18.静謐なる狂乱
通されたのは、イザヤの書斎。
壁に並んだ無機質で重厚な書棚。紙の擦れる音もない沈黙が、室内を覆っている。乾いたインクと古びた羊皮紙の匂い――そのすべてが、あの最後の瞬間と重なる。
記憶の奥底に封じていたはずの恐怖が、一気に肌を撫でるように這い上がってくる。
(……ここで、私は一度、たしかに死んだ)
だが表情には出さない。ただ、深く息を吸い、吐く。
「どうぞ、おかけください」
イザヤは変わらぬ静かな声音で、椅子を勧めた。
仕草は完璧で、乱れひとつない。まるで、善き神官そのもの。
「ありがとうございます」
ルクレツィアは対面に腰を下ろす。肘掛けに指をかけるふりをして、爪が震えるのをごまかした。
短い沈黙のあと、イザヤが口を開く。
「……さて、貴女はあの場で、何をお聞きになったのですか?」
その問いは至って真剣で、あの会話がやはり重要なことであることを再認識する。
ルクレツィアの推測では『あの子』とはきっと――
「何を、とは?」
あえて首を傾げてとぼけてみせると、イザヤは目を細め、わずかに肩を竦めてみせる。
「……ユリウス十三世と、グレゴリウス大枢機卿の会話です。とぼけるのは、あまり感心しませんよ」
その声は穏やかなのに、逃げ道を塞ぐような響きがあった。
「そうね、ごめんなさい。教皇選挙が近い……そんな話が耳に入ったものだから、つい気になってしまったの」
ルクレツィアが柔らかく笑みを乗せて返すと、イザヤは数秒の間を置いて静かに頷く。
「……そうですか。わかりました。それ以上は詮索しません」
そして一呼吸置いて――
「ただし、それは教会内でも最高機密に属する内容です。今回は不問としますが……今後、無用な関心は持たぬことをお勧めします」
「ええ、わかっています。口外するつもりはありません」
冷静に言葉を選びながら静かに彼を観察する。
目の前の彼は、あまりにも『普通』に見える。
今の彼には狂気が見えない。
――あの狂気は、いったいどこに消えたのだろう。
「……ふふっ」
不意に漏れた笑い声に、ルクレツィアは目を見開いた。
驚いたことに、イザヤは微笑を浮かべていた。
それはあまりにも穏やかで――けれど、どこか掴みどころのない笑みだった。
「驚かせてしまいましたか。……すみません。貴女との“初対面”が、このような形になってしまって」
「いえ……そんな、お気になさらず」
思わず口元を引きつらせながら返す。
イザヤは軽く頷くと、改まった口調で言った。
「改めまして、私はイザヤ・サンクティス。セラフィス教の大司教を務めております」
「ご丁寧にありがとうございます。私は――」
「――ルクレツィア・アルモンド様。」
言い終える前に、イザヤが口を挟んだ。
その声音は柔らかいのに、拒む隙間のない確信に満ちていた。
「貴女のことは、よく存じております」
穏やかに微笑むその顔からは、冗談の気配も、誇張も感じられない。ただ、事実を告げる者の静けさだけがある。
喉元に何かが引っかかったような感覚に、ルクレツィアは視線を逸らす。
「……そういえば、最近、異端審問局の動きが活発になっているようですね」
間をもたせるように、意図的に話題を逸らした。
それは不自然なほど唐突で、自分でもわかるほどだった。
だが、イザヤはその不自然さに何の反応も見せなかった。
むしろ、あらかじめそうなることを予測していたかのように、静かに頷く。
「ええ。あれは、必要な浄化ですから」
そして、一切の迷いも躊躇もなく、イザヤはそう告げた。




