ちょっと化かし
山中を駆け回る風が、一陣、僕の頬を撫でて行く。方々で草いきれを吸い上げて、すっかり生ぬるかった。それを小休止の合図として、砕石道を逸れて、路肩の腰掛石に座り込んだ。なにか焦燥を煽るかのように、ツクツクボウシが忙しなく鳴いている。竹林に遮られて、黄昏時の陽が細切れに僕の顔を照らしていた。
三度だ。僕が祖父母の家を目指すのは、これで三度目になる。祖父母の家は、駅からバスで一時間近く揺られた後、山へと分け入るように続く、この砂利道を進んだ先の左手側にある。古い民家で、時々リフォームは入れているようだが、土台は父が幼少の頃に建てたものだという。
僕は昼過ぎにバスを降りて、記憶にあるとおりの道順を辿って、その祖父母の家を目指した。だけど着けなかった。砂利道を抜けてしまった。そして、アスファルトの大通りに戻ってしまう。おかしなことだ。ここら辺の集落は、縦断するような国道が一本通っているだけで、あとは未舗装の獣道に近い。よくても、さっきまで僕が歩いていたような砂利道があるだけ。この砂利道も、進みすぎるといつの間にか途絶えて、やっぱり土道となる。更に進もうとするなら、登山の装備が欲しい。だから砂利道を登っていったとして、コンクリート道路に着くということはない。それこそ僕が方向転換して、山を降りて国道に降りるでもしない限り……
空になったペットボトルで膝をひとつ叩いて、立ち上がる。いつまでもこうしているわけにもいかない。歩き始めると、道の先で、ナミハンミョウがぴょーんと飛んだ。極彩の羽が陽光に映える。案内してくれるのだろうか。神様仏様虫様。
案内人は五十メートルも歩かないうちに、右手に大きくそれて、雑木林の下草の中へと消えた。そして僕は、みたびコンクリートの上に立っていた。そろそろ家が見えてくる頃、というところで、はたと気付くと国道に逆戻り。背後を振り返ると、木板とアクリルで出来た簡易の雨避けと、褪色著しい待合ベンチ、赤錆まみれの看板を立てた無人のバス停がある。最初に降車した時を含めて都合四度目の光景だろうか。もうさすがに、気のせいだとか不慣れな道で迷ったなんて言い訳では、僕の心は納得しそうになかった。
――ここら辺のタヌキはようゴンタしよる。
不意に、いつかの帰省の折、祖母に聞いた言葉を思い出す。
「……いや、まさか」
頭を振るが、どうにも今の状況を科学的に説明できそうにはない以上、迷信として笑えない自分が居た。
「どうしたものかねえ」
軽い調子でひとりごちてはみるが、誰にも届かない。そう、バスを降りてからこっち、僕は誰とも会っていない。過疎の村だからそういうこともあるのだろうかと最初は気に留めなかったけど、それにしてもこう何度も国道を歩いて、車の一台ともすれ違わないとは不自然じゃないだろうか。
いったいこれは何なのか。どうして家に着かない。考えてわかるものでもないけれど、考えていないと不安に押しつぶされそうだった。世界中でただひとりになってしまったのではと錯覚する。居ても立ってもいられず、叫びだしたい衝動が湧き上がる。だけどそれをしてしまったら、現実として確定してしまいそうでそれも出来なかった。
「もう一度」
自分を鼓舞するような声音で言ったつもりだったけど、声はかすれていた。暑さと焦燥で喉がカラカラだったのだ。
歩き出す。既に夕日は山の稜線とキスしていて、すぐに見えなくなりそうだ。時間だけはキチンと経過している証拠のように思えて少し安堵した。同時に、このまま家に着けないまま夜を迎えることになったら、と鎌首をもたげる不安を無理矢理に心の奥に押し込めた。
変化は突然だった。先程まで感じていた全ての不安が、一瞬にして霧消するのを胸の裡で感じた。
「家だ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。でも無理からぬこと。あれほど焦がれた祖父母の家が視界の中に入ったのだ。くたびれた瓦屋根も、少し黒ずんだ木柱も、記憶のままだった。なんだ、なんてことないじゃないか。少し遠回りしていた程度だと思えば何てことない。誰に見られていたわけでもないのに、さっき取り乱さなくて良かったなんて益体のないことも考えた。
しかし、駆け出した僕はすぐにその足を止める。道の先に、何か黒いものが落ちているのに気がついたからだ。ビニール袋かと思ったが、どうも違う。僕は自慢じゃないけど、視力は良くて、少し近づくだけで、その物体が何かがわかった。もこもこした毛に覆われた、五十センチにも満たないだろう動物。四本の足を投げ出して、砂利道の上に体を横たえていた。
「……タヌキ、か?」
また祖母の言葉がよみがえる。あの言葉通りなら、僕がぐるぐると同じところを回っていたのは、このタヌキが悪戯していたからなのか。でもなんで僕の前に姿を現したんだろう。普通、悪戯に気が済んだらバレないように身を隠すんじゃないだろうか。いや、そもそもコレ死んでるのか。だったら、僕がその術を破ったから、反動で死んじゃった?
