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20.語られた真実

 帰りの馬車に揺られながら、ルクレツィアは黙って窓の外を眺めていた。

 石畳の上を車輪が刻む振動が、微かに身体を揺らす。

 遠ざかっていく教会の尖塔が、背後で静かに視界から消えていく。


 ふと、ある疑問が頭をよぎる。


「……リリー」


 向かいに座っていたリリーが、小さく瞬きして顔を上げた。


「はい、なんでしょうか?」


「異端審問の噂って……知ってる?」


 その問いに、リリーは少し首を傾げ、考え込むような素振りを見せた。


「そうですね。確かにここ数年で、異端審問で裁かれる方は増えていますよね。以前は、半年に一件あるかどうかだったのが……今では月に一件か、それ以上だとか」


「……」


(……そんな、馬鹿な)


 ルクレツィアの心に、冷たい疑念が走る。


 異端審問――それは本来、ごく稀に行われる儀礼のようなもので、政治的な見せしめの色が濃く、本物の「異端」が裁かれることなど、ほとんどなかったはず。


 それが変わったのは、いつからだったか。


(……聖女、ソフィアが現れてから)


 乙女ゲームでも、前の周回でも、すべてはそこから始まっていた。

 聖女の出現により、教会の影響力は一気に強まる。


 唇をきゅっと噛み、ルクレツィアは目を伏せる。


(教会の狂気が姿を現すのは、本来ならソフィアのお披露目から二週間ほど経ってから……)


 だが、今回は違う。


 ――ソフィアのお披露目は、まだ昨日のこと。


 それなのに、リリーはこう言ったのだ。


(「ここ数年で増えている」って……)


 まるで、世界の記録が、書き換えられているようだった。

 歴史の流れが、彼女の知っている時間軸とは、わずかにずれている。

 その小さな歪みが、胸の奥で静かに軋み、警鐘を鳴らしていた。


「お嬢様? ……如何なさいましたか? 教会で、何か?」


「……いえ、何もなかったわ。大丈夫よ」


 かろうじて微笑むと、リリーは不安そうなまなざしを向けたが、それ以上は何も言わなかった。

 その沈黙に、彼女なりの遠慮と敬意が込められているのがわかって、ルクレツィアは胸の奥でわずかに罪悪感を覚える。


(……それにしても、『鼠』、ね)


 イザヤが最後に残した、あの一言。


 ――「鼠とコソコソするのは、あまり感心致しませんよ」


 あれは警告だった。こちらの動きが、すでにある程度読まれている。

 名指しこそされなかったが、彼が念頭に置いていたのは――


(ルークか、アズライル……あるいは、両方)


 さすがのイザヤでも、この二人を相手に出し抜くのは、そう容易なことではないはず。

 だからこそ、警告にとどめたのだろう。今はまだ、静かに牽制する段階なのだと。


 けれど、


(もしも、エリアスの言っていた世界の歪みが、時間の流れにまで及ぶというのなら)


 今はもう、「イザヤの事件まで三ヶ月ある」などと、悠長なことを言ってはいられない。


 イザヤ・サンクティス。

 彼の心を深く抉る事件には、異端審問が深く関わっている。

 というのも――彼自身が、その異端審問にかけられるからだ。


 事件の引き金は、教皇ユリウス十三世の死。

 それは突然の訃報であり、同時にひそやかな政変の始まりでもあった。

 教皇の死からわずか一週間後。開かれた教皇選挙で、現大枢機卿グレゴリウスが新たな教皇に即位する。

 そして彼は、前教皇派を徹底的に粛清する政策を打ち出す。


 その中には、聖女ソフィアの側に仕えるイザヤの姿もあった。

 彼の存在は、聖女の後見人として前教皇の信任を受けた者として――あまりにも危険すぎた。

 結果、イザヤは「教皇暗殺未遂」の容疑で、異端審問にかけられることになる。


 ――そうだ。今思い出した。

 私が知っているのがイザヤのトゥルーエンドだけなのは、彼を救えなかった場合、彼はそのまま処刑されてしまうからだ。彼が処刑されるのは嫌すぎて確か攻略サイトを見てしまったんだ。


