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25.破滅を迎える

 それから、私は信じるだけでなく『祈る』ようになった。

 いや、正確には――祈らずにはいられなくなった。


 ――神様、私の腕を折るなら、どうか私の心まで壊さないでください。


 ――神様、今夜もあの人たちが来るのなら、どうか私の記憶を奪ってください。


 ――神様、私を使うなら、せめて、意味を与えてください。


 私は何度も祈った。

 殴られるたびに。裂かれるたびに。焼かれるたびに。血を流すたびに。心を壊されるたびに。

 それでも、神の名を呼び続けた。


 もし神がいないなら、それはそれでいい。

 でも、もしほんの一滴でも神がこの世にいるのなら。

 私の苦しみに、何かの形を与えてほしかった。



 そしてある日、それは突然に起きた。


 目覚めても、誰も私を叩かなかった。

 殴声も、嘲笑も、聞こえなかった。

 薬も、実験器具も、部屋に持ち込まれなかった。


 朝になっても、誰も来なかった。


 私は、不思議に思いながらも、いつものように祈った。

 久しぶりに、恐る恐る声に出してみた。


「……か……かみ……さ……」


 喉がかすれていた。

 唇は思うように動かず、言葉が音にならなかった。

 言葉を発するという行為を、身体が完全に忘れてしまっていた。


 それでも、かすかに――

 その名を呼ぶのが、今度はほんの少しだけ、怖かった。


 扉が軋む音がした。

 足音が、近づいてくる。

 重く、ためらいのない、教会の石畳を踏みしめる音。


 現れたのは、一人の男だった。


 真白の法衣を身にまとい、金糸の装飾が静かに揺れていた。

 教皇の証である白杖と冠を持ち、淡く金色の瞳を細めて、まっすぐに私を見据えていた。

 その顔には見覚えがなかったが、その存在が放つ威圧感と冷たい権威は、はっきりと理解できた。


 彼は、ゆっくりと私の前まで歩いてきて――

 何の感情も宿さぬその目で、まるで値踏みするように私を見下ろした。


 そして、一言。


「前教皇は、没した。だから君は――もう、自由だ」


 ……じゆう?


