銀色のあのこ、と僕
結局、僕は恐れていたのだと思う。
この世界に生まれ落ちる前後の思考を振り返ると、あの時の僕は明らかに混乱をしていた。異世界だと確定してからもそうだ。
この世界の背後にある法則とはどうなっているのだろうかという疑問が消えることはなかった。
あの時、壊れた時計塔で彼女が言ったように、僕は探しているのだ。
それは何かではない。僕自身が、どこに居るのかということだ。
あくる朝、僕は蒸留所からくすねてきた蒸留エタノール一瓶と金魚鉢、それに最初級の魔法書を背負鞄に入れて、昨日もらった刀と杖を腰にくくりつけた状態で川沿いを上流に向けて歩いていた。
目指すは秘密基地。最後の懸案事項──即ち、神は果たしてサイコロを振るのかということを確かめるために。
岩場の影、陽光がスポットライトのように照らす中、彼女はいた。ヴィヴィアナ・ヴァレンタイン。彼女はこの数日で、かなり大人びたように見える。むしろ、あの幼さは演技だったのかとすら思う。
「来ると思っていたわ」
「ヴィヴィアナ──」
「ヴィーヴィーって呼んで。親しい人はそうするわ」
彼女はスポットライトにちょうど照らされないように、転がっている岩の上に座って、その足をぷらぷらと遊ばせていた。
今は冬で、外はとんでもなく寒いにも関わらず、この秘密基地はずっと暖かかった。それはきっと、あの太陽のスポットライトだけのおかげではないのだろう。
「ヴィーヴィー。すまなかった。僕は情けなかった」
「いいわ、許したげる。あんな時に、堂々と振る舞える方がおかしいもの」
「そういうものなのか……」
「それに、あんな派手なことをされたらね?」
彼女は岩場から飛び降りて、僕の目の前まで来た。僕より少しだけ高い目線。聞くところによると、年齢は僕の二つ上。
彼女は呆れたような笑顔を浮かべて、銀色の髪を空中で遊ばせている。多分、僕が本題に入るのを待っている。
「僕がここに来たのは、あることを確かめるためだ」
地面に下ろした鞄から荷物を出す。蒸留エタノール、金魚鉢、魔法書。しまった、布を忘れた。僕は視線を落とす。着ている服が目に入る。まあ、布であることには変わりない。僕は意を決してシャツの裾に手をかけた。
「ちょっと、何するつもり?」
「変なことじゃないから」
シャツを丸めて、そこにエタノールをかける。そうして出来上がったものを金魚鉢の口に詰める。
「ついでにひとつ頼まれてくれないか、ヴィーヴィー。これを、あそこに浮かせておいてくれるか?」
「ええ……何をするかは、教えてくれるのね」
「結果次第、かな」
彼女は杖を金魚鉢に向ける。するとその先から鎖が──今度ははっきりと見える──伸び、その金魚鉢を空中にピン留めする。
僕は初級の魔法書を開き、温度操作の項目を調べる。何度かその辺の空間で試したあと、僕は自分の杖を、スポットライト下の金魚鉢に向けた。
温度というものは、時間の流れを示している。すなわち、二十度の水と六十度のお湯を混ぜたら四十度のいい湯加減になるが、その四十度のお湯が二十度と六十度に勝手に別れるということはあり得ないということだ。
だが、この世界では違う。魔法を使えば、そのようなことを起こすことができる。
僕はまず、金魚鉢の口の方を温める。そうすることで、服に染み込んだエタノールが蒸発し、その蒸気が金魚鉢を満たす。次は底の方を冷やす。エタノールは凝縮して液体になろうとするも、僕はそれを許さない。液滴を狙い定めて、それを気体に戻そうとするが、うまく照準が合わない。
ミュシャの言葉を思い出す。言葉を唱えると、世界が変わる──僕はその通りにしてみようと思う。
時──それは少なくとも、ある物体が常識的な速度で動いている時に限って絶対的なものだ。手が震える。僕は今、絶対に手をかけようとしている。
深呼吸。息を吸って、吐く。
「僕にひれ伏せ、時よ!」
何かが凍った。ある実体を持つ何かが凍ったわけではない。僕には時が凍ったのだとわかった。そして、世界が逆に回り始める。
その時、金魚鉢の中から液体がなくなった。つまり、その空間にその温度で、蒸気として存在しうる量を超えたのだ。
極めて簡単な実験だ。前世では霧箱の名として知られているものだ。これを使うことで、ここに放射線があることを知ることができる。
「あ、中で白い線が──」
「……そうか、あるのか」
「何が?」
「神はサイコロを振るということだ。それも、見るたびに出た目が変わる不思議なサイコロを」
「時々、すごい難しいことを言うよね」
はっきり言って証拠は不十分だ。本当はもっと色々な方法で確かめたほうが良いと思うけれど、今の僕にそれを可能とする設備はない。
これでわかるのは、おそらくこの世界の物質が元の世界と同じような素粒子でできているということだ。つまり、魔法はそれとは別のレイヤーで起こっている現象──僕の一生をかけても、魔法を解明することは難しい。この世界には電子機器すらないのだから。
僕は金魚鉢を小脇に掴み、洞窟の外に出た。後ろから不安げについてくるヴィーヴィーの気配を感じながら、僕は川辺に立つ。
「こんなもの!」
そう叫びながら、金魚鉢を川の向こうに投げ捨てる。それは太陽の光を乱反射し、空中できらめいたあと、同じようにきらめく水面に吸い込まれていく。まるで溶けるようにして、二つの輝きが一つになった。
僕はここにいる。一人の少年として。蒼井莉子であることを否定せず、僕はミシェル・ウェバーであった。
ずっと背負っていた何かを、僕はようやく下ろすことができた。僕は靴を脱ぎ捨てて、川の岸辺へ向かって走る。足が濡れる。河原の丸い石が足の裏に突き刺さってこそばゆい。真冬の川の水は、限りなく透明に近い青色だ。
僕はここにいる。他のどこでもなく、ここに。たった一人の人間として。それがなんとも嬉しかったし、そうして蒼井莉子も世界のことをいずれ許すことができるのだろう。
「ねえ、シャツはいいの」
「知らん知らