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「あなたのためだから」と筆頭侍女に手柄を奪われ続けていた私。菜園で慰めてくれていたのは実は王太子殿下でした

作者: 唯乃
掲載日:2026/02/17

 王宮の侍女。それは、没落寸前の我が家にとって唯一の希望だった。


「精一杯、お役に立てるよう頑張ります」


 新任侍女として紹介された私、リアナが深く頭を下げると、正面から冷ややかな視線が突き刺さった。


「……随分と、貧乏くさい娘ね」


 扇子で口元を隠し、鼻で笑ったのは筆頭侍女のマグダラ。


 彼女はこの後宮の「秩序」そのものと言われる権力者だ。


「家柄も知れたもの。所作も田舎臭い。……まあいいわ。まずはそうね…過去三カ月分の在庫目録を明日の朝までに整理し直しておきなさい。新人教育の一環よ」


 差し出されたのは、優に千枚を超える乱雑な書類の山。


「……明日、までですか?」


「あら、不服かしら? あなたのためを思って言っているのよ。 若いうちに苦労しておかないと、王太子殿下の御前になんて一生出られないわよ」


 その言葉に、周囲の先輩侍女たちはクスクスと忍び笑いを漏らす。


 歓迎の空気など微塵もなかった。


 それから私は徹夜で書類と格闘した。

 元々、数字の整理と報告書の作成には自信がある。マグダラ様が「わざと」乱雑に混ぜたであろう書類の中から、重複した発注や、使途不明の備品費用を洗い出し、完璧な対照表を作り上げた。


「……マグダラ様、目録の整理が終わりました。こちらが修正済みの報告書です」


 翌朝。クマの浮いた顔で差し出した私に、彼女は中身を一瞥もせず、その書類をパサリと床に落とした。


「遅いわ。それから、字が汚くて読めないわね。これは私が処分しておくから、あなたはあちらの銀食器の磨き直しをなさい。全部よ」


「……っ、ですが、その報告書には一部予算の不審な点が……」


「黙りなさい。新人が意見するなど、この宮廷の『規則』に反します」


 マグダラ様は私の努力の結晶を、まるでゴミのように足蹴にして笑った。


 けれど、彼女はその日の午後、宰相閣下への定期報告に、私の書いた報告書をそっくりそのまま、自分の名義で提出していた。


 廊下の陰から、彼女が宰相に褒められている声が聞こえる。


「……流石はマグダラだ。これほど細かな使途不明金まで見抜くとは、感服したよ」


「恐れ入ります、宰相閣下。わたくし、寝る間も惜しんでまとめましたの」


 宰相の冷静な声と、マグダラ様の猫なで声。


 私の指先は、銀食器を磨きすぎて真っ赤に腫れていた。


「……くやしい」


 ポツリとこぼれた涙が、磨き上げた銀の皿に落ちて歪んだ自分の顔を映した。





マグダラの嫌がらせは続いた。


「あら、リアナ。その刺繍は何? 雑巾の繕いかしら?」


 私が中庭の東屋で、王太子殿下の夜着に施す紋章の刺繍を仕上げていると、背後からマグダラの粘りつくような声がした。


 数日間、一生懸命、針を動かし、指先は穴だらけ。それでも殿下のためにと、一針ずつ祈るように縫い上げたものだ。


「…王室専属侍女の方から補修を承りました。龍の鱗の並びが乱れていたので、金糸で打ち直して……」


「ふうん。でも、その色、殿下はお嫌いなのよね」


 マグダラはそう言うなり、私の手元から夜着をひったくった。


 そして、手近にあった生け花のバケツの泥水の中へ、それを迷わず落とした。


「あ……っ!」


「あら、手が滑ったわ。でも、ちょうど良かった。殿下の気性を知らない新人が、勝手な解釈で紋章を汚すなんて万死に値するわ。……全部解いて、明日までに真っ新な状態に戻しておきなさい。もちろん、洗い直して乾かしてからね」


