22.全ては、もう遅い
この部屋に、夜と朝の区別はない。
重いカーテンに覆われた窓からは一切の光が入らず、扉の向こうからも鐘の音ひとつ響いてこない。
食事はイザヤが自ら用意し、持ってきた。
決して粗末ではなく、きちんとしたものだった。
だが、その手つきも、口数も、どこか機械的で、淡々としていた。
話しかければ、イザヤは穏やかに返す。
けれどそこに、希望や未来の気配はなかった。
ただ、静かで、沈黙が支配する日々。
ルクレツィアは、本を読んだり、書き物をしたりして時間を潰すしかなかった。
与えられた書物はすべて宗教書か哲学書、そして一部の医学・神学の記録。
その中に――明らかに無くされたはずの実験の記録を思わせる断片がいくつか混じっていた。
(……これは、彼が私に見せているのだ)
そう気づいた時、心がひどく痛んだ。
どこにも出口はなく、誰にも会えず、ただ一人の監視者――彼と共に時間を過ごす。
ルクレツィアは徐々に、少しずつ、自分の中の感覚が麻痺していくのを感じていた。
でも、それでも、彼の顔を見るたびに思う。
彼は、きっとまだ壊れきっていない。
(私は――ここで死ぬのでしょう。いや、死ななければらない)
だからこそ、死ぬまでのこの時間で、私は彼を知りたい。
この死が、またやり直しに繋がるのなら、今度こそ救うために――。
だから、ルクレツィアは言った。
監禁されてから、三日目の夜のことだった。
「イザヤ。あなたは……何を、恐れているの?」
静かな問いだった。
けれどその声には、決意があった。
イザヤは、動きを止めた。
手にしていたティーカップを静かに置くと、少しだけ眉を寄せて、彼女を見た。
「……どうして、そんなことを聞くのですか?」
「私は、あなたを知りたいの。あなたが私をどうするのかも、何を抱えているのかも、全部――知りたいの」
イザヤは目を伏せた。
少しだけ唇がかすかに震えている。
「私は……」
声はかすれていた。
「私は……貴女を失うことが怖い」
ルクレツィアは、静かに彼の言葉を待つ。
「私は、神を信じています。……いました。
けれど、神は私に何もくれなかった。奇跡も、救いも、赦しさえも。
私が祈ったあの日々は、ただ、静かに過ぎ去っていっただけでした」
彼の声は、乾いた灰のように淡々としていた。
「誰かを信じても、私を救ってくれる人なんていませんでした。
だから、怖いのです。……貴女を信じてしまうことが」
彼は、静かに息を吐く。
「そして、それがまた……私の手の中からこぼれていくことが。私はもう、自分の信仰の対象を失いたくないのです。
それが、あなたであれ、神であれ――
もう、これ以上……壊れたら、私という存在が、保てないのです」
それは、悲鳴のような告白だった。
ルクレツィアは黙って、それを受け止める。
そして、ただ一言、こう返した。
「私は、あなたを見ているわ」
静かに、確かに。
イザヤは目を見開いた。
まるで、ほんの少しだけ救われたように――その目が、揺れた気がした。
❖❖❖
それから、また数日が過ぎた。
閉ざされた書斎の中、朝と夜の境が曖昧なまま、ルクレツィアはぼんやりと天井を見つめていた。
いつの間にか、彼の姿が消えていた。
いつもは朝になると、薬草の茶を持って現れるはずのイザヤが、今日は来ない。
(体内時計が狂い始めてるのかしら?)
しかし、それにしても長い時間が経っているような気がする。
それでも、声も、気配も、扉の向こうからは感じられなかった。
静かすぎる沈黙が、空間をひたひたと満たしていく。
(……どうしたの?)
胸の奥で、小さな不安が膨らんでいく。
(イザヤ……どこにいるの?)
