21.救いとは
ルークが去った後、ルクレツィアは椅子にもたれ、深く息をついた。
(……これだけのことを聞かされて、私は、どうすればいいの?)
イザヤの過去。神の器として育てられた少年。
そして、教会という巨獣が己の罪を隠すために築き上げた虚構。
そのすべては、彼女が想像していたより遥かに冷酷で、救いのないものだった。
(……でも、少なくとも、一つだけは確かよ)
彼女はそっと瞼を閉じ、胸の奥に灯った決意を見つめ直す。
(――ユリウス十三世の暗殺だけは、阻止しなければ)
それが、すべての引き金になる。
ユリウスが死ねば、教皇選挙が始まり、グレゴリウスが教会の頂点に立つ。
そしてイザヤは、「過去の罪の象徴」として異端審問にかけられ――処刑される。
(まだ間に合う。きっと、間に合うはず……)
彼女は立ち上がり、冷えた紅茶を残したまま、部屋を出た。
――だが、たった三日後。
それは、唐突に、あまりに静かに、起きた。
まるで神話の終焉の一節のように。
暗殺は、起きた。
衛兵の目をすり抜け、供された聖餐の杯に、毒は仕込まれていた。
その毒を仕込まれたワインは教皇の喉を通った。
即死ではなかったが、苦しみの末にユリウス十三世は帰らぬ人となり、その亡骸は清められ、聖堂に安置された。
ユリウス十三世の葬儀は、厳かに、それでいてどこか息の詰まるような静寂の中で執り行われた。王宮のそばの教会で。――イザヤの管轄である教会だ。
神殿の最奥――黄金の天蓋に覆われた聖域で、純白の祭服を纏った亡骸は永遠の眠りに就いた。香の匂いと祈りの言葉だけが、冷たい空気の中をゆるやかに漂っていた。
ルクレツィアは列席を終え、裏手の回廊に足を運んでいた。
どうしても、胸騒ぎが消えなかった。
すると、奥の控えの間の柱陰で、ひそやかに声を潜める男たちの姿が目に入った。
ひときわ禍々しい存在感を放つ、黒衣の男。グレゴリウス大枢機卿だ。
その周囲を取り囲む数名の赤衣の枢機卿たち。
ルクレツィアはとっさに陰に隠れ、耳を澄ませた。
「――間違いありません。先日のアズライル殿下の訪問は、我々の動きを警戒してのものでしょう」
「愚かな……王家が神域に手を突っ込むとはな。まさか本当に情報を得たのか?」
「それは不明ですが、ユリウスが殿下に何か告げようとしていたのは確かです」
「結果的に、暗殺を早めてしまった形になりましたな。だが、むしろ好機。これで教皇選挙の手筈が整う」
ルクレツィアの背中に、冷たい汗が伝った。
(……私の、せい?)
アズライルに、教会のことを伝えたのは自分だった。
それが引き金になって、教皇は……殺されたのか。
ぐらり、と視界が歪む。手すりにすがらなければ、膝が崩れていたかもしれない。
「次は『失敗作』の処遇ですが……早期に処理を進めるべきかと。あの男、放っておけば何をしでかすか――」
(イザヤ……!)
喉が詰まり、言葉が出なかった。思考が止まりかけた、そのとき――
「……聞かなくて、いい」
唐突に、耳がやさしく塞がれた。
背後に立っていたのは、白銀の髪を揺らす、あの人だった。
イザヤ・サンクティス。
彼は、ルクレツィアのすぐ後ろに立っていた。
静かに、冷たく、けれどどこか慈しむような声で言う。
「あなたが傷つく必要は、ありません」
その掌は驚くほどにあたたかく、それだけが、今の彼の中に残った人間らしさのようにも思えた。
「参りましょうか。目も、耳も、届かぬ場所へ」
イザヤは微笑んでいた。優しげで、穏やかで――どこか遠くを見ているような眼差しだった。
その瞳を覗いた瞬間、ルクレツィアは悟った。
きっと、この誘いに乗れば、もう戻れない、と。
それでも、
「……えぇ」
唇が勝手に動いた。
拒まなかったのは、彼のためか、自分のためか――もはや分からない。
イザヤの手が、そっと彼女の手を取る。
骨ばっていて、冷えた指先。それでも、微かに震えていることに気づいた。
(この人は、やっぱり何かを恐れている)
神を――信仰を失ってしまうことを。
(……彼は、また私のことを……)
――神だとでも思っているのだろうか。
もし、もしもこの世界のバグで彼が私のことを神だと思っているのだとしたら、
それは信仰なんかじゃない。ただの呪いだ。
崇拝にすり替えられた執着。祈りという名の依存。
そう思って彼の顔を見上げたその瞬間――
ルクレツィアの瞳は、彼の悲しげな光を宿した瞳とぶつかった。
その瞳には、静かな諦めと、言葉にできない孤独が滲んでいた。
「……イザヤ」
彼は、何も言わなかった。
ただ、微笑んでいた。
その笑みがあまりにも優しすぎて――ルクレツィアの胸の奥が、ひどく痛んだ。
「私は……神になんて、なれないわ」
それは、彼との距離を保とうとする、精一杯の拒絶。
けれどイザヤは、首をゆっくりと横に振った。
「私は……貴女のことを知っています、ルクレツィア様。