 泥に塗れた殿下の夜着。


 解くということは、私の数日間の努力を、自分の手でひとつひとつ否定していく作業だ。


「何をしているの? 早く拾いなさい。汚らしいわね、あなたも、その布も」


 マグダラは私の指先の絆創膏を、ヒールの先で軽く踏みつけた。


「……申し訳、ございません」


 私は涙を堪えながら謝罪する。ここで泣くわけにはいかない。没落寸前の我が家を建て直すために、ここに来たのだから。


「返事だけは立派ね。あ、そうそう。明日の朝食の準備、厨房の担当者が急病で休むんですって。あなたが代わりに入りなさい。火おこしから全部、一人で。……ああ、でも夜着の修繕が先よ? あなたのためを思って言っているのよ。 睡眠時間を削ってでも、責任を果たす喜びを教えたいの」


 彼女が去った後、冷たい泥水の中から夜着を引き上げる。


 指先の傷が泥水で沁みる。


 それ以上に、「自分がやったことの全てが無駄になる」という徒労感に打ちのめされる。

 それでも、私は針を持った。

 私一人が耐えれば全て上手く行くはず。そう自分に言い聞かせて。





 マグダラから「歩き方」と「お辞儀」を数時間にわたって理不尽に修正され、夕食抜きを言い渡された日の夜。


 私は、厨房の裏手にある小さな菜園にいた。

 実家で覚えた野菜作りの癖が抜けず、こっそりハーブや根菜を育てていたのだ。


「……ううっ、……ひっ、……ふ、ふえぇん……」


 土をいじっていると、堪えていたものが溢れ出した。


 泥のついた手で目をこすり、しゃがみこんで声を殺して泣く。


 報告書の手柄を奪われ、丹精込めた刺繍を汚され、存在そのものを否定される毎日。


「私、なんのためにここに……」


「……随分と景気のいい泣き声だな。失恋か?」


 不意に頭上から降ってきた声に、心臓が跳ねた。


 慌てて顔を上げると、そこには見慣れない「女性」が立っていた。


 侍女の制服ではなく、少し地味な街娘のような格好に漆黒の長髪。


「あ……ご、ごめんなさい! 誰か、いらっしゃるとは……」


「気にするな。私も、窮屈な箱から抜け出してきたところだ」


 その「彼女」は、スカートを気にする様子もなく私の隣にどさりと座った。その瞬間、微かに淡く甘い、そう、まるで鈴蘭の花ような甘い香りが鼻先を掠めた。


 近くで見ると、女性にしては少し背が高い。そして、何より、これまで見た事がないくらいに端正な顔立ちをしている。その瞳は驚くほど澄んでいて、月光を反射して鋭く輝いている。


「……何があった。言ってみろ。泥をいじりながら泣くのは、体に毒だぞ」


 ぶっきらぼうだが、不思議と拒絶を感じさせない声だった。


 私は、誰にも言えなかった胸の内を、堰を切ったように話し始めた。


 マグダラ様の「あなたのためを思って」という呪いの言葉。ミリ単位の言いがかり。奪われた手柄。


「……『規則』、か。くだらない。あのお局は、自分の都合を国の規則にすり替えるのが得意らしいな」


「彼女」はフン、と鼻で笑うと、私の横で芽吹いていたカブを指差した。


「だが、お前の育てたこのカブは正直だ。……踏まれても、泥をかけられても、土の下で着実に太くなっている。お前と同じだな」


「え……?」


「泣き疲れたら、顔を洗って寝ろ。……明日も、その『お局』の眉間にシワを寄せてやるくらいの、完璧な仕事をしてやれ」


 そう言って「彼女」は立ち上がり、私の頭をポン、と無造作に撫でた。


「……あの、お名前は?」


「……ウィ…ウィルだ。また、気が向いたらここに来る」


 風のように去っていった彼女―ウィルの背中を見送りながら、私は自分の胸が高鳴っていることに気づく。


 女性に対して「ときめく」なんて変かもしれないけれど。


 彼女の強さと優しさが、冷え切った私の心に小さな火を灯してくれた。


(……明日も、頑張ってみよう)





