Kapitel.2
嫌だ、とはっきり言いたかった。あなたとは関わりたくありません。もう僕とは関わらないで下さい、と。
けれど、言えなかった。頷くこともできなかった。ただ、何も言わずに歩きだした。
とにかく疲れていた。早く帰りたい。そんな気持ちが優先されたのかもしれない。
何も言わずに二十分程度歩いて家に着いた。幽霊がついてきたのかはわからない。気配も声もしないのだ。
家のドアを開けたら、彼女の声がしてくるような気がした。おかえりなさい、と。
けれど、そんな希望も儚く消えて、薄暗い玄関があるだけだった。
彼女を失うということが、僕にとってどれだけの光を奪うことと等しいのだろうか。考えただけでも怖くなる。彼女が光であり全てであった僕は、これからどうなっていくんだ。
「綺麗な部屋ですね」
僕は飛び上がった。いるかもしれないと思っていても、突然声が聞こえると驚く。
実際、今幽霊がどこにいるかはわからない。部屋のどこにいるのかも、僕の近くにいるのかも。
「・・・・・・荒らさないでくれよ」
僕は気落ちした声で言うと、幽霊は困ったように微笑んだ。
「大丈夫ですよ。私には実体がありません。つまり、物に触ることができないんです」
「そうか・・・・・・」
ソファに座ったとたん、疲労感がどっと溢れてきた。もう動きたくない。このまま寝てしまいたい。
そして、起きたときには彼女がいて、勿論幽霊なんていない生活があるんだ。
僕はふっと笑った。これが夢じゃないことくらいわかっている。彼女が死んだのも、今こうして幽霊がいるのも、紛れもない現実だ。それでも人間というのは、自分の良いように将来を夢見てしまう。
彼女以外の女を勝手に家に入れたら彼女は怒るかもしれないなと、僕は意識が途切れる前に思った。
寝起きはとっても悪い。どうしてか僕は、幽霊に起こされることになってしまったのだ。
「朝ですよ、起きて下さい。電話ですよ」
綺麗な声だけれど、幽霊だと思うとどうも複雑な感じだ。声というのは作れるものだ。顔が見てみたい。
渋々頭を働かせる。電話というのは本当らしく、電話の着信音が響いていた。
カーテンの隙間から日が射し込んでいる。朝だ。
あぁ、昨日あれから本当に寝てしまったんだ。喪服に皺がついてるし、髪はぼさぼさ。風呂にも入ってなかったっけ。
僕は我に返って、急いで電話に出た。何コール鳴らせたかわかったもんじゃない。
「あ、もしもし」
『岩渕?大丈夫か?』
声でわかった。仕事仲間の鈴木だ。
「あっ、仕事・・・・・・」
僕は小さく呟く。すっかり忘れていた。
反射的に時計を見る。しまった、完璧に遅刻だ。
『大丈夫だ。店長も知ってるから。暫く休めって』
「あぁ・・・・・・」僕はつい溜息を吐いた。「すまない」
『仕方ないだろう・・・・・・。まぁ、ゆっくり休め。一週間くらいは大丈夫だって店長言ってたぜ』
「そうするよ」
『お前、寝起きだろ?悪かったな、起こしちまって』
「いや、大丈夫だ。こっちこそ手間かけさせちまってすまなかった」
気にすんなと、鈴木は笑って電話を切った。
「・・・・・・仕事大丈夫ですか?」
どこからか声がする。
まだいたのかと、僕は先程よりも大きな溜息を吐いた。「・・・・・・大丈夫だよ。休みを貰ったから」
「良かった」幽霊は心底安心したような声を出す。「あれ、どこに行くんですか?」
「風呂」
僕が言うと、幽霊はぽっと頬を赤らめたように言った。「あ、そうですか・・・・・・」
それから幽霊がついてきたかわからない。あの口調だと避けてくれそうな気もするが、どうでも良い。
僕はシャワーを浴びながら考えた。
これからどうする?あの幽霊はいつまでここにいる気だ?というかなんとなく、僕はあれに気に入られているような気がする。
追い出そうとして追い出せるものじゃない。まず、僕はあれがどこにいるかさえ把握できないのだ。
どうすれば良い?
答えなんて見つからない。まだ彼女を失ったショックから立ち直れていないのだ。
「自己紹介がまだでしたよね」風呂から出ると、幽霊は楽しそうに言った。「私、田柄望美と言います。生きていれば二十二歳ですよ」
二十二か。僕と一つしか変わらないじゃないか。
「死んだら歳をとらないんです。死んだのが三年前だから、精神年齢は十九歳ですね」
三年も経っているのか。
「・・・・・・あなたは?」
幽霊が訊いてくる。
「・・・・・・岩渕敢太」僕は渋々答えた。
「敢太さん、ですか」
何故か、幽霊の声に元気がなくなった。
「・・・・・・大丈夫かよ?」
あの幽霊は、本当にずっといる気でいるらしい。あれから一週間経ったが、出ていく気配など全くなかった。
僕は仕事に復帰し、その間幽霊がどこにいるかはわからない。
休憩中、鈴木が心配そうに顔を覗かせた。
「大丈夫・・・・・・と答えたい」
僕の答えを、彼は大丈夫じゃないと受け取ったらしい。深刻な顔をして言った。
「もう少し休んでも良かったんじゃないか?」
「いや、それは良い。家にいたって悲しくなるだけだ。お金も必要だからな・・・・・・」
幽霊のことを知らない鈴木は、多分誤解しているんだと思う。わかってはいたが、誤解を解こうとは思わなかった。
「・・・・・・お前さ、幻聴って聞いたことあるか?」
口が勝手に動いていた。その前にしっかりと時計を見て休憩時間があることを確かめたけれど。
「幻聴?いや、特には。幻聴っつったらあれだろ。小学校で起きたあれ」
鈴木が言いたいのは、あの幽霊が起こした騒動のことだ。
「鈴木はあれ、どう思ってるんだ?」
「んー、俺もよくわからねぇんだよなぁ。でも、一人だけじゃなく、少なくともクラス全員が聞いてるんだろ。ただの幻聴じゃない気もするよな」
「幽霊とか、そういう類だと?」
「さぁ?けど、いきなりどうしたんだ?」
鈴木は信頼できる。口も堅いし、頼れる存在だ。
話してやりたかった。あの騒動は幽霊のせいで、その幽霊が自分の近くにいるんだと。
けど、そんな簡単に話して良いのだろうか?というか、話すべきなのか、話してはいけないのか。それがわからない。あの幽霊は何も言ってなかった。
「岩渕?」
鈴木が心配そうに僕を覗き込んだのと同時に、休憩時間が終了した。