貴女が私の過去を知ってしまったことも、ちゃんと分かっています」
その声音には、責める色も憎しみもなかった。
ただ、どこまでも静かで、どこまでも――やさしかった。
「でも、貴女は今もこうして、私を拒まない。遠ざけようともしない。私の過去を知った上で、それでも傍にいてくれる。……あの世界で、誰一人として私を見なかったというのに、貴女だけは――こうして、私を見てくれる」
彼の声が、ひどく穏やかに、静かに降る。
「私の悪魔のような誘いにも……ためらいながら、それでも応じてしまう。
あぁ……貴女は、本当に、残酷なお方だ」
苦笑のような吐息が、白く空に溶けていく。
ルクレツィアは何も返さなかった。ただ、彼の手を握り返すこともせず、静かに立ち尽くしていた。
やがてイザヤは、彼女の手を引いて歩き出す。
石造りの回廊に、ふたりの足音だけが静かに響く。
教会の聖堂の奥。閉ざされた礼拝堂のさらに奥に続く、誰の目にも触れぬ回廊。
蝋燭の灯りだけが道を照らし、空気は次第に冷たさを増していく。
「……貴女は、後悔なさいませんか?」
ふいに、イザヤが問うた。
その声音は、子どものように脆く、それでいて、すべてを諦めた人間のそれだった。
ルクレツィアは歩みを止めず、静かに答える。
「後悔するくらいなら、もうとっくに逃げてるわ」
「……なるほど。そう、ですか」
彼は小さく笑った。
だがその笑みには、どこか切なさと、ひどく深い疲弊が混ざっていた。
彼の表情には、もはや感情というものがほとんど浮かんでいなかった。
けれど――彼女の手を引くその手だけは、確かに熱を帯びていた。
(こんなにも冷えきった身体なのに、なぜか……)
扉の前で、イザヤは立ち止まり、小さく囁く。
「……それならば、せめて今だけは、貴女に赦されている気持ちで……いさせてください」
ギィ――
重たい音を立てて、扉が開かれる。
その向こうに広がっていたのは、重厚な書棚。――イザヤの書斎だ。
「どうぞ、お入りください」
(……ここに入ったらもうきっと戻れない)
本能がそう告げていた。
(それでも、ここで戻ってもきっと私はやり直さなければならないのだから)
彼女は、一歩、足を踏み入れる。
扉の向こうに差す光はない。
まるで世界の外側に連れ出されたような、奇妙な静けさと隔絶感。
後ろで扉が、音もなく――閉まった。
「……イザヤ?」
「ええ。ここなら、誰にも邪魔されません」
彼はそう言って、書棚の隙間から鍵を取り出し、ゆっくりと扉に鍵をかける。
カチリ、と金属音が響いた。
(……あの時と同じだ)
ルクレツィアの胸の奥に、鈍い不安が広がる。
「ここにいる間だけでいいんです。私のことを、見ていてください。それだけで、私は……まだ、祈れる気がするんです」
そう言って、イザヤはルクレツィアの前にゆっくりと跪いた。
まるで神を仰ぐ信徒のように、けれど、その姿勢にはどこか歪んだ祈りの形があった。
「イザヤ……お願い、立って。そんなことしないで」
「……嫌なのですか?」
「それは……」
言葉に詰まる。彼の視線があまりに真っ直ぐで、嘘を許さなかった。
イザヤはそのまま、静かに彼女の手に口づけた。
凍えた唇が、かすかに震えていた。
「私には、もうこれしか残っていないのです。
信仰も、救いも、すべて失ったあとに残ったもの――それが、貴女です。ルクレツィア様」
「……それは違う。私を、信仰の代わりにしないで」
「違わない。違わないのです……私は、貴女に赦された。過去も、罪も、傷も、すべてを。だから、貴女が私の神なのです」
囁きはまるで夢の中の祈りのように穏やかだった。
だがその言葉の奥には、深い絶望と執着が潜んでいた。
(この人はもう、自分の信仰心でさえ持っていられないのだ)
(だから……私に、神でいてほしいと願っている)
ルクレツィアは、何も言えなかった。
静寂がふたりを包む。
イザヤは立ち上がり、書斎の奥のカーテンを引いた。
窓は――鉄格子で覆われていた。そこにあるのは夜の空虚な闇だけ。
「この部屋には、鐘の音も、祈りの声も届きません。……ここだけが、私にとっての救いなのです」
ゆっくりと振り返るイザヤ。
その瞳に映るルクレツィアは、まるで聖像のように静かで、美しかった。
「……お願いです。どうか、逃げないで」
彼の声は優しかった。
だけどその響きには、「逃げ場など最初からない」と言わんばかりの冷ややかさが含まれていた。
彼の瞳がすこしだけ安らいだように見えたのは、なぜだろう。
彼にとって、私がここにいることが――
救いであると同時に、絶望そのものなのだとしたら。
(どうして、こんなふうにしか……)
ルクレツィアは小さく目を伏せた。
七夕ですね。七夕ネタ書いてはあるのでイザヤ君救われたら投稿しようかなと思います。本当は七夕までにはイザヤ編終わる予定だったので。




