11.赦し
「……質問に答えていただきたいのです、イザヤ大司教」
静かに凛とした声で話しかける。
背筋を真っ直ぐに伸ばしたその姿は、動じる様子を見せぬように見えたが、内心では全神経を尖らせていた。
「ええ、もちろん。貴女の問いなら、何であれ」
イザヤは相変わらず優雅な微笑を浮かべていた。金の瞳は油のような鈍い光を湛え、ルクレツィアの顔をじっと見つめている。
「ベルント・レンツに下された異端の断罪――その根拠を、教えてください」
イザヤの微笑が、ほんの少し深まった。だが、それは決して喜びの微笑ではなかった。
「なるほど。貴女は“正義”を求めてここへ来たのですね」
「私が求めているのは、“真実”です」
ルクレツィアははっきりと言い放つ。その声は静かだったが、明確な意志を帯びていた。
イザヤは椅子にもたれ、組んだ指先を顎の前で組み直した。
「……ふむ、そうですか。正直に答えると、異端審問というのは私の直接の職掌ではありません。ですが、関係書類にはすべて目を通しております。要するに、彼は教会に対して踏み込みすぎた。そういうわけです」
「たったそれだけ?」
ルクレツィアの声に、怒気はなかった。少し拍子抜けしたような、思わず漏れ出たような、そんな声。
「えぇ、それだけ」
イザヤは涼やかに笑った。まるで、その一言で事足りると確信しているかのように。
その姿を見て、ルクレツィアは悟った。この男は何もかもを知っている。だが、それをルクレツィアに語る気は毛頭ないらしい。
これ以上ベルントのことを問うても、核心には届かない。むしろ、無意味に消耗するだけだ。
「……あなたは一体、どうして私に執着するの?」
ルクレツィアが静かにそう問いかけると、イザヤの指がぴたりと止まった。
驚いたように、彼は彼女の顔を見つめる。戸惑い、揺らぎ、どこか痛ましいものすら浮かんだその表情は、ほんの一瞬の出来事だった。
すぐに、彼はいつもの微笑みを取り戻す。けれどその笑みには、どこか悲しげな深みが宿っていた。
「……貴女が、貴女であるからですよ」
「……何を言っているの」
ルクレツィアの声は硬い。
だがイザヤは穏やかに首を傾げ、過去を思い返すように目を細めた。
「私にも、理屈では説明できません。ただ――聖女ソフィアのお披露目の夜。あの舞踏会で、貴女を初めて見た瞬間、私は確信しました。
貴女こそが、私を導く存在なのだと。まるで、神の御使いのようでした」
その声は恍惚としていた。まるで、救済の幻影に酔いしれる敬虔な信徒のように――いや、それ以上の熱を帯びていた。
「きっと貴女は、私を導いてくれる。
貴女だけは、私を見捨てないでいてくれる……そう、信じていたのです」
イザヤの声は、どこまでも優しく、どこまでも歪んでいた。
そしてそのまなざしは、もはや神への祈りではなく、目の前のルクレツィアそのものを“神聖視”しているのだと、彼女にも分かった。
「そう思っていた矢先に、貴女の方から私を知りたいと行動してくださった。……なんと、私は幸運なのでしょうか」
彼は微笑みながら、ゆっくりと身を乗り出し、ルクレツィアの瞳を真っ直ぐに覗き込む。
「だから、貴女に近づいた男は誰であれ、排除するつもりでした。あの商人、ベルント・レンツも同じです」
ルクレツィアの喉がかすかに鳴る。瞠目したまま、声が出ない。
「ええ、彼には少々“問いかけ”をしました。ほんの少し、痛みを添えて。
すると面白いほど素直に話してくれましたよ。
誰に何を命じられて動いたのか、どこでその誰かと出会ったのか……全て隠さずに」
イザヤの笑みが、無垢な残酷さで輝いた。
「ご安心ください。貴女が彼に関与していたことを知っているのは、私だけです。
口外などしません。私は、貴女を守ります。
たとえ、世界のすべてが『ベレントが死んだのはルクレツィアにそそのかされたからだ』なんて、貴女を責めたとしても――私は、貴女の味方ですから」
「……っ」
ルクレツィアの指先が、わずかに震えた。
その言葉は、慰めにも似ていた。だがその裏に潜むものは、執着、狂気、そして破滅だった。
これ以上ここにいてはいけない。
思考よりも先に、本能が警鐘を鳴らした。
「失礼します」
それだけを告げ、ルクレツィアは立ち上がる。
優雅な所作を保ちながらも、どこか焦りを滲ませて、書斎の扉へと向かう。
だが――
「……?」
扉の取手に手をかけ、引いた。開かない。
押してみる。微動だにしない。
明らかに、外から鍵がかけられていた。
「…………どういう、こと?」
低く絞るような声が、ルクレツィアの喉から漏れる。
背後から、ふわりと、柔らかな足音が近づいてきた。
「どこへ行かれるのです、ルクレツィア」
振り返らなくても、その声の主はわかっていた。
まるで天使のような声色で、まるで神の祝福のような言葉を添えて――
「まだ、私たちの話は終わっていませんよ」
彼女の背後に、イザヤが静かに立っていた。
ルクレツィアは、ゆっくりと振り返る。
イザヤの姿は、まるでこの部屋そのものが彼の支配下にあることを象徴しているかのようだった。
「……鍵を、閉めたのですか?」
「ええ。貴女がここへ来た時には、もう既に」
それはつまり、最初から逃げ道などなかったということだった。
「恐れることはありません。ここは静かで、誰にも邪魔されない。……ようやく、二人きりになれましたね」
イザヤの声は穏やかだった。
けれどその静けさの奥には、氷のように冷たい決意があった。
