」

「犯人捜し?」

 敬一が半眼を閉じると、サムは顎を引く。

「うん。なんか、この国の辺境にある児童施設だったかな――それが突然爆発して、施設の児童や職員のほとんどがいなくなるっていう事件が起こったそうなんだ。その事件を起こした犯人を探すという仕事。ちなみに、報奨金は警察から出されている」

「そうか。で、テロリストの方は?」

「こっちは賞金稼ぎの関係のもの。どっちも顔も名前も割れているんだけど、なかなか捕まらない奴ららしい」

 敬一は、サムの報告に黙ったまま聞き入っていた。

 初めて依頼の調査というのを行ったとは思えぬほど、サムの掴んできた依頼はどれも傭兵にとって魅力的で、見返りも期待できるものばかりだ。

 なお、傭兵という職業を、戦争に兵士として参加する者、または賞金稼ぎのようなものだというイメージを持っている人もいるかもしれないから説明しておく。敬一たちが稼業としている『傭兵』の場合は、主にそれらのイメージ全てが混ざりあったものだ。『何でも屋』と言う方が分かりやすいかもしれない。戦争の臨時の戦力から、探偵じみた活動までこなす者たちの総称であり、その基準が漠然かつ曖昧な職種だ。もっとも、その内容は危険の高いものが多いのが傾向としてあるため、基本戦い慣れした者ばかりが生業としていた。

 ただし、よく覚えておいてほしいのは、傭兵は決して非合法な職種ではないということだ。世界各国の代表たちで構成される国際社会最高の行政機関・世界連合において存在を認可された職業であり、それどころか凶悪犯罪者ないしテロリストの捕縛、殺害の面の戦力として重宝されてさえいる。

 また傭兵に対する格付け、傭兵の中では『傭兵ランク』と呼ばれているが、これが正式な傭兵には授与されてもいた。ランクが高ければ、高いほど依頼が増える上、依頼主からも信頼されるという利点があり、このような恩恵を用意していることからみても、世界のトップが彼らの活動を推奨しているかもみえてくるだろう。

 話が大きく逸れたが、サムの持ってきた依頼の数々は、そのような傭兵の特性を知っていれば素晴らしいばかりであるということが分かる。

「テロリストはテロで死者も出してる連中だ。当然、危険度も高め。でも懸賞は国から出ているみたいだから、報奨の額はそれなりに高いみたいだな」

「……じゃあそっちにしよう。そういや、危険度は?」

A級(クラス)になってるね」

 依頼内容を一通り聞いた敬一は、サムが提示した中からそのテロリスト捕縛の依頼を迷うことなく選択した。

 その即断に、サムが苦笑する。

 普通の傭兵ならば、まず依頼の危険度と自分の力量を見比べた上で、その中から取るべき依頼を選択するだろう。しかし、危険度を関係なしに好きな依頼を選び、それから思い出したようにリスクを尋ねるのが、いかにもこの少年らしい。

 サムの答えた危険度――これは、最上級のSS級から最下位のE級まで、計七段階ある。これは、傭兵ランクと同じだ。

 なかなか危険なランクではあるが、しかし敬一に臆する様子はまったくない。

「まぁ、それなら余裕かな。あ、ところで金額は?」

「国際通貨で、二人合わせると四千万以上だよ」

「それだけあれば、当分は活動が楽になるかな」

 敬一が、妙に現実的な言葉を口にする。

 傭兵業はなかなか出費の激しい職業である。

 考えればすぐに分かることだが、衣食住の生活はともかく、武器の整備や弾丸などの補充、依頼を果たすための移動費や宿泊費、また傷を負った際の治療費など、一般人よりも浪費ははるかに激しい。それは敬一たちも同様で、最近金欠気味な上、現在の貯金もそろそろ底を突きそうな状況にあった。借金をする傭兵は決して少なくはないのだが、敬一はそんな生活は御免である。

 サムは敬一のそんな守銭奴な一面、また意外と少年らしい律儀な思考に苦笑を浮かべながら、話が一区切りついたことを見ると、視線を敬一からその奥へと移した。

「――で、話を戻すけど、その子は誰?」

「知らん? なんかよく分からんが、答えたくはないん――」

 一旦蚊帳の外であった少女のことを、仕事の話に区切りがついたこともあって、敬一は説明しようと口を開きかけたところで、気がつく。

 周囲に目を回すと、いつの間にか自分たち――主に少女を囲む、男たちの集団が立っていた。誰もが一目でその人間性に察しがつけられるほど、粗雑で卑陋(ひろう)な顔つきをした連中だ。

