14.嘘と真と沈黙と
「聖女の力なんて、最初から存在しない……なんて言ったら、君はどうする?」
その言葉が空気を裂いた瞬間、ルクレツィアの肺に残っていた息が、ひとしずくの音も立てずに抜け落ちた。
「……何を言ってるの?」
喉の奥からこぼれた声は、自分でも驚くほどかすれていた。
問い返したはずなのに、それはほとんど呟きのようだった。
だがエリアスは、まるでその動揺すら予期していたかのように、何の感情も映さぬ目で肩をすくめてみせた。
「そのまんまの意味だよ。――聖女なんて、信仰と物語が作り上げた幻想さ。本物の奇跡なんて、どこにも存在しない」
「それなら、乙女ゲームでのシナリオは?……『神の御書』はどうなるの?」
ようやく絞り出した声に、エリアスの瞳が一瞬だけ細くなる。
「……『神の御書』ね。あれは、神が封じられている聖なる巨木から削りだされた特殊な紙。それはちゃんとあってるよ。でも……」
彼はそこでいったん言葉を切り、ソファの背にもたれながら、静かに息を吐いた。
「でも、神はもう堕ちてるんだから、その紙がいつまでも神聖かなんて分からないよね」
「……どういうこと」
ルクレツィアが問い返すと、彼はほんの少しだけ、表情を曇らせた。
「君に一つ、ヒントをあげよう」
そう前置いたエリアスの声は、いつになく真剣で、低く抑えられていた。
「乙女ゲームのシナリオや、前世の知識だけを頼りにするのは危ういよ。それに、俺が言うことも真実だけとは限らない。むしろ君が知るべきなのは――この世界の本当の歴史だ。貴族として学んだ表向きの書物でも、乙女ゲームの設定でもない。意図的に葬られ、闇に沈められた歴史。……俺がなかったことにした過去だ」
その言葉の奥には、僅かな痛みと苦味が滲んでいた。
「でも……それも少なくとも今は、特に重視しなくていい。最優先にすべきことは他にあるからね」
ルクレツィアはその言葉に、深くは問い返さず、静かに頷いた。
「……そう、まぁ、いいわ。それからあと、2つほど質問を」
「なんだい?」
「ひとつは、死に戻る前の世界と、前回の世界で……攻略対象者たちの態度が、どこか妙に違っていたのはなぜ? そしてもうひとつ。イザヤの過去について、乙女ゲームの中では一切言及されていなかった。それはどうして?」
エリアスは少し思案するように視線を泳がせた後、穏やかに口を開く。
「まず前者の質問から答えよう。君のその違和感は正しい。だからこそ、君は急がなければならない。世界が、壊れてしまう前に」
「……どういう意味?」
「この世界は、完全ではないんだ。綻びは最初から存在していた。君が死に戻るたびに、その綻びは少しずつ広がっていく。そしてやがて、世界そのものを歪ませてしまう」
「それが、彼らの態度の変化につながっている……?」
「そう。それは変質と呼ぶべきものかもしれない。だが、理由のすべてを君に説明することはできないんだ。だから、どうか、そういうものだと納得してほしい」
「……納得はしないわ。でも、理解はする。いいわ。それで……もう一つの質問。イザヤの過去について。どうして、ゲーム内ではまったく触れられていなかったの?」
エリアスの表情がほんのわずか、陰を帯びた。
「それは……残念だけど、俺にもわからない。彼の過去について、俺は何も知らないんだ。だからこそ、ゲームに反映させることもできなかった」
「開き直らないで。私は今、とても困っているのよ」
「……ごめん。でも本当に、知らないんだ」
「あなたの作ったゲームなのでしょう? なのに、なぜあなたが設定を知らないの?」
エリアスはしばし沈黙し、やがて静かに言葉を落とす。
「それは――少し違う。この世界を俺が作ったわけじゃない。俺は、この世界を模して、ゲームを作っただけなんだ」
「……どういう意味?」
ルクレツィアが目を細めて問い返す。エリアスは小さく息を吐き、おもむろに語りはじめた。