その問いには、誰も答えなかった。
そしてルクレツィアは、ひとり、静かに椅子に座りなおした。
冷えた紅茶の香りだけが、空虚に残っていた。
それから、さらに一日が過ぎた。
水も、食事もないまま。
扉は閉ざされたままで、誰の気配もない。
ルクレツィアの喉はからからに乾き、身体は冷たくしびれ、思考すら霞みがかっていた。
(そんな……こんな最期って……)
そんな思いが胸をよぎった、その時だった。
――カチャリ、と扉の錠が外れる音がした。
思わず首をもたげる。目の前の扉が、ゆっくりと開かれる。
差し込んだ光に目を細めながら、ルクレツィアは言った。
「……イザヤ……?」
けれど、そこに立っていたのは――イザヤではなかった。
「残念ながら、彼は来ないよ」
低く、抑えた声。
現れたのは、くすんだ灰色の髪を揺らした青年――エリアスだった。
彼はゆっくりと部屋に入りながら、椅子に座るルクレツィアを見下ろす。
その手には、光を鈍く反射するナイフが握られていた。
「……どうして、あなたが……?」
喉が焼けつくように痛んだが、どうにかして言葉を絞り出した。
エリアスの表情に、感情はなかった。ただ、義務を遂行する機械のように無機質だった。
「イザヤ・サンクティスは、異端審問にかけられた。教皇殺しの容疑で、今頃は……拷問でも受けている頃じゃないかな」
「……っ!」
凍りつくような衝撃が背筋を這い上がる。
息が詰まり、視界が揺れた。
「このままじゃ彼は救われない。君は――失敗したんだ」
淡々とした口調。まるで裁きを下す判決のような、乾いた声。
「だからやり直しをしよう。もう一度、最初から」
「そんな……まだ、何とかなるはず……まだ、手はある……!」
震える声で食い下がる。だが、エリアスの顔色は変わらなかった。
「……君は、知ったんだろう?彼の過去を。拷問を受けた彼がどうなるか……その想像が、できるはずだ」
エリアスはゆっくりと歩を進め、ナイフの切っ先がルクレツィアの視界に入った。
「乙女ゲームの中でも同じように、壊れた心は、もう戻らない。そして、依存の果てに残るのは、破滅だけだ」
「……でも、それでも……彼は……!」
涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえた。
この結末が怖くて、唇が震えた。
「わかってるよ。俺は、ちゃんとわかってる。君が彼を救おうとしていたことも。でもね、もう遅すぎるんだ」
ナイフが、彼女の喉元に突きつけられる。
「君を殺して、やり直すしかない。これは救済なんだ。――君にとっても、彼にとっても」
ルクレツィアはもう、立ち上がる力もなかった。
だが、死ぬ覚悟があったとはいえ――こんなにも鮮烈な恐怖にさらされるとは思っていなかった。
(痛いのは、怖い。血が出るのは……死ぬのは……)
心が震える。誰か助けてと、無意識に願ってしまう。
けれど、誰も来ない。誰も。
エリアスは、彼女の頬に手を伸ばした。
ナイフを持つ手は震えていた。彼自身もまた、何かを殺している。
やがて、無慈悲に刃が振り下ろされた。
彼女の視界が赤に染まる。
痛み、恐怖、喪失、後悔――すべてが押し寄せて、心が引き裂かれるようだった。
(ああ、私……死ぬのね)
死ぬ覚悟はあった。でも、こんなに――こんなに怖いなんて。
こんな終わり方、望んでなんか――
思考は、唐突に断ち切られた。
彼女の世界は、赤い幕に包まれ、静かに――落ちていった。
❖❖❖
「……本当は、こんなことしたくなかったんだ」
美しいブロンドの髪に、血塗れの手がそっと触れる。
その手には、まだ温もりの残るナイフが握られていた。
女の瞳はすでに焦点を失い、血に染まった唇がかすかに震えている。
「――貴女を、愛さずにいられたら……どれだけよかっただろうな」
エリアスの声は掠れていた。
それは懺悔でも、呪詛でもなく――ただ、哀しみに満ちた独白だった。
涙が、一筋、静かに頬を伝い落ちる。
「……愛してる、ルーチェ」
その言葉を最後に、彼はゆっくりとナイフを持ち替えた。
刃先が、自分の喉元へと運ばれる。
まるで聖職者が儀式のように、敬虔に――ためらいのない動きだった。
「せめて、終わる世界で、貴女の傍に――」
一閃。
肉を裂く音が、静寂を切り裂いた。
鮮血が飛び散り、白い床を朱に染めていく。
エリアスの身体はふらりと揺れ、彼女のすぐ傍らへと崩れ落ちた。
その表情には、どこか安堵すら浮かんでいて――
まるでようやく、呪いから解放されたかのように。
静寂が訪れる。
血の匂いだけが、部屋に満ちていた。




