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一話物

溢れ出す煮汁

作者: 紅月赤哉

 寝苦しい。

 ひっじょーに! 寝苦しい! ね! ぐ! る! しーっ!

 まだ目は閉じているけれど、もう夜が明けて起き出す時間だというのは理解出来る。ここで眼を開ければいつも通りの日常が始まるはずだ。朝風呂を浴びて、用意されたご飯食べて、大学に行って良子に逢って講義が終わってから彼女の家に行ってにゃんにゃんして帰る……いつもの日常が。

 でも……。

「――ふぅっ――ふぅっ――ふぅっ――」

 誰かいますよ、誰かが。布団に包まってる俺の上に、誰か確実にいますよ!

 目を閉じていても分かるって! 圧倒的な威圧感を持つ何かが離れたり近づいたりして、近づいた時には生暖かい空気が俺の顔に吹きかかってくる。気配自体も生暖かい。

 なんて言うか、「はぁはぁ」という気配が。

「――ふぅっ――ふぅっ――ふぅっ――」

 声……じゃなくて、呼気の音。

 俺が得たいの知れない存在の気配を察知してから、どれだけの時間が過ぎたのか分からない。でも何をしてるか分からないが、呼吸のペースは全く乱れていない。機械のように一定のリズムを刻み続けている。

「――ふぅっ――ふぅっ――ふぅっ――」

 ここまで来るとさすがに気になってきた。

 薄目を開けて見るなら……ばれない、かな?

 もう少しで起きる時間だろうし、いつまでも生暖かさを感じていたくもない。幽霊なら朝出たとしても怖くないし、人間ならもっと怖くない。いや、知らない人だったら怖いけれどさそりゃあ。

(ええい、ままよ!)

 自分を勢いづかせるために心で叫び、目を瞬時に見開く。そこに飛び込んできたのは、ある意味予想を越えた物だった。

 顔。

 黒いお面みたいな物を付けていて、目のところだけは白と黒の眼球が見えている、顔。

 俺が目覚めたと同時に、相手は動作を止めた。ちょうど遠ざかる途中だったようで、近からず遠からずな距離に顔がある。この相手が一体何なのか分からないためなのか、本来なら感じそうな混乱も恐怖もなかった。人間って理解しないと感情の動き止るんだなぁ。

 視線を動かして相手の状態を確認すると、俺の肩のあたりに両腕を置き、足も俺の身体をまたいでいた。ぴん、と手足を伸ばして四つんばいの姿勢。

 ……こいつ、つまり俺の上で腕立て伏せしていたようだ。

「起きたようだな」

 よく見ると顔はお面ではなくて、全身タイツの頭部部分だったらしい。全身と顔くまなく黒に染まった相手――声からすれば男――は、そう言って腕立て伏せを再開した。顔が離れ、再び近づく。目を閉じていた時に感じていたプレッシャーは正体が分かったことでかなり減っていたけれど、やっぱり今の状況をつかめない。ていうか、こいつ平然と腕立て伏せ再開してるし……。

(腹立ってきたな)

 ようやく感情が動き出す。よく分からないけど、人の身体の上で腕立て伏せなんて汗かきそうなことを断りもなくしやがって。許可も止められてももちろん断る。俺の上にいていいのは今のところ良子だけだ。

「お――げほげほっ!」

 苦情と言おうと口を開いたところに、ぽたっと、何かが落ちてきた。完全に不意の一撃だったから器官に入って咳き込んでしまう。身体が咳き込んだ拍子に動いたけれど、布団を上から完全に抑えられているようで全く動けない。咳が止まったところに二滴、三滴と何やら充分なぬめり気を帯びた液体が落ちてきて、着地点である俺の頬から枕へと流れていった。

「――ぁ」

 その匂いに覚えがあった。

 その匂い。滑り気。紛れもなく――汗。

「うわぁああああ!」

 あまりの恐怖に喉から血が吹き出そうになるほど叫んで――


 * * * * *


 急に身体を起こしたことで、かかる重力に身体が痛んだ。はっとして顔を抑えたけれど、どうしてそうしたのか分からない。何か、やけに怖い思いをした気がする。顔を両手で撫でてから離すと、びっしょりと汗で濡れていた。運動をした後にかくような汗とは違う。ねっとりとしていて、かいた後には気持ち悪さしか残らない汗。