 ゲームのシナリオはこうだ。


 主人公ソフィアは、王都に来てから最も親切にしてくれた人物――イザヤが、ある日突然、教皇暗殺の容疑で異端審問にかけられる事態に直面する。


 もちろん彼がそんなことをするはずがない。

 だが、教皇ユリウス十三世は確かに死に、しかも毒殺だった。後任には、現大枢機卿グレゴリウスが選出され、前教皇派は粛清の対象となった。聖女ソフィアを預かるイザヤもまた、彼らにとっては危険分子だったのだ。


 ソフィアは彼の無実を信じ、真実を探し始める。

 アズライル、ルークといった他の攻略対象たちにも協力を仰ぎ、証拠を集め、ついに教皇暗殺の真犯人――ただの一枢機卿の権力欲による犯行――を暴く。


 そして迎えた、彼を救ったその直後のシーン。


 ⸻


 教会の高台の回廊。空は群青に染まり、冷たい風が聖衣をはためかせていた。

 イザヤは石造りの欄干に背を預け、薄く微笑む。


「……ありがとう、ソフィア。君の信じる力は……神にも届いたようだ」


「それは、あなたが神を信じていたからですよ」


 イザヤは静かに目を閉じ、祈りの言葉を呟く。


「――我、汝を贖わん。主よ、願わくば、光の届かぬ深き闇に、救いあれ」


 そのシーンの彼は神聖で、遠く、手の届かない存在のように見えた。挿絵が息を飲むほど美しかったのを、確かに覚えている。


 こうしてイザヤは、自分を最後まで信じ続けてくれたソフィアに深い恩義を感じ、以降では彼女の協力者として登場するようになる。

 他の攻略対象を救う事件に関わりながら、彼との距離が縮まるイベントがいくつか起こる。


 ――その中で、彼の好感度が一定以上に達すれば、恋愛ルートに入るのだ。


 けれど彼は、恋愛ルートに入りながらも、彼の心には誰も踏み込めないような、ミステリアスな雰囲気をまとっていた。

 彼は、ソフィアをただの人間としてではなく、神以上の存在として見ていたようにさえ思える。

 実際、一部のプレイヤーの間ではこんな噂が囁かれていた。


 ――イザヤは、本当は心から神を信じていないのではないか。


 その根拠となるのが、事件の途中で挿入される、あるシーンだった。


 異端審問が始まり、教会内で孤立していく中、疲れきった表情のイザヤが、初めてソフィアに弱音を吐く場面がある。


「私は……神を信じるしかないのです。信じなければ……私は、空っぽになってしまうから」


 その言葉は、祈りではなく、呪いのようだった。


「ならば、私を信じてください。私があなたを救ってみせます!」


 まっすぐに告げるソフィアの声に、彼はしばらく黙りこみ、やがてつぶやくのだ。


「……それが、私の救いになるのなら」


 ――このシーンを経てから、イザヤの中で「神」の位置にいたのは、明らかにソフィアだった。


 それは恋か、信仰か、あるいは依存か。


 プレイヤーがそれを知ることはない。

 ただ、ひとつ確かに伝わったのは――

 彼が神を信じる理由は、もはや純粋な信仰心ではなかったということ。

 そしてその信仰の対象が、静かに、確かに「神」から「ソフィア」へと移ろっていったという事実。


(……私は、それを幸せな結末だとは思えなかった)


 あのときの彼の目。

 あまりに脆くて、何かにすがっていないと崩れてしまうような――どこかで見たような気がしていた。


 そうだ。思い出した。あれは、ゲーム内でのあるワンシーンだ。


 異端審問で罪を問われ、ひとり地下牢に囚われていたときの彼。


 鉄格子越しに訪ねてきたソフィアに、イザヤは微笑みながらこう言ったのだ。


「君が来てくれて……良かった。ここは、冷たい。でも、君の声が聞こえるなら、私は……」


 その時の挿絵の彼の目は、確かに救いを求める子供のようだった。

 孤独に沈んだ彼の心が、神ではなく「誰か」に向けられた最初の瞬間だったのだと、今ならわかる。

 あの祈りのような台詞に、当時のプレイヤーは涙をこぼしたかもしれない。

 でも、私は思った。


(それは……本当に、救いだったの?)