 事態を察した敬一とサムは、すぐさま視線を少女へと向ける。

 案の定というか、この状況に少女は、不思議そうな面持ちで首を捻っていた。男たちの卑俗な視線が少女に注がれているのを見れば、彼らの狙いが何であるかは容易に察しがつくはずだ。

 そんな中、男の一人が少女に声をかける。一応人のよさそうな笑みを作ってはいるが、身体から滲み出る卑しさは隠し切れていない。そこが多少滑稽である。

「なぁ、お嬢ちゃん。こんなところで一人で何やってんだ?」

「……オレンジパイ、食べてる」

 少女のどこかずれた返答に、敬一は額を抑える。

 一方で、サムがやや目つきを厳しくする。

「――敬一」

「……分かってる。少しの間、黙って様子をみてろ」

 すぐに動こうとするサムを敬一は宥める。声は囁くように朧であったが、それでもサムの耳にはしっかりと届く。

 サムは、敬一に目配りをした後、その指示に従って動きを止める。

 それを確認した敬一は、周囲の状況を確認するように目を馳せる。

 自分たちを取り囲んでいる男たちの数は十人ほど。彼らが少女をかどわかそうとしているのは間違いなく、自分たちまで取り囲んだのは、敬一らが彼女の知り合いで、行動を邪魔してくる可能性を考えてのことだろう。

