4.二度目の幕開け
テオドールと別れた後も、胸の内に違和感を抱えたままルクレツィアは歩き続けていた。
(次は――)
自然と足が、舞踏会場の奥、人気の少ないテラスへと向かう。
柔らかな夜風がレースの袖を揺らし、月明かりが静かに白い大理石の床を照らしている。
(前回の舞踏会でも、ここで彼に出会ったのよね……)
思い返せば、あの夜の会話が彼との最初の接点だった。
ルーク・グレイヴン。裏社会に精通し、商人として成り上がり伯爵となった男。
ダークワインレッドの髪と深緑の瞳を持ち、物腰は柔らかく穏やかだが、その本心は決して他人に悟らせない。
そして――
「こんばんは、アルモンド公爵令嬢」
月光の下、すでに彼はそこにいた。
石造りの欄干に片肘をつきながら、穏やかな微笑みを浮かべている。
(……やっぱりいたわ)
内心、僅かに息を吐く。
ルクレツィアはドレスの裾を静かに持ち上げ、彼に向き直った。
「こんばんは、グレイヴン伯爵。今宵は月が綺麗ですわね」
「ええ、月も星も、貴女のドレスに映えてより一層輝いて見えます」
相変わらず流れるように巧みな口ぶりだ。
だが、前回と全く同じ言葉ではなかった。
(――ここも違う)
それでも、ルクレツィアは笑顔を崩さずに返す。
「お上手ですこと」
「商売柄、口先だけは少し自信がありまして」
ルークは軽く肩をすくめてみせた。その仕草もまた、どこか計算されているようでいて、自然だ。
「このような華やかな場所では、どうにも落ち着かなくてね。つい、こうして人の少ない場所に逃げてしまうのです」
「わかりますわ。私も時折、こうして風にあたりたくなりますもの」
「……お互い似た者同士、というところでしょうか」
その言葉に、ルクレツィアの心がわずかに揺れた。
前回の周回で、この男がこんな風に距離を縮めてきたことはなかった。むしろ、初対面の当時はもっと慎重で、探り合うような雰囲気だったはずだ。
(やっぱり、おかしい……)
それでも警戒心を隠しながら、ルクレツィアは微笑を保ったまま言葉を続けた。
「伯爵は、今宵はどなたかお目当ての方でも?」
「さあ……今夜は運命の女神に導かれて、貴女とこうしてお話しできている――それが何よりの幸運ですよ」
冗談めかして言う彼の緑の瞳は、どこまでも深く、底を覗かせない。
(この男も、やはり……何かが違う)
静かな夜風がルクレツィアの髪を揺らす中、胸の内にはまた一つ、違和感の種が積み重なっていく。
そのとき、不意に――
会場から流れていた音楽が途切れた。
「あら、何かが始まるみたいですわね」
ルクレツィアがふと顔を上げると、ルークは微笑を浮かべたままゆっくりと視線を舞踏会場へと向けた。
「そのようですね。どうやら、これからお披露目が始まるのでしょう。ですが――」
そこで一拍置いて、彼は柔らかな口調のまま言葉を続けた。
「本音を言えば、私にはあまり興味の湧かない催しです。あなたこそ、もうお戻りになりますか?」
(……奇妙ね)
彼は本来、この場で新たな聖女――ソフィアを初めて目にするはずだった。
それが、あのゲームにおける彼の転機のはずなのに。どうして今もなお、こんなふうにテラスに留まろうとするのか。
(まるで聖女には興味がないみたい。……どうしてかしら)
「お気遣いありがとうございます、伯爵。けれど貴族としての礼節ですもの。私も少しだけ顔を出してまいりますわ」
「それは残念です。……ですが、またどこかでお話しできるのを楽しみにしていますよ」
緑の瞳が、月明かりの下で微かに笑う。
どこまでも穏やかで紳士的な態度は崩れないが、やはりその奥底は読めないままだ。
ルクレツィアは優雅に会釈を返し、再び舞踏会場へと足を進めた。
(全員が、少しずつ違う――)
胸の奥の警戒心は、静かに、けれど確実に膨らみ続けていた。
会場に戻ると、すでに貴族たちは静まり返り、慎重な面持ちで中央の大階段に視線を集中させていた。
煌びやかなシャンデリアの光が、まるで舞台のスポットライトのように階段を照らしている。
(いよいよ……聖女ソフィアのお披露目)
張り詰めた静寂が会場を支配する中、ゆっくりと重厚な扉が開かれた。
やがて、柔らかな光に包まれながら、一人の少女が姿を現す。
そのすぐ後ろからアズライル・ヴェルディア王太子が進み出て、優雅に彼女の手を取った。二人は寄り添うようにして、階段をゆるやかに降りていく。
(……やっぱり、美しいわ)
ルクレツィアは思わず小さく息を呑んだ。
蜂蜜色の髪はまるで光そのものを宿したように柔らかく輝き、雪のように透き通る白い肌が繊細なドレスに美しく映えている。
宝石のように澄んだ青い瞳は、緊張の色を含みながらも、凛と前を見据えていた。
だが――違和感は、この場にも静かに顔を覗かせていた。
アズライルの表情が、ルクレツィアの知るはずのものと微妙に異なっていたのだ。
本来ならば、このような場では形式的にでも穏やかな微笑を浮かべるはずだった。
だが今の彼は、冷ややかな眼差しのまま、隣のソフィアを一度も振り返ることなく階段を下り続けている。
(……どういうこと?)