 ――いいえ。きっと、違う。


 神を信じることでしか自分を保てなかった彼が、今度は『誰が』を信じることでしか立っていられなくなったのなら。


 それはただ、依存のかたちを変えただけ。


(だから私は、ここにいる)


 何度死に戻っても、何を失っても。

 私は彼を“救い”たいのではない。

 彼が自分の足で、神でも、『ソフィア』でも『ルクレツィア』でもない、『自分自身』を信じて立てるように。

 その未来を、どこかに見てみたい。


 窓の外、王都の塔の影が、陽の光に溶けていく。

 まるで、ほんの一瞬だけ、世界が燃えて消えていくような――そんな静かな美しさがあった。


(イザヤ、あなたの神を殺してみせる。あなた自身が、あなたを赦せるように……)


 ――次は、彼の心そのものに触れるために動く。

 たとえそれが、どんな結末を迎えようと。


 ❖❖❖


「それで?――『情報』は、ちゃんと手に入ったのでしょう?」


 ルクレツィアが問いかけると、ルークはいつもの飄々とした笑みを浮かべて頷いた。


「ええ、ご心配なく。イザヤ・サンクティスの出自、異端審問局との関係、そして教会の内情について。ご依頼の通り、すべて揃っていますよ」


 彼は取引からちょうど一週間後、何事もなかったかのように姿を現した。

 応接室のソファに深く腰を下ろし、足を組んでくつろいでいる。その対面に座るルクレツィアは、目だけで続きを促した。


「では……まずは教会の内情から。おそらく、これがこの件の核となるでしょう」


 ルークの声色がわずかに落ち着いた。軽薄さの奥に、情報屋としての本気が垣間見える。


「それでは、教会の歴史についてから始めましょうか」


 ルークはソファに深く腰を沈め、指先で膝を軽く叩きながら、語り始める。


「セラフィス教――この大陸で最も古い信仰は、今からおよそ千年前に遡ります。はじまりは、聖なる幻視を受けた一人の預言者。……その者こそが、かつて存在した奇跡を使う唯一の聖女。ということで今代の聖女は2代目ということですね。神の名を冠したその教えは、瞬く間に広がり、王権すら凌ぐ権威を得た。やがて神の声を聞く者として教皇が立てられ、国家を超えた超然的な宗教勢力が誕生したわけです」


「そんなに昔から……」


 ルクレツィアは驚きに目を細める。だが、ルークはそのまま続けた。


「ええ、かつては王ですら教皇に跪く時代があった……ですが、永遠の繁栄なんてものは、神にすら訪れません」


「……つまり?」


「教会の権威が揺らぎ始めたのは、二百年ほど前からです。信仰より理性の時代が台頭し、貴族たちが『神』より『金』を選び始めた。信徒は減り、かつて聖女が起こした奇跡は『偶然』と切り捨てられ、信仰の力は静かに風化していったのです。……けれど、本当に決定的だったのは、ここ数十年のことです」


 ルークは指先をぴたりと止めると、わずかに声を低くした。


「ある腐敗事件がありました。賄賂の横行、聖職の売買、寄付金の不正流用……しかもそれが、当時の教皇庁の内部で大規模に行われていた。数人の枢機卿が処分され、関係者は次々と処刑……信徒たちは背を向け、教会の信頼は地に落ちた」


「……聞いたことがないわね」


「でしょうね。当時の教会が必死に揉み消した事件ですから」


 ルークはわざとらしくため息をついたあと、意味ありげに片眉を上げた。


「そして、そこからです。歴代の教皇たちは『奇跡』――つまり、かつての聖女が持っていた神の力そのものを取り戻そうと模索し始める。記録に残る限り、五代前の教皇から『神の力を人為的に引き出す』という非常に馬鹿げた禁忌の構想が始まりました。計画は極秘裏に継承され、ある者は中断し、ある者は検討し……そしてついに」


「……先代の教皇が、それを実行に移した?」


「その通り。先代、ヴァティリウス七世。その時代、教皇庁の一角に『祈りの研究所』と呼ばれる秘密機関が設置された。公式記録には残されていませんが、内部資料では『神性誘導計画』と呼ばれています。簡単に言えば、奇跡を人工的に再現しようという狂った実験」


