帝国暦四七七年、晩冬 その1
今日は二回行動です。二回目は三十分後に訪れます。
帝国暦四七七年、晩冬。
その日のニュートロイは、ニュートロイの冬らしく雪が降っていた。それは砂粒かと見紛うほどに細かい粉雪で、ただ一つ普通の雪と違う点は、それが真紅に染まっているということだった。
重苦しい石とレンガ作りの大都市に、赤い粉雪が降る。人々はそれを呪いだと言った。見る人が見れば、それはただの雪に過ぎないのだが。
戦争があった。それはリクランド帝国と隣国ミケラ王国の些細な領土問題から始まり、さらに両国間の貿易摩擦、ミケラ王国の不安定な政権を経て、ミケラの青年がリクランドの貴族を公衆の面前で暗殺したことから始まった。戦乱は戦乱を呼び、裏切りは裏切りを呼んだ。
かくして五年間の壮絶な戦争が終わり、ミケラ王国は滅んだ。その跡地には、今は別の国がある。
当然ながら両国は多数の間諜を使った。つい最近極東からリクランドに戻ったミュシャ・ウェバーもその一人だった。
本当は家業の酒造を継いで、今頃はのうのうと田舎でスローライフを楽しんでいたはずだというのに、彼女の「ファン」を名乗る人物から、断れない仕事を頼まれた。何せその「ファン」はこの国の第一皇太子だったからだ。
開拓者である彼女は、古の時代に開拓者協会と当時の世界を半ば支配していた〈古の帝国〉との契約により、戦争に直接参加することができない。
だが、間諜としてであれば話は違ってくる。時の戦争伯にして内務伯フェダストゥス・ヴァレンタインが当時の最大火力──それは彼女自身のことを指す──を放っておくわけがなかった。
「皇帝陛下の軍事情報局」の設立。戦争に備えるために、あるいは戦争を有利に進めるために、情報を取り扱う部局だ。それ以外にも、国内に潜り込んだ間諜に対して「適切な業務」を行うことも含まれていた。
その戦争と雪が赤いこととは関係がない。雪の赤さは、遥か向こうの砂漠から吹かれた砂が、雪の凝結核となっているからだ。しかし、人は何もないところに関係を見出すのだ。そういう意味で、この赤い雪は間違いなく呪いであった。
ニュートロイの外れ、古い海洋民族式の建築で建てられた邸宅。質実剛健と言えば聞こえはいいが、ともすれば野蛮という印象すら与えうるその邸宅は、赤く染まった世界に滲み出た灰色の穴のようで、ミュシャ・ウェバーの目には少しぼやけてすら見えた。
どちらにせよ、軍事情報局の局長の邸宅には見えなかった。だが、ミュシャのよく知る彼は豪放磊落で、海のことを何よりも好んだ男であった。このような家を建てるのも不自然ではない男だ。
ある文法や論理を転倒させたものが最も美しい。局長はそう言って憚らない男だった。ミュシャも彼の考えにはある程度同意する──完全な秩序のもとに構築された関係も、詩も、魔法も、建物も面白くない。人の気を惹くものには、必ず転倒した論理が存在しているのだ。
ふと昔、伯爵に見せられた彼の経歴調査票を思い出す。学生時代はルームメイトと同性愛関係にあったと記載されていたはずだ。そこにも転倒した論理が存在している。それはこの建物と同じだ。
ニュートロイで流行している建築の文法から外れたもの──転倒した建物。
局長はまっすぐで、少しミーハーなところもある男だった。
ある服が流行っていると聞けばすぐさまそれを用意して着てみたり、現代的な絵や文学をこよなく好む男だ。流行の最先端で人を惹きつけて止まないものには、必ず転倒した文法が存在していると思えば、当たり前のことなのだろう。
彼女はその玄関扉に備え付けられた船型のドアノッカーを三度叩くことで自身の来訪を知らせた。しかし、反応がない。もう三度叩いてみる。あたりを支配しているのは、冬の静けさだけだ。今度は極めて乱暴に五回叩く。ドン、ドン、ドン、ドン、ドン。
その音は降る雪に吸い込まれていった。変わらず不気味なほど静かなままである。何か異変が起こったに違いないと確信した彼女は、懐に忍ばせていた艶めく木の杖を取り出す。一歩後ろに下がる。思い切り前蹴りを扉に食らわせる。
鍵はかかっていなかった。扉は簡単に開く。こんなこともあろうかと、スカートの代わりに紳士が履くようなタイトなズボンを履いてきたのである。彼女の蹴りで扉の嵌っていた質素な作りのアーチから赤い雪が落ちてきた。それは彼女のブーツを汚し、すぐに無色のシミとなる。
あらかじめ服の各所に装飾として仕込んでおいた金属を転変させる。杖の先端に鋭い弾丸を生みながら、彼女は足音を消して、一階の全ての部屋を見て回る。もし異常なことが起こっていたり、望ましくない人物が侵入していたら、即座に排除できるように備えていた。
しかし、結局その用心は無用に終わった。二階の彼の寝室で、局長は首を吊って死んでいたからだ。その傍には、彼の妻が力なく座り込んでいた。
カーテンも閉め切った薄暗い部屋、セミダブルのベッドと、ベッドサイドテーブルにランタンがあるだけの簡素な寝室だ。天井の照明器具に縄を引っ掛け、そこにナイトガウンを纏った中年男性の死体がぶら下がっており、足元には小さな脚立が転がっている。
「レディ・ミュシャ……」
「奥様、昨日は妙な音などをお聞きになりましたか?」
「いえ……昨晩はぐっすり眠れたものですから」
不安げな婦人の顔には、はっきりと涙の跡が見てとれた。局長は男爵家の三男坊で、その妻は別の男爵の次女。昔から家族ぐるみの付き合いをしてきた二人のうち、一人が今はいなくなっている。
その痛みは半身を失うに等しいのだろう。ミュシャも数多くの別れを経験してきた。物理的に半身が泣き別れになったこともあった──その時は同僚の魔法使いに助けてもらった。だが、ミュシャに彼女の痛みを想像することはできなかった。
頭が即座に切り替わる。ミュシャの百余年の人生──彼女は魔法で自分の寿命をいじっている──の中で培われた技術が目覚める。極東の政争に巻き込まれた時の記憶が蘇る。
しっかりしなさい、あなたは〈征東の魔女〉よ。ミュシャは自分に語りかけた。この長い人生の中で、彼女は何かを喪失したことがなかった。でも、それなりに悲しい表情を取り繕うことができる。
「……すぐに伯爵に連絡をいたします。この部屋の魔法痕はわかりますか?」
「ええと……私には何も見えませんが……」
「私には局長のお腹の中に、何かが見えます」
目を凝らす。音を見て、形を聞く。視界の中に映るものの意味が分解され、言語による解釈が及ばない範囲の情報があらわになる。それはミュシャの特技であった。
「それでは、夫は──」
「はい。他殺にございます」