10.急な報せ
気がつけば、教会を訪れてから一週間が過ぎていた。
とある朝、執務室に入ってきた侍女のリリーは、手にした書状を胸元に抱えたまま、沈痛な面持ちでルクレツィアの前に立った。
「お嬢様……異端審問が活発になっていた件ですが……」
リリーは一拍、言葉を飲み込むように息を吸い、慎重に口を開いた。
「……先日、ついに初の処刑者が出たそうです」
ルクレツィアは、その報せに驚きも動揺も見せず、まるでそれを予期していたかのように小さく頷いた。
「そう」
遅かれ早かれ、犠牲は避けられないと覚悟していた。あの不気味な沈黙の裏に、確かに粛清の波が忍び寄っていた。
それは、乙女ゲームのシナリオ通り。それ以上でも、以下でもない。
だが、リリーが次に発した名が、その冷静を鋭く打ち砕いた。
「……その異端者の名は、ベルント・レンツ。……ベルント様でございます」
「……っ!」
反射的に顔を上げたルクレツィアの瞳に、動揺の色が浮かぶ。胸の奥で、心臓がひときわ大きな音を立てて脈打った。
「ベルントが……処刑されたですって……?」
「はい。詳細は伏せられておりますが、教会内部で異端認定が下された後、即日、極秘裏に処刑が執行されたとのことです」
リリーは唇を固く結び、視線を伏せながら続けた。
「今のところ、お嬢様とベルント様との関係は露見しておりません。ただ、彼の周囲を洗う動きはすでに始まっているようです。今後、どこまで広がるかは……」
リリーの報告に、ルクレツィアの指がわずかに震えた。だが彼女は何も言わず、椅子を押しのけて静かに立ち上がる。
「……馬車の手配を。すぐに」
「お嬢様……?」
「教会へ向かうわ。……イザヤに、会わなければならない」
その声は低く抑えられていたが、かえってその奥に潜む焦りと痛みが滲み出ていた。張り詰めた糸のような声音に、リリーの顔が強ばる。
驚きと戸惑いが入り混じった表情のまま、彼女は思わず一歩前へ出て、ルクレツィアの手を掴む。
「待ってください! お嬢様、今は……」
その声は、震えていた。
小さな手が、必死に彼女の手を握りしめる。
「どうか、落ち着いてください。今ここで感情に流されて動けば、教会に余計な疑念を抱かせます。ベルント様が処刑された今、貴女が無傷でいられる保証はもうありません……。慎重にふるまうしかないのです、どうか……!」
「……っ」
ルクレツィアはその場に立ち尽くし、俯いたまま言葉を失った。
胸の奥を、鋭く尖った氷のような痛みが貫く。
崩れ落ちそうになる膝を、気力だけで支えながら、彼女はそっと唇を噛みしめた。
――私が、頼んだのだ。
彼を、あんな場所へ踏み込ませたのは、他でもない私。
もし、あのとき声をかけなければ。
もし、何も知らなければ――
彼は、今も生きていたかもしれないのに。
罪悪感と後悔が、胸の底からじわじわと湧き上がる。
呼吸さえままならないほどに喉が締めつけられ、言葉が出ない。
――それでも、立ち止まるわけにはいかない。
やがてルクレツィアは、静かに、だが確かな意思を込めて顔を上げた。
「……わかっているわ、リリー。私がいま為すべきは、冷静に、慎重に動くことだけ」
目元を引き締めるように細め、淡い光を宿した瞳で前を見据える。
「でも、私はこのままでは終われない。ベルントの死を……ただの犠牲にはしない」
「お嬢様……」
「教会に行くわ。イザヤに会う。正面から、私の足で」
ルクレツィアの瞳には、涙が浮かんでいた。それでもその光は、過去に囚われるものではなかった。
それは、未来を変えるために前を向こうとする光。
リリーは短く息を呑み、そしてゆっくりと頷くと、そっとその手を離した。
「……では、馬車をご用意いたします。できるだけ目立たない経路を選びます」
「ええ。お願いね、リリー」
ルクレツィアは静かに背筋を伸ばし、振り返ることなく執務室を後にする。
そうして再び、彼女は教会へと歩みを向けた。
❖❖❖
