9.焦燥
(まだ2ヶ月残ってる……されど、たった2ヶ月でもあるのね)
教会からの帰り道、馬車の中でルクレツィアは静かに瞼を閉じながら思索に耽っていた。車輪の音と馬蹄のリズムが心を微かに落ち着けてくれる。
「何か……ございましたか?」
隣に座るリリーが、心配そうにルクレツィアの顔を覗き込んでくる。
「……いいえ、何も。大丈夫よ」
小さく微笑んでみせたが、その言葉の奥にある動揺をリリーが見抜いていないはずがない。けれど彼女は、それ以上何も聞かなかった。信頼がそこにあった。
あれから、ルクレツィアが一人で奥から戻ってきたとき、リリーとアシュレイが無言で迎えに来てくれた。そしてリリーとルクレツィアはそのまま黙って馬車に乗り込んだ。
(アシュレイにはほとんど出番がなかったわね……少し悪いことをしたかしら)
そんなことを思いながらも、心の中には別の人物の姿が強く焼き付いて離れなかった。
(……イザヤ。あの男の本心、やっぱりまだ掴めない)
乙女ゲームの中では決して語られなかった彼の過去。
それを探っていることをイザヤは知っていて、そのうえで彼はなぜか「嬉しい」と微笑んだ。
あの言葉に偽りはなかった。けれど、それと同時に――。
(あの瞳……あれは、狂気。なのに、壊れそうなくらい脆くて)
確かに見たことがある気がする。ゲームの中で、何度かソフィアにだけ見せたことのある顔だ。
けれど記憶は曖昧で、霞がかかったように思い出せない。
(そう……少しずつ、前世の記憶が揺らいできている)
転生してから、死に戻る前も合わせてもう3年以上経っている。おまけに、ルクレツィアとしての人生での記憶の方がやはり前世の記憶より勝っているようで、乙女ゲームの筋書きだった記憶がところどころ曖昧だ。登場人物たちのセリフ、彼らの表情、エンディングの条件――すべてが少しずつ、ぼやけてきていた。
(それでも……この道を進むしかない)
ゲームの記憶が曖昧でも、今の彼らは生きていて、彼らの運命は確かにここにある。そして、ルクレツィア自身もまた、ただのプレイヤーではない。
これは、自分自身の物語だ。
たとえ、結末がゲームと違っていても。
ルクレツィアはふっと息を吐き、馬車の窓越しに見える夕暮れの空を見上げた。
一筋の光が雲間から差し込み、遠くの教会の尖塔を照らしている。
(イザヤ・サンクティス。あなたが何を抱えているのか、私は知りたい。すべてを知って――そして、あなたを救いたい)
馬車は静かに、街路を進んでいった。