名前
ボクにはきっと名前があるのだと思う。
何故なら、ボクの顔を見ながらみんなが何かを言っていて、そのどれもが同じ音で聞こえるから。
だから、きっとそれがボクの名前なのだろう。
ボクがここへ来てから、随分たくさんの朝と夜があった。
小さかったボクの身体も、今では群れのボスに負けないくらいになった。
でも、ボクは決してボスに対して牙を剥いたりしない。
ボクはボスに対して忠誠を誓ったし、この群れを守るのがボクの仕事だと思っているからだ。
だけど、
「いい加減、僕の友達の顔くらい憶えろよ! こいつらには吠えなくていいの!」
テリトリーに入ろうとする者に向かって威嚇した時、ボクは群れのナンバー3に怒られた。
けれど、何もしないでいた時にも怒られた事がある。
どうやら威嚇していい相手と、いけない相手がいるようだと気付くまで、ボクは随分と悩んだものだ。
テリトリーの中には巣があるんだけど、ボクはそこへは入れてもらえない。
「こら! お前は中に入っちゃ駄目なのよ」
何度か入ろうとしては、その度にボスに怒られた。
「お前の場所は、お庭。 はい、そっちへ行きなさい」
どうしてなのかは解らなかったけど、ボクと群れのみんなとは、何かが違うようだ。
そんなボクの巣は、正面に大きな穴が開けられている、白い木の板が組み合わされた箱だ。
「よ〜っし、完成だ! ほら、今日からここがお前の家だぞ!」
これはナンバー2がボクに与えてくれた物なんだけど、最初に中へ入った時、変な臭いがして目が回ったのを憶えている。
きっと、木にベタベタ塗っていた白い水が、いけない物だったんだ。
「ああ、ごめんごめん! まだペンキの臭いがキツかったんだな。 大丈夫か?」
ボクが苦しそうにしてたら、ナンバー2は歯を見せながらボクを撫でた。
最初は威嚇されてるのかと思ったけど、どうもそうじゃないらしい。
ボクを撫でる時、群れのみんなが同じ表情をするので、それが解った。
彼らはボクと違って、威嚇する時に牙を剥く習性が無いのだろう。
その後、少ししたら変な臭いもしなくなって、ボクは快適に過ごす事が出来た。
この中にいれば雨にも濡れないし、丸まっていれば寒さも凌げる。
それに、中に敷かれたフワフワの毛布にはみんなの匂いが付いていて、ボクは安心して眠る事が出来たんだ。
みんなと同じ巣には入れなかったけど、みんなと一緒にいられるような気がした。
その箱の傍には地面に杭が打ってあって、ボクはそこへ鎖で繋がれている。
動ける範囲は狭いけど、朝と夜にはナンバー2やナンバー3が散歩に連れて行ってくれるので、別に不満は感じなかった。
そして、その後は餌の時間だ。
ボスが餌を運んで来てくれるのを、ボクは静かに待つ。
静かに待つのが群れのルールなので、ここで騒いでしまうと餌を食べ損ねてしまうからだ。
「よしよし、今日も良い子で待ってられたね。 偉いぞ」
そうして静かに待っていると、餌をもらえる以外に、ボスに撫でてもらえるのだ。
お腹は減っていたけれど、そうしてもらえるのが嬉しくて、じっと待っている事も苦にならなかった。
「はい、た〜んとお食べ」
ボスがボクの前に餌と水を置いた。
ボクが小さい頃には一緒に散歩をしてくれたボスだが、今では一緒に行ってくれる事も無い。
こうして餌を運んでくれるのは昔から変わらないけど、ボクにはそれが少し寂しい。
「お前が小さい頃なら、わたしでも散歩に連れて行けたけど、こんなに大きくなっちゃうと、もうわたしじゃ力で負けちゃうものね」
ボスは、ボクが餌を食べるのをじっと見ている。
いつもそうして、食べ終わるまでじっと見ているんだ。
何が面白いのかボクには解らなかったけど、ボスがそうしたいのなら、そうしていればいいと思った。
そんな繰り返しが何度も何度もあった。
そんな繰り返しが、ボクの幸せだった。
ボクの遥か上には、真っ白な雲が一つだけポツンと浮かんでる。
何となく美味しそうに見えるのは、ボクが食いしん坊だからだろうか?
