プロローグ 『幸せな結末を』
「ああ、今日はずいぶん遅くなっちゃったな――」
夕暮れの空を仰ぎ見ながら、綾瀬凛花はふと小さく息を吐いた。
高校三年生の彼女は、最後の試合に向けた部活動で少し居残り練習をしていたせいで、すっかり帰宅が遅くなってしまっていた。
西の空は茜色に染まり、沈みかけた夕陽がビルの輪郭を柔らかく浮かび上がらせている。高層ビルの窓に反射した光がきらきらと瞬き、車のテールランプが赤い光の帯を作ってゆっくりと流れていく。それはまるで、街の中を静かに流れる宝石の川のようだった。
(……帰ったら、またあのゲームをやり直そうかな)
ふと頭に浮かんだのは、最近クリアしたばかりの乙女ゲーム『聖なる光と堕ちた神』のことだった。
聖女ソフィアとなり、傷ついた攻略対象たちを救いながら、最後には堕ちた神さえも浄化して世界を救う――そんな壮大な物語。全員のトゥルーエンドは無事に回収したものの、まだバッドエンドまでは手をつけていなかった。
(今度はバッドエンド含めて、全部コンプリートしてみようかな……)
そんなことを考えれば、気づけば自然と足取りが軽くなる。早く家に帰りたくなっていた。
凛花はいつもより少しだけ近道――人気の少ない歩道橋へと足を向けた。そこを通れば、ほんのわずかだけ早く家に着ける。
薄闇の中、歩道橋の入口へと差しかかる。コンクリートの階段は昼間の熱をまだわずかに残していて、踏みしめるたびに乾いた足音が響いた。手すりの銀色が街灯の光を受けて、冷たく鈍く光っている。
ひとつ、またひとつと階段を上るたびに、街の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。風が少し強くなり、髪がふわりと揺れた。
やがて頂上に辿り着き、凛花はふと振り返る。背後には、ビル群の隙間から沈みかけた太陽が橙色の残光を滲ませ、街を淡く染め上げていた。
――もうすぐ夜になる。
そんなことを思ったその時だった。
ふと前方に目を向けると、歩道橋の先――薄闇の中に、ぼんやりと浮かぶ人影があった。
(え……?)
その男は、欄干に両手をかけ、身を大きく前に乗り出していた。今にもバランスを崩して落ちそうな、不安定な姿勢だった。
まるで――飛び降りようとしているかのように。
胸の奥で心臓がドクンと跳ねた。背筋を冷たいものが這い上がる。
「ちょ、ちょっと! 何してるんですか!」
凛花は思わず叫んでいた。声はわずかに上ずり、足が勝手に動き出す。恐怖と焦燥が入り混じり、理屈よりも先に身体が男の腕を強く掴んでいた。
男はゆっくりと振り返った。
その顔を見た瞬間――凛花は息を呑んだ。
あまりに整った顔立ち。現実感がないほど整いすぎた美貌。吸い込まれるような瞳に、白い肌、整った唇――まるで物語の中から抜け出してきたような、美しさだった。
そして、彼の次の言葉が凛花をさらに混乱させる。
「……やっと、やっと会えた……」
どこか歓喜に濡れたかすれた声が静かに漏れた。
(――え? 誰? 私、あなたのことなんて知らないのに――)
凛花の心臓が強く脈打つ。全く見知らぬ男なのに、まるで旧知の人を見るような表情を浮かべる彼。その意味がわからず、凛花の胸に得体の知れない不安が広がっていく。
男はそんな凛花の戸惑いに構わず、ゆっくりと微笑んだ。
穏やかで、どこか諦めを滲ませた微笑みだった。
「今度こそ……幸せな結末を」
そう呟くと、男は凛花の手を強く握り返す。
「――えっ?」
咄嗟に引き離そうとしたが、遅かった。
強く引き寄せられ、ぐらりとバランスが崩れ、体が宙に浮く。視界がぐるりと反転し、夜の街が頭上へと逆さに広がっていく。
風が叫ぶ。耳鳴りのように、血の気が引く音が全身を駆け巡る。
(やだ……やだ、死にたくない――!)
心臓が喉から飛び出しそうになる。足が宙を蹴る。もがいても、男の手はしっかりと自分を抱え込んでいた。
(助けて……誰か――)
凛花の叫びは声にならないまま、闇の中へと吸い込まれていった。
読みにくい!分かりにくい!って箇所があればズバズバ教えてください。罵倒は歓迎しませんが、感想ならまじでめちゃくちゃ歓迎してます。