23.祈りは始まり
旧区画――そう呼ばれていた。
地図にも載らない、都市の外れ。
誰も寄りつかず、誰も助けない。
むせかえるような腐臭と、濁った空気。崩れかけた石造りの建物は、今にも軋みながら倒れそうだった。
排水溝から溢れる汚水は足元を流れ、壁には古い血と煤がこびりついていた。昼でも薄暗く、夜になれば獣の咆哮より人のうめき声のほうが多く響く。
そんな場所が、私の世界の全てだった。
そこでは、怒鳴る声と笑い声の境目は曖昧だった。
殴り合いの果てに倒れた男の体から物が奪われても、誰一人として止めない。
幼い子が煙草と酒にむせて咳き込みながら、家族のために春を売りに出かける。母親が我が子を蹴飛ばし、乞食が自分の足を切り落として金を得る。
命が、通貨より軽かった。
「誰もが死ぬまで生きてるだけだ。ここはそういう場所さ」
そう教えてくれたのは、近所の片目の老婆だった。
片腕はなく、指もほとんど折れ曲がっていたけれど、いつも道端に座って石を積んでいた。
「じゃあどうして、こんなに辛い思いをしてまで死にたくないの?」
「それは、なんでだろうね。まぁ、そういうもんなのさ。……でもあんたはキレイだから、そのうち苦労せずともいい値で売れるよ」
私に向かってそう笑ったあの顔が、今でも忘れられない。
容姿を人に褒められたのは、それが最初のことだった。
私は、母と二人きりで暮らしていた。
彼女は――とびきり、美しかった。
私が見てきた誰よりも、美しかった。
私の銀髪とは違う黒曜石のように艶やかな髪。私と同じ淡い金の瞳。
透き通る白い肌。女神のような顔立ち。
背は高く、指は長くて、笑えば花のようだった。……私は美醜の区別には疎かったが、それでも、私にとっての美は、すべて母の中にあった。
でも、母が私を抱きしめることはなかった。
目を見ない。撫でない。名前さえ、ろくに呼ばなかった。
「ねえ、今日、野良犬を見たんだ。耳がちぎれてて、可哀想だった。でも僕を見ても吠えなかったよ」
ある日、私はそう話しかけた。
母は黙ったまま、鏡の前で化粧をしていた。
頬紅を塗るその手が止まり――次の瞬間、手鏡が飛んできていた。
「黙って」
それだけだった。
それでも私は、泣かなかった。
私が泣いたら母は悲しそうな顔をすることを知っていたから。
「……あんたさえ、いなければ」
1度だけ、そう呟いたのを聞いたことがある。
私は子供心に、私の存在が母を苦しめていることに気づいて酷く傷ついた。
それでも、私を殺さない母の矛盾が理解できなかった。
母は、いつも十字架を胸に下げていた。
きっとそれだけが彼女の救いだったのだろう。
私が8歳になって少し経ったある日。
私は一人で、道端に咲いていた雑草紛いの花をつんできた。
母に見せたくて拾ったものだ。
「……ねぇ、これ、きれいでしょ」
母は見向きもしなかった。
代わりに、私の手から花を払い落とし、何かを叫びながら腕を叩いた。
不思議と、母は決して私の顔だけは殴らなかった。
やはり私は泣きはしなかった。
泥にまみれた花びらを、私は黙って見つめていた。
そしてそれをもう一度拾い、小さな空き瓶にそっと挿した。
そして夜になってから、母の枕元にそっと置いた。母は、次の日その花を見ても捨てることはなかった。
母は私を好きではなかったが、私は母が好きだった。
叩かれても、蔑まれても。
何故ならば私の知る世界の中で、母だけが輝いて見えていたのだから。
夜になると、母は出ていった。
きれいな服を着て、口紅を塗って。
私は、母が何をしていたか、知っていた。知らないふりをしていた。
「いなくならないでね」
そう言うと、母はほんの一瞬だけ立ち止まり――何も言わず、また歩いていった。
その背中が、私は好きだった。
たとえ、私の元に戻ってこない夜があっても。
だけど、あの夜――母は、本当に帰ってこなかった。
3日後、私は家で見つけた。
ベッドの上で、目を開いたまま、動かないまま。
腕には痣があり、肌は痩せ細り、目元にはうっすらと泣いた跡があった。いつも下げている胸元の十字架は無かった。――私は、神が母を見捨てたのだと理解した。
私は、何も言えなかった。
母の顔を、まっすぐに見るのは、それが初めてだった。
その肌に触れると、まだ少しだけ温かかった。
「……お母さん」
私は、そう呼んだ。
震えた声が、自分のものとは思えなかった。
誰も、母の死を悼まなかった。
誰も、彼女の遺体を運ぼうとしなかった。
私はひとりで、彼女を抱えて、崩れた壁の向こう――瓦礫の隙間に埋めた。
何もなかった。墓標なんて、あるはずもない。私は母の名前すら知らなかいのだから。
ただ、あの小さな空き瓶に色褪せた花を挿して、土の上に置いた。
そのとき、私は神という存在に願った。
もし神がいるなら、どうか母を許してほしい、と。
どうか――もう怒らなくていいように、安らかに眠れるように、と。
――この時だった。私が初めて神に祈りを捧げたのは。
それは、母の死から三日後のことだった。
私は空き瓶のそばに膝を抱えて座っていた。
喉は焼けつくように乾いていたが、水を汲みに行く気にはなれなかった。
腹が鳴っても、何かを食べたいとは思わなかった。
ただ、母のいない世界で、自分がどうすればいいのか――それが分からなかった。
そんなときだった。
瓦礫の外れ、いつもは誰も通らないはずの道に、複数の足音が響いた。
石を踏みしめる硬い音。だがその足取りは、妙に整っていた。
振り返ると、そこに一人の男が立っていた。
白い祭服を纏った、見慣れぬ顔。
その顔は深くフードに隠れていたが、その立ち姿は異様なまでに静かで――異質だった。
彼の背後に控える者たちは皆、同じような衣を纏い、銀の十字架を胸に下げていた。
教会。
旧区画とは別の世界に属する、崇高で、遠い存在。
地の底に生きる者たちにとって、天上の神と同じくらい縁のない存在。
「……君の名前は?」
私は、答えなかった。
彼の声は穏やかだったが、そこには感情というものがなかった。
男の視線が、私の横にある空き瓶と、色褪せた花に落ちる。
「……母親は、亡くなったのか?」
私は、無言で頷いた。
「……そうか」
男は、それだけ呟くと、小さく背後に頷いた。
次の瞬間、背後にいた修道士のひとりが近づいてきて、私の肩に古びた外套をかけた。
それは酷く粗末で、埃の匂いがした。
でも、あたたかかった。
「君には、神の器としての素質がある」
男が、そう言った。
銀の十字架が、光を受けてわずかに揺れた。
「君の命に、新たな意味を授けよう。……もう孤独ではない」
私は、その言葉の意味を理解できなかった。
でも、母のいない世界でひとりぼっちだった私にとって、その言葉は……あまりにも甘美だった。
それに――神が、母を許してくれるなら。
もしそのために何かができるのなら。
私は、頷いた。
そのときは、まだ知らなかった。
その手を取った先にあるのが、地獄だということを。
本日2本続けてお送りします。
また一時間後にどうも