 その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。


『自由』という音が、脳内で反響する。

 知識としては知っていたが、それがどういうものなのか、私にはわからなかった。

 それが祝福なのか、罰なのか――判断できなかった。


 息を吸う。

 何かを言おうと、口を開く。

 けれど、声が出なかった。


「……ぁ……っ、」


 喉の奥でひゅう、と情けない音が漏れる。

 言葉は、ひとつも音にならなかった。


 唇が震えても、舌がもつれても、

 どれだけ喋ろうとしても、私の声帯はまるで他人のもののように動かなかった。


 長い間、私は「語る」という機能を奪われていた。

 いつからか、声は罰の対象となっていた。祈りの言葉すら許されないようになっていた。


 だからその時――


「……ひ……っ」


 口から出たのは、まるで幼児のようなかすかな音と、よだれと、ひきつけるような呼吸音だけだった。


 男は、私のその様子を無言で見つめていた。

 やがて何の感慨も示さぬまま、静かに言った。


「……言葉を忘れたか。それも、仕方ない」


 そして彼は、ふっと目を伏せると、背後に控えていた修道士の一人に何事か囁いた。


「身柄を引き取る。忌々しい実験は終わった。神の器は、もう役目を終えた。……この少年を、再教育しろ。神の代行者としての品格を与えよ。

 名前も与えてやれ。そうだな――」


 彼は、もう一度、私に目を向けた。


「君の名は?」


 私は、咄嗟に答えられなかった。


 けれど、心の奥底に、わずかに残っていた音を掘り起こすようにして、

 ひとつの名を――母以外に呼ばれたことの無いその、唯一の音を――口の中で転がした。


「……い、ざ……や……」


 かすれた声だった。

 言葉とは言えないほどに歪で、聞き取りづらかったはずなのに――男はその名を、しっかりと口にした。


「イザヤ。そうか……。ならば、『イザヤ・サンクティス』と名乗れ」


 私は、きょとんと目を見開いた。その時はその意味がわからなかった。しかし暫く経ってから知ることになる。

 その姓は、貴族のものだ。教会の最高位に連なる者だけが許された『聖家』の名。新たな教皇、ユリウス十三世の旧名だ。


「君にはその名を名乗る資格がある。

 君は今日から、教会の聖徒のひとりとして扱われる。

 まずは司教の位を与えよう。君はまだ15歳だが――

 年齢ではなく、魂の重さがすべてだ」


 私には返す言葉がなかった。

 ただ、そうして与えられた名前と立場の意味が分からなかった。ただこの地獄が終わることに安堵していた。


 ――全ては神のおかげなのだ


 やはり神は私を見てくださっていたのだと知った。

 こうしてその日、私の地獄は突然に終わった。


 夢の中で私を抱きしめた女性はあれから幾度も私の夢に現れていた。ある時は花畑の中で私と共に駆け回り、ある時は湖の上を小さなボートに乗って過ごしていた。


 しかし、その夢は地獄の終わりと共に終わりを告げた。それを私は、心底寂しく思った。




 私の地獄が終わったのはとある冬だった。そして、春を迎えてしばらくしたある日、私は王宮近くの大聖堂で祈祷を終え、書簡に目を通していた。

 私は王宮の傍の教会の司教を任されていた。現れてからたった数ヶ月で王都の教会の司教を務める15歳の少年、なんてありえない話だろうが、誰も私に何か嫌味を言う人間はいなかった。私自身、それがおかしなことだとは当時知らなかった。

 その日、昼下がりの静かな回廊に、外の風が白いカーテンをわずかに揺らしていた。

 あまりにも穏やかで、まるで罪がこの世に存在しないかのような、そんな錯覚を覚える空気だった。


 だからこそ、私の耳に届いたその小さな足音は、あまりにも異質だった。


 控えの扉を開けると、廊下の端に、ひとりの少女が立っていた。

 絹のように柔らかな金髪が肩のあたりで揺れ、見上げてきたその瞳は――


(……桃色だ)


 瞬間、肺の奥の空気が凍りついたようだった。


 この瞳を、私は知っている。

 夢で――あの、地獄の最中に見た夢で、何度も、何度も、彼女に抱きしめられた。

 あの腕のぬくもりを、私は今でも覚えている。


(……君だ)


 その現実離れした色彩のまま、少女は私を見上げていた。

 だが、記憶の中の彼女とは違う。

 彼女はまだ幼い――10歳ほどか。だが、面影は確かにそこにあった。


 私は膝を折って目線を合わせ、なるべく穏やかな声で尋ねた。


「どうしました? ここは一般の方が入る場所ではありませんよ」


 数ヶ月の訓練の末、私は人と同じように話せるようになっていた。かつての話し方は忘れたが――。


 少女はきょとんとしながらも、しっかりとした口調で言った。


「お父様についてきたの。でも、途中ではぐれてしまって……」


 その口調には気品があった。所作も、言葉選びも、すでに仕立てられた貴族の子女のものだった。


「そうでしたか。では、お父様の名前を教えていただけますか?」


「ドラウド・アルモンド公爵です」


 私は心の底で、何かがはじけるような感覚を覚えた。

 その名は、教会と王宮の権力争いの中で幾度も耳にしていた公爵家の名前だ。

 そしてもうひとつ、私は確認するように問いかけた。


「――では、あなたのお名前は?」


 少女は胸を張るようにして答えた。


「ルクレツィア・アルモンドです」


 ルクレツィア。

 その名が、私の中に鋭く突き刺さった。


 神が私に見せた夢。

 あの絶望の中で、唯一私を抱きしめてくれた存在。

 ありえない。けれど、私は確信した。


(彼女は、彼女こそが、夢の中の……あの聖女だ)