 ルークはそこで言葉を区切り、ティーカップに口をつける。カップを戻すと、ルクレツィアの方を一瞥し、彼女が続きを急かすような視線を向けたことに満足して口を開いた。


「……さて。お待ちかねの、実験台について、ですね」


 ルクレツィアは無言でうなずく。その瞳は冗談を受け流すことなく、ただまっすぐに真実を求めていた。


「――イザヤ・サンクティス」


 名を告げると同時に、室内の空気がわずかに凍った気がした。


「彼こそが、『神性誘導計画』において最も長く実験対象とされた存在です」


「……そして彼の出自に繋がるわけね」


「えぇ。彼は、正確には、神の因子を持つ可能性があるとして拾われた孤児……という建前でした。ですが、実際には――もう少し根深い事情があったようです」


「……どういうこと?」


 ルクレツィアの声は低い。それにルークは、唇にわずかな皮肉を浮かべて答えた。


「先代教皇、ヴァティリウス七世。彼には『隠し子』がいたという噂をご存じですか?」


「――……」


「もちろん公にはできません。聖職者にとって、妻子を持つことは戒律違反。教皇ともなれば、なおさらです。だから彼は『子』を存在ごと抹消しようとした」


「……実験体として、教会に差し出して?」


「ええ。『神に選ばれし子』という名目で、研究に回された。名前も身元も与えられず、ただ実験体としての価値だけを測られた。――それが、イザヤの始まりです」


 ルクレツィアは、テーブルの上で強く手を組んだ。声が、震えそうになるのをかろうじて抑える。


「……なぜ、そのことが表に出なかったの?」


 ルクレツィアの声は、硬く静かに響いた。テーブルの上で組んだ手は、白くなるほど力が入っている。

 ルークは肩をすくめ、小さく笑う。


「理由は単純です。関係者が、全員処理されたからですよ。実験記録はほとんど破棄され、証人も葬られました。……成功していれば、神の奇跡として喧伝されたのでしょうけれど」


「……じゃあ、実験は失敗したのね?」


「ええ、失敗です。完全に、ね」


 そこでルークは、ふっと皮肉げに笑みを深めた。


「そもそも、神の力を人工的に生み出そうなんて、思い上がりもいいところでしょう。神は信じるものであって、作るものではない。皮肉な話です」


  「……彼は、自分の出自を知っているの?」


 ルクレツィアの問いに、ルークは一瞬だけ目を伏せてから、静かに答えた。


「さぁ、それは私には分かりません」


「……」


「実験が終わったのは、ヴァティリウス七世が崩御したからです」


「……死んだから、終わった?」


「ええ。あれは、教皇個人の狂信とも言える計画でした。後ろ盾を失えば、当然実験は継続不能となる」


 ルークはカップの中の冷めた紅茶を見下ろしながら、淡々と続ける。


「教皇が亡くなったその日を境に、『神性誘導計画』は凍結されました。そして、新たに即位したユリウス十三世の名のもとに、すべての記録は処分された。実験の痕跡も、関係者も。そう、『全て』です――ただ一人、彼を除いて」


「イザヤだけが……残った」


「そうです。彼だけが生き残ったんですよ。研究者は消され、協力者は粛清され、記録も燃やされて、残されたのは『成果』であるはずの彼だけ」


 ルークのその声音は、実に愉快そうなものだった。


「皮肉ですね。彼の身体には数多くの『聖痕』が残っています。人々はそれを神の恩寵だと呼びますが、全て、人の手によって刻まれたもの。神の奇跡なんかじゃない。薬品の焼痕、血管を走る実験用の試薬の痕、そして、無数の針と刃で刻まれた印。愚かな信徒達はそれを祝福の証だと疑うことがない」


 ルクレツィアは拳を膝の上で握り締める。


「……ユリウス十三世は、なぜイザヤを生かしたの?」


「贖罪ですよ。彼なりのね」


 ルークは肩をすくめ、続けた。


「ユリウス十三世は、神の力を人の手で造る、などという先代の所業を深く忌み嫌っていました。彼が教皇の座についたのは、教会の粛清と浄化のため。そして、実験の犠牲となったイザヤだけは――せめて人として、救いたかったのかもしれません」


