19.『赦されたい』
「ええ。あれは、必要な浄化ですから」
その言葉に、ルクレツィアの背筋が微かに強張った。
淡々とした口調なのに、その言い回しは、何かを排除することが当然であるかのような響きを孕んでいた。
「……それは、神の意思とお考えで?」
あくまで問いかけとして。けれど、その声には、探るような硬さが滲んでいる。
イザヤは少しだけ首を傾け、優しく微笑んだ。
「神の意思に沿わぬものを正す。それが『審問』の本質なのです。私たちは、ただ真理へと導くだけ――迷える子羊に、救いを与えるのですよ」
あまりにも整った言葉だった。まるで何度も繰り返された祈りのように、感情が削ぎ落とされている。
その瞳には確かな狂気がうかがえた。
「あなたは一体何を恐れているの……?」
不意にそんな言葉が口を出た。思わず口にしたその言葉に、自分でもはっとして唇を押さえる。
イザヤはわずかに驚いたように、目を瞬かせた。
困惑とも、戸惑いともつかない曖昧な表情が、その整った顔に滲む。
そして、一拍の沈黙のあと――
「……さあ。恐れることなど、何ひとつありませんよ」
静かに告げられたその声は、落ち着いていて、優しげですらあった。
けれどそれは、まるで自分に言い聞かせているような、諦めにも似た薄い響きを帯びていた。
やがて、イザヤは立ち上がり、窓の外へ視線を向ける。
淡く差し込む陽の光が、彼の横顔を照らしていた。
「神は、全てを知っておられる。私が何を信じ、何を失ったとしても――神だけは、決して見捨てない」
そう告げたその声には、人間らしさがにじんでいた。
けれど、それはどこか苦しげで、ひどく脆い響きだった。
(……やっぱり、イザヤは)
ルクレツィアは、静かに目を伏せた。
(――このままじゃ、彼は壊れてしまう)
沈黙が落ちた。その中で、ふいに彼の声が落ちてくる。
「――貴女は、私を赦してくれますか?」
ルクレツィアは顔を上げた。
その問いは、あまりにも唐突で、そして――切実だった。
「許されたいのですか?」
問い返すと、イザヤはわずかに目を伏せ、薄く笑った。
「……いえ。忘れてください。こんな話をするつもりではなかった」
そう言ってまた彼はルクレツィアから目を背ける。
その姿を見て、彼女はおもむろに口を開いた。
「あなたは……私を知っているの?」
なんでそんなことを聞いたのかは自分でも分からない。ただ、今の彼なら聞けると思った。
「ええ。なんでも」
その答えには、少しの迷いもなかった。まるで確信を口にするように、淡々と。
「それは、いつから?」
わずかに声が震える。けれど、ルクレツィアは目を逸らさずに問うた。
イザヤは一拍の間を置いたのち、まっすぐに彼女を見た。
髪と同じ白銀ののまつ毛の下で、その瞳だけが、かすかに揺れていた。
「……出会うより、ずっと前からです」
「――どうして?」
その問いに、彼は目を伏せることなく答える。
「私にも、理由は分かりません。けれど……この名もなき感情に言葉を与えるのなら――これが、きっと『愛』というものなのでしょう」
沈黙。
まるで聖堂の鐘の音が遠くに響くように、ふたりの間に言葉の余韻だけが残った。
(……何を、言っているの……?)
心の奥が、どこかざわつく。
けれどその感情に触れることは、今はまだできなかった。
イザヤはすっと立ち上がり、表情を切り替える。
「さて。もうよろしいでしょう。先ほどのとおり、教皇選挙に関することは秘密でお願いしますね」
「えぇ、わかったわ」
「それでは、教会の外までお見送りします」
「ありがとう」
ふたりは並んで静かに聖堂の大扉へと向かう。
白い石の回廊を歩く足音だけが、静かに響いていた。
そして――
大扉の前で、イザヤが立ち止まる。
「では、また」
「えぇ。……また」
ルクレツィアも小さく頷く。
けれど、扉を開こうとしたそのとき――
「……一つだけ」
不意に、イザヤの声が落ちてくる。
「鼠と、コソコソするのは――あまり感心致しませんよ」
その声は穏やかだった。
けれど、まるで扉の向こうの空気が一瞬にして凍りついたかのような、ひややかな威圧が込められていた。
ルクレツィアは、思わず振り返る。
けれどイザヤは、微笑を崩さずに立っていた。ただその目だけが、どこか冗談に見えない色を湛えていた。
「……えぇ、わかったわ」
彼女はそう答えるしかなかった。
扉が重く開かれる音がして、外の光が差し込む。
ルクレツィアはそのまま振り返らずに歩き出した。
背後で、扉が静かに閉じる音がした。