「そうですか……ルクレツィア様」


 名を呼ぶ声が、震えていた。

 それに気づいて、自分自身に驚いた。

 声が、こんなにも柔らかくなるとは思わなかった。

 少女は、不思議そうに私を見上げていた。

 桃色の瞳に曇りはなく、何ひとつ疑念を持たない真っ直ぐな視線が、私の心を揺らした。


 私は微笑みを作る。

 それがぎこちなくなっていないことを、祈るような気持ちで。


「どうか、もう迷子にならぬよう……お気をつけて。王宮の方まで、ご案内いたしましょう」


 小さく頷いた彼女の横顔を見つめながら、私はふと思った。


 ――あの夢は、神の幻ではなかったのかもしれない、と。




 それからだった。

 私は七年もの間、ただ一度出会っただけの少女のことを、密かに想い続けることになる。

 幾度となく夢に見た。

 名を呼ぶことも、手を伸ばすことも叶わぬまま、ただ遠くに立ち尽くすだけの夢を。

 そして、彼女のことを独自に調べ始めることになる。


 彼女は美しく、神聖で、手の届かない存在だった。

 だからこそ私は、彼女の姿を胸に秘め、直接的な接触を避け、誰にも打ち明けることなく――ただ祈り続けた。


 清らかな祈りを。

 誰にも知られぬまま、神の前に差し出す、ささやかな献身を。

 それだけが、あの少女に相応しい「愛の形」だと、私は信じていた。


 そして、私は昇った。

 神への純粋な信仰と、決して逸れぬ歩みによって――

 十五で司教となり、十九にして最年少で、『大司教』の座を与えられた。――母にも言えないような汚いことも沢山やった。……人を何人も燃やした。


 しかし、全ては、神の導きだと信じていた。

 神に仕えることこそが、唯一私が存在する意味なのだと。

 そして――彼女に再び出会う日まで、生きる理由でもあった。


 だが、私はそれをひとりで成し遂げたわけではなかった。


 教皇、ユリウス十三世。

 彼だけは、私の『生』を肯定した数少ない人間だった。


 彼は一度として、私を「神の器」としてしか扱わなかった。

 そして、あの地獄から私を引き上げ、名を与え、地位を授けた。


 ……父親として慕っていたわけではない。

 それでも、それに準じる人間であると、私は思っていた節がある。私の人生における「恩」とは、彼の存在に他ならなかった。

 冷たくも揺るがぬ眼差しで、彼は言ったのだ。

「信じる者を神は救う。だから、神のために尽くせ」と。


 だから私は、尽くした。

 傷だらけの過去も、決して癒えない記憶も、全て神に捧げて。


 全ては――彼女と、もう一度正面から出会うため。


 ❖❖❖


「聖女が現れた」と報告があったのは、それからしばらくしてのことだった。


 奇跡が起きたという。

 神の宿る大木から取れた神聖な御書である「神の御書(オラクル)」が神託を写し出したらしい。

 私は、その報せを受けたとき、胸の奥が小さく跳ねた気がした。


(まさか……)


 言葉に出すことはなかったが、私は心のどこかで信じていた。

 その神の選びし聖女こそが、ルクレツィアであるのだと。

 あの日、私を抱きしめた夢の中の聖女――

 私が、長く想い続けてきたあの少女であってほしいと。


 だが、聖女の名を聞かされたとき。

「ソフィア・シュトラウス。子爵家の、末娘です」と。


 私は、静かに目を伏せた。


 知らぬ名だった。

 知らぬ顔だった。

 誰にも語ったことのない、あの桃色の瞳ではなかった。


 ……少しだけ、残念に思った。


 それでも、私は祈った。

 彼女の祝福を。

 神が与えたもうた聖女の存在を、否定せぬように。

 けれど心の奥底では、あの夢の続きを――

 誰にも知られぬまま、今も、祈り続けている。


(神よ。どうか、彼女を……再び、私の前に)


 ――そして、それが叶ったのは、それから、そう遠くない未来のことだった。


 聖女ソフィアが現れてから、一週間が経ったある日。

 王宮で開かれた盛大なお披露目舞踏会――そこに、彼女の姿がなかったことを知った瞬間、

 胸の奥に鋭い針を刺されたような感覚に襲われた。


 理由はわからなかった。

 彼女は貴族の令嬢だ。それも、公爵家の一人娘であり、王太子の婚約者でもある女性。舞踏会に招かれていて当然だった。

 だが、どれほど探しても、彼女の姿はどこにもなかった。


(なぜ……)


 疑念はすぐに、その翌朝に届けられた報告によって答えに変わった。


 彼女――ルクレツィア・アルモンドは、その夜、私ではなく別の男と接触していたという。

 それも、教会の監視下にはない、薄汚れた外部の者と、秘密裏の取引を。


 その事実を知った時、

 私は思わず、拳を固く握りしめていた。


 許されるべきことではなかった。

 彼女の行動は、神の秩序を乱すものだった。

 あろうことか、私にではなく、裏社会の穢れで塗れた人間に身を委ねるなどと――


 だが。


 報告の末尾には、こう記されていた。


「……彼女は、取引の中で、大司教殿の出生と、教会の事情について探っています。異端として捕らえるべきでしょうか」


 ――大司教殿の出生。


 その言葉に、思考が止まった。

 意味などない、取るに足らぬ一文だった。

 けれど、それだけで、私の中に渦巻いていた怒りは、音もなくほどけていった。


(彼女は……私のことを?)


 知りたいと、思ってくれたのか。


 その可能性を思えば、胸が高鳴った。

 私という存在に、彼女が目を向けたという事実だけで、理屈ではない幸福が心を満たした。


 その報告を持ってきた者には、

「今は泳がせておけ」

 そう一言だけ命じた。

 ルクレツィアも、その汚れた男も。まだ――時期ではない。


 私はすぐに、彼女が次に姿を現すと予測された王宮へと向かった。

 昨夜、彼女はその穢れた男との接触の前に、王太子にも何やら近づいていたという。

 何故今まで自ら王太子に謁見するとこも無かった彼女が、急に不審な動きを始めたのかは不明だが、賢い彼女のことだから何か考えがあるのだろう。――やはり教会繋がりだろうか。


 城の廊下を進むと、ちょうど角を曲がった先――

 その背が見えた。


 あの後ろ姿。

 柔らかな金髪が、陽光に照らされて淡く揺れている。

 ルクレツィア・アルモンド。

 夢の中で幾度も抱きしめた、あの聖女の面影。

 その姿が、今――確かに、ここに在る。


 彼女は壁に耳を寄せていた。

 足音一つ立てず、静かに。

 息を殺し、窓の向こうの会話に神経を研ぎ澄ませている。


 その先――開かれた窓の外に見える中庭には、

 白き法衣を纏い、威厳を湛えた老いた男の姿。

 その傍らには、黒衣の大枢機卿。


 ――ユリウス十三世と、グレゴリウス。


(……まずい)