 マグダラ様の執拗な嫌がらせが日常となった頃、私の唯一の救いは、夜の菜園でのウィルとの会話だった。


「またあのお局か。……今度は何分間頭を下げさせられた?」


「今日は三十分です。角度が悪いって……」


 ウィルは、私の横で無造作に地面に座り、私が育てたハーブの香りを嗅いでいる。


「そんなの、お前の頭の形が良すぎて嫉妬しているだけだ。気にするな」


「ふふ、ウィルさんはいつも極論ですね」


 最初は警戒していた私だったが、次第に何でも話せるようになっていた。


 ウィルは口は悪いけれど、私の話を否定せずに聞いてくれる。


「どうしてマグダラを放置してるんだ?上役は何をしている」


「マグダラ様は、上と↓に対する態度が正反対なのです。それで、上司には凄くウケが良くて。それに…」


「それに、何だ?」


「実は、マグダラ様は、王太子殿下からの寵愛を受けておられるとか。それで、誰もマグダラ様には逆らえないと、下級侍女達の間で噂になっております」


 それを聞いたウィルは、一瞬、唖然として口を開けたまま止まる。


「王太子が、あの、マグダラを?絶対にあり得ない。ただの噂だ。気にするな」


 ウィルが断言する。


(今はこうして普通にお話ししてるけど、もしかして、ウィルって結構身分の高い方なのかしら)





「リアナ、あなたに大役を与えるわ。今夜の『隣国特使との晩餐会』、その会場設営と最終確認を一人で担当しなさい」


 マグダラの言葉に、周囲の侍女たちが息を呑んだ。


 特使との晩餐会は、両国の友好関係を左右する最重要行事だ。新人に任せるなど、本来ありえない。


「……私一人で、ですか?」


「あら、光栄に思いなさい。あなたのためを思って言っているのよ。 これを乗り越えれば、誰もあなたの実力を疑わなくなるわ。……これが『指示書』よ。一字一句、間違いのないようにね」


 渡されたのは、黄ばんだ古い羊皮紙だった。


 その日から、私は必死で準備を進めた。特使の好む香、花の配置、銀食器の並び順。

 だが、何かがおかしい。指示書にある特使の「好物」や「忌避すべき色」が、図書室で調べた最新の外交資料と食い違っている。


「マグダラ様、この指示書ですが、昨年の特使の好みとは異なるようです。確認させていただいても……」


「……リアナ。あなたは私の指示書を疑うの? これは、私が直々に特使の侍従から聞き出した最新の情報よ。新人が出過ぎた真似をしないで。あなたの家、借金まだあるのよね?」


 家のことを持ち出されると、私は口を閉ざすしかなかった。





 晩餐会当日。


 会場は、私の懸命な働きにより、指示書通りに整えられた。


 だが、特使が足を踏み入れた瞬間、空気は凍りついた。


「……これは、どういう嫌がらせか」


 特使の顔が怒りに染まる。


 彼が最も忌み嫌う「死を象徴する花」が中央に飾られ、彼の宗教で禁忌とされる食材がメインディッシュに並んでいた。


「申し訳ございません、特使閣下!」


 マグダラが、待ってましたと言わんばかりに前に出た。


 そして、列の後ろで凍りついている私を、鋭い指先で指した。


「すべては、この新任侍女……リアナの独断によるものです! 私は再三注意したのですが、彼女は『自分の方が有能だ』と私の指示書を破り捨て、勝手な真似を……!」


「……っ、そんな! 私は、マグダラ様の指示書通りに……!」


「黙りなさい! 」


 マグダラは皆の前で、私の頬を高く打った。


 パァン、という乾いた音が広間に響き渡る。


「申し訳ございません。私の教育不足です。この者は、今すぐ地下牢へ……!」


 賓客たちの冷ややかな視線。


 同僚たちの「やっぱり関わらなくて良かった」という蔑みの目。


 視界が涙で滲む。


 何を言っても、証拠がない。マグダラの事だ。仕様書もすでに処分されているだろう。私の言葉は、筆頭侍女の権力の前では羽毛よりも軽い。


「……ごめんなさい……っ」


 私は床に膝をつき、ただ震えることしかできなかった。





「地下牢? ――いや、その必要はない」


 氷の塊を投げ込まれたような、冷徹で、けれど良く通る声が広間に響いた。


 跪き、床に涙をこぼしていた私は、その声に弾かれたように顔を上げた。


 人垣を割って歩み出てきたのは、この国の第一王子、ウィリアム・フォン・アステリア。


 公式の場でも滅多に姿を見せない「冷静沈着」の代名詞。


(え……?)


 私は、呼吸を忘れた。


 その切れ長の瞳。通った鼻梁。そして、少しぶっきらぼうに結ばれた唇。


 豪華な礼服に身を包み、威厳を纏っているけれど、その面影は、菜園で隣に座っていた「ウィル」と瓜二つだ。


 ウィリアム殿下は私の方へと歩み寄り、床についた私の汚れた手を、躊躇いもなくその大きな掌で包み込んだ。そして、ふわりと香る鈴蘭の匂い。間違いない。この香りは、何度も菜園で…


「立て、リアナ。君が謝る必要はない」


「……あ……っ……」


「で、殿下! このような不浄な者のために、お手を汚される必要はございません。すぐに衛兵が……」


 マグダラが焦ったようにすり寄るが、ウィリアム殿下は彼女を一瞥もしない。

 

 声が出ない。ウィルが、殿下? 殿下が、ウィル……?


 混乱する私を庇うように背に隠すと、殿下は冷え切った眼差しをマグダラへと向けた。


「マグダラ。君は先程、彼女が君の指示書を破り捨てたと言ったな」


「は、はい! 左様でございます。わたくし、最新の資料を渡しましたのに、彼女が……」


「……ふむ。では、これは何だ?」


 殿下が懐から取り出したのは、鈍く光る小さな水晶――『魔導記録水晶』だった。


 彼が軽く指先で触れると、水晶が淡く発光し、広間の空中に鮮明な映像が映し出された。

『……リアナ。あなたは私の指示書を疑うの? これは最新の情報よ』


 映像の中のマグダラが、あの「黄ばんだ古い羊皮紙」を突きつけている。


 特使が絶句する。それは、彼が今夜目にした、あの「禁忌」が記された指示書そのものだった。


「な……ッ!?」


 マグダラの顔が、一瞬で土気色に変わる。


「君が彼女に渡した『最新の指示書』は、実際には三世代前の古い資料だ。さらに言えば、君が先程暖炉に投げ捨てた紙片も回収させてもらった。……すべて、私の指示でね」


「あ、あ、あれは……教育の一環で、試練を……!」


「試練? 国家の賓客を侮辱することがか? ……不敬なのは、どちらかな」


 殿下の声は怒鳴っているわけではない。むしろ、あまりに静かで、だからこそ逃げ場のない死刑宣告のように響いた。

 

「……特使閣下。不快な思いをさせたことをお詫びする。だが、この宴を台無しにした真犯人は、今ここに暴かれた。……さて、マグダラ。君が愛してやまない『王宮の規則』に従い、正しく吟味を行おうじゃないか」


 殿下の大きな手が、そっと私の肩に置かれた。


 静まり返った広間に、マグダラの荒い呼吸の音だけが響いている。


 彼女は周囲を見渡すが、先ほどまで彼女に媚びを売っていた侍女たちは、一斉に目を逸らし、蜘蛛の子を散らすように距離を取っている。


「……何か言い残すことはあるか、マグダラ」


 ウィリアム殿下の声は、冷徹な刃のように彼女の逃げ道を断った。


「そ、それは……! わたくしは、ただ、新人の教育を……! 彼女が、あまりに覚えが悪いので、厳しく指導していただけでございますわ! すべては王宮の秩序を、規則を守るため……!」


「『規則』、か。……よく言った」


 殿下はフッと口角を上げたが、その瞳は一切笑っていない。


 彼は手元の別の記録水晶を起動させた。そこに映し出されたのは、夜の廊下で私に「お辞儀の角度」をミリ単位で強要し、数時間も立たせ続けているマグダラの姿だった。


「この国の侍女規則に、お辞儀の角度を定めた項目など存在しない。さらに言えば、君が『書き直した』と主張し、自分の手柄として提出していた数々の報告書――」


 殿下が合図をすると、側近が数冊の書類を持ってきた。


「その原本には、リアナの筆跡が残っている。君は他人の成果を盗用し、虚偽の報告を繰り返していた。……マグダラ、君が口にしていた『規則』とは、一体どこの国の法律だ?」


