婚約破棄された子爵家の三男ですが、実は国王陛下最愛の第一王子でした。今さら泣きつかれても、王太子の座は譲りません。
「アレクシス・フォン・グランベル! 貴方との婚約を、今この場で破棄しますわ!」
王宮の大広間に、甲高い声が響き渡った。
声の主は、公爵令嬢クラリッサ・フォン・ローゼンベルク。王国でも屈指の名門、ローゼンベルク公爵家の長女であり、王立学院でも才色兼備と名高い令嬢だった。
そして、その目の前で婚約破棄を突きつけられた青年こそ、今回の騒動の主人公である。
アレクシス・フォン・グランベル。
子爵家の三男として育てられた、今年十八歳の青年だ。
黒髪に青い瞳。整った顔立ちではあるが、貴族社会で華やかに振る舞うタイプではない。王立学院では成績上位を維持しているものの、派手な交友関係もなく、社交界では目立たない存在だった。
そんな彼が、なぜ公爵令嬢と婚約していたのか。
それは、今から三年前に遡る。
当時、クラリッサもアレクシスも十五歳だった。
ローゼンベルク公爵家とグランベル子爵家の婚約は、周囲から奇妙な組み合わせだと見られていた。
公爵令嬢と子爵家の三男。
身分だけを考えれば、釣り合うはずがない。
だが、両家の当主は古くからの友人であり、子供たちが幼い頃から交流していたこともあって、婚約そのものに反対する者は少なかった。
少なくとも、最初の一年は。
「聞いていますの! アレクシス!」
クラリッサの怒声に、アレクシスは顔を上げた。
「……聞いているよ」
「ならば、何か言ったらどうなの!」
「何を?」
「何をですって!?」
クラリッサは顔を真っ赤にした。
「あなたは私の婚約者でありながら、私に恥をかかせ続けた! 舞踏会では私をエスコートせず、王立学院では私の成績を上回り、さらには私の友人たちに無礼な態度を取った!」
「舞踏会は、君が別の男性と踊りたいと言ったから譲ったんだ。成績は試験の結果だし、君の友人に無礼を働いた覚えもない」
「言い訳は結構よ!」
クラリッサは隣に立つ青年の腕を取った。
金髪碧眼の美青年。王立学院で女生徒たちから絶大な人気を誇る、侯爵家の嫡男エドガー・フォン・ハルツである。
「私には、エドガー様というふさわしい方がいるの! あなたのような地味な男と一緒にいること自体、もう耐えられないわ!」
エドガーは勝ち誇った笑みを浮かべた。
「アレクシス。悪く思うなよ。クラリッサは君のような男にはもったいない女性だ」
「そうか」
アレクシスは淡々と答えた。
「では、婚約破棄を受け入れるよ」
「……え?」
クラリッサの表情が止まった。
「何ですって?」
「婚約を破棄したいんだろう? なら、受け入れる」
「ちょ、ちょっと待ちなさい! そんな簡単に……!」
「簡単も何も、君が望んだことだろう?」
アレクシスは静かに微笑んだ。
「お幸せに、クラリッサ嬢」
その態度が、クラリッサの怒りに火をつけた。
「何なの、その態度は! 私に捨てられたという自覚がないの!?」
「捨てられた、か」
アレクシスは小さく呟いた。
「そうだね。そういうことにしておこう」
彼は一礼すると、その場を立ち去ろうとした。
しかし、クラリッサはそれを許さなかった。
「待ちなさい! あなたにはまだ話があるわ!」
「まだ何か?」
「あなたのような身分の低い男が、ローゼンベルク公爵家の令嬢と婚約していたこと自体が間違いだったのよ! 今後、私たちの前に姿を現さないでちょうだい!」
大広間の貴族たちから、くすくすと笑い声が漏れた。
アレクシスは一度だけ振り返った。
そして、心の底から不思議そうに尋ねた。
「……本当に、それでいいんだね?」
「当たり前でしょう!」
「分かった」
アレクシスは頷いた。
「では、後悔しないように」
そう言い残し、彼は大広間を後にした。
クラリッサは鼻を鳴らした。
「最後まで、何を考えているのか分からない男だったわね」
エドガーは彼女の肩を抱いた。
「気にするな。あんな男のことなど忘れてしまえばいい」
「ええ。そうするわ」
二人は笑い合った。
彼らは知らなかった。
自分たちが今、何を切り捨てたのかを。
※
アレクシスがグランベル子爵家に戻ると、養父であるグランベル子爵が書斎で待っていた。
「……婚約を破棄されたそうだな」
「耳が早いね、父上」
「王宮で行われた舞踏会だ。噂が広まるのも早い」
子爵は深いため息をついた。
「それで、どうするつもりだ?」
「どうもしないよ。婚約はなくなった。それだけだ」