 心臓が、鋭く跳ねた。

 この二人の密談を、彼女に聞かせるわけにはいかない。

 その内容はあまりに機密で、あまりに危険で、

 彼女の命すら、軽々と左右してしまう類のものだ。


 知られてはならない。

 触れてはならない。

 彼女は――まだ、此処にいるべきではない。


 私は、無意識に歩を早めていた。

 音を殺し、彼女の背後へと忍び寄る。

 そして、そっと手を伸ばし――


 彼女の口元を、後ろから塞いだ。


 彼女の体がびくりと跳ねた。

 抵抗しようとするが、それをやんわりと制するように囁く。


「――静かに。危害を加えるつもりはありません」


 そう、彼女以外に聞かれぬように。

 その一言に、彼女の体の緊張がわずかに緩んだ。


 やがて、こちらの力を感じ取ったのか、彼女は静かに頷き、

 ゆっくりと私を振り返る。


「……イザヤ……」


 その薄紅色の唇が、私の名を呼ぶ。

 ただ、それだけのことなのに、

 胸の奥に、鋭い何かが差し込まれたような衝撃が走った。


「……場所を移しましょう。ここは、目立ちます」


 そう言うと、彼女は素直に頷いた。

 私はそのまま、彼女の手首をそっと取って、廊下を進んでいく。


「……どこへ向かうの?」


「誰の『目』も『耳』も届かぬ場所へ。……お手数ですが、私の管轄する教会まで来ていただけますか?」


「それって……今から?」


「はい。今すぐに」


「……わかりました」


「ありがとうございます。――では、ここからは別々に動きましょう。教会でお待ちしています」


 私は礼をするように微かに頭を下げ、彼女を見送った。

 そして、王宮の出入口で、私たちは一度だけ視線を交わして別れた。


 ❖❖❖


(……彼女が、来る)


 教会の聖堂。

 誰もいない、静寂の空間。

 染みついた香が、この教会に務めてからの7年の祈りの記憶を思い起こさせる。


 その中央で、私は一人、立ち尽くしていた。

 胸の奥に湧き上がる熱を、どうすることもできずに。


 正気を保とうと、深く息を吸う。

 けれど、頬が自然と緩むのを止められなかった。


 あの後ろ姿――

 揺れる金の髪と、振り返ったときの瞳の色。

 私の名を呼んだ、あの声が、まだ耳に残っている。


(これで、ようやく――)


 ようやく、彼女と会える。

 堂々と、正当な理由で。誰にも咎められずに。

 ただ、彼女の瞳を見つめ、言葉を交わす。それだけのことが、どれほど切望していたものだったか。


 あの夢の続きを、ようやく現実で――


 私は手を組み、額を指先に押し当てた。

 それはいつもの祈りの姿勢だったが、祈る内容は、到底清らかなものではなかった。

 心の中では、彼女の声や笑顔が何度も浮かび、それを神に与えられたものと信じようとするたびに、胸が締めつけられる。


(……それでも、これが罪であるなら――どうか、裁いてほしい。神よ。私の心を)


 だが。


 胸の奥に張りついた影は、拭えなかった。


(……あのとき、彼女は……何を聞いた?)


 ユリウス十三世と、グレゴリウス。

 あの二人が二人きりで語らう内容なんて、決して表には出せない話に決まっている。


(なのに……なぜ、あんな場所で会話を? あの男たちらしくもない)


 ふと浮かんだ疑念が、冷たい汗に変わって背を伝う。


(だが――それより問題なのは)


 もし彼女が、あの会話の一端でも聞いていたとしたら。


 私の出生。

 禁忌の実験。

 教会の堕落。

 神が、本当に神であるのかさえも揺らぐ真実。


(……彼女に、知られてもいいのか?)


 心のどこかで、私は願っていた。

 誰よりも、彼女にだけは――知ってほしいと。

 私という存在を、罪と痛みの全てを、受け止めてほしいと。


 けれど、同時に。

 誰よりも彼女にだけは――知られてはならないとも、思っていた。

 彼女の瞳に、私の中の「穢れ」を映したくない。

 彼女の手を、自分の「傷」で汚したくない。


(だからこそ、こんなにも……怖い)


 もし、すでに彼女が真実の一端に触れていたなら。

 私を「神の徒」ではなく、「人」として見てしまったなら。


 ――夢の中の聖女は、私を見捨てるだろうか。


「……神よ」


 声に出して、名を呼ぶ。


「私の罪を罰したまえ。けれど……この願いだけは、どうか」


 ――彼女の光に、私は救われたい。

 罪人であっても、屍であっても、ただ一度だけ。

 彼女に触れられることを、許されたい。

 彼女に私は『生まれてきてしまったという罪』を、赦されたい。


 私は、扉の方を見た。

 彼女の訪れが、そこに近づいているのを感じながら――

 祈りと、恐れと、渇望を胸に、静かに目を閉じた。


 ❖❖❖


 やはり、思った通りだった。

 彼女は教会のことを――いや、私自身を知ろうとしている。

 それが、ただの義務や探求心ではなく、彼女自身の意思であると、確かにわかった。


「……あなたは、一体、何を恐れているの……?」


 そう私に尋ねたときの彼女の表情が、今でも脳裏に焼き付いている。

 まっすぐに、怯えもせず、ただ私を見ていた。

 あの瞳の奥に浮かんでいたのは、疑念ではなく――慈しみのような、静かな光だった。


(……ああ、どうしてそんな顔で、私を見てくれるのだろう)


