1.転生先は悪役令嬢
――ふっと、何かが途切れた。
落下の衝撃は来なかった。ただ、薄明るい光が静かにまぶたに差し込んでくる。
ゆっくりとまぶたを開けると、目に映ったのは白亜の天井。だが、それは見知った無機質な天井ではなく、繊細な彫刻と金の縁取りに彩られた、美しくも異質な空間だった。まるで中世の城の一室にいるかのような、優雅で異様な現実。
(ここは……どこ? 私は……?)
混乱する思考の底から、自然にひとつの名が浮かび上がった。
(そう……私は――ルクレツィア。ルクレツィア・アルモンド)
その瞬間、胸の奥に眠っていた記憶が静かに波紋のように広がっていく。
父と母に愛され、公爵家の令嬢として育まれてきた少女時代。
社交界の華、舞踏会の夜、繊細な紅茶の香りと、優雅なレースのドレス。
アルモンド家の後継者として生きる日々が、まるで長い夢のように蘇る。
けれどその奥には、もうひとつの記憶――前世、綾瀬凛花だった自分の人生もまた、確かに存在していた。
二つの記憶は絡み合い、今の彼女を形作っている。
ゆっくりと身体を起こし、大きな姿見の前に立った。
鏡に映ったのは絹のようにさらさらと流れるプラチナブロンドの髪、宝石のように煌めく淡いピンクゴールドの瞳。透き通る白い肌に、整った人形のような顔立ちの少女。
思わず、鏡の中の自分をじっと見つめた。
(……うーん、気のせいかしら)
じわじわと胸の奥に違和感が広がっていく。
この顔、この髪、この瞳――どこかで確かに見たことがある。けれど、それは今世での記憶ではない。
(これって……まさか……ゲームの世界?)
胸の奥がざわめいた。
あのゲーム――『聖なる光と堕ちた神』。
前世で何度も繰り返し遊んだ乙女ゲーム。
その中で、何度も画面越しに見てきた悪役令嬢――プラチナブロンドの髪とピンクゴールドの瞳を持つルクレツィア・アルモンド。まさに今、鏡に映っているのはその彼女だった。
(でも、どうして私が……?)
ゲームを思い返す。
ルクレツィアは、物語の中で聖女ソフィアの恋路を邪魔する悪役として描かれていた。高慢で冷酷で、聖女を陥れようとし、物語の中盤で追放という名の破滅を迎えるモブ寄りの悪女。それが定められた彼女の運命だったはずだ。
(なのに私は、その彼女に……)
どうして自分がここにいるのか、理由はわからない。
思い返すのは、前世のあの歩道橋での出来事。知らない男に掴まれ、共に落ちたあの瞬間。そして男が呟いた言葉――「今度こそ……幸せな結末を」。
あの意味も、この転生との繋がりも、今はまだ掴めない。
(でも……憑依ではないのよね)
静かに考えを整理する。
自分にはルクレツィアとして生きてきた十数年の記憶がある。幼少期から今日まで、両親との思い出や社交界での出来事、宮廷での生活――すべてがはっきりと思い出せる。
けれど同時に、前世――綾瀬凛花として生きた十七年の記憶も、こうして蘇ってきている。
これは憑依でも、ただの転生でもない。まるで二つの人生が統合されたかのような――そんな奇妙な感覚だった。
(……でも)
ゆっくりと目を伏せ、息を整える。
(なんでよりにもよって悪役令嬢なのよ)
苦笑が漏れる。
だがすぐに、冷静に思い直した。
(いや、私には……知識がある。それに、ルクレツィアは元から破滅とは言ってもただ追放されるだけ。命まで取られるわけじゃないのなら、追放後に現代の知識チートで無双できるんじゃないかしら)
胸の奥が少しずつ軽くなっていくのを感じる。
(マヨネーズでも作って商売を始めれば結構将来安泰なんじゃないかしら?何を隠そう前世の私は料理人とパティシエの娘。料理チートならバッチリよ。それがくまくいったら、貴族から庶民に転落しても、むしろ悠々自適な異世界スローライフ……!)