「……貴女なら、きっと来ていただけると思っていましたよ」
教会の大理石の回廊を抜けた先、薄闇に沈む礼拝堂で、男は微笑んでいた。
白銀の髪が、差し込む曇天の光を受けて鈍く輝く。
その瞳――淡く、金色に濁った双眸は、どこか夢を見ているように空ろで、けれど確かにこちらを射抜いていた。
ルクレツィアの足が止まる。
「……イザヤ様」
「ようこそ、ルクレツィア様。随分と、久しぶりですね」
まるで舞踏会の誘いでもするかのように、優雅な所作で両手を広げる大司教。
だがその口元に浮かぶ微笑には、喜びではなく、ねじれた愉悦が滲んでいた。
「貴女がこの教会を訪れてから、七日と数時間……私は、ずっとここで待っていたのですよ。
彼が処されれば、きっと貴女は戻ってくると――確信していました」
その一言に、ルクレツィアの呼吸がわずかに揺らぐ。
「……ベルントは、貴方が?」
「さて、それはどうでしょう?」
イザヤは小さく肩をすくめ、曖昧に微笑む。
「私はただ、秩序に従って動いただけです。異端は、火によって清めねばならない。それがこの聖なる館の、変わらぬ戒律でしょう?」
「その秩序に、貴方自身の私情は含まれていないと?」
ルクレツィアの声が鋭さを帯びる。だが、イザヤは一切怯む気配を見せなかった。むしろ、その薄い唇がうっとりと歪み、愉悦に満ちた微笑を深めていく。
「……怒った顔も、美しいですね」
「……っ」
「あの商人は、公爵令嬢である貴女にとって、自由に動かせる大切な駒だった。――いや、駒以上でしたか? たった一ヶ月ほどの関わりだったというのに……その表情を見るかぎり、随分と深い関係だったように思えますね」
「……黙りなさい」
吐き捨てるようなその言葉は、氷のように冷たかった。だがイザヤは、それすらも愉しげに受け止める。
「人は皆、神の御前では等しく裸です。貴女の怒りも、悲しみも、罪も――すべて、等しく美しい。私は責めたりしません。むしろ……そう、嬉しいのです」
一歩。
また一歩と、イザヤはルクレツィアに近づいていく。
その足音が、礼拝堂の石床に鋭く反響した。
堂内に響くその音は、まるで罪を数える鐘のように冷たく、不吉だった。
「やはり、貴女は戻ってきた。誰かを失い、痛みを知り、ようやくここに――正しい場所に立ったのです」
「……私は、あなたと話をしに来ただけよ」
ルクレツィアは毅然とした声で応じた。怒りと哀しみのすべてをその奥に封じ、今にも崩れそうな自分を凛と保ち続けている。
だがイザヤは、その言葉すら讃えるように、恍惚とした微笑を浮かべた。
「ああ、なんて喜ばしいことでしょうか……。話をする、それで十分です。貴女の声を、言葉を、目を、私は求めているのですから」
そして、まるで何事もなかったかのようにふっと息を吐き、柔らかい口調で続けた。
「……奥へ、お通ししましょう。ここは他の信徒も入る場所。やがて人目も増えます。貴女のためにも、もっと静かな場所で――二人きりで、ゆっくりと話しましょう」
イザヤが手をひらりと掲げると、脇に控えていた修道士が無言で一礼し、奥の回廊へと通じる扉を開けた。
ルクレツィアは無言のまま、その背を追う。
案内されたのは、教会の最奥部、一般の信徒は決して踏み入ることのできない、先週も訪れたばかりのイザヤの書斎だった。
天井は高く、光を吸うような重厚な緋色の絨毯が敷かれ、書棚にはびっしりと古書や聖典が並んでいる。
壁には異国の聖人の肖像画と、金属の燭台に灯された蝋燭の火が淡く揺れていた。だが、暖かさはない。
そこはまるで、信仰と狂気が密やかに交錯する、冷たい祭壇のような空間だった。
イザヤに勧められるがまま席に座り、彼は机の奥に回り、ゆったりとした仕草で腰を下ろす。ルクレツィアを見つめて微笑む。
「さあ、どうぞ。貴女の話を、聞かせてください。……私はすべてを受け止める用意がありますよ、ルクレツィア」
その金の瞳が、淡く、鈍く、彼女を射抜いた。