 心の奥に、喜びが波のように込み上げる。

 この感情が、神に許されたものかどうかは分からない。

 だが、その温もりにすがることを、今の私は止められなかった。


「――貴女は、私を赦してくれますか?」


 その言葉は、唐突に口をついて出た。

 彼女に聞かせるつもりなどなかった。

 自分でも驚くほどの、本音だった。


 彼女は少しだけ目を伏せ、そして静かに問い返してきた。


「……許されたいのですか?」


 その問いに、私は答えられなかった。

 言葉を探す間もなく、胸が強く締めつけられた。


 ――今朝の報告によれば、彼女は、1週間後に全ての記録に辿り着くという。


 私の過去。

 神の器として捧げられた日々。

 教皇の血筋、教会の闇。

 すべてが彼女の目に晒される。


 ならば――


(それまで、待とうか)


 どんな顔をして彼女が現れるのか。

 何を言い、何を問うのか。

 それを、この胸に焼き付けるまでは。


 そう思い、私は彼女を返した。



 そして迎えた1週間と数日後。

 鐘が、空を裂くように鳴り響いた。


「……教皇陛下が、崩御されました」


 その報せは、まるで夢の中の出来事のようだった。

 毒殺――そう告げた者の口ぶりは酷く簡潔で、感情のこもらぬものだった。


 私はその場に立ち尽くしていた。

 指先が震えていた。

 心が、空白になっていた。


 ユリウス十三世。

 私を「神の器」ではなく、「人」として扱ったただ一人の存在だった。

 初めて私に理由を与えてくれた人。

 父を名乗らず、それでも、父のように振る舞ってくれた男。


 あの人がいなければ、今の私はいなかった。


 教会の頂点にありながら、泥と血に塗れた組織の中で、誰よりも清くあろうとした人だった。

 だからこそ、殺されたのだろう。

 そして、もう一つ――


(これを彼女がどう受け止めるのか)


 それが、何よりも恐ろしかった。


 彼女が真実を知る前に、たった一人の『理解者』がいなくなってしまった。

 全てを知った彼女は何を思うのか――

 もし、もし彼女に拒まれてしまったら――


 私は葬儀の後、彼女を探した。


 控えの間を通り抜け、奥の回廊に差しかかったとき、私はようやくその姿を見つけた。


 ルクレツィアは、まるで時間が止まったかのように、

 ひとり静かに立っていた。


 本来なら、彼女がいてはいけない場所。

 彼女が目を向けている先には――私も知っている。

 そこにいるのは、大枢機卿グレゴリウス。

 そして、その派閥に属する数人の枢機卿達。


 彼女の頬に、色がない。

 目だけが、虚ろに何かを追い続けていた。

 私は、背後からそっと近づき、

 その肩を、そっと掴んだ。


「……聞かなくて、いい」


 思わず、そう口をついた。

 自分でも驚くほどの、焦りと切迫を滲ませた声だった。


(彼が死んだ理由を、私は知っている)

(そして彼女が――その原因を作ったことも)


 だがそれでも、私は元より彼女を責めるつもりは微塵もなかった。

 そんなことよりも――


(もうこれ以上、彼女が傷つく姿を見たくない)