 脂汗、だ。よっぽど怖い夢を見たんだろうな。

「頭も重い……でも大学行かないと」

 時計を見ると朝六時。目覚ましがいつの間に鳴り、止まったのかさえ分からないとはかなり夢に浸かっていたんだろう。とにかく、寝汗を洗い流してさっぱりするためにお風呂に入ろう。

 だるい身体を何とか風呂場まで持っていこうと立ち上がった。階下に降りて、台所を横切ると母さんがご飯を食べようとしている。俺の顔を見ず、胴体に「おはよう」と軽く言葉だけかけて、納豆をかき混ぜることに意識を集中していた。そんな母さんにため息混じりに挨拶を返し、脱衣所にたどり着いて汗に重くなったシャツとジャージ下を脱ぐ。火照った身体へ朝の空気が染みて、震えた。早く暖かいお湯に浸からないと、多分風邪を引くだろう。湯気に曇っているドアを見て、母さんに沸かしてくれていた礼を言ってからドアノブに手をかける。

「はー、風呂風呂」

 ここまで来ると、もう不快感はなかった。さっぱりして朝ご飯にしようと思ったら、もううきうきしてくる。ドアを開けたらむわっとした空気が俺の視界を埋め尽くした。後ろ手にドアを閉めて浴槽に入ろうとすると、鼻腔をくすぐる……すっぱい匂いを感じた。

「……え?」

 思わず疑問の声が出てしまい、湯気に包まれた浴室を見る。

 湯船にいつもかけられた蓋が立てかけられていて、解放された湯気が濛々と上がっていた。そして、湯船に立っているシルエットが――

「いい湯だ。そう思うだろう? お前も。なあ? 思うと言ったら、いいことがあるかもしれないぞ?」

「……いや、まだ入ってないし」

 家族以外の人間がこんな朝早くから他人の風呂に入っているなんて余りに衝撃的な光景だけれど、何故か驚かない。まるで初めてじゃないみたいだ。こんな体験を二回もしたくはないし、初めてに間違いないのだけれど。

「お前誰だよ……」

 とりあえず足だけでも湯に浸かろうと足を入れて、あまりの熱さにすぐタイルに戻す。

 この距離なのに相手が正確に確認できないほど湯気が出るなんてちょっと考えてみれば異常だ。温度調節パネルを見てみると……五十度。

「熱いじゃないか!」

「ああ。熱いぞ」

 しらっと言う誰か。湯煙の中でもようやく目が慣れてきて、相手の全体像が目に映る。赤いふんどし以外に身につけたものはなく、盛り上がる筋肉は体格を俺の倍に見せていた。身長を比べるとどうやら俺と同じくらいなのに、三倍くらい大きく見える。顔は黒いマスクに覆われていた。白と黒の瞳だけがぎょろっと俺を睨みつけている。

 よく見ると、男のいる場所の湯が他のところに比べて変な色をしていた。それは徐々に広がっていく。どうやら男の身体から何かが出ているんだ。

「――うぁ」

 煮汁。思い浮かんだのはその単語だ。男が人間が入れるような温度じゃないお湯に浸かり、煮られている。そして煮汁が溢れているんだ。

「――ふぅっ――ふぅっ――ふぅっ――」

 そんなことをお構いなしで、男は一定のリズムで呼気を吐きながらポーズを変えていった。垂らした状態から両手を徐々に上げていく。肘を自分の体の側にして、肘を曲げていくと立派な力瘤が二の腕に形成されていった。ぼこり、という音が聞こえたような気がするほどに大きくなった力瘤には筋がぴっと入っている。時折生きているかのようにぴくっと震えた。両手を九十度曲げて上に突き出す形から、左手は肘を基点に回転させて下へと拳が向く。右手は同じ状態であり、身体は少し斜めを向いた。口元まで隠れているが、顔は笑っているらしい。そして九十度に曲げたままの腕が腹の当たりで出会い、綺麗に六つに割れた腹筋が躍動する。俺は以前見たことがある津波を想像して、感嘆の溜息をついて、正気に戻った。