そこまで考えて、バカバカしくなってやめた。なんで迷信ありきで考えを巡らせているのか。
「おーい、生きてるか?」
黙って近寄れば良いのに、悔しいがやっぱりちょっと僕は怖いみたいだ。ためつすがめつ、タヌキの顔を覗き込む。黒いつぶらな瞳と真正面から視線がかち合った。目には生気があり、じっと僕を見つめ返す。どうやら死んでいるわけではなさそうだ。しかし、どうもこのタヌキ、人を恐れた風じゃない。あまり明るくないけど、確か臆病な気質だと何かで読んだ気がする。それ以前に、野生動物なら自分より大きな生物に警戒心を抱きそうなものだけど、何と言うか、堂々としているというのか、無頓着というか。やっぱり普通のタヌキじゃないんだろうか。一瞬、背筋がぶるっとしたけど、気を取り直す。死んでるでも寝てるでもないなら、怪我でもしているのかもしれない。
そっと手を伸ばしてみる。ちょっとチクチクしたけど、基本的には柔らかい毛に覆われているみたいだ。あったかい。そのまま毛をかき分けながら全身を探ってみる。患部はすぐに見つかった。右の後足に、何か大きな歯で噛まれた様な痕があった。血は止まっているみたいだけど、傷口は痛々しかった。トラバサミにでも捕らわれたのだろうか。
「どうしたものかねえ」
そんな馬鹿なことあるわけない、と理性で抑えようとも、ひとつ荒唐無稽な推論があった。コイツ、僕に助けを求めて化かしたんじゃないかな、と。視線を右に向けてみる。雑木林の下草が、しなりと凹んでいる。つい先程、動物が通った跡のようにも思える。見つけてもらえずに、素通りしていく僕に、行かせたくなくて、あんなマネをして、やっとの思いで見つけてもらえそうな場所まで出てこれたから、詐術を解いた。
タヌキの顔を改めて見つめる。何を考えているかわかるはずなんてないのに、僕は何故か、その瞳が僕の考えたとおりだと言っているような錯覚に囚われた。
「……そんなまさか。そんなまさか、なんだけど」
かなり迷ったが、結局僕はタヌキを抱え上げる。腕の中に収めても暴れたりしないのは、単に弱っているからか、それとも本当に普通のタヌキではないからか。とにかく、天地無用の壊れ物注意で運ぶことにした。
相変わらず施錠なんて文化はなく、家の引き戸は容易く開いた。硝子部分が緩くなっているのか、ガタガタと大きな音を立てた。それを聞きつけたのだろう祖母がのんびりした動きで、居間から顔を出す。
「翔ちゃん、帰ったんか」
「うん、ただいま」
ただいま、という挨拶で正しいのか、本当のところはよくわからないんだけど、それ以外に言いようもない。
「えらい遅かったんやね。混んどった?」
祖母は喋りながらも、ゆっくりゆっくり居間から玄関まで出てくる。腰が少し曲がっていて、両手をお尻の上あたりで組んでいるものだから、あまり早くは歩けない。
「うん、まあそんな感じかな。それでさ……」
タヌキに化かされていたと正直に言うのもアレなので、僕は茶を濁す。だけど、すぐその元凶を持ち込もうというのだから、あんまり意味はないのかもしれない。
僕は後ろを指差す。さっき戸を開けるときに、いったん土の上に寝かせておいたタヌキはぐったりして、そのままだった。祖母は目を丸くしたが、すぐに笑った。しわくちゃの顔がもっと皺だらけになる。
「鍋でええ?」
「食べちゃダメだよ! その、なんていうか、怪我してるんだよね。助けてあげられないかな?」