思わず頬が緩む。破滅エンドの先に、案外バラ色の未来が待っているかもしれない。
前世では普通の女子高生だった自分が、今は公爵家の令嬢。経済力もコネもある程度は揃っているのだ。どう転んでも、ゼロから始めるよりはずっと有利だ。それに、今のルクレツィアは17歳。おそらくそろそろ物語が始まる頃だろう。しかし断罪の時は20歳だ。まだ3年の猶予がある。それまでに研究でもして追放に備えようか。
(むしろちょっと楽しみかも……)
そんなお気楽な将来設計を思い描いていると、軽やかなノック音が扉の向こうから響いた。
「お嬢様、朝食のご用意が整っております」
扉越しに、使用人の落ち着いた声が優しく響いた。
ルクレツィアは軽く息を整え、柔らかな微笑みを浮かべる。
「ええ、今行くわ」
ゆったりとした所作で椅子から立ち上がると、ドアノブに手をかけ、静かに扉を開けた。
部屋の外には、執事と侍女たちが整列して待機している。彼らは一斉に頭を下げ、恭しく挨拶を送った。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、皆さん」
優雅に答えながら、ルクレツィアは廊下を歩き出す。長い髪のプラチナブロンドが一筋、肩から滑り落ちる。厚手の絨毯が敷き詰められた廊下には、朝の光が窓から射し込み、柱の彫刻や壁に掛けられた絵画を静かに照らしていた。
歩を進めるたび、ルクレツィアのヒールが絨毯の上で柔らかく音を立てる。その音だけが、静まり返った廊下に規則正しく響いた。
曲がり角をいくつか抜け、やがて食堂の重厚な扉の前へと辿り着く。執事が一礼し、静かに扉を開いた。
食堂に足を踏み入れた途端、大きな窓から差し込む朝の光が白いテーブルクロスを柔らかく照らし出した。磨き抜かれた銀食器がきらめき、彩り豊かな朝食が既に整えられている。焼きたてのパンの香りがほのかに漂い、温かなスープからは湯気が立ち上っていた。
部屋の隅には、執事や侍女たちが静かに控えている。だが、広いテーブルの向こう側――そこに座るはずの両親の姿はなかった。
「おはようございます、お嬢様」
侍女の一人、幼い頃から仕えているリリーが微笑みながら頭を下げた。
「ええ、おはよう」
ルクレツィアも柔らかく微笑み返し、優雅な所作で席についた。フォークとナイフを手に取り、静かに朝食を始める。銀の食器が控えめに音を立て、温かなスープの香りと焼きたてのパンの匂いが心地よく鼻をくすぐった。彩り豊かな果物も並び、食卓は完璧そのものだ。それなのに、どこか物足りなさを感じてしまう。
(……やっぱり、少し寂しいわね)
そう思わずにいられなかった。
父と母――アルモンド公爵夫妻は、昨夜から隣国への外交に出向いており、しばらく帰ってこない。幼い頃から外交の多い両親に慣れているとはいえ、こうして一人きりの朝食はやはり心細さを感じさせた。
だが、すぐに思考を切り替える。今は気を落としている場合ではない。
「お嬢様、本日のご予定はご存知でしょうか?」
控えめにリリーが声をかけた。
「え……予定?」
一瞬きょとんとしてしまう。どこか記憶の霧がかかったように、すぐに思い出せない。前世の記憶が蘇ったことで、今世の記憶が少し曖昧になっていたのだ。
(えっと……)
だが、次第に頭の中の記憶が繋がっていく。
(ああ、そうだったわ。今日は王城での夜会――舞踏会の日!)
瞬間、ぱっと顔を明るくしながら微笑む。
「もちろんよ。支度はいつ頃から始めましょうか?」
何事もなかったかのように応じると、リリーも安心したように頷く。
「午後からお仕度を始めれば十分に間に合います。舞踏会は日が落ちてからでございますので」
「そう、わかったわ」
(大丈夫、私はルクレツィアよ)
心の中でそっと自分に言い聞かせる。
今となっては綾瀬凛花としての記憶は確かにあれど、意識も性格も、ここで育ってきた貴族令嬢・ルクレツィアのそれに自然と馴染んでいる。もはや自分は「ゲームの中にいる」などといちいち騒ぐ必要はないのだ。