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7.再会

 教会へ向かう馬車の中。


 柔らかな陽光がレースのカーテンを透かして差し込み、ルクレツィアの膝上のドレスを金糸のように照らしていた。車輪の心地よい揺れが、かすかに彼女の身体を揺らす。春先の空気はまだ少し冷たいが、窓越しの日差しは穏やかで、どこか現実感の薄い静けさがあった。


(まずはこの世界について、改めて整理しておきましょう)


 ここは乙女ゲーム『聖なる光と堕ちた神』の世界だ。


 “聖なる光”は聖女ソフィアを意味し、物語は彼女が五人の攻略対象たちを救い、そのうちの一人と結ばれて、そして世界を救うまでを描いている。

 何も干渉しなければ、物語は王太子ルートへ自然に流れていく。そのため、プレイヤーの間ではこれを「王道ルート」と呼んでいた。


 事件が起こる順番は決まっている。

 最初がイザヤ、次いでアシュレイ、テオドール、アズライル、そして最後にルーク――。

 ソフィアはそれぞれの心の闇に寄り添い、救い、そのうちの誰かと恋愛関係に発展していく。

 だが、事件で救えなかった場合、その対象者のルートへ進もうとするとバッドエンドが発生する仕様だ。


 そして、悪役令嬢・ルクレツィアはと言えば――ほとんどモブのような存在だった。

 たまに王太子の正式な婚約者として登場しては、周囲に聖女として持て囃されるソフィアに嫉妬し、嫌がらせを仕掛けたり、攻略対象たちとのイベントを邪魔したりする。

 それが、彼女の役割の全て。


(私の出番なんて、最初から限られていたのよね)


 そして必ず訪れる婚約破棄――

 それはどのルートでも、各事件がすべて解決した物語の中盤に用意されていた。


 このゲームが他の乙女ゲームと一線を画していたのは、攻略対象たちとの「救い」が序盤で完結する点だろう。

 では後半は何を描くのか?

 それは堕ちた神を浄化し、世界を救う聖女としての戦いだ。

 ここで、序盤に救った攻略対象たちが再び重要な役割を担う。

 誰を救い、誰を救えなかったのか――その選択が神の浄化の難易度やストーリー展開そのものを大きく左右していく。

 だからこのゲームはエンディングがプレイヤーの選択により、無数に存在していると言われている。それが魅力の一つでもあるのだ。

 救われた彼らはソフィアに力を貸してくれるが、もし誰かが救済に失敗していれば、その者は闇に堕ち、時に彼女の前に敵として現れることさえある。


 やがて訪れる最終局面。

 最後に神を浄化できるか否かは、選ばれたたった一人の愛する相手と築いた絆の力に委ねられる。

 この展開はプレイヤーから賛否両論を呼んだ。

「そこまで重厚な物語を作っておいて、結末が愛の力だなんて」と批判する声も少なくなかった。

 けれどルクレツィアは思う。


(でも私は、あの綺麗な終わり方、嫌いじゃなかったわ)


 堕ちた神についても、ゲーム内で多くが語られることはなかった。

 だが、ファンの間で囁かれていたのは、イザヤの所属していたセラフィス教の影――つまり、ルクレツィアが今関わりつつある教会の闇だった。

 それも決定的な証拠はなく、あくまで陰謀論めいた噂に過ぎなかったが。


(エリアスにもう少し詳しく事情を聞いておけばよかったかしら……)