祖母はまた泡食った顔をする。そしてやっぱりまたすぐに笑う。
「そうかそうか。翔ちゃんは優しいなあ」
「いや、うん、どうかな」
口ごもる僕を残して、祖母はまたのそのそと歩みを始める。「連れて入りぃや」とだけ残し、自分は先に居間に入っていってしまう。
タヌキを再び優しく抱き上げて、僕も居間に入る。そういえば祖父はどこかと思っていたのだが、襖向こうの仏間に転がっているらしかった。虫眼鏡を当てて(祖父は老眼鏡を酷く嫌う)新聞を読んでいる。僕の姿をみとめると、やおら半身を起こした。
「帰ったんか」
「うん、ただいま、じーちゃん」
「何や? タヌキ捕っとったんか」
「いや、捕ったわけじゃなくて、保護したんだよ」
「え? 鍋か?」
「食べないの」
少し大きめの声で言うと、祖父はようやく聞こえたらしく、そうかそうかと頷いていた。祖母が割って入ってくる。風呂の準備に行っていたらしい。もうしばらくかかるということだったので、先にタヌキを看てやることにした。
動物の手当てなど、さっぱり門外漢だったのだが、とりあえず当たることにした。祖父母の家にはパソコンなんてないから、方法を調べようにも難しい。電波状況も悪く、僕の携帯も頼りない。
「まずは洗おうか」
タヌキに確認を取るように聞いてしまうのは、やはりタヌキが人家に連れ込まれても尚おとなしかったからかもしれない。知性があり、こちらの言葉を理解しているような風にどうしても見えてしまう。
庭に出てホースで水をかける。旅行鞄からブラシとシャンプーを出して、様子を窺いながら洗っていく。やり始めておいて今更だけど、人間用のシャンプーをかけて大丈夫だろうかと少々不安になる。タヌキはおとなしく、されるがままだ。その顔を覗き込むと、気持ち良さそうに目を細めているので、良しとする。患部は水洗いだけに留めた。正直痛がって暴れることも予想していたのだが、目をきゅっと絞って耐えてくれた。そんな仕草も人間くさくて、ちょっと笑ってしまった。
続いて、祖母に救急箱を借り、傷薬を塗布した。こちらも人間用だったわけだが、染みるは染みるらしく、やはり目を瞑った。効果の程もあると良いのだが。
最後に傷薬の上から、包帯をぐるぐる巻きにして、雑菌が入らないようにした。
こうしてシャンプーの香りを撒き散らす、包帯つきのタヌキが出来上がり。正直かなりテキトウである。
「……獣医に連れて行った方が良かったかな」
何駅離れているかしれないが、探せばここら辺にもあるはずだ。生兵法ともいえない程の素人仕事で、このタヌキの怪我が悪化したら目も当てられない。今やったのは応急処置として、改めて医師に診てもおうか。
「ばあちゃーん! ここらへんに獣医ってある?」
「銃か。三軒先の児玉さん居てはるやろ? あっこが確か春先に出よった猪を」
「獣医だよ、獣医。動物のお医者さん」
「ああ、獣医さんか。知らん」
のっそり縁側に顔を出した祖母だったが、返事はにべもない。けど、そのままカラカラ笑って、僕の背後を指差す。
「大丈夫やろ。怪我もそんな大したもんやないし」
振り返ると、タヌキが気丈にも立ち上がろうとするところだった。
僕以外の家族はバタバタと慌しい日々を過ごしていた。まず父が栄転、単身赴任となったのが春先のことだった。続いて、半月ほど前に母が入院することになった。重篤な病気というわけではないが、しばらくは病院暮らしということだった。妹も受験の年ということで予備校に行き始めたのだが、その傍ら母の世話に甲斐甲斐しく病院へ通っている。