「あ……あう……」


「君がリアナに浴びせていた言葉を、そのまま返そう。……これは『あなたのためを思って』言っていることだ」


 殿下は一歩、マグダラの前に踏み出した。


「王家への虚偽報告、公文書の改竄。そして、国家の賓客を巻き込んだ今回の不敬。……これらが揃えば、君の家門がどうなるか、法に詳しい君なら理解できるだろう?」


 マグダラの顔が、絶望に歪んだ。


 この場で叫び、命乞いをする美学すら、彼女には残されていない。


 殿下の冷徹なロジックによって、彼女の築き上げてきた「完璧な筆頭侍女」というキャリアも、実家の信用も、今この瞬間に消え去ったのだ。


「筆頭侍女の職を解任し、宮廷から追放する。以後の処遇は、法務局での取り調べ次第だ。……連れて行け」


 衛兵によって引き立てられるマグダラは、もはや反論する力もなく、ただ力なく引きずられていく。


 静かすぎる幕引き。けれど、それが何よりも重い罰であることを、その場にいる全員が悟っていた。


 騒がしかった広間に、ようやく本当の平穏が訪れる。


 殿下はゆっくりと私の方へ向き直ると、その表情をふっと和らげた。


「……さて。随分と、不作法な主で悪かったな、リアナ」


 その言い方は、王太子としてではなく、あの菜園で私を励ましてくれた「ウィル」そのものだった。





 騒動から数日後。


 マグダラ元筆頭侍女とその実家が、公文書偽造と不敬罪で厳しい沙汰を受けたという知らせは、瞬く間に宮廷内を駆け巡った。


 それと同時に、私は王太子殿下直属の「専属侍女」として、異例の抜擢を受けることになった。


「……あの、殿下。私のような者が、殿下のすぐ側でお仕えするなんて」


 執務室に呼び出された私は、慣れない高級な制服の裾をいじりながら、緊張で声を震わせていた。


 デスクで書類をめくっていたウィリアム殿下――ウィルは、顔を上げると、あの日菜園で見せたような悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「まだそんな顔をするのか。……ここでは二人きりだ。前のままでいいと言っただろう、リアナ」


「そうは仰いましても、ウィルさんが……いえ、殿下が、まさか女装して私の菜園にいらしてたなんて、まだ信じられなくて」


「ああ、あれか。仕方がないだろ…執務室を抜け出すには、侍女の格好が一番紛れ込みやすかったんだよ。女装趣味という訳ではない。誤解するな」


 彼は立ち上がり、私の前まで歩み寄ると、その大きな手で私の頭を優しく撫でた。

 あの夜、泥だらけの私を慰めてくれた、温かくて大きな手と鈴蘭の淡い香り。


「君は、誰にも見られていない場所でも、常に完璧な仕事をしていた。……私の夜着の刺繍も、あの泥水から拾い上げて、完璧に直してくれただろう?」


 彼はそっと自分の胸元を指差した。そこには、私が一度解き、再び一針ずつ縫い直したあの金糸の紋章が、誇らしげに輝いている。


「君の努力も、誠実さも、最初からすべて分かっていた。……これからは、もう泥を被る必要はない」


「殿下……」


 彼の手が私の頬に滑り、まだ少しだけ残っていた赤みを愛おしそうになぞる。

 

「……それに。例の菜園のカブだが」


「え?」


「収穫したら、私が一番に食べると決めている。……もちろん、他の誰にも分け与えるつもりはない。このカブを育てるのも、収穫するのも……そして、私の隣にいるのも、君だけの仕事だ」


 そう言って、彼は私の耳元で低く囁いた。


「これからは、名実ともに私の『専属』になってもらう。君の全ては私のためだけに使え。…いいな、リアナ?」


 その言葉に、私の顔は一気に真っ赤に染まった。


 「専属侍女」という公職の響きを借りて伝えられた、隠しきれない独占欲。


 仕事としての「専属」ではなく、彼個人にとっての「特別」になりたいと願っていた私の心を見透かされたようだった。


「……はい、喜んで。ウィルさん」


 私が微笑んで答えると、彼は満足げに目を細め、そのまま私を優しく抱き寄せた。


 窓の外には、あの日二人で見上げた月が、祝福するように穏やかな光を投げかけていた。



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