「そうか……」
子爵は複雑な表情を浮かべた。
アレクシスは子爵家の三男として扱われているが、実際には血のつながりはない。
彼がこの家に来たのは、十八年前のことだった。
王宮の奥深くで、一人の女性が男児を産んだ。
女性の名はセレネ。
国王アルベルト三世が若い頃、心から愛した女性だった。
彼女は王妃ではなかった。王妃となる身分も後ろ盾もなく、正式な側室としての立場も不安定だった。
それでも、国王は彼女を愛していた。
そして、二人の間に生まれた男児こそ、アレクシスだった。
彼は王家の血筋において、最初に生まれた王子である。
すなわち、第一王子。
だが、その事実は公表されなかった。
当時、王宮には二人の王妃がいた。
正妃マルグリットと、第二王妃イザベラ。
二人はいずれも、自分の産んだ王子を次期国王にしたいと望んでいた。
マルグリットの息子は、当時生後間もない第二王子レオナルト。
イザベラの息子は、それよりさらに幼い第三王子ヴィクトルだった。
現在、レオナルトは十七歳、ヴィクトルは十六歳になっている。
本来ならば、第一王子であるアレクシスが王位継承の筆頭となる。
しかし、王妃ではない女性から生まれた王子が、正妃の子を差し置いて王位継承者となれば、王宮は大きく揺らぐ。
何より、二人の王妃はアレクシスを排除しようとするだろう。
実際、彼が生まれて間もない頃、セレネの部屋で不審な火災が起きた。
その後、乳母が毒殺されかけ、護衛騎士が何者かに襲撃された。
国王はすぐに調査を命じたが、事件の黒幕を公にすることはできなかった。
そこで国王は、最も信頼できる貴族の一人、グランベル子爵に幼い王子を託したのである。
アレクシスは、子爵家の三男として育てられた。
王家の血筋を知る者は、国王本人と、王室秘書官、グランベル子爵、そしてごく少数の側近だけ。
セレネは王宮から遠ざけられ、身分を隠して保護された。
彼女は数年前、病で亡くなった。
アレクシスは母の死を知らされたとき、泣いた。
しかし、国王が自分を捨てたとは思わなかった。
むしろ、自分を生かすために、どれほどの苦渋の決断をしたのかを理解していた。
「アレクシス」
子爵が静かに言った。
「そろそろ、陛下にお知らせするべきかもしれんな」
「何を?」
「君が、王立学院で首席を争うほどの才覚を持ち、王宮の貴族たちからも一目置かれるようになったこと。そして、君の婚約が破棄されたことだ」
アレクシスは少し考えた。
「……父上。僕は王位が欲しいわけじゃない」
「分かっている」
「ただ、誰かに利用されるためだけに生きるつもりもない」
「それも分かっている」
子爵は立ち上がった。
「だがな、アレクシス。君は王家の血を引く。それは、望む望まないにかかわらず、君の人生に関わることだ」
彼は机の引き出しから、一通の封書を取り出した。
王家の紋章が刻まれている。
「陛下からの手紙だ。君が十八歳になったら渡すようにと、預かっていた」
アレクシスは封を切った。
そこには、国王の直筆で、こう記されていた。
『愛する我が息子、アレクシスへ。
お前がこの手紙を読む頃、私はお前に真実を伝えられることを願っている。
お前は私の最初の息子だ。
お前を手放したのは、愛していなかったからではない。生きていてほしかったからだ。
私は今も、お前を愛している。
どうか、会いに来てほしい。
父より』
アレクシスは、しばらく手紙を見つめていた。
そして、静かに目を閉じた。
「……会いに行こう」
※
翌日。
王宮では、国王アルベルト三世が重臣たちを集めていた。
「陛下。グランベル子爵より、重大な報告が届いております」
王室秘書官が告げた。
「アレクシス殿が、王宮へ参内されるとのことです」
国王は、思わず椅子から立ち上がった。
「本当か!」
「はい」
国王は顔を覆った。
「十八年……長かった……」
彼はすぐに命じた。
「謁見の間を整えよ。王妃たちには、まだ知らせるな。まずは私が、息子と会う」
その日の午後、アレクシスは王宮を訪れた。
豪華な謁見の間。
金色の装飾が施された玉座。
左右には大臣たちが並び、近衛騎士が直立していた。
アレクシスは、玉座に座る国王を見上げた。
アルベルト三世は五十歳を過ぎていたが、威厳のある顔立ちと鍛えられた体格を保っていた。
国王はアレクシスを見ると、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
「……アレクシス」
「陛下」
「いや……」
国王は首を横に振った。
「父と呼んでくれないか」
アレクシスは、ほんの少しだけ目を見開いた。
そして、深く頭を下げた。
「……父上」
その瞬間、国王は息子を抱きしめた。
「すまなかった……。長い間、苦労をかけた……」
「父上。僕は、生きてここまで来られました。それだけで十分です」
「いや、十分ではない。私は父として、お前に与えるべきものを与えられなかった」
国王は息子の肩をつかんだ。
「だが、これからは違う。私はお前を守る。誰にも、お前を傷つけさせはしない」
アレクシスは、静かに頷いた。
その場にいた重臣たちは、誰も口を挟まなかった。
国王がこれほど感情を露わにする姿を見たことがなかったからだ。
やがて国王は、王室秘書官に命じた。
「王家の血統記録を持ってこい」
秘書官は、金庫から一冊の古い記録簿を運んできた。
そこには、アレクシスの出生に関する記録が厳重に保管されていた。
国王は記録簿を開き、重臣たちに示した。
「この者、アレクシスは、私とセレネの間に生まれた第一王子である」
ざわめきが広がった。
「第一王子……?」
「では、王位継承順位は……」
「王家の血統と法に照らせば、第一位だ」
国王は断言した。
「私はこれより、アレクシスの身分を正式に公表する。必要な手続きを進めよ」
しかし、王室秘書官が慎重に口を開いた。
「陛下。王妃陛下方への説明が必要かと」
「分かっている」
国王の目が鋭くなった。
「だからこそ、今日まで待ったのだ。アレクシスを守るために。だが、もう隠す必要はない」
そして、彼はアレクシスを見た。
「お前が望むなら、王位継承権を正式に認めよう。王太子となる道もある」
アレクシスは少し考えた。
「……父上。僕に、王国を知る時間をください」
「もちろんだ」
「それから、僕を狙った者たちについて、真実を明らかにしたい」
国王の顔から笑みが消えた。
「……そうか」
「母が亡くなった理由も。乳母が殺されかけた理由も。すべて知りたいのです」
「分かった」
国王は頷いた。
「必ず、明らかにしよう」
※
アレクシスの正体が明らかになった翌日、王宮は大混乱に陥った。
第一王子の存在。
十八年間にわたる秘密。
そして、国王が正式に王位継承者として認める意思を示したこと。
この知らせは、瞬く間に王都全体へ広まった。
正妃マルグリットは、報告を聞いた瞬間、手にしていた杯を床に叩きつけた。
「何ですって……?」
彼女の息子レオナルトは、現在十七歳。王立学院で学びながら、王宮で政務を学び、次期国王候補として扱われてきた人物だった。
「陛下は何を考えているの! 今さら第一王子ですって!?」
側近の侍女は、震えながら答えた。
「陛下は、アレクシス殿下を正式な王子として公表なさるご予定だとか……」
「そんなこと、許されるはずがない!」
マルグリットは立ち上がった。
「十八年前、あの女の子供は死んだと聞いていたわ!」
その言葉に、部屋の空気が凍りついた。
侍女は顔を青ざめさせた。
「……王妃陛下。今のお言葉は……」
「黙りなさい!」
マルグリットは怒鳴った。
だが、遅かった。
扉の向こうには、国王直属の近衛騎士が立っていた。
彼らは、王妃の発言を聞いていたのである。
その日のうちに、王妃の側近たちが次々と拘束された。
十八年前の火災。
乳母への毒殺未遂。
護衛騎士への襲撃。
それらの事件に関する証拠が、王室の秘密文書庫から発見されたのだ。
さらに、マルグリットの実家である公爵家の会計記録から、事件当時に不自然な資金の移動があったことも判明した。
国王は激怒した。
「王妃であろうと、我が子を殺そうとした罪は許されぬ!」
マルグリットは王妃の権限を停止され、王宮内での監視下に置かれた。
彼女の息子レオナルトも、事情聴取を受けることになった。
「私は何も知りません!」
レオナルトは必死に弁明した。
「母上が何をしたのか、私は本当に知りません!」
調査の結果、彼が事件に直接関与した証拠は見つからなかった。
国王は、息子を母親の罪だけで罰することはしなかった。
だが、彼が次期国王としてふさわしいかどうかは、別の問題だった。
レオナルトは、政務において重大な失策を繰り返していた。
財務報告を読まずに予算を承認し、貴族たちの派閥争いを放置し、国境の防衛計画を軽視していた。
それらは、これまで正妃の権力によって隠されていた。
アレクシスが王宮に入ったことで、彼の失策もすべて明るみに出た。
