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12.夢

「イザヤ!」


 ――私の声が、風より先に花野を駆け抜けた。


 その名を呼んだ瞬間、男はゆっくりと振り返った。

 白銀の髪が風に揺れ、淡く金の光をたたえた瞳が、静かにこちらを捉える。


 その視線の先には、一人の少女が立っていた。


 そこにいたのは、私だった。

 けれど、それは今の私でも、過去の私でもない――私も知らない私。


 聖女の装束を身に纏い、柔らかな桃色の瞳に歓喜の色を宿したその少女は、まるで愛する者に再会したかのように、純粋な笑みを浮かべた。


 そして、迷いも躊躇もなく、彼女は駆け出す。

 足元の花々を踏まず、風とともに舞うように。


 イザヤはその姿を、ただ黙って見つめていた。

 まるで、愛する娘の成長を見守る父のような、穏やかな眼差しで。


 赦しと慈しみと、深い親愛が交錯した、その眼差し。


 その光景は、美しく、安らかだった。

 そう、ほんのひととき――夢のように。


 だが、夢は長くは続かない。


 彼女の走る背後から、世界が音を立てて崩れていく。

 一輪、また一輪と花が萎れ、色彩が失われていく。

 空が砕け、陽が沈み、光が黒に染まっていく。


 音が消え、風が止み、命の匂いすら薄れていく。

 世界そのものが、皮膚のように剥がれ、崩れ落ちていった。


 やがて視界には、ただの虚無が広がっていた。


 私の足元さえも、朧げになっていく。


 崩壊はやがて、全体を飲み込み――そして、


 次の瞬間、私は“そこ”にいた。


 冷たい石床。湿り気を帯びた空気。鉄と錆の匂いが、肌にまとわりつく。


 天井も窓もない。四方は鉄格子で囲まれた、牢獄のような空間。

 否、これは――まるで、地下に繋がれた獣の檻だった。


 その奥に、気配があった。


 闇に滲むようにして壁際に蹲っていたのは、一人の少女。……いや、少年だ。中性的な顔立ちと、その長い髪でどちらか一瞬分からなかった。

 白銀の髪は煤けて汚れ、淡い金の瞳は焦点を失い、虚ろに宙を彷徨っている。


 ――知っている。その髪。その瞳。


 私は思わず、手を伸ばしていた。

 その仕草に応えるように、闇がほんの少しだけ輪郭を与える。


 少年の身に纏う服は、かつては聖職者か、あるいは教会の奉仕者のものだったのだろう。

 だが今は、原型をとどめぬほどに擦り切れ、裂け、膝も袖も泥と血で黒ずんでいる。

 細い肢体が布の隙間から覗いていた。

 飢えと疲労、そしてなにより心を削がれた者だけが纏う“静けさ”が、彼を覆っていた。


 それでも彼は、生きていた。

 呼吸し、瞬きし――そして、私を見ていた。


「あなたは――」


 私の声に、少年が微かに眉をひそめた。


 金の瞳が、焦点を求めて揺れる。

 まるで、深い水底から這い上がろうとする魂のように。


 しばらくの沈黙のあと、彼はぽつりと、つぶやいた。


「……聖女様……?」


 掠れた声だった。けれど、はっきりとそう呼んだ。


 なぜ――? なぜ、私を「聖女」と?


 私は聖女などではない。

 そして、今ここがいつで、どこで、何の意味を持つのかすら分からない。


 それなのに彼は、まるで幾度も私を見てきたかのように、その名を口にした。


「……私のこと、知ってるの?」


 そう問いかけた。だが少年は、首を横に振った。


「……わからない。でも……夢で、何度も……貴女を……」


 その言葉に、胸が強く脈打った。


 きっとこれはただの夢じゃない。


 ――思い出す。私は確かに、イザヤの手の中で死んだ。

 狂おしいほど甘やかな声に包まれて、自ら命を絶った。

 そうして、私は今夢を見ている。また新たな物語が始まるまでの幕間の夢。


 そして、目の前にいる彼は――


「こ、来ないで……!」


 少年が突然、目を見開いたかと思うと、その顔が恐怖に引き攣れ、身を縮めて蹲った。


「やめて……もうやめて……痛いのは、嫌だ……お願い、来ないで……!」


 その声が、私の胸を鋭く突き刺した。


 掠れたその懇願の意味を、私は知らない。

 彼が誰に何をされたのか、どんな過去を抱えているのか。

 それは何ひとつ分からなかった。


 でも――この瞬間だけは分かる。


 目の前の少年が、なにかに怯え、苦しんでいること。

 それだけが、今の私にとってのすべてだった。


 どこが痛むのか、何を怖れているのか、なぜここにいるのか。

 何も分からない。分からないからこそ、踏み込めなかった。


 けれど、見てしまった。

 震える肩、擦り切れた衣服、土と血に汚れた手足。

 そして、消え入りそうな声で助けを求めるように繰り返される拒絶の言葉。


 私はその場にしゃがみ込み、そっと膝をついた。


 ただ一つだけはっきりしていた。

 この子を、これ以上怯えさせたくない――それだけだった。


 私は、そっと手を伸ばした。

 怯える少年の肩に、触れるか触れないかの距離で、一瞬だけ迷った。

 けれど――ためらいを押し殺して、その小さな体を、そっと抱きしめた。


 少年はびくりと震えた。

 逃げようとする気配もあった。けれど、腕に力をこめず、ただそっと包み込むように抱くと、彼の身体から、かすかな震えと呼吸の音だけが伝わってきた。


 細く痩せた背。骨ばった肩。

 それでも確かに、温もりがあった。

 生きている。この子は、生きている。


「大丈夫。もう、怖くないわ」


 囁くようにそう言った。

 それはきっと、救いの言葉ではない。

 でも、私の中から自然とこぼれた、ほんの少しの祈りだった。


 そのときだった。


 足元が軋む音がして、世界にまた、ひびが入った。

 空気が揺れ、空間が歪み、辺りが黒く崩れ始める。


 鉄格子が砕け、壁が溶け、空間そのものが音もなく崩れていく。

 まるで夢の終わりのように。

 けれど私はもう、怯えてはいなかった。


 腕の中の少年の存在が、確かなものとしてそこにあったから。


「……聞こえる?」


 私は彼の耳元に顔を寄せた。


「ごめんね。もう少しだけ時間がかかる。でも、それでも、私は、あなたを必ず救ってみせる」


 それは約束ではない。

 祈りでもない。

 この手で必ず成し遂げると、ただ強く、静かに刻んだ私のこと覚悟だ。


 崩れ落ちる世界の最中で、少年の身体から、わずかに力が抜けた気がした。

 その一瞬の温度を胸に抱いたまま――


 私は、再び目を覚ました。

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