Kapitel.6
ぼうっと、何かが映った。何かが見える。白い壁、天井・・・・・・。
頭が痛い。視界も揺れたまま定まらず、僕は眼を閉じた。
何もわからない。とにかく頭が痛くて、僕は眉を顰めて大きく息を吐き出した。全身に酸素が行き渡っていく。呼吸ができるなんて、なんと幸せなことだろう・・・・・・。
生きてるのか?それとも僕まで幽霊になってしまったのか?僕は自問自答する。幽霊じゃない。少なくとも体がある。
感覚が戻ってきた。頭痛は相変わらずだけれど、僕はそっと眼を開けた。
家だ。僕の家。病院じゃない。
何がどうなっているのだろう?僕の記憶が正しければ、僕は田柄に殺されたはずなのだけど。
起き上がってみた。一瞬こそ重く感じたものの、動こうとしてみたら体はスムーズに動いてくれた。
家の中にはただ平穏な空気が漂っているだけ。何事もなかったかのように。全て夢だというように。
・・・・・・嘘だろう?全て夢だと言うのか?由佳も幽霊のことも?
「こんな夢オチ、物語として失格だろ?」
僕は声に出して言ってみる。なんだか空しくなった。
ふと思い出して、僕は洗面所へ駆け出した。鏡だ、鏡。
僕は首を絞められた。それも、意識が途切れるくらいに。もしかしたら索条痕でもあるかもしれない。
鏡に飛びついて、僕は硬直した。痕と呼ばれるものはない。無論、赤くもなっていなかった。
僕は文字通りその場に崩れた。何も考えられず、何も理解できず、何もできない。
全部夢だった。
一言で終わることじゃないか。なのに、どうして、納得ができないんだろう。どうして、こんなのにも・・・・・・。
思考が鈍くなってきたとき、家の鍵が解除された音がした。
「・・・・・・え?」
誰だ?僕以外にこの家の鍵を開けられる人なんていないぞ?
・・・・・・泥棒?
直感的に隠れようと思った。なんとも間抜けな話。
ドアの開く音がして僕は真剣に焦った。ナイフでも持っていたらどうしよう。
「入るぞー・・・・・・」
声がした。泥棒じゃない。泥棒なんかじゃない。この声は。
「鈴木!」
僕は洗面所を飛び出した。
「うおっ。岩淵!目が覚めたのか!」
「鈴木・・・・・・」
鈴木は飛び出してきた僕に驚いて後ずさりした。彼は紛れもなく鈴木本人だった。一時は安心するものの、再び不安が込み上げる。
「何が、あったんだ・・・・・・?」
鈴木の表情が曇ったことに、気がつかないわけがなかった。
「とりあえず中に入ろう。な、それからでも・・・・・・大丈夫だから」
僕が鈴木を問い詰める前に鈴木は考え込んだ顔で中に入っていく。それは一層僕の不安を濃くさせた。
「あぁ、そういえば鍵さ、勝手に借りたよ」鈴木は明るい声で言う。「お前、気がついてるか?一週間近く寝たきりだったんだぞ」
「え?えぇええ!?うそだろ?」
「マジだって。だから仕方なく俺がお前の面倒を見てやったんだろうが」
鈴木は自分の家のように堂々とソファに座る。部屋を見回して見るとある程度部屋が綺麗になっていた。と言いたいところだが、正確には鈴木があらゆる物を部屋の隅に押し込んだらしかった。
「・・・・・・夢か?」
「は?」
僕の唐突な質問に、鈴木は素っ頓狂な声を上げた。
「あー、ほら。僕、何か寝てたみたいだけど。別に大したことがあったわけじゃないんだろ?」
「そうしとくか?俺はそれで良いけど。というかむしろ、お前にとってはそれが良いと思うけどさ」
実に含みのある言い方だった。
「・・・・・・知りたい」
小さく、消えそうな声で僕は言った。知りたい。あの後、何があったのかを。
「本気か?多分ショックは大きいぞ。お前、理性を保てるか?」
鈴木はつらそうな目で僕を心配そうに覗き込む。それでも僕は頷いた。
「・・・・・・お前、どこまで覚えてる?」鈴木は諦めたように口を開く。
「田柄に首を絞められたらしいところまで」
「だよな」と、鈴木は溜息を漏らした。
「・・・・・・単刀直入に言うか?それとも遠回しに言うか?」
「じゃあ、単刀直入に頼む」
「・・・・・・ああ」
ふう、と鈴木は大きく深呼吸をして、目を伏せた。俺にもよくわからないんだけど、と前置きをして。
「あれから、というかあの直後、お前の彼女さんが田柄とか言う奴を殺したらしんだよ」
「・・・・・・」
鈴木の言葉は、僕に真っ直ぐ届いてこなかった。
「正確にいうなら、俺にはただ唐突にお前が倒れたことしかわからなかった。その後、彼女さんが教えてくれたんだが、焦ってたのかあまりに早口でな。多分、彼女さんが田柄を押さえつけてそのまま強引に成仏させた、みたいな感じだと思う。だがそれは軌道に外れることとかなんとかで、彼女さんもそのまま―」鈴木は言葉を切る。そして、溜めて、「そのまま、成仏したんだと思う」
「・・・・・・」
「・・・・・・ひとつ、彼女さんから伝言。ありがとう、だってさ」
鈴木は役目を果たしたとばかりに小さく溜息を吐いた。僕は、微動だしない。
言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「・・・・・・要するにさ」呟いた僕の声に反応する鈴木。「由佳は・・・・・・、もういないのか」
少し躊躇ったように僕から視線を逸らす鈴木は、ゆっくりと頷いてくれた。
僕は全体重をソファにかける。指一本動かすのも嫌だった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
暫くの沈黙。鈴木も何も言わなかった。
「なあ。何の意味があったんだろうな」
「え?」
天井を眺めながら言う僕を、鈴木は不思議そうに見た。
「何のために僕は田柄と再会したんだろうな」
「・・・・・・何もかもに意味があるわけじゃないだろ。別に、ただの神様の気まぐれかもしれないぞ」
鈴木の答えに、僕はくすっと笑った。「そうだな。神様の気まぐれ、な」
「・・・・・・」
鈴木が僕を心配そうに見ていたのには気がついたけれど、僕は天井から眼を離さなかった。
それから鈴木と一緒に鈴木の作ったご飯を食べ、鈴木は帰っていた。もう外は暗い。
鈴木が帰って一時間くらい経ってから、僕は家を出た。
夜道は寒い。厚着をしてこなかったので、僕は少し縮こまる。
この物語の意味は何だったのだろうかと。
田柄との再開に何の意味があったのだろうかと。
「なあ由佳・・・・・・。ありがとうって、どういう意味なんだよ」
夜空を仰いで、自虐的に呟く。
ありがとう、なんて言われることはしていない。
ありがとう、なんて言われる立場じゃない。
ありがとうと言われるなんて、僕には無縁じゃないのか。
「・・・・・・どこだったら、誰にも迷惑かけずに死ねるのかな」
僕の声は、横を通り過ぎていった車によってかき消された。