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4.不穏な影

 あれから、気付けば丸二年が経っていた。


 王太子との婚約破棄まで、いよいよ残りわずか数ヶ月。


 ルクレツィアは屋敷のバルコニーから静かに庭を眺めながら、内心で状況を整理していた。


(商会の準備は整ったわ。名も顔も出さず、すべては信頼できる商人ベルント様に任せている。あとはこのまま静かに破滅を待つだけ――)


 自ら厨房に立つことも、今ではもうない。

 若手の新興商人ベルント・レンツと出会ってから、多額の出資を行い、新たにレンツ商会を立ち上げさせた。以後は商会の運営をすべて彼に一任している。

 最初の試作品はすでに高い評価を得ており、生産も安定して供給体制が整った。商人たちは着実に取引の幅を広げ、地方貴族の間では「新興の珍味商会」として徐々に名を知られるまでになっている。

 だが、その商会がルクレツィア・アルモンド公爵令嬢と繋がっている事実は、いまだ誰の耳にも入っていない。すべては周到に、慎重に、慎重に進めてきたのだ。


「お嬢様、今日の予定でございます」


 侍女リリーが手帳を差し出す。ルクレツィアは静かに頷いた。


「ありがとう、リリー」


 予定表には今日の社交行事が記されている。王宮主催の茶会。主賓はもちろん――聖女ソフィア。


(ソフィアは……完全に王道ルートに入ったわね)


 王宮の公式な行事にソフィアが頻繁に同席するようになって、すでに一年以上が経っていた。今や彼女はすっかり「未来の王太子妃」として周囲の扱いも変わってきている。もちろん、ルクレツィアとアズライルの婚約は未だ正式に解消されていないが、それも時間の問題だろう。


 王太子は、ここ最近ルクレツィアにほとんど会おうともしない。公務以外では、必要最低限の形式的な会話のみ。代わりに、隣には常にソフィアの姿があった。


(これで、私がソフィアに何かしていれば即婚約破棄になったけれど……今回はそうはいかない。あくまで自然に、殿下の意志で破棄を切り出してもらうのを待つしかないわ)


 本来の乙女ゲームなら、悪役令嬢ルクレツィアが聖女に陰湿な嫌がらせを繰り返し、それを見た王太子が怒って婚約破棄を宣言する流れだった。

 だが、この世界線では、ルクレツィアはソフィアに一切手を出していない。むしろ、表向きは穏やかに敬意を払って接している。完全に、筋書きは変わっているはずだ。


(でも王子ルートに入った以上、いずれ婚約破棄は起きる。それがゲームの流れだもの)


 そこに、扉の外から小声で知らせが入った。


「お嬢様、ベルント・レンツ様がお見えです」


 リリーの声に、ルクレツィアは静かに頷いたが、その胸中では微かな緊張が走っていた。ベルントが、わざわざ手紙も寄越さず直接訪ねてくることなど滅多にない。


(なにか良くないことでも怒ったのかしら……?)


 やがて、控え室に通されたベルント・レンツが現れた。若き商人らしい端整な顔立ちは普段と変わらないが、その表情には張り詰めた気配と疲労の色が浮かんでいる。


「ルクレツィア様、いつもお世話になっております」


「ええ。わざわざお越しくださりありがとうございますわ。……何か、問題でも?」


 ルクレツィアが促すと、ベルントはわずかに逡巡してから口を開いた。


「……実は、最近どうも商売の調子がおかしくておりまして。ここに来て急にいくつかの取引先が契約を打ち切る動きを見せております。それも、一社二社ではなく、まるで……何者かの手が入っているかのように、同時に。」


「……何者か?」


 ルクレツィアは思わず声の調子を低くしてしまう。ベルントは静かに頷いた。


「表立った証拠はございません。ただ、どうにも不自然なのです。今まで順調だった取引先が次々と『新たな取引先が現れた』と言い出し、こちらの品を断るのです。しかも、その新たな取引先というのが、どこも詳しい素性を明かさない」


 ルクレツィアの胸に嫌な予感が広がっていく。


(誰かが――意図的に潰そうとしている?)


「……考え過ぎであれば良いのですが、このままでは徐々に売上も落ち込んでしまいます。今後の投資計画も再検討せざるを得ません」


 ベルントは慎重に言葉を選びながらも、確かな危機感を滲ませていた。


(よりにもよって、なぜ今なの……?)


 ルクレツィアは内心で歯噛みした。追放まで残された時間は、もうほんのわずか。すべての計画は、その後に穏やかな商会の立ち上げと生計の確保に向けて準備を進めてきたのに――まるでそれを嗅ぎつけたかのようなタイミングで、不穏な動きが現れ始めている。


「……そう、分かりましたわ。考えても仕方ありませんわね。まずは誰が裏で動いているのか、その正体を探りましょう。調査はあなたに任せます」


「かしこまりました」


 ベルントは深く頭を下げる。その背を見送りながら、ルクレツィアは静かに目を伏せた。


(もしこれが単なる商売上の競争ではなく、私の関与を把握した上で仕掛けられているのだとしたら――厄介どころでは済まないわ)


 それは、まるで見えない手に少しずつ包囲網を狭められていく感覚だった。これまで細心の注意を払って名前も姿も伏せ、慎重に準備を進めてきたのに。誰かが、それを嗅ぎつけ始めている――そんな不穏な予感が背筋を冷たく撫でていく。


「……リリー」


「はい、お嬢様」


「念のため、しばらく屋敷の出入りをもう少し厳重にしておいて。使用人たちにも目立たぬよう注意を促しておいてちょうだい」


「かしこまりました」


 リリーは深く頷き、そのまま静かに部屋を下がった。


 ルクレツィアはバルコニーの外に目を向けた。色づき始めた秋の庭園が、どこか冷たく見える。


(残りわずかな時間なのに……まさか今になって、誰かが邪魔を仕掛けてくるなんて)


 そう考えた瞬間、不意に胸の奥がざわりと騒めいた。


(――いや、もしかしてこれは、もっと大きな流れの一部なのかもしれない)


 まるで、目に見えぬ何者かが、婚約破棄という筋書きだけでは満足せず、さらに別の終焉を用意しているかのように。


 ルクレツィアはそっと唇を噛んだ。


(まだ、終わらせないわ。せめて――最後まで抵抗する)


 ――そして、破滅への決定打は思いのほか早く訪れることになる。


 ある日、王宮からの呼び出しが届いた。

「聖女ソフィアへの嫌がらせに関する審問」

 という名目で。

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