商業地区~忠誠を誓うものと誓われるもの~
第8話どうぞご覧下さい!
セラフィナは、震える指を、震えそうになる声を必死に抑えていた。
泣いてはいけない。
そう思えば思うほど、胸の奥が熱を帯び、視界が滲む。
アトラスは何も言わず、部屋を出るために歩き出す。
「ドレスに着替えたら呼んでくれ」
「時間は、かけてもいい」
それだけを告げ、彼は振り返ることなく扉へ向かった。
その背中が、セラフィナの中に残る“貴族としての誇り”を、踏みにじらぬよう守っていることを、彼女は無意識のうちに理解していた。
扉が静かに閉まる。
部屋に残されたのは、セラフィナただ一人だった。
用意されたドレスへと視線を落とし、彼女は堪えきれず涙を流す。
柔らかく、指に吸いつくような上質な手触り。
それは、かつての記憶を思い出させる。
数分後。
涙を拭い、深く息を整えると、セラフィナは何年ぶりかのドレスに袖を通した。
着替えを終え、扉を開ける。
「マスター……着替え終わったわ」
待っていたアトラスは、短く頷く。
「わかった」
「行くぞ」
「屋敷の前に、馬車を待機させてある」
二人は屋敷を出て、停められていた馬車に乗り込む。
御者が手綱を振り、馬車は静かに走り出した。
車内で、アトラスが口を開く。
「最初に向かうのは、我が領地ヴァスタスが誇る商業地区だ」
その言葉に、セラフィナは幼い頃に見た王都の市場を思い出す。
「商業地区?」
「ねえマスター……欲しいもの、買ってもらってもいい?」
少し遠慮がちに投げかけられた問いに、アトラスは即答した。
「ああ、いいぞ」
「それに、生活必需品や日用品も買い揃えるつもりだった」
「……どういうこと?」
疑問を浮かべるセラフィナに、彼は淡々と説明する。
「屋敷の君の部屋には、今はベッドしかないだろう」
「それでは寝ることしか出来ない。気も休まらない」
「本や机、趣味の品――インテリアも含めて、揃える」
セラフィナの顔が、ぱっと明るくなる。
「ありがとう! マスター!」
やがて、窓の外に街並みが見えてきた。
「商業地区が見えてきたぞ」
王国の“白”で統一された景観とはまるで違う。
色は統一されていないが、黒を基調とした近代的な建物が立ち並び、活気に満ちている。
その光景に、セラフィナは思わず問いかけた。
「ねえ、マスター」
「どうした?」
言いにくそうに、彼女は言葉を選ぶ。
「確かヴァスタスは……元々豊かではなくて」
「それにアウローラ家の支配下で非人道的な行いがあったとして、王国から無期限の援助停止を受けているはずよね」
「それなのに……どうして、こんなに栄えているの?」
アトラスは、少しだけ息を吐いた。
「不思議に思うのも無理はない」
「俺の両親の代までは、確かにその通りだった」
彼は語る。
「俺が十歳の時、両親に代わって年の離れた従兄弟――リオスが、俺が十五になるまでの五年間、領主を務めた」
「彼が、この地の土台を築いた」
「その後、俺が正式に領主となり、工業を主産業に据えた」
「公共事業を通して民に学ばせ、育て、発展させた」
「成熟したところで、民間へ引き渡した」
「今は、税を納めてもらい、それで領地を運営している」
彼はセラフィナを見る。
「……これで答えになったか?」
セラフィナは、静かに頷いた。
やがて馬車が止まる。
アトラスは服装を軽く整え、立ち上がる。
「さて、降りるか」
「セラフィナ、行くぞ」
商業地区に足を踏み入れた瞬間、歓声が溢れる。
女性からは黄色い歓声、男性からは尊敬と感激の声が聞こえる。
アトラスは一歩前へ出て、ゆっくりと口を開く。
「皆の者、出迎えに感謝する」
その声は決して大きくはない。
だが、不思議と商業区全体に行き渡った。
「これだけ多くの者が集まってくれた。だから、話しておきたい」
一拍、間を置く。
「まずは――感謝だ」
彼は、民一人ひとりを見渡すように視線を巡らせる。
「我が領地ヴァスタスは、決して恵まれた地ではない」
「加えて、我がアウローラ家は王国から忌み嫌われてきた」
人々の間に、小さなどよめきが走る。
「その結果、援助は断たれ、苦しむのは常に民だった」
「……それを、我が家は止められなかった」
アトラスは、言葉を選ぶように一度息を吐いた。
「いや、正しく言おう」
「我が家は、民に苦を背負わせることに慣れてしまった」
沈黙が落ちる。
「先々代領主であり私の父、レグルス・アウローラは、権力と軍事力に溺れた」
「領主でありながら、民を見ることを忘れた」
その瞬間、何人かの老いた民が、静かに目を伏せた。
「――それでも」
声に、わずかな熱が宿る。
「それでも、皆はこの地を捨てなかった」
「先代領主リオス・アウローラ、そして私を信じ、十三年という時を共に歩んでくれた」
アトラスは、深く、深く頭を下げる。
「私は、皆に感謝している」
「これほどの忠誠と忍耐を示してくれた民を、誇りに思わぬ領主はいない」
顔を上げる。
「皆は、私の誇りだ」
「そして、これからも――誇りであり続けてほしい」
誰かが、堪えきれずに涙を拭った。
「私は誓う」
「ヴァスタスの民であるというだけで蔑まれる、この国を変える」
「皆が胸を張り、この地の名を名乗れる未来を、必ず掴み取る」
静寂ののち、誰からともなく膝をつく音が広がっていく。
アトラスは、穏やかに告げた。
「……ありがとう」
「もう一つ聞いて欲しい」
「私の隣にいる者についてだ」
「この者は元公爵ヴェスティア家の一人娘、セラフィナ・ヴェスティアだ」
「今は、私の管理下にある」
「この街を歩いていても、誰も害することはないから受け入れてやって欲しい」
「――以上だ。聞いてくれて感謝する」
人々は散り、それぞれの仕事へ戻っていく。
アトラスは歩き出した。
「さて、セラフィナ。買い物としよう」
「はい!」
その日、セラフィナが見た領地の姿、聞いた領民の声、そしてそれに応えようとするアトラスの背中は、深く彼女の胸に刻まれた。
――貴族とは、何なのか。
両親の言葉が、静かに蘇る。
『セラフィナ、貴女は貴族として――
なんの曇りもなく、誇り高く生きなさい』
その意味を、彼女はようやく理解し始めていた。
今回は結構長めになってしまいました




