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24.信仰となって

明言は避けているつもりではありますが、だいぶ不快なシーンがございます。無理な時は飛ばしてください。

 教会に連れていかれた日、私は別の世界に来たのだと思った。


 瓦礫も汚物もない、白い石でできた回廊。

 天井から光が差し、聖歌が聞こえる聖堂。

「神の家」という言葉を、私はそのとき初めて実感した気がした。


 だが、それはほんの一瞬の夢だった。


 連れて行かれたのは、聖堂ではなく地下だった。

 重たい鉄の扉をいくつも抜け、最後に辿り着いたのは、ひんやりとした石の部屋。

 そこにはベッドも椅子もなく、ただ鉄格子の窓と、床に這う鎖だけがあった。


「これから君は、訓練を受ける」

「神の器として相応しいか、確かめる必要がある」

「誇るべきことだぞ、坊や。選ばれたのだからな」


 それが、『地獄』の始まりだった。


 白く美しいはずの回廊。金色の聖像。

 それらがすべて、罰のためにあるのだと知った。


『神の器』――彼らは私をそう呼んだ。

 けれどその実態は、言葉では飾れない、ただの人体実験と虐待の繰り返しだった。


 最初は祈りの強制だった。夜明けから深夜まで、膝をついて経文を唱え続けた。声が枯れるまで。

 間違えれば、殴られた。水を飲むのも許されなかった。

「神の言葉を汚すな」と言われ、顔を地に押しつけられた。

 そのうち、ろくに眠れなくなり、夢と現実の境が曖昧になった。


 その苦痛はやがて、より残酷な段階へと変わっていった。

 肌に何度も打たれる薬剤は、焼けるように痛んだ。

 時に手足を切られ、肉を裂かれ、縫い合わされ、また開かれた。

 傷が癒えるたびに新しい実験が繰り返された。


 叫んでも、誰も止めてくれない。

 泣き叫んでも、それは観察記録に残されるだけだった。


 一度、眠っている間に手足を縛られ、熱した鉄を胸に押しつけられた。

「これは神の印だ。誇れ」と言われたその痕は、いまも焼きごての形のまま皮膚に刻まれている。それは貧民街でも見かけたことのある『奴隷』の印によく似ていた。


 ある日、部屋の隅で吐いた。胃液しか出なかった。

 その場に倒れこんだ私を、神官のひとりが靴の先で小突いた。

「これでも生きているなら、まだ使えるな」

 そう笑っていた。




 夜になれば、また別の『地獄』が待っていた。


 私はまだ幼かった。

 それに、私の顔は母に似ていた。

 男たちはそれを面白がった。


「ほら、見てみろよ、まるで女みたいな顔だぜ。目元なんか特に……なぁ、なぁ、誰が先にやる?」

「神の器」だというのに、私に向けられるのは欲と嘲りと暴力だけ。


 足音が近づくだけで、息ができなくなった。

 鉄扉の開閉音に、全身が凍りついた。

 暗闇に潜む気配に、耳を塞いだ。

 逃げ場はなかった。

 訴えても、聞こえないふりをされる。

 祈っても、助けはこなかった。


 朝になれば、私の体は殴打と引っかき傷と、痣と見知らぬ男の体液で覆われていた。


 その日、私はようやく理解したのだ。


 ――神など、いない。


 いない。

 いない。

 いない。


 何度も繰り返した。

 でも、言葉にするたびに、なぜか涙が出た。


 そのとき、不意に思い出した。


 母が、いつも首にぶら下げていた十字架。

 男に殴られても、汚されて帰ってきても、決して手放さなかった。


 夜になると、それを胸に抱いて、何か小さく呟いていた。


(……母も、そうだったのか)


 あのときの母と、今の自分が重なった。

 母は、私を見なかった。抱きもしなかった。

 けれど、もしかしたら――

 母もまた、誰にも救われず、誰にも愛されず、神にすがるしかなかったのではないか。


「……神様……」


 かすれた声が、喉から漏れた。


 それは祈りではなかった。

 ただの呪いに近かった。

 それでも私は、血の混じる唇でその名を呼び続けた。


「神様、どうか……私を、壊してください」

「こんな体も、心も、記憶も、全部……あなたのものにしてください……」


 そうすれば、痛みを感じなくて済む。

 そうすれば、母のように――何かにすがりながら、生きていける。


 このときだった。

 私が心から神を『信じる』ようになったのは。


 ❖❖❖


 扉の開く音がしたのは、それから幾日か後のことだった。


 その部屋に入ってきたのは、修道士でも異端審問官でもなかった。

 真白の神官服にに金の刺繍をまとい、まるで王のように傲然と立つその男を、私は見上げた。その男は驚いたことに私とそっくりな白銀の髪をしていた。

 周囲の修道士たちは、膝をついて頭を垂れていた。


「……まだ、生きていたのか。忌々しい」


 その男の声は低く、まるで汚物を見るような眼差しをこちらに向けていた。

 だが、私は本能的に察してしまった。


 この男は、私の存在そのものを否定している――と。


「……誰?」


 口を開いた私に、男は鼻で笑った。


「そうか。まだ知らされていないのか。……哀れな出来損ないだ」


 男は私の顎を掴み、無理やり顔を上げさせる。


「その顔……本当にあの女にそっくりだな、忌々しい。……あれほど堕ろしておけと言ったのに」


 その目には、軽蔑と憎悪しかなかった。

 私は、理解できなかった。なぜ、この男が――なぜ、そんな目で私を?