でも、最近では何かを食べたいという気持ちも小さくなった。
このところ運動不足だから、お腹も空かないのかもしれない。
けれど、散歩に行くのも楽しいと思えなくなってしまった。
何となく身体が重く感じるのは、きっと食べ過ぎたからなんだと思う。
食べ過ぎて、身体が大きくなり過ぎて、きっと重たく感じるんだ。
そのせいで、散歩に行くのも億劫になって、餌を食べる気持ちも無くなってしまったんだ。
だからボクは、こうしてヒンヤリとする地面の上で横になっているんだ。
そうして、ず〜っと流れて行く雲や、目の前を歩く虫を見ている。
それが最近のボクの日課だ。
こうしていると、地面から伝わる振動で色々な事が判る。
……これはナンバー3の足音だ。
昔はこうしなくても色々な匂いや音で判ったんだけど、どうも感覚が鈍って来たらしい。
「どう? 元気出た?」
いつからだったろう、ナンバー3が見知らぬ人を連れて来るようになった。
ボスと似たような身体の人だ。
きっとこの人にも威嚇をしたらいけないのだろう。
そう思って、ボクは大人しくしていた。
「君が元気出さないと、彼も元気が出ないんだぞ? だから頑張れ」
この人からは良い匂いがする。
きっと良い人なんだろうと思う。
撫で方がボスと似ているような気がする。
ボクは、この人をナンバー5として認識した。
だって、ボクよりも新入りなんだから、当然ボクよりも格下だ。
ペロっと手を舐めると、この人も歯を出す。
きっと喜んでくれてるんだと思う。
「病院へは連れて行ったの?」
「ああ。 ……けど、これはしょうがないんだって。 医者が言ってた」
「そう……」
もう一度ボクを撫でると、その人はナンバー3と一緒に巣に入って行った。
巣に入る直前にボクを振り返ったナンバー3は、何故か今までに見た事の無い顔をしていた。
どうしたんだろう……?
その日の夜、ボクは初めて巣に入れてもらえた。
きっと、ボクを群れの一員として認めてくれたんだ。
ボクは嬉しかった。
「尻尾振ってる……」
「嬉しいんだよ、きっと……」
ナンバー4とナンバー3が何か声を出してる。
静かな調子だから、ボクを叱っている訳では無いようだ。
夜だからだろう、巣の中は真っ暗で何も見えなかった。
でも、ボクはちっとも困らない。
少し鈍ったとはいえ、ボクには自慢の鼻があるからだ。
巣の中には色々な匂いがしていた。
みんなの匂いも、いつも食べてた餌の匂いも……初めて嗅ぐ匂いもあった。
これは何の匂いなんだろう……?
さすがに見た事の無い物は、匂いだけじゃ判らないや。
「食べるかしら……」
ボスがボクの鼻先に餌と水を置いたのが、振動と匂いでわかった。
あまり食べたくはなかったけど、せっかくボスがボクの為に運んでくれたんだからと、一口だけ食べてみた。
でも、あんまり美味しくない……。
いや、味がしないと言った方が正確かな?
どうしてだろう……匂いは、ちゃんとしてるのに……。
水も一舐めしてみたけど、あんまり美味しいとは思えなかった。
これは喉が渇いていなかったからだろうと思う。
「……! ……!」
周りがやけに騒々しくなったような気がした。
微かな空気の振動が、ボクの身体に伝わって来る。
ああ、そうか……これは、ボクの名前を呼んでるんだ。
だって、振動の伝わり方が、あの音と同じだから。
きっとみんな、歯を出しながらボクの名前を呼んでいるのだろう。
でも、真っ暗だからみんなの顔が見えない。
ボクは、それに答えようとしたんだけど、何だか情けない音で鼻が一回鳴っただけだった……。
ボクには、きっと名前があったんだと思う。
何故なら、ボクの顔を見ながらみんなが何かを言っていて、そのどれもが同じ音で聞こえたから。
だから、きっとそれがボクの名前だったのだろう。