 私は決意した。

 彼女を、ここから遠ざけなければならない。

 この真実から、教会から、世界から――


 私の、腕の中に。


 ❖❖❖


 そして、私は彼女を連れて自らの書斎に案内した。

 私以外は誰も入れない、かの教皇が用意した私だけの空間。

 彼女は廊下を歩いている時も声を発することなく黙っていた。

 だが、その瞳に怯えの色はなかった。


 私は、問わずにはいられなかった。


「……貴女は、後悔なさいませんか?」


 彼女は、ゆっくりと首を横に振った。


「……後悔するくらいなら、もうとっくに逃げてるわ」


 その言葉に私は思わず笑みをこぼした。

 胸の奥に、得体の知れない安堵がじわじわと広がった。


(この人は……逃げなかった)

(私の名を呼び、私の手を取った)


 嬉しかった。

 心底、嬉しかった。

 涙が出そうなほど。


 それはきっと、神の恩寵ではない。

 この世でただひとつ、私だけに与えられた救い。


 こうして、ルクレツィアを匿う生活が始まった。


 書斎には、外の鐘の音すら何も届かない。


 彼女には必要な物をすべて与えた。

 書物も、水も、食事も、寝台も。

 けれど、扉は決して開かない。

 ここは、安息のための檻だ。


 彼女は何も言わなかった。

 出してとも、逃がしてとも、責めてもこなかった。


 私は日々、彼女に書物を届けた。

 その中には私が――いや、ユリウス十三世が密かに取り置いていたかつての忌々しい実験の結果も混ぜておいた。

 それを彼女が読むことに少しの胸のざわめきと喜びがあった。


 そして夜が訪れるたびに、私は静かに祈った。


(どうかこのまま――)


 この平穏を、誰にも壊されませんように、と。






 監禁生活を初めて3日が経った時。彼女は私に問うた。


「何を恐れているのか」と。


 私は何のことだか分からなかったが、分かることが一つだけあった。彼女は私を拒まないと。


「――貴女を失いたくない」そう告げた私に彼女が返した言葉はただ一つ。


「私は、あなたを見ているわ」


 静かに。確かに。


 私はその言葉に救われた。





 彼女がここに来てから、一週間が経った。


 ルクレツィアは、まだ一言も「出たい」とは言わなかった。

 私もまた、扉の外で立ち尽くす日々が続いた。


 最初の数日は、ほとんど眠れなかった。

 いつか彼女に心から拒絶されるのではないかと思った。

 あるいは――夢のようなこの日々が、すぐに終わってしまうのではないかという恐怖が、胸を締め付けた。


 しかし、彼女は毎日、静かにそこにいてくれた。

 私に語り掛け、時には祈りに付き合ってくれることすらあった。


 それだけで、私は生きていけた。


 あの部屋は、私にとって唯一の「聖域」だった。

 教会のどこよりも神聖で、穢れのない場所。

 外の世界がどれだけ腐っていても、彼女がそこにいれば、私は神を信じられた。


(けれど――)


(この扉の外は、いつも薄氷だ)


 私は知っていた。

 ユリウス十三世が死んだ今、自分には「処罰」だけが残されているということを。

 存在してきたことへの罪を、贖わなければならないことを


 だからこそ、あの部屋を守り続けた。

 一歩でも外に出れば、自分が罪人にされることは分かっていた。


 それでも、彼女がいる限り――




 しかし、それは、あまりにも唐突だった。


 朝の祈りを終えた直後、聖堂の外に出ると、

 すでに複数の異端審問局の者が私を取り囲んでいた。


「……このような真似をして、何のつもりですか」


 静かに言ったつもりだった。

 だが、誰も答えなかった。


 代わりに、黒い法衣の男が一人、口を開いた。


「――大司教イザヤ・サンクティス。あなたを、教皇暗殺の容疑で拘束する」


 その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。


(……来たか)