そんなわけで、今年の帰省は僕ひとりということになった。正直、祖父母には悪いのだが、暇を持て余すだろうなと予想していたのだが。何の因果か、退屈しない滞在となりそうだ。
「ほら、ゴンタ。おいで」
危なっかしい足運びで、タヌキが僕の方へ歩いてくる。祖母の言うとおり、タヌキは怪我の方は大したことはないようだ。ただ餌をとるのに苦労していたらしく、出会った当初の衰弱ぶりは、どうも空腹によるところが大きかったんじゃないかと思う。食い物を与えてやったら、ケロッとしている。野菜から果物から魚から、何でも食べるものだから、見ているこちらの方が胸がすく思いだった。
「よしよし。今日は十メートルくらい歩いたか。頑張ったな、ゴンタ」
名前はゴンタと名付けた。<悪さ>とか<悪戯>って意味らしいけど、出会いを考えればピッタリな気がした。いや、ゴンタがやったと決め付けるのも可笑しな話だけど。ちなみに、祖母にも祖父にもキツネみたいやなと笑われた。
ゴンタは僕によく懐いた。生まれたときから飼っていたかのように、警戒心のない様子だった。野生動物を飼ったことなどないから、正確なところはわからないけど、それでも普通はこんなに懐かないものなんじゃないかと思う。順応性も高く、僕の即興でつけた名前も、二三度よんだだけで、すぐに自分のことだと理解したようで、それ以降呼べばすぐに顔を向けてくれるようになった。排泄をするときも、必ず縁側から外へ出て、庭先でする。かなり賢い。そんな印象を受ける。
祖母にそんな話をしたら、迷信深い彼女は、やっぱり化生の類やもしれないなんて神妙な顔で言うものだから、僕も半信半疑ながら頷いておいた。それでも追い出そうという話にならないのは、ゴンタが悪さをする様子もないし、したとしてせいぜい僕を長い散歩道へ誘う程度のことだろうから、あまり恐ろしくはないから。どころか、その知能の高さから、僕を恩人と認めて懐いてくれるなら、いじらしさを感じてしまう。
ゴンタを拾って、一週間ほど経過した頃だった。もうその頃には、随分歩けるようになっていて、祖母が切り分けてくれたスイカを勝手に食べようとするようなヤンチャぶりも見せてくれるようになった。
僕はゴンタを連れて、散歩に出た。リードなんて上等なものは無いし、つけなくても勝手に僕の前を、先導するように歩いていた。砂利道を、いつかのようにハンミョウが飛ぶと、ゴンタはそれを捕まえようとして走り出す。やめてあげなさいと諭すと、理解してくれたのか、やめる。
しばらく何を目指すでもなく、ゴンタと歩く。林の間に入りたがるので、続いていく。緩い勾配を土を踏みしめながら歩く。ゴンタは時折、こちらを振り返って僕がついてきているのを確認する。クヌギの広い葉っぱが幾らか庇の役目をしてくれているが、鼓膜がバカになりそうなクマゼミの演奏会と、下草が孕んだ湿気に閉口してしまう。
「ゴンタ、戻ろうよ」
そして何より、どんどんと奥へ向かっていくのが不安だった。冗談でもなんでもなく、この先は未開の地だ。
ゴンタは止まらない。四本の足をトタトタと繰って、どこかへと一路。
一瞬、ゴンタが化生ではないかなんて言った祖母の台詞が脳裏に浮かぶ。
「ゴンタ、なあゴンタ?」
