17.奇妙な密談
風に揺れる庭の植え込み越しに、落ち着いた低音と、やや鼻にかかった甲高い声が交互に響いていた。
(……まさか)
ルクレツィアは壁に身を寄せ、わずかに視線をずらして中庭の様子をうかがう。
白銀の刺繍を施した長衣に身を包んだ老齢の男と、漆黒の法衣を纏った壮年の男が、互いに一歩も譲らぬ距離で向かい合っていた。
(教皇……と、大枢機卿……!?)
その姿に、思わず息を呑む。
教皇ユリウス十三世――敬虔と威厳の象徴であり、表向きには教会を束ねる最も神聖なる存在。
そして、その対面にいるのは、大枢機卿グレゴリウス・ヴァレンティヌス。教皇の影に控えるはずの存在でありながら、教会の実権を事実上握るとされる男。
(この二人が、他に従者も連れず、こんな場所で顔を合わせているなんて……)
対立関係にあるとされる二人の、あまりにも異質な密談。しかも場所は王宮の開けた中庭の片隅。誰かに見られてもおかしくはない。
「……もう長くは保たぬ。お前もわかっているはずだろう、グレゴリウス」
教皇の声は、老いの滲む枯れた響きでありながら、不思議な凄みを帯びていた。
「……それは、どの件についてでしょうか?」
「――全てだ」
「ふむ……。貴方もずいぶんと、老いましたね」
「……そうだな。そうかもしれない。だが――『あの子』を殺した罪は、我々も共に背負わねばならぬ」
「ああ、その件ですか。それをやらかしたのは先代でしょう。聖女も現れたとこですし、もう教会は安泰ですよ。それに『あの子』は、貴方もご存知の通り、今も清く正しく生きていますから、ご安心を」
「……お前は……」
教皇の声に、わずかに怒りの熱が宿るのが分かった。
(『あの子』……?)
壁の向こうで交わされる会話を聞きながら、ルクレツィアの胸にひやりとした感覚が広がっていく。
(誰のことを言ってるの……? 殺した? 今も生きてる……?)
『あの子』という言葉の曖昧さは、かえって不気味だった。その名も明かされない何かは、明らかに教会の秘密に深く根を張っているのであろうことが思われる。
……脳裏に1人の少年が浮かんだ。
そして次の瞬間、会話はぐっと現実的な方向に舵を切る。
「……そんなことより、次の教皇選挙のことですが」
グレゴリウスの声音が急に軽くなったのが、かえって異様だった。
「教皇の座にふさわしい人物……心当たりはありますか? できれば、我々の意志に柔軟に従ってくれる人物が望ましい。貴方も、死後に汚名を被るのは避けたいでしょう?」
「……お前は、また」
ユリウス十三世の声は低く、絞り出すような調子だった。
その言葉の続きを、ルクレツィアは聞き取ることができなかった。
なぜなら、背後から突然伸びてきた手が、彼女の口元を塞いだからだった。
「ッ……!」
鋭い恐怖に身が跳ねる。反射的に身をよじると、耳元に低く抑えた声が落ちた。
「――静かに。危害を加えるつもりはありません」
その声音に、ルクレツィアの動きが凍る。
(この声……まさか――)
恐る恐る振り返る。
そこに立っていたのは、陽光を受けて淡く光る白の神官服に金の刺繍を纏い、月の光すら吸い込むような冷ややかな眼差しを宿した青年だった。
「……イザヤ……」
その名を、無意識に唇が紡いだ。
彼は無表情のまま、静かにルクレツィアを見つめている。
けれど、その双眸の奥には、微かに陰った光が揺れていた。それは――哀しみのような、痛みのような、言葉にできない感情。
その瞳を見ていると、……死んだ時のことを思い出す。
しかし、彼にその記憶は無い。今の彼にとって、きっとルクレツィアは初対面のようなものなのだろう。
「……場所を移しましょう。ここは、目立ちます」
どこか焦るような声音。既に、教皇と大枢機卿の声は遠く、風の中に掻き消えていた。
ルクレツィアが小さく頷くと、イザヤは彼女の手首をそっと取り、足早に王宮の廊下を進んでいく。
「……どこへ向かうの?」
「誰の『目』も『耳』も届かぬ場所へ。……お手数ですが、私の管轄する教会まで来ていただけますか?」
「それって……今から?」
「はい。今すぐに」
一瞬、思考が迷いを生む。