 小さく唇を噛み、ルクレツィアはふと空を仰いだ。けれど、もう後戻りはできない。いや――したくもない。


「お嬢様、もうすぐ到着いたしますよ」


 侍女のリリーが馬車の向かいの席から静かに告げる。


「ええ、わかったわ」


 やがて馬車は滑らかに停止し、扉が静かに開かれた。

 眩い陽光が、一気に溢れ出すように馬車の中へと流れ込む。黄金の光が差し込み、ルクレツィアの髪とドレスの布地に柔らかな輝きを纏わせる。

 暖かな風がカーテンをわずかに揺らし、光と影が優美な模様を刻んだ。

 ルクレツィアは一瞬、目を細めながらも、扉の外に身を乗り出す。


「お手を」


 差し出された手に目をやると、そこにはよく知る騎士――ダークブラウンの短髪に、鋭さを湛えた灰色の瞳を持つ男、アシュレイが立っていた。


「……アシュレイ?」


 思わず名を口にすると、侍女のリリーが説明を補う。


「今朝、ルクレツィア様の護衛として、騎士団に一名の派遣を要請しておきました。安全のために」


「でも……あなたほどの騎士が私の護衛だなんて……」


 困惑するルクレツィアに、アシュレイは静かに微笑みを浮かべる。


「私では、不満ですか?」


「……そういう意味じゃないの。ただ驚いただけ。――ええ、よろしくね、アシュレイ」


 ルクレツィアは小さく息を整え、彼の手を取って馬車から降り立つ。

 目の前には、荘厳な教会の大理石の階段が続いていた。

 その石段を優雅に踏みしめる彼女の前に、教会の扉がゆっくりと開く。

 そこに現れたのは、白銀の美しい長髪を束ねた青年――イザヤ・サンクティスその人だった。


「こんにちは、ルクレツィア様。先日はわざわざ私を訪ねてくださったそうですが、お会いできず失礼をいたしました」


「いえ、とんでもありませんわ。聖女付きという重責を担っていらっしゃるのですもの。お忙しいのは当然のことです。むしろ、私の方が配慮を欠いておりました」


 ルクレツィアは柔らかく微笑み、淑女の所作で軽く頭を下げた。


「いえ、こちらこそ短慮でした。今日はわざわざお越しくださり感謝いたします。――さあ、お入りください」


 イザヤが静かに招き入れる。


 白亜の大聖堂内に入ると、高い天井まで伸びる荘厳な柱列と、色とりどりのステンドグラスが神秘的な光を落としていた。ここは主礼拝堂――一般信徒が日々祈りを捧げる、神殿内で最も広く開かれた神聖な空間だ。


 ルクレツィアたちはその主礼拝堂を静かに通り抜ける。すると、奥へ向かう通路の手前で、イザヤの声色がわずかに低くなる。


「……ここから先は、ルクレツィア様お一人でよろしいでしょうか? この先は教職者の居所、神に近き聖域にございます。血に塗れし剣士や、俗世の卑しき身分の者をお通しするのは――教義上、慎むべきことでございますので」


 その言葉に、リリーとアシュレイは一瞬身じろぎしたが、ルクレツィアは微笑を絶やさず、静かに頷いた。


「ええ、構いませんわ。リリー、アシュレイ。ここで待っていて」


「……承知しました」


 アシュレイは一礼し、ルクレツィアの背を見送りながら一歩後ろへ下がった。リリーも静かに頷く。

 ルクレツィアはそのままイザヤに導かれ、静謐な教会の奥へと進んでいった。


 足を踏み入れるたび、教会内部の空気がわずかに変わる。木の床は磨き上げられ、わずかなきしみすらも荘厳な静寂の一部として耳に届く。重厚な石壁には古びた聖遺物や宗教画が整然と飾られ、静かに信仰の歴史を物語っていた。

 通路の両脇に並ぶ燭台の炎がわずかに揺れ、オイルの微かな香りが漂う。

 イザヤは無駄のない静かな歩みで先を進み、時折振り返っては、ルクレツィアの歩みを穏やかに確認していた。その視線は、どこか柔らかさを含みながらも常に制御されている。


「ここから先は、教会でもごく限られた者しか立ち入れない区域となります」


 イザヤはそう説明すると、静かに片手で小さな扉を開いた。


 扉の先に広がっていたのは、ルクレツィアが想像していた堅苦しい執務室でも、厳かな祭壇でもなかった。

 そこはまるで隠された楽園のような、美しい庭園だった。


 高い石壁に四方を囲まれた静寂の空間。朝露をまとった白百合や薄紫のラベンダーが整然と咲き誇り、控えめに流れ落ちる泉の音が静かに響いている。澄みきった空気の中に、どこからか鳥たちの囀りが微かに混じる。わずかな風が緑を撫で、光の粒が葉の隙間から零れ落ちていた。


「……まあ。なんて素敵な庭園なの」


 思わずルクレツィアは小さく感嘆の息を漏らした。乙女ゲームの中でも語られたことのない、未知の景色だった。


「祈りと瞑想のために造られた特別な区画です。ここなら俗世の喧騒に心乱されることなく、神にのみ向き合うことができます」


 イザヤの声も、まるでこの静謐に合わせるように穏やかだった。


「申し訳ありませんが、ここでしばしお待ちください。奥の許可申請を進めてまいりますので」


「わざわざ、ありがとうございますわ」


 ルクレツィアは優雅に微笑み、軽く頭を下げた。


「いえ……本当は、私の方こそ貴女とお話がしたかったのです」


 イザヤは優しげな声でそう囁くと、一礼し静かに踵を返して去っていった。


(……イザヤ推しの人って、こういうところに惚れたのかしら)


 残されたルクレツィアは、微苦笑を浮かべつつ、花咲く庭をゆっくりと歩き始めた。

 柔らかな芝生を踏みしめ、薔薇の香りが漂う小道を進む。その視線の先、ふと茂みの陰に人影が揺れる。


 小さな泉のほとり。そこにそっと腰を下ろしていたのは1人の華奢な少女だった。


 蜂蜜色のストレートヘアが、降り注ぐ陽光に透けてきらめいている。そして静かに白百合の花弁を撫でている。


(……ソフィア)


 乙女ゲームのヒロイン、聖女と称えられる少女の姿が、目の前にあった。

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