「正確にはそれも違うんだけどね。……とある世界があったんだ。限りなく完成された、既に物語の結末を迎えた世界が」
彼の瞳が遠くを見つめる。懐かしさと、切なさと、何かの後悔が入り混じるような眼差しだった。
「俺はその世界を知っていて、あのゲームを作った。設定は……少しいじっているけどね。けれど、この世界は俺の作ったゲームの設定を継いだまま、模倣元のオリジナルの世界の形をしている。そのせいで、この世界には綻びがある」
「……意味がわからないわ」
ルクレツィアの声は、苛立ちというより、戸惑いと不安の色を帯びていた。
「……分からなくていい。君のやることは変わらない。まずはイザヤを救っくれ」
その声は、どこか諦めを帯びていた。それまでの穏やかな口調が、冷たく硬質な響きに変わっていく。
エリアスはまっすぐにルクレツィアを見つめた。冗談の一つも差し挟まない、真剣な眼差しだった。
「わかっているけど、でも、今は打つ手が……」
思わず俯いて吐き出すように呟く。その声には、焦燥とわずかな怯えが滲んでいた。
「打つ手なら、あるはずだ。君なら、もう……気づいているだろう?」
エリアスは静かに語りかける。まるで彼女の中にある何かを信じているかのように。
「大丈夫。君なら、きっとできる」
「そんな無責任なこと、簡単に言わないで」
呆れと怒りの混じった声で返す。けれど、感情の奥底には、自分でも気づかぬ期待と恐れが渦巻いていた。
エリアスは少しだけ目を伏せて、ぽつりと呟いた。
「……ごめんね」
その声音は、どこまでも優しく、どこまでも無力だった。
「俺は……この世界に干渉できない。君に託すことしかできないんだ」
その言葉に、ルクレツィアはゆっくりと顔を上げた。
目の前にいるのは、創造主などではなかった。彼女と同じように、この世界の理不尽に無力な存在。
静かに目を瞑る。
彼の狂気と、哀しみと、歪んだ愛とも言えない何かを思い出す。
そして、自ら死を選ばされたあの夜の重さを。
あの夜の出来事は、決して夢や幻ではない。
薬を飲み干し、意識が遠のき、彼の腕の中で崩れ落ちたあの瞬間。
今もまだ皮膚の裏側に焼き付いているような気さえしてくるそれは、ルクレツィアにとっては、ほんの数時間前の出来事に等しい。
彼の抱きしめる腕の温度。
最後に見たあの、泣きそうな顔。
(――そして、夢で見たあの少年。あれは……)
記憶と感情が押し寄せるなか、ルクレツィアは一度だけ目を閉じ、静かに息を吸い込んだ。
「ええ、わかっているわ」
短く、しかし確かな決意を込めて告げる。
その声に、エリアスは満足げに微笑んだ。安堵にも似た柔らかさが、彼の表情をかすめる。
「それなら、良かった」
一言そう言って、エリアスはゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、俺は……また少し、舞台から身を引くよ。しばらくのあいだ、ね」
彼は軽やかな足取りで扉へと向かう。振り返ることなく、静かに歩を進めていく。その背には、どこか影のようなものが滲んでいた。
扉に手をかける直前、ふと足を止め、今度はゆっくりとルクレツィアの方を振り返る。
「君に……幸せな結末を」
その声は穏やかで、それでいてひどく遠く感じられた。
まるで誰かを懐かしむような悲しげなその瞳はルクレツィアを通り越していた。
そしてエリアスは、扉の向こうへと消えていった。
静寂が残る。残された空間に、余韻だけが微かに漂う。
ルクレツィアは、その背中をただ黙って見送った。胸の奥で、ひとつの記憶が浮かび上がる。
――それは、前世の、死の間際に見た光景。
あの男の微笑を。
「……一体、何がお望みなの」
彼女の唇から、誰に届くこともない問いが、ぽつりと漏れた。
応える声はない。ただその言葉だけが、空気に溶けて、静かに消えていった。