 男は私に背を向けると、付き従う枢機卿に一言だけ告げた。


「何も成果が無いのならなるべく早く処分しろ。こんなものが残っているとは、あの女もろくな死に方をしなかったに違いない」


 その瞬間、私は凍りついた。


 あの女――それは、母のことを指していた。


(なぜ、この男が……母を)


 私の中で、何かがざわついた。

 だけど、その正体はすぐに明かされた。





 数日後の夜だった。


 私は、連日の拘束で衰弱しており、水桶に顔を突っ込んだまま項垂れていた。

 廊下の奥で、司祭と枢機卿たちが何か話している声が微かに聞こえた。

 その声は、壁越しでもはっきりと聞き取れた。


「――それにしても、よくあんな穢れを受け入れましたな。教皇陛下も、酔狂が過ぎる」


「ふん、ただの気まぐれだよ。あの女、顔だけは良かったからな。教皇も気に入るのは仕方がない。貧民街の娼婦だったのも逆に都合がいいだろう」


「それで、種を仕込んだ、と」


「結果は見ての通りだ。あんな忌々しい子供が生まれるとは、思いもしなかったろうよ」


「……しかし、聖なるものと交わった証である彼は実験でも成果を発揮出来るのではないでしょうか」


「さぁ?そもそも『神性誘導計画』だなんて、そんな馬鹿げた実験がありますか。あの子供を破棄する体のいい口実でしょう」


「そうだ、あれは事故だ。教皇陛下にとってはそれ以上でも以下でもない。存在自体が不都合なのさ。神に仕える身が、汚らしい娼婦と交わり子供を持ったなんて、誰にも言えない」


「……ええ、あの少年には同情しますね。きっと彼が陽の光を見ることはないままこんな薄暗い闇の中で生涯を終えるのですから」


 その瞬間、世界の色が、消えた。


(――僕は、教皇の子供?)


 母を、気まぐれで抱いた?

 私を、不都合な事故と呼ぶ?


 自分という存在が、すべて偶然と暴力の産物だったと知ったその夜、

 私は初めて、はっきりとこう思った。


 ――生まれてこなければよかった、と。


 喉元に指を当て、少しでも力を込めれば、呼吸は止まるのだろうか。

 そんな空想だけが、唯一の慰めだった。

 指先には痩せた骨が当たり、皮膚は冷たかった。

 だが、死ぬには至らなかった。

 私はただ、無機質な石の寝床を見つめていた。

 思考も感情も、そこにはなくて、ただ一つだけ――自分が無意味であるという確信だけが、胸の奥に焼きついていた。


 そのとき、ふいに思い出した。

 あの貧民街で、老婆にかけた言葉。


「じゃあどうして、こんなに辛い思いをしてまで死にたくないの?」


 そして老婆は笑ってその質問の答えは濁らせた。でもその瞬間私はわかってしまった。


 ――心の底から、死ぬことが怖いのだと。


 そして、眠れぬまま目を閉じたそのときだった。

 ふわりと、何かが私を包んだ。

 それは夢だった。

 けれどあまりに鮮やかで、現実よりもあたたかくて、

 一瞬、本当に救われたと錯覚するほどだった。


 夢の中で、誰かが私を抱きしめていた。


 ――それは、ひどく美しい人だった。

 柔らかなブロンドの髪が頬に触れた。

 あたたかな手が背を撫で、血と痛みに焼けた体を、優しく包んでくれた。……母でも抱きしめたことのなかったこの汚くて醜い身体を。


「ごめんね。もう少しだけ時間がかかる。でも、それでも、私は、あなたを必ず救ってみせる」


 その人は慈愛の籠った声音で私にそう言った。

 その言葉が、どこまでも優しくて、どこまでも悲しかった。

 私は、その人を見上げた。

 その瞳に、見覚えがあった。

 けれどそれが誰かは、思い出せなかった。


(……母さん?)


 思わずそう問いかけそうになった。


 いや、違う。

 あれは、母ではない。

 母の瞳は淡い金色だ。だが目の前の女は桃色の瞳をしている。

 それに、――母は私を一度たりとも抱きしめなかった。

 けれど、その面影を、私はその夢の中の女に重ねていた。


 まるで、「理想の母親」の幻影だった。

 だから、私はその胸に顔をうずめて、泣いた。

 涙が止まらなかった。


 そして、夢の終わり際――

 私はかすかに、あの人の首に見たのだ。


 小さな、銀色に輝く十字架を。


(……やっぱり、あの人も……)


 私の母も、いつもそれを肌身離さず持っていた。

 あれほど壊れながらも、最後まで捨てなかった。


 母もまた神に縋って生きていた。


 誰にも見つけてもらえず、抱かれることもなく、

 壊れたまま、生きて、生きて――壊れたまま、死んだ。


 やはり私は、理解してしまった。


 この世界で、私のような存在を抱きしめてくれるのは、

 この痛みと絶望を受け入れてくれるのは――神しかいないのだと。


 現実で誰にも見つけられず、誰にも抱かれず、

 絶望しかない世界の中で、

 神だけが、私に「意味」を与えてくれる。


(私は……)


「神様……」


 その声は、もう呪いではなかった。心からの『信仰』だった。

思ったより長くなってしまって終われませんでした。

ルクレツィアと違った視点のものを連日投稿するのは癪ですが、あまりにも長いので仕方なく明日上げます。

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