国王は、レオナルトに王位継承順位の見直しを告げた。
「お前には、しばらく政務から離れてもらう」
「父上! 私は王太子になるために、これまで努力してきたのです!」
「努力したことは認める。だが、努力したことと、国王にふさわしいことは同じではない」
「しかし……!」
「お前が本当に国を思うのなら、自分の能力を見つめ直せ」
レオナルトは唇を噛んだ。
その日、彼は事実上、王位継承争いから脱落した。
※
一方、婚約破棄をしたクラリッサとエドガーは、まだ事態を理解していなかった。
クラリッサは王立学院の友人たちとお茶会を開いていた。
「まさか、あのアレクシスが第一王子だったなんてね」
「本当に驚いたわ」
「でも、今さらでしょう? クラリッサ様は、もう婚約を破棄されたのですもの」
その言葉に、クラリッサは顔を引きつらせた。
「……そうね。でも、あれは仕方のないことだったのよ」
彼女は無理に笑った。
「私は、彼が王子だと知らなかったのですもの」
「それはそうだけれど……」
「もし知っていたら、婚約を破棄するはずがないでしょう?」
クラリッサはそう言って、自分を納得させた。
しかし、彼女のもとに届いた知らせは、さらに残酷なものだった。
ローゼンベルク公爵家の当主が、国王から呼び出されたのである。
そして、婚約破棄の経緯について、正式な説明を求められた。
公爵は娘を問い詰めた。
「クラリッサ。お前は、アレクシス殿下に何をした?」
「何って……婚約を破棄しただけですわ」
「だけ?」
公爵の顔が険しくなった。
「お前は、王族に対して公衆の面前で侮辱を働いたのだぞ!」
「でも、私は彼が王子だなんて……!」
「知らなかったから許されるとでも思っているのか!」
公爵は机を叩いた。
「お前は、グランベル子爵家との婚約を、自分の都合で一方的に破棄した。しかも、王宮の大広間で相手を侮辱し、周囲の貴族たちを煽った」
「それは……」
「さらに、エドガーとの関係についても説明してもらう!」
クラリッサは青ざめた。
エドガーとの関係。
それは、単に親しい友人というだけではなかった。
彼女は婚約期間中、エドガーと何度も密会していた。
二人は、アレクシスが地味で面白みのない男だと嘲笑し、彼を婚約者の立場から追い出す計画を立てていた。
クラリッサは、アレクシスに婚約破棄を受け入れさせた後、エドガーとの結婚を実現させるつもりだった。
しかし、その計画は完全に裏目に出た。
国王は、王族を公衆の面前で侮辱したクラリッサの行為を重く見た。
さらに、婚約に関する契約書を調べた結果、クラリッサ側に一方的な破棄の責任があることが確認された。
ローゼンベルク公爵家は、契約に基づいて多額の違約金を支払わなければならなくなった。
加えて、王家との関係を重視していた他の貴族たちも、ローゼンベルク家との縁談を次々と見直した。
クラリッサは社交界で孤立した。
以前は彼女に媚びていた令嬢たちも、今では距離を置いている。
「第一王子を自分から捨てた令嬢」
その評判は、王都中に広まった。
エドガーもまた、侯爵家から厳しく叱責された。
彼はアレクシスを侮辱しただけでなく、婚約期間中のクラリッサとの密会を繰り返していた。
侯爵家は、王家との関係を修復するため、エドガーを領地へ送り返すことを決めた。
さらに、彼が学院で他の生徒に対して行っていた嫌がらせや、貴族の名を利用した不当な要求まで発覚した。
侯爵家は彼を嫡男から外し、弟を後継者に指名した。
エドガーは、すべてを失った。
クラリッサも、エドガーも、かつては自分たちが勝者になると信じていた。
しかし、彼らは知らなかった。
アレクシスが、どれほど多くのものを背負って生きてきたのかを。
そして、彼が王家に迎えられた今、彼らの行為がどれほど重大な意味を持つのかを。
※
半年後。
王宮の大広間には、王国中から集まった貴族たちが並んでいた。
壇上には国王アルベルト三世。
その隣には、黒髪の青年アレクシスが立っていた。
国王が厳かな声で宣言した。
「ここに、アレクシスを正式な第一王子として認める。そして、次期王位継承者、すなわち王太子に任命する」
大広間が歓声に包まれた。
アレクシスは、一歩前に進み出た。
「私は、王国の民が安心して暮らせる国を築きたいと思います。身分や派閥にかかわらず、努力する者が報われ、弱い者が不当に踏みにじられない国を目指します」
彼の言葉に、多くの貴族が頷いた。
