1.転生先は悪役令嬢
――ふっと、何かが途切れた。
落下の衝撃は来なかった。ただ、薄明るい光が静かにまぶたに差し込んでくる。
ゆっくりとまぶたを開けると、目に映ったのは白亜の天井。だが、それは見知った無機質な天井ではなく、繊細な彫刻と金の縁取りに彩られた、美しくも異質な空間だった。まるで中世の城の一室にいるかのような、優雅で異様な現実。
(……どこ、ここ……)
記憶は混濁している。
けれど、それでも胸の奥から自然と浮かび上がってくる名前があった。
(ルクレツィア。ルクレツィア・アルモンド)
そう名乗った瞬間、脳裏に二重の記憶が広がる。
父と母に愛され、公爵家の令嬢として育った華やかな日々。
そして同時に、現代日本で「綾瀬凛花」として生きた17年間。
どちらも“私”であり、どちらも本物だった。
(私……転生、したんだ……)
唐突な実感が胸を打ち、私は慌てて身を起こした。
室内には、優雅な調度品と大理石の柱。
壁に掛けられた絵画はどれも見たこともないタッチで、背後には天蓋つきのベッドが静かに佇んでいた。
(夢……じゃない。ここは……)
立ち上がり、大きな姿見の前に向かう。
そこに映ったのは、絹糸のように滑らかなプラチナブロンドの髪と、淡く煌めくピンクゴールドの瞳を持つ少女。
(……嘘。まさか)
見覚えがあった。その容姿に。
前世で夢中になってプレイしていた乙女ゲーム――『聖なる光と堕ちた神』。
その中に登場する悪役令嬢、ルクレツィア・アルモンド。
(私……あのゲームの……?)
背筋が凍る。
ルクレツィア。
高慢で冷酷、聖女の恋路を邪魔する悪女。
物語の中盤で断罪され、追放される――それが、彼女の決まった運命だった。
(……でも、命までは取られないはず)
ルクレツィアは確かに悪役だけど、最終的に断罪されて“追放”されるだけ。命を失うようなバッドエンドじゃなかったはずだ。
それに私は前世で料理好きだったし、料理人の娘でもある。マヨネーズもパンも作れる。現代知識を駆使すれば、追放後に食堂でも開いて、のんびり異世界スローライフを送れるかもしれない。
(それに、この世界には三年の猶予がある)
断罪イベントは、ルクレツィアが二十歳になったとき。
今の私は十七歳。つまり、三年も準備期間がある。
(なんだかんだで、むしろ前世より幸せかも?)
未来設計がうっかり明るくなりかけたところで、コンコンと控えめなノック音が響いた。
「お嬢様、朝食のご用意が整っております」
扉越しに聞こえる丁寧な声。私――ルクレツィアは自然と返す。
「……ええ、今行くわ」
ドアを開けると、執事と数人の侍女が一斉にお辞儀をしてくる。
どこか芝居じみているのに、それがこの世界では“日常”なのだと、身体が自然と受け入れている自分に気づく。
ルクレツィアは優雅に微笑み、廊下を歩き出す。
磨き抜かれた大理石の床にヒールの音が柔らかく響き、差し込む朝日が窓越しに長い影を落としている。
曲がり角をいくつか抜けると、重厚な扉の前へ。
執事が扉を開けると、広々とした食堂に朝の光が差し込んでいた。
白いテーブルクロス、銀食器、湯気の立つスープと焼きたてのパン。まるで絵画のような完璧な朝食がそこにあった。
彼女は椅子に座り、ナイフとフォークを手に取る。
両親――アルモンド公爵夫妻は先月から外交で不在。
一人の朝食にもすっかり慣れている自分に、また少し驚いた。
「お嬢様、本日のご予定はご存知でしょうか?」
侍女のリリーが控えめに問いかけてくる。
「……予定?」
一瞬戸惑うが、すぐに記憶が繋がった。どうやら、前世の17年を思い出したことで、少しばかり今世の記憶が曖昧になっていたらしい。
(そうだ、今日は……王城での夜会。舞踏会の日!)
「ええ。支度はいつから始めるべきかしら?」
「午後からで十分かと。夜会は日が落ちてからでございます」
「わかったわ」
ルクレツィアは微笑んで返す。
(よし。断罪まではまだ三年もある。今のうちに、できることをしておかなくちゃ)
目の前の朝食を見つめながら、彼女は静かに決意した。
バッドエンドなんて、絶対に回避してやる。
そう、これはただのゲームじゃない。
前世で死ぬ間際にあの男が言っていたあの意味深な言葉。「今度こそ幸せな結末を」。ルクレツィアはその意味を知らない。それでも、自分は幸せにならなければならないのだと、どこか感じていた。