「……私は、話がしたかっただけです」
「私もそうです。……だから、まだ話は終わっていないのです」
イザヤは歩み寄る。ルクレツィアが半歩下がれば、彼も半歩前へ出る。
まるで距離を詰めることにすら、聖なる儀式のような意味があるかのように。
「貴女がここに来てくれた。それだけで、私はどれほど救われたことか……。あの商人のことだって、あれは……必要なことだったのです。
彼があのまま貴女の傍にいれば、貴女は――腐ってしまった」
「腐る?」
「そう。貴女は高貴で、潔白で、神に選ばれた存在。
あんな薄汚れた商人風情と関わってはならない。
彼と関わったのはただの策略だと私は知っています。
ですが、それでも、あれは間違いで、愚かで……悔やむべき過去なのです」
「……」
「私は、それを許します。受け入れます。
貴女が傷ついたのなら、私が癒します。
失ったのなら、私が埋めてさしあげましょう。
――だから、もう何も心配しないでいいのです」
ルクレツィアは、ただ黙ってその言葉を受け止めていた。
呆然として、あるいはもう、どこかで理解していた。
この男は、正気ではない。
「……では、私はもう行かせていただきます。
あなたが何を思おうと、それは……私には関係のないことです」
そう言って、再び扉へと手をかける。
だが、やはり鍵は開かない。
「行かせません」
低い声だった。
それはあまりに静かで、だからこそ、深い恐怖を伴っていた。
「もう貴女は、自由ではいられない。……ここは、救いの場所なのです。罪を悔い、過去を洗い流し、すべてを終えるための……聖なる場所」
「……終える?」
ルクレツィアが問い返すと、彼はゆっくりと微笑んだ。
「そう。すべてを終えて、魂を神のもとへ還すのです。
誰にも責められず、誰にも穢されず、ただ静かに、安らかに」
彼の手が机の引き出しに触れ、中から小さなガラス瓶を取り出す。
淡い青色の液体が、瓶の中でゆらゆらと揺れていた。
「これは祝福の秘薬。苦しみも、悔いも、すべて消してくれます。
……貴女がこの世に囚われている限り、罪と痛みからは逃れられない。
ならば、いっそ、魂だけを救済して差し上げるべきだと思いませんか?」
その声はまるで、愛する者に贈る贈り物の説明のように優しい。――それがいっそう恐ろしかった。
「……あなた、正気じゃないわ」
冷えた声でそう告げると、イザヤの目がわずかに揺れた。
だが、その笑みは揺るがない。むしろ静かに、確信と歓喜が深まっていく。
「それは、貴女の心がまだ迷っている証です。
でも……大丈夫。私が導きます。最期まで、あなたの手を取って――」
一歩。
また一歩。
彼は静かに歩を進め、小瓶を手に、ルクレツィアへと近づいてくる。
逃げ場など、とうにない。
背筋に冷たいものが走る。
けれど、ルクレツィアは一歩も引かず、その場に立ち続けた。
「……あなたは、狂っている。本当は神なんて、信じていないくせに。あなたは、一体何を恐れているの」
その言葉に、イザヤの瞳がかすかに揺れる。
だが、彼の笑みは崩れない。むしろ、その瞳には一層の歓喜が宿っていた。
「貴女に理解されなくてももうよいのです。共に天に至りましょう」
彼の手が、差し出された。
その手のひらには、青い液体の満ちた小瓶があった。
その瞬間――
ルクレツィアの中で、すべてが静まった。
恐怖も怒りも、拒絶も戸惑いも、すでに過去だった。
これは死ではない。逃避でも、敗北でもない。
もとより、ベルントの死が決定された時点でこうなることは覚悟していた。
「……分かったわ」
ルクレツィアは、小瓶を手に取った。
イザヤの目が、深く、静かに綻ぶ。
蓋を開けた瞬間、かすかな薬草と金属の匂いが鼻を掠めた。
それでも、迷わなかった。
ルクレツィアは、瞼を閉じ、ゆっくりとそれを口に運んだ。
冷たい液体が喉を通る。
冷たい液体が喉を通る。
――すぐに、痺れが舌に広がった。
内側から体温が奪われていくような感覚。
それは、痛みではなかった。ただ、静かだった。
雪が降るときのような静けさ。
音がなくなり、境界が曖昧になっていく。
息をするたびに、肺が冷えていく。
足元が遠くなる。
心臓の鼓動が、指先の感覚から消えていく。
世界が、やわらかく滲んでいった。
立っていた身体の重みが急に不安定になる。
意識がゆっくりと沈み、視界が歪みはじめた。
次の瞬間、身体が崩れるようにぐらりと揺れ、倒れ込もうとしたところを、イザヤの腕がしっかりと彼女を抱きとめた。
彼の力強い抱擁に支えられ、ルクレツィアはただ、静かに目を閉じた。
瞳の奥にあった光が、波にさらわれるようにゆっくりと引いていく。
その瞬間、ふと視線がイザヤの顔に触れた。
彼の瞳が震えているのがわかる。
驚きと哀しみ、そして――泣きそうな表情。
(あぁ……)
ルクレツィアの胸に、何かがぽっかりと落ちた。
彼はただ狂っていたのではない。
ただの嗜虐でも、独占でもない。
少なくとも今、この人は私を失うことを恐れている。どこまでも、孤独なのだ。
……でも、それを知るのは今じゃない。
今は、沈むだけ。
すべての感覚が、光とともに遠のいていく。
最後にひとつ、息を吐いて――
ルクレツィアの身体が、静かに、床に沈んだ。
そして、動かなくなった。
世界は、完全に――闇に包まれた。
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