「いやだからポージングなんてしてるなよ! お前誰だ!」

 男の肌に触るのは気持ち悪かったけれど、このままいられるのはもっと嫌だ。とりあえず風呂から出して、母さんに警察を呼んでもらおう。

 不法侵入ってどれくらいの罪だっけ? やるべきことがようやく固まってきて今がどれだけ異常な状況かも理解出来るようになる。きっと変態ってやつだ。この歳になって初めて見た。

「ほら! 出ろって――」

 男の身体に手をかけたところで、足元を濡らす奇妙な感触に気づいた。例えて言うなら猫が通って足をすった時みたいな感じ。でも、この場にそんな生き物はいない。

「――ひっ!?」

 視線を下に向けて、あまりの光景に悲鳴をあげてしまった。それも吐き出す息と吸い込む息がぶつかってしまったみたいにつまった音で。どうにか逃げ出そうとしても身体が震えるし、思考がぼんやりとしていった。衝撃に息をしてなくて、酸素不足になっているんだと残っていた冷静な部分が静かに教えてくれる。でも、その声は自分の声にかき消されていた。

「なんなななんな――!?」

 液体――男の身体から出ていた煮汁が、俺の足を昇っていた。

 色は透明な黄土色。それは変な男が足を入れている浴槽から這い出してきていた。まるで意識を持っているかのように、にょろにょろと一気に太腿まで浸食される。

「あ――あ――」

 息が出来ない。何も考えられない。おぞましさと恐怖が脳を渾身の力で揺さぶっているみたいに、視界までも揺らしていく。液体はとんでもない速さで俺の体を包みこんだ。滑り具合は、サラダ油が指に付いた時の感触がする。男は顔を覆っている黒いマスクを口元だけはぐり、笑みの形に変えた。

 あまりにも砕け、背筋が凍る笑みだった。先ほどまであった友好的な気配は消え去り、現れたのは罠にかかった獲物を狩るだけという意思。

「まろやかな味、楽しめ」

 口に、脂臭くどろりとした液体が進入した。気持ち悪さに胃液が逆流し、二つの液は舌の上で競演する。つんとした味を伝えてくると同時に鼻の穴からも液体は侵入し、水が入った時のような息苦しさと痛みが押し寄せてきた。

「ぅお――ぐぇえ――――ぅうごぉ……げぇ」

「お前誰だ、と言ったな」

 更にめくれていく黒。でも涙腺から液体が入ったからか、俺の視力は一瞬で失われたようだ。真っ暗な世界。耳も液体で埋め尽くされたからか男の声は壁に妨げられたように伝わってこない。

『オレハナ――』

 言葉。ことば。きこえ、えるえるけ――ど、思考が、ついていかなかった。

「あああああがががあぁががが――あぁあ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”――」

 洩れ出ているはずの自分の声が、まるで他人から発せられたように聞こえてくる。先ほど感じていた窒息感や嫌悪感などは感じられず、でも身体の力が抜けていって意識もぬめりに飲み込まれていくようだ。

 朝から良く分からなかった。

 得体の知れない誰かがいて、こんな目に合っていて。

 それでも理解できるのは。

 理解、出来るのは――



『オレハナァ……チキュウガイカラキタノ――』

 聞こえてくる雑音も、消えてい


 * * * * *


『俺』は身体を拭くとジャージの下だけ穿いた。

 鍛え上げられた上半身と『新しい顔』が映る洗面所の鏡を見て微笑んでしまう。

「あがったの? 早くご飯食べなさいー」

 台所から聞こえてくる『母さん』へと、『俺』は答える。

「分かったよ、母さん」

 さあ、新しい日常の始まりだ。

 次の顔が手に入るまでの、新たな日常。

 まずは二人目の食糧を取ることにしよう。


溢れ出しますよね。

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