「だから、大司教に任じた……?」


「ええ。そして、今や聖女付きの導師として、表向きには清廉な象徴として――」


 ルークはそこで、ほんの僅かに声を落とす。


「けれど、皮肉なものですね。教会は過去の罪を消そうとして、かえって、過去そのものを御神体のように崇め始めた。イザヤ・サンクティスは、そうして生まれた『偶像』なのです。そして、現大枢機卿グレゴリウスは――その『偶像』を忌々しく思っています」


「清廉を装い、罪を覆い隠すことでしか、教会の権威は保てない。ユリウス十三世はそう考えています。だからこそ彼は、過去の失敗を記録ごと抹消し、イザヤを奇跡の子として神聖化した。それが、彼なりの教会再建の道だった」


「……偽りの神聖性で、教会を立て直す?」


「ええ。対してグレゴリウスは、あの男は……もっと現実的です。教会の衰退の原因は、信仰の形骸化と弱体化にあると見ている。だからこそ彼は、より強い支配力と明確な秩序を求めている。つまり、恐れによって民を従わせようとしているのです」


「異端審問……」


 ルクレツィアの口からこぼれた言葉に、ルークは微かに頷いた。


「そう。異端審問こそが、グレゴリウスの掲げる浄化の手段。そしてその中心にいるのが……他ならぬイザヤ本人だという皮肉」


「……」


「イザヤ・サンクティス。信仰という名の鎧をまとい、罰を下すことに躊躇がない。異端審問というのは、普通ならば執行側の精神をも蝕むもの。ですが彼は違う。『神』のためならば――人を焼くことすら正義だと信じていられる」


「それって……」


「だからこそ、あまりにも使いやすい。けれど――問題なのは、彼自身がかつて、最も深く『異端』に関わっていた存在であるという事実です。知っている者がいれば、それは致命的な弱点となる。グレゴリウスにとって、イザヤの存在は、『神聖なる脅威』なのです」


 ルクレツィアは、思わず息を詰めた。


「グレゴリウスは彼を排除しようとしている、というわけね」


「えぇ。正確には、排除したくてたまらないが、いまだ手が出せずにいる状態ですね。あの男の最大の焦点は、いかにして合法的に『神の器』を切り捨てるか。その機会を、今も虎視眈々と狙っている」


 そこで、ルークがわざとらしく肩をすくめて言った。


「そうそう、これはあくまで噂の一つですが――」


 ルークは言葉を切り、わざとらしく紅茶に口をつけた。


「教皇ユリウス十三世は、すでに命を狙われている、という話があります」


 ルクレツィアは静かに眉を寄せる。


「……それは、グレゴリウスが?」


「さぁ?それを正確に特定できる者はいません。ただ、火のないところに煙は立ちませんからね。彼なら十分に動機があるかと」


「そう。ところで、あなたは、そういった情報を一体どこで仕入れるのかしら?」


 ルクレツィアが問いかけると、ルークは紅茶のカップを指先で揺らしながら、にやりと笑った。


「えぇ、まあ――枢機卿の中に、お得意様がいましてね。少し尋ねたら、面白いくらいすぐに教えてくださるんですよ。……人は、秘密の代わりに、安心を欲しがるものですから」


 その顔には悪意とも皮肉ともつかない笑みが浮かんでいる。ああ、この顔だ、とルクレツィアは思う。


(この顔に唆された者たちは皆、きっと、人生を壊されたのだろう)


 権力者も、商人も、貴族も。ルークと取引した者の多くは、最後には何かを失う。情報と引き換えに得たはずの優位が、いつの間にか毒に変わっていることに気づかないまま――彼らもきっと、例外ではないのだ。


「……これだけの情報を渡して、あなたが欲しい対価は?」


 ルクレツィアの問いに、ルークは軽く肩をすくめて言った。


「いえ、今回はまだ結構です。こうして貴女を焦らすのもまた一興でしょうし」


 ルークは立ち上がり、軽く礼を取った。


「では、今日のところはこの辺で。あなたが次に必要とする時まで、私はここにいないことにします」


「……ええ、覚えておくわ」


 彼はドアの前で振り返り、最後に一言。


「願わくば、貴女が望む結末に届きますように。けれどその代償が、思ったより高くつかないといいですね?」


 そして、ルークは静かに応接室を後にした。

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