けれど、これは好機であることに違いはない。
……行かないという選択肢ははなからなかったのかもしれない。
「……わかりました」
そう答えると、イザヤはわずかに口元を綻ばせ、静かに告げる。
「ありがとうございます。――では、ここからは別々に動きましょう。教会でお待ちしています」
イザヤは王宮の宮廷の出入口に差し掛かったところで、そう言い残し、微かな笑みを浮かべてから静かに去っていった。
ルクレツィアはその背を見送ると、ゆっくりと歩みを初め、自らも王宮を後にする。
待機していた馬車へ乗り込むと、侍女のリリーが控えめに後に続き、そっとドアを閉めた。
車輪の音が規則正しく響く中、リリーは時折視線をルクレツィアに向けては、何かを飲み込むように黙っていた。
やがて、少しだけ迷うような間の後、意を決したように口を開く。
「お嬢様……その、少しだけお尋ねしても、よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
ルクレツィアは窓の外に目を向けたまま答えた。何も見ていないまなざしだった。
リリーはそっと声を潜める。
「……昨日の夜は、舞踏会にいらしたかと思えば、あのグレイヴン伯爵を……ええと、屋敷にお連れになって……」
「ええ」
「それで今朝は、王太子殿下に謁見なさって……」
「ええ」
「それから今、教会に向かっておられるのですよね。まるで……何か、とても大きなことに、巻き込まれているようなお顔をされていて……」
声はあくまで柔らかく、控えめだった。けれど、主を心配する気持ちは隠しきれない。
「……お嬢様。私などが詮索すべきでないことは、重々わかっております。でも、どうかご無理だけは……」
ルクレツィアはようやく窓から視線を外し、そっとリリーを見た。侍女の眼差しは、まっすぐだった。
ルクレツィアは微笑を浮かべる。
「ありがとう、リリー。……でも、まだ言えることはないの。ごめんなさいね」
その声は優しく、しかしどこか遠い。
(リリーは私の大切なたった一人の友人のような子だもの。……もう巻き込む訳にはいかないわ)
脳裏に浮かぶのは、前の周で巻き込んでしまった商人の顔。
彼が死んだのは、ルクレツィアのせいだ。……誰かを巻き込んで危険な目に合わせるようなことはもうしたくない。
「……いえ、私こそ、余計なことを」
リリーは目を伏せ、小さく頭を下げた。
それ以上、二人は口を開かなかった。
ただ、馬車の中に静寂が戻る。
ほどなくして、教会の尖塔が視界に入る。
白く、冷たく、まるで空に向かって罪を突き立てるようなその姿は、どこか異様な威圧感を放っていた。
馬車が停まり、扉が開く。
ルクレツィアはゆっくりと足を地に下ろすと、リリーを振り返り、ふわりと笑って言った。
「少し遅くなるわ。あなたはここで待っていて。必ず戻るから」
その笑みは穏やかだったが、どこか儚く――まるで、自分に言い聞かせるようでもあった。
リリーは一瞬だけ戸惑うように目を伏せたが、すぐに顔を上げて、しっかりと頷く。
「……そう、ですか。行ってらっしゃいませ、お嬢様」
扉が閉まり、馬車がその場に残される。
ルクレツィアは教会の正面扉へと足を進めた。
鈍く冷たい扉に手をかけると、重たく軋む音を立てて開く。
中に入ると、そこは石造りの厳かな空間だった。
天井の高い聖堂の中、淡い光がステンドグラスを透かして床に模様を落としている。誰もいない、静寂と祈りの気配に満ちた空間。
だが、中央の祭壇前――その奥に、誰かがいた。
白金の神官服を纏った青年が、こちらに背を向けたまま、燭台の火を整えている。
「……イザヤ大司教」
ルクレツィアがそっと名を呼ぶと、イザヤは手の動きを止め、ゆっくりとこちらを振り返る。
「ようこそ、お越しくださいました、ルクレツィア・アルモンド様」
その声音は柔らかく、礼儀正しい。
「誰にも話してはおりません。貴女の訪問は、私の管轄内でも機密扱いにしております。どうぞ、奥へ」
彼の言葉には一切の感情の揺らぎがなく、まるで儀式のように整っていた。
ルクレツィアは小さく頷き、彼の後をついて歩き出す。
……一抹の不安を抱えながら。