 けれど、反論はしなかった。


 彼らが何を言っても、既に決められた筋書きがあるのはわかっていた。

 誰かを「悪」に仕立て上げねば、権威は保てない。


 そして、私ほど都合のいい悪はいなかった。




 石造りの地下室。

 冷たい鉄の椅子。

 手首に食い込む鎖。

 そして、視界の奥でじわじわと揺れる蝋燭の灯。


「……答えろ。教皇を毒殺したのはお前だろう」


 口調は単調だった。

 感情ではなく、儀式のように進行する拷問。


 私は何も言わなかった。


 肩口に焼けた鉄を押し当てられても、

 骨の間に針を差し込まれても、

 私はただ、ひとつのことだけを考えていた。


(ルクレツィアが……このことを、知らなければいい)


 彼女の平穏を、私が壊すわけにはいかなかった。


 私は、所詮神の器ではない。ただの、人間だ。いや、人間ですらないのかもしれない。

 ただ、彼女の涙だけは、見たくなかった。


 拷問の合間、誰かが呟いた。


「……おかしい。何一つ、口を割らない。気持ち悪い。まるで人間じゃない」


「……ふっ」


「何がおかしい!」


 思わず笑みを零すと鞭が飛んできた。

 痛みが身体を蝕む。


 何がおかしいか?そんなの当たり前だろう。「まるで人間じゃない」なんて……まるで私のことを人間だと思っている様なものだ。私はやはり人間じゃない。人間ですらない。人間にすらなれなかった。そんなゴミのような存在を人間だと勘違いしていたなんて


 ――こんなに滑稽なものはない。






 処刑の日の朝、空は鈍く曇っていた。

 鐘の音が、遠くから重たく響いてくる。

 ゆっくりと、静かに、一つずつ。


 足枷の音が、石畳に乾いた音を落とす。

 その音さえも、どこか遠い。

 頭の中には、もう霧がかかっていて、世界の輪郭が曖昧だった。


(――あの部屋は、今も、あるのだろうか)


 彼女は、まだあの書斎にいるのだろうか。

 私の帰りを、待ってくれているのだろうか。

 いや、もう既に私より先に逝っているのかもしれない。


 あの部屋に入れる鍵を持つのは私なのだけだから。そしてその鍵は既に、私の体の中で溶けている。


 ただ、あの部屋の窓辺で、彼女が本を開いていた姿。

 神の話をするときに、そっと目を伏せたあの瞬間。

 私の名を、あの震える声で呼んでくれた日。


 その記憶さえあれば、私は――


(ルクレツィア……)


 罪人として歩く私に、群衆は唾を吐き、石を投げた。

 けれど、それすら痛みとは感じなかった。


 もう何も感じたくなかった。


 ただ、心の奥の祈りだけが、まだ微かに残っていた。


(神よ。どうか……彼女だけは、救ってください)


 私はもう構わない。

 私の存在が、誰かの平穏を脅かすなら――

 どうか、この命で贖わせてほしい。


 首に縄がかけられたとき、

 私は空を見上げた。


 重たい雲の切れ間に、かすかに光が射していた。

 それがまるで、誰かが見ているようで――


(……母さん)


(ユリウス様)


(ルクレツィア)


 誰の顔も、はっきりとは浮かばなかった。

 ただ、最後に心に浮かんだのは、夢の中で抱きしめてくれたあの腕の感触。


 そう、あの聖女の――


「――イザヤ・サンクティス。神の名のもとに、ここに裁きを執行する」


 そして、世界は、音を失った。


 揺れる空。

 締まる縄。

 燃える肺。

 遠ざかる意識。


 最後に残ったのは、あの部屋の静けさだった。


 本棚に囲まれた、小さな書斎。

 窓から差し込む柔らかな光。

 そして、机の上に置かれたままの、未乾の手紙。


『――貴女が、赦してくださいますように』


 その手紙を、彼女が読むことはなかった。

 あるいは、その存在すら、誰の目にも触れないかもしれない。


 それでも。


 彼の心は、最期の瞬間まで、彼女の安寧だけを願っていた。


  それが、彼の『信仰』だったのだから。


 ――彼の唯一の救いは、その最後の瞬間に、自分の名を呼ぶ愛しい女の声を聞いたことだろうか。

きり悪いので出しちゃいます

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