「そして、私は過去の過ちを繰り返しません。王族であることを理由に、責任から逃れることもいたしません」
国王は満足そうに微笑んだ。
「よく言った、アレクシス」
こうして、アレクシスは正式に王太子となった。
その後、彼は王宮の政務に加わり、財政改革と軍制改革に取り組んだ。
無駄な支出を削減し、地方の貴族たちと協力し、国境の防衛体制を立て直した。
また、母セレネの名誉も回復された。
彼女は正式に国王の寵愛を受けた女性として記録され、王家の墓所に葬られることになった。
アレクシスは、母の墓前で静かに祈った。
「母上。僕は、ようやくここまで来ました」
風が吹き、墓所の花々が揺れた。
「もう、誰にも命を狙われることはありません。僕は自分の人生を、自分で選べるようになりました」
彼は顔を上げた。
「だから、これからは父上と共に、この国を守っていきます」
その目には、迷いがなかった。
※
さらに一年後。
王太子アレクシスのもとに、一通の手紙が届いた。
差出人は、クラリッサ・フォン・ローゼンベルク。
彼女は、社交界から事実上追放され、父親の管理下で静かに暮らしていた。
手紙には、謝罪の言葉が綴られていた。
『アレクシス殿下。
あの日のことを、心よりお詫び申し上げます。
私は、あなたの価値を理解せず、身勝手な理由で婚約を破棄しました。
あなたが王子だと知っていれば、あのようなことはしなかったでしょう。
どうか、もう一度だけ、私に機会をお与えください。
クラリッサ』
アレクシスは手紙を最後まで読み、静かに机の上へ置いた。
そして、王室秘書官に命じた。
「返事を出してくれ」
「どのようなお返事を?」
アレクシスは、穏やかな笑みを浮かべた。
「婚約はすでに破棄されている。今後、私的な面会や書簡のやり取りは望まない、と」
「承知いたしました」
秘書官が去った後、アレクシスは窓の外を眺めた。
かつての婚約者を恨んではいなかった。
ただ、もう必要なかった。
自分を理解しようともしなかった人間に、再び人生を預ける理由などない。
それだけのことだった。
一方、クラリッサは返事を受け取ると、激しく泣き崩れたという。
彼女は、アレクシスが王子だと知っていれば、絶対に婚約を破棄しなかった。
しかし、その考えこそが、彼女の最大の過ちだった。
彼女が失ったのは、王太子妃という地位だけではない。
自分を大切にしてくれるかもしれなかった、一人の人間との未来だったのだ。
エドガーもまた、地方の屋敷で後悔の日々を送っていた。
彼は何度も王宮へ嘆願書を送ったが、アレクシスが取り合うことはなかった。
二人は、ようやく理解した。
自分たちが見下していた青年は、誰よりも高い場所へ上り詰めたのだと。
そして、彼がそこへ至る道を、自分たち自身が選んだのだと。
※
王太子となったアレクシスは、その後も国王のもとで学び続けた。
やがてアルベルト三世が退位すると、アレクシスは国王に即位することになる。
彼は王妃となる女性を身分だけで選ぶことはしなかった。
互いを尊重し、信頼し合える相手を選び、共に国を治めた。
彼の治世は、後世の歴史家から高く評価されることになる。
そして、王国の歴史書には、彼の人生について、次のような一文が記された。
『第一王子アレクシスは、幼少期に王宮を離れ、身分を隠して育てられた。彼はその境遇を恨むことなく、自らの才覚と努力によって王太子となり、やがて名君として王国を導いた』
『一方、彼との婚約を破棄したクラリッサ・フォン・ローゼンベルクと、彼を侮辱したエドガー・フォン・ハルツは、その後、王家との関係を失い、社交界から姿を消した』
『二人は、彼の正体を知らなかったことを悔やんだという』
だが、アレクシスは、その記述を読んでも笑わなかった。
彼にとって、クラリッサたちが何を失ったかなど、もはや重要ではなかったからだ。
彼が大切にしたのは、自分を愛してくれた父と、命を懸けて守ってくれた養父、そして自分を信じてくれる人々だった。
かつて、婚約破棄を突きつけられた青年は、もうどこにもいない。
彼は今、王国を背負う王太子として、堂々と前を向いて歩いていた。
そして、誰もが知ることになる。
人を身分だけで判断し、その価値を見誤った者は、いつか必ず、その報いを受けるのだと。
婚約を破棄された子爵家の三男は、第一王子として王太子の座に就いた。
そして、自分を捨てた者たちは、最後まで彼に追いつくことができなかった。