 おそらくだが、彼らは傭兵ではない。

 傭兵バーといっても、利用客に傭兵が多いだけで、傭兵以外は入れないという規則があるわけでもない。一般の街の住人が常連の場合もよくある。

 人相をみるに、彼らは街のゴロツキか何かであろう。もし仮に傭兵だとしても、おそらく大して腕の立つ連中ではない。それは、戦い慣れしている敬一の目からすれば明らかだ。

 そんな男たちのリーダーと思われる男が、再び少女に話しかける。

「なぁ、一人じゃ寂しいだろ? 俺らと一緒に、こっち来て食べようぜ?」

「………………」

 男の誘いに、少女は無表情のままだ。

 彼女は、男が何を言いたいのかはよく分かっていないようであったが、しかし周囲の状況や空気から、本能的に嫌な予感に勘付いているようだ。

 一瞬、少女は敬一の方に目を向けたが、すぐに背け、首を振る。

「いい。一人で食べる」

 男たちの誘いを断り、少女はパイの続きを口にしようとする。

 その腕を、男が突然掴んだ。

「そんなこと言うなって、せっかくだからさぁ」

「やだ」

 加減知らずに腕を握られ、少女は顔に翳を落とす。

 彼女が明確な拒否をしめしたことで、一応は親しげであった男の言動が、乱暴な物に変わった。

「そう言わずに、よぉ!」

「ッ!」

 男が、突如腕を掴み上げた事で、少女は強引に椅子から身を浮かす。彼女の顔に恐怖はないが、しかし状況に混乱しているような色がはっきりと浮かんだ。

 店内の客のほとんどが、その男たちの行動に気がついたらしく目を向ける。その目には、一様に驚きや不安などが浮かんでいるものの、誰も彼女を助けようと動くことはない。

 誰からも見放され、少女が男たちにいいように扱われていくだろうことが目に見えていく中、ふと、男の動きが止まった。

「……おい、そこの餓鬼。今なんて言った?」

 苛立ちにまみれた眼が、敬一へと飛んでくる。

 彼がこっそり呟いた言葉に、男は耳聡く気がついたらしい。

「ん? あれ?」

 一方、敬一は素知らぬ様子で笑みを浮かべる。

 苛立つ男と、彼に同調するように鋭い目を向けてくる男たちを前に、首を傾ける。

「あぁ……何だ。勘違いか」

「はぁ?」

 男が唸りながら片眉を上げるのに対し、敬一はため息混じりに呟く。

「てっきり便所を拭くのに使うくっせぇボロ雑巾かと思ったけど――何だ、ただのゴロツキか」

 一瞬の、沈黙。

 直後、周囲の人間が一斉に怒気を敬一に注ぐ。その目には、一様に憤激と殺意が浮かんでいた。

 だが、敬一はそんな激しい視線を軽くいなしながら、更に馬鹿にするような口調で言い放つ。

「あぁ、あとそんな一昔前――いや、一世代前のチンピラごっこはやめておいた方がいいぞ。しょぼいを通り越して、痛いぞ」

「んだとコラァ!」

 敬一の安易すぎる挑発に、男は少女の腕を掴んでいた手を放ち、それを敬一の胸元へと伸ばす。

 おそらく男は、胸倉を掴んで睥睨と恫喝をした後、敬一を痛い目に合わせるつもりだったのだろう。

 彼の視力では、敬一の腕が霞んだことさえ分からなかったはずだ。

 鈍い衝撃と音が響き、男が宙を舞った。

 座ったままの体勢で敬一が放った裏拳は、男の指が胸にかかる寸前で顎を貫き、その部分の骨の形を歪める。意識を一瞬で刈り取られたその男は、宙をなだらかな弧を描きながら渡った後、無人の机の上に衝突し、バウンド――そのまま、ドサリと床に倒れた。

 突然、男の巨体が吹き飛んだこと、そして白眼を剥いて失神したことに、周囲の男たち、店の客や店員までもが茫然とする。

 唯一、サムだけがくすりと可笑しそうに微笑んでいる。

 しばらくして、男たちの目が敬一へと注がれる。

 先ほどまで威圧的だった彼らの目は、今度は圧倒的恐怖に染まっていた。彼らの目には、敬一が何をしたかなど捉えきれていなかった。そのため、敬一が何か人智を超えた力でも発揮したかのように思ったのだろう。

 だが、敬一はまだそんなものを使っていない。

 周囲から集まるゴロツキの目に、敬一は演技がかった、惚けるような顔と口調で言う。

「ん? まだやるのか? だったら面倒くさいし、今度は刀抜いていいか?」

 敬一が、腰にかけた刀の柄へと手をかけて立ちあがる。

 その瞬間、周囲を囲んでいた男たちは慌てて逃げ出した。

 敬一がどのようにして自分たちの頭目を斃したのか分からない上に、更に武器まで使って戦われようものなら、どうなるか知れたものではない。そこら辺の判断はゴロツキらしく、彼らは、気を失った男を拾いながら、蜘蛛の子を散らすように店から飛び出していく。

 その背が消え、彼らの足音が完全に消えるのを確認して、敬一は腰を下ろした。

「……出てったね」

 サムがからかうような口調で言うと、敬一はつまらなそうに息をつく。

「あぁそうだな――俺らも早く出るぞ」

 座ったばかりにもかかわらず、敬一はすぐに立ち上がると、事態の終息に唖然としているバーのマスターに飲み物代を支払う。

「あぁいう奴らは、大抵仲間を呼んで仕返しにくる。別に大したことないが、正直面倒くせぇ」

「あぁ、なるほどね」

 早くここを去ろうとする敬一の動きに首を傾げていたサムも、彼のその説明で得心がいったように頷いた。あの様子だと今すぐには来ないと思うが、やがてこのことに復讐心を抱いてきたとしてもなんら不思議ではない。

 まだ若いながらも、敬一はそういうことをきちんと分かっている。

 きっとこういうことにも慣れているのだろうと、サムは苦笑を浮かべた。

 ゴロツキが消えていったことで、店内は少しずつ活気を取り戻しつつある。中には数人、敬一の鮮やかなゴロツキの撃退を見て賞賛の言葉を口にする者もいたが、敬一はそれを無視した。

 金を支払い、サムが立ちあがるのを確認すると、敬一は視線を横に向けた。

 少女の方向である。

 元はといえば、ゴロツキに最初に絡まれたのは彼女であり、またこれからも、今のような相手に関わる可能性が高い。

「おい。お前も早く出た方がいいぞ。多分、お前も――」

 あの連中が戻ってきたら狙われるぞと、敬一がそう言おうとした時、


 ――バタン、と


 それを目にしているはずなのに、敬一もサムも、その音に一瞬目と耳を疑った。

「……は?」

「え?」

 思わず声を洩らした二人の傍らで、少女が、カウンターに突っ伏すような形で、倒れていた。突然事切れてしまったように、彼女は手をカウンターのテーブル下にぶらさげながら、積み上がった皿の横に顔を伏せる。

 活気を取り戻しつつあった、バーの空気が、再び凍る。

 瞠目する二人の前で、謎の少女は、動き出すことはなかった。

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