ゴンタはピタリと止まる。林の出口についていたようだ。そこで僕はやっとこさ気付いた。セミの鳴き声に混じって、川のせせらぎが耳朶を打つ。そして鼻腔に入り込む水の匂い。肌に感じる水気。
小川があった。多分、名前もなさそうな小さな川。幅は三メートルあるだろうか。
ゴンタがさっと駆けて林を一気に抜ける。制止の声を上げながら追いかけると、僕にも川の全容が見えた。やはり小さい。だけど、驚くほどに水は澄んでいて、陽光を受けてキラキラと輝いていた。名前も知らない野鳥が突然の闖入者に、吃驚してあわただしく飛び去った。
ゴンタは川面から顔を出す苔むした岩の上に居た。なんだか、にっこり笑っているように見えた。
「……お前のお気に入りの場所か?」
ゴンタは答えず(当たり前だけど)足元の川蟹とじゃれあっている。
川に手を入れてみる。緩やかな流れが、指の間をすり抜けていく。よく手入れされた女性の髪を梳くような感触で、知らず僕は微笑んでいた。ホバリングするように水中でとどまる小魚と目が合った気がした。
ゴンタに礼を言おうかと顔を上げると、しかし居なかった。慌てて首を巡らせると、川上の方に走る姿があった。滝というほど大仰ではないけど、岩が積み上がって、少し高低差があるらしい。追いかけようと腰を上げかけたが、ゴンタの様子に動きが止まる。高低差を利用して、枝垂れかかっている枝葉の中に顔を突っ込んでいる。人の掌みたいな形の葉がガサガサ揺れる。何か珍しい虫でも見つけたんだろうか。と、僕の方へ戻ってくる。口に何か咥えているようで、近くまで来て、こっちを見上げる。しゃがんで受け取ると、どうやらイチジクの実らしい。
「え? これ。えっと、勝手に取っていいんだろうか」
戸惑っている間に、ゴンタはもう一往復こなしてしまう。受け取らないわけにもいかず、僕の手に二つの実。苦笑していると、ゴンタが僕の膝をカリカリこする。痛いような痒いような。
「食べろってことか?」
しかし、よそ様の作物だったら、勝手に取ったら泥棒だ。ただ自生している可能性もある。秘境のような場所だし、後者の可能性も十分ある。
結局僕はご馳走にあずかることにした。少し酸味が舌に乗るのは、収穫が早かったのか。それでも甘くて柔らかい果肉を堪能する。ゴンタはそんな僕の膝の上に乗っかって、僕が返したもう一つを咀嚼している。背を撫でてやると、口を動かしながら目を細めるという器用な姿を見せてくれた。
その晩、僕は夢を見た。風景が判然としないぼやけた視界の中で、小さな女の子の姿を見た。黒いおかっぱ頭で、ニコニコと笑顔をたたえた姿は、素直に可愛らしかった。どうしてかはわからないけど、僕はそれがゴンタだと思った。
少女はしばらくそうして僕を見つめていたが、やがてペコリと一礼して、背を向けた。僕は咄嗟に手を伸ばしたんだと思う。はたと目が覚めた時には、ほんの少しの温もりと、ゴンタの毛並みの感触が右手に残っていた。そして隣で寝ていたはずのゴンタは居なかった。顔を巡らすと、蚊帳の端が少し捲れ上がっている。不思議と衝撃も寂しさもなかった。賢いゴンタは、明日かえる予定だった僕に、少し早くお別れをしてくれた。
「……ゴンタ、お前メスだったんだな」
そんな益体のないことを呟く。未だ感触の残る右手を天にかざしてみると、手首に輪っかに編まれたゴンタの毛が嵌っていた。下手くそなミサンガ。ちゃんと細工して、来年会った時に見せてやろう。そんなことを思った。
<おしまい>