やがて、司会役の神官が高らかに声を響かせた。
「――新たなる聖女、ソフィア・シュトラス殿の御前である!」
その瞬間、貴族たちは一斉に恭しく頭を垂れた。広間は厳粛な沈黙に支配され、神々しさすら漂わせた少女の姿だけが、眩く浮かび上がっている。
アズライルとソフィアはゆるやかに階段を降り切ると、厳粛な空気の中、まっすぐに正面の壇上――神託が告げられる特別な玉座の間へと進んでいった。
そしてその壇上には、すでにもう一人の男が静かに佇んでいた。
白銀の髪がシャンデリアの光を受けて柔らかく煌めき、淡い金色の瞳が静かに会場を見下ろしている。
セミロングの髪は後ろで緩やかに束ねられ、純白の神官服の裾がわずかに揺れていた。まるで神の代弁者そのもの――イザヤ・サンクティス。
(イザヤ・サンクティス……。彼にも早々に接触しなければならないわね)
攻略対象者の中でも、特に神秘性と危うさを併せ持つ男。そして、ゲームの中で最も早くに聖女ソフィアに救われる攻略対象者だ。
重々しく、イザヤが一歩前に進み出ると、会場全体がぴたりと静まり返った。
その瞬間――彼の淡い金色の瞳がルクレツィアの視線を捉える。
ほんのわずかに、その瞳が揺れたのをルクレツィアは見逃さなかった。
(……今のは)
だがその疑念が形を成す前に、イザヤの静かな声が空気を震わせた。
「――神の信託を、ここに述べる」
低く、澄んだ声音はまるで会場全体を包み込むように響き渡る。
貴族たちは誰ひとり言葉を発せず、固唾を呑んでその続きを待った。
「この世界の混乱を鎮めるべく、ソフィア・シュトラウス子爵令嬢が、聖女として選ばれた」
荘厳な宣言とともに、ソフィアが一歩前に進み出た。
柔らかな蜂蜜色の髪が揺れ、緊張の中にも毅然とした表情で口を開く。
「皆さま――本日、このように神の御前にて、聖女としてお披露目いただきました、ソフィア・シュトラウスと申します。未熟な身ではございますが、神より授けられた役目を、心を尽くして果たして参る所存です。どうかこれから、私を導き、支えてくださいますよう、よろしくお願い致します。この国が、神の加護と平和のもとにあらんことを――」
その最後の一言とともに、会場には大きな嗚咽と拍手が沸き起こった。
誰もが感動と畏敬の念に包まれ、熱狂的に新たな聖女を讃えた。
ただひとり――ルクレツィアを除いて。
彼女の視線は、ただ壇上のイザヤに注がれ続けていた。
神妙な面持ちのまま、イザヤもまた視線を逸らさず、じっとルクレツィアを見つめ返していた。
――やがて、舞踏会が儀式の余韻を残しながら再開され、貴族たちは再び賑やかに語らい始めた。煌びやかな音楽と笑い声が交錯する中、ルクレツィアは舞踏会場の隅を静かに歩き、出口へと向かっていた。儀式は終わり、もう十分すぎるほど情報は得た。
(今宵はもう……充分情報を得たわ。あとは屋敷に戻って整理を――)
その時だった。背後から、静かな、しかし否応なく耳に届く張りのある声がかかった。
「――ルクレツィア・アルモンド様」
思わず足を止め、振り返る。
そこに立っていたのは、淡い金色の瞳をたたえたイザヤ・サンクティス。神官服の裾がわずかに揺れ、白銀の髪がシャンデリアの光を淡く受けている。
「イザヤ大司教……?」
(この場で私に声を?公の場で?)
内心の戸惑いを隠し、ルクレツィアは静かに返事を待つ。
イザヤは落ち着いた表情のまま、丁寧に続けた。
「ご無礼をお許しください。少しだけ、お言葉を賜りたく思いまして」
「……私に?」
「はい。王太子殿下のご婚約者として、今後教会と接する機会もおありになるでしょう。僭越ながら、今宵のご挨拶の機会を頂戴できればと」
穏やかでありながら、どこか隙のない言葉遣いだった。だが、その金の瞳の奥にはわずかに奇妙な揺らぎがある――まるで、何かを測るように。
(……私に対して、単なる礼儀以上の関心を抱いている?)
ルクレツィアは小さく微笑み、優雅に会釈を返した。
「それでは僅かの間だけ――よろしくてよ」
イザヤは静かに頷き、すっと隣へと歩を進めた。
静かな隅に移動すると、イザヤは舞踏会の喧騒から隔てるようにルクレツィアへ向き直った。
近づいてみると、その金の瞳は思った以上に静謐で――同時に、得体の知れない底知れなさを孕んでいる。
「改めまして……ルクレツィア・アルモンド様。今宵は突然の無礼をお許しください」
「いえ。教会の要職にあられる貴方とお話しできる機会など、滅多にございませんわ」
ルクレツィアはにこやかに応じたが、その内心は慎重そのものだった。
(彼は……前の周回でもこうして私に話しかけることはなかった。それどころか、こうして話したことなんて……)
イザヤは一瞬目を細め、まるでその思考を見透かすような穏やかな微笑を浮かべる。
「私としても、殿下の婚約者様にご挨拶を申し上げるのが遅れておりましたこと、気がかりでございました」
「お気遣い、光栄に存じますわ」
イザヤは相変わらず穏やかな微笑を浮かべたまま、静かに口を開く。
「今宵の神託の場――ご覧になって、いかがでしたか?」
突然の問いに、ルクレツィアは一瞬だけ眉を動かす。
「ええ、とても厳粛で神々しいものでしたわ。……あのような場に立ち会えたこと自体が、既に奇跡のようです」
「そう仰っていただけるのは、僭越ながら神官として光栄です。ですが――」
イザヤはほんのわずかに間を置き、視線を深くした。
「殿下の婚約者である貴女にとっては、また少し違った思いもおありなのではないかと……そう感じておりました」
ルクレツィアは静かに微笑を返す。
(……探っている?)
「まあ。確かに、殿下の婚約者としては――これから新たな聖女殿下と、どのように関わっていくべきか。そうした思案はございますけれど」
「ええ。まさにそれです」
イザヤは微笑を崩さぬまま、だが瞳の奥には何か測るような光を宿して続ける。
「聖女殿下は特別な存在。ですが、この国にとって貴女もまた同じく、特別なお立場におられる方。……近くで拝見していると、不思議と――私には、貴女の方が導かれているようにすら感じられるのです」
「導かれて……?」
「ええ。神の御意志の流れが、ほんの僅かですが、貴女の方へ向いているような感覚とでも申しましょうか」
ルクレツィアは心中で息を呑んだ。
(神の流れ……?イザヤは、何を感じ取っているの?)
イザヤは静かに微笑んだまま、深く一礼をした。
「不躾なことを申し上げました。……どうかお気になさらず。神託を日々拝する者の、独り言のようなものです」
「……いいえ。興味深いお話でしたわ。今宵は貴重なお時間、ありがとうございました」
「こちらこそ――また、いずれ」
淡い金の瞳は最後まで柔らかく光りながらも、底知れぬ揺らぎを残していた。
ルクレツィアは静かにその場を後にする。
(――ともあれ、こうしてひとまず接触は果たせた。それだけでも上出来ね。
……それより問題は、最初の事件まで、残りせいぜい3ヶ月ほど。
それまでに何としても計画を練り上げないと――)
静かな決意を胸に、ルクレツィアはゆるやかに舞踏会場を後にした。
煌びやかな宴はまだ続いている。
だが彼女の戦いは、すでに幕を開けていた。
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