16.盤上の駒
「はぁ……」
扉が閉まる音を背に、ルクレツィアはようやく息を吐いた。
まっすぐ自室へ戻り、侍女の手も借りず、そのままドレスのままベッドへと身を投げ出す。
冷えたシーツが火照った思考をわずかに冷ます。
(ルーク・グレイヴン……やっぱり、あの男は危険ね。……やり直しが、必要かもしれない)
脳裏に焼きついて離れないのは、あの笑み。
甘く穏やかなのに、底が知れない。すべてを見透かすような目だった。
ルークは乙女ゲームでも特異な存在だった。
序盤から登場し、時に力を貸し、時に物語の核心に触れる――にもかかわらず、彼を救う事件は攻略対象者の中でも1番最後。
そして、恋愛ルートに入らなければ、必ず裏切る。
情報の対価に求めるのは、金ではなく――
(心や信念。あるいは、もっと厄介な選択)
彼と取引したキャラは主人公ソフィア以外みな、何かを失った。
信頼、道徳、愛情、自分自身……そのすべてが揺らぎ、やがて壊れていく。
(……今の私は、どう映ったかしら。彼の興味を、引きすぎたかもしれない)
額に手を当てて、ひとつ息を吐く。
目を閉じても、あの微笑が浮かぶだけだった。
(一度だけの頼み。……その代償がどれほど重いのか、今の私には分からない。だからこそ――やり直さなくては)
やり直し。つまり、それは――
(死ぬということ)
命を落とし、時間を巻き戻す。
それが唯一のリセット手段。けれど――
(……おかしいわね)
ルクレツィアは、ふと眉をひそめた。
死ぬと口にしても、胸がざわつかない。
ほんの少し前までは、あれほど怖かったはずなのに。今ではまるで、朝に目を覚ますことと同じように、当たり前の手段として受け入れている。
いや、それはきっと――
(……分からないだけ。口にするのは簡単でも、いざ行動に移す時になれば……また、震えるのかもしれない)
そう思うと、ほんの少しだけ喉が詰まるような気がした。
(それでも、選ばなきゃいけない)
枕元に置かれたランプの明かりが、静かに揺れていた。
その明かりを見つめながら、ルクレツィアはひとつ、長い息を吐く。
(イザヤの過去。そして、教会の真実。あの情報が手に入れば――私はもう一歩、真相に近づける)
やがて、目を閉じる。
心の奥底に押し込めていた恐れが、じわりと浮かんではまた沈んでいく。
(次こそは、間違えない。もう死ぬのはこれで最後にしたいわね)
唇をきゅっと結ぶ。
その横顔に、迷いはない。ただ、ひとつの覚悟だけが残っていた。
夜はまだ長い。
だが、ルクレツィアの眠りは浅く、夢も見なかった。
❖❖❖
翌日。
王宮の謁見室には、朝の陽光が長い窓から静かに差し込んでいた。
そのなかで、アズライル王太子は書類の束に目を通していたが、ルクレツィアの姿を見つけると手を止め、まっすぐに彼女を見据える。
「話とはなんだ、ルクレツィア」
淡々とした声の奥に、鋭い刃のような響きがあった。
彼の視線は常に、相手の腹の中を暴こうとするもの。
その眼差しに臆せず、ルクレツィアはまっすぐに立つ。
「殿下。……異端審問局の動きが、最近やや過剰に感じられます」
「……審問局、か。たしかに噂は聞いている」
アズライルは短くそう告げると、椅子の肘掛けに指を滑らせた。
「王太子として、教会に何かを求めろと?」
「いいえ。ただ、見ているという意思を、ほんの少し示していただきたいのです。……過激な摘発を抑制するために」
「ふむ……構わないが、それでお前になんの得がある?」
「得、ですか……。そうですね。」
ルクレツィアは静かに微笑んだ。
「過剰な動きが減れば、街の空気も少しは和らぎます。それが、結果として私たち貴族にとっても、王族にとっても都合がいいでしょう?」
「詭弁だな」
アズライルは唇の端をほんのわずかに吊り上げる。その笑みは、愉しんでいるようでいて、どこか薄ら寒い。
「まるで自分が公益のために動いているような口ぶりだ。……お前らしくもない」
「そうでしょうか」
ルクレツィアは一歩も引かず、静かに返す。
「私は常に、自分にとって最も合理的な選択をしているだけです」
「ふん。つまらない建前は好かん」
アズライルは椅子にもたれ、深紅の瞳を細めた。
「……その動き、誰に対する牽制だ?」
「殿下こそ、詮索が過ぎます」
そう言ってルクレツィアは微笑みながら一礼する。
「審問局の暴走を、少しだけ抑える手助けをしてほしい。ただそれだけです。私の立場では限界がありますから」
「ほう。……つまり、お前は俺の立場を利用しに来たと?」
「そうではありません。王太子という地位を少しだけお借りするというだけです」
一瞬、空気がぴたりと張り詰めた。
アズライルの指が肘掛けを軽く叩く。その仕草ひとつが、不穏な重圧となって空間に満ちる。
「……自分が『駒』を使う立場にあると自覚している者は、大抵、他人からもそう見られていることを忘れる」
「心得ています」
ルクレツィアは視線を外さず冷静に口を開く。
「私はいつでも、殿下の『婚約者』というただの駒でございますよ」
アズライルの目が細くなる。
「偽善か、あるいは欺瞞。どちらにせよ……面白い」
彼は椅子を立ち、ゆっくりとルクレツィアの前に歩み寄った。
「ならば気をつけろ。盤上に立つ者が駒を使うつもりでいても、気づけば自分こそが動かされていた、ということもある」
「……心得ております」
彼の瞳にはまだ警戒と好奇が揺れていたが、すぐに視線を逸らせた。
「いいだろう。教会には、目を光らせている程度の意志は伝えてやる。深入りはしない」
「感謝いたします、殿下。それでは」
もう彼の興味はルクレツィアから消えたらしい。既に彼の意識は手の中の書類の中だ。
ルクレツィアは静かに一礼し、振り返って扉へと向かう。
重厚な扉を押して部屋を出た瞬間、ようやく胸の奥で張り詰めていた息を、そっと吐き出した。
(……やっぱり、彼も怖い)
緊張の糸は解けきらず、背筋に微かな冷気のような余韻を残していた。
王宮の長い回廊を歩きながら、ルクレツィアは冷静さを取り戻そうと意識を整える。
すると、中庭に面した回廊に差し掛かったとき――
風に乗って、ふと声が耳に届いた。
(この声……)
どこかで聞いたことのある声。聞き逃すまいと足を止め、壁にそっと耳を寄せる。
中庭の向こう側。誰かが何かを話している。
その声に、ルクレツィアの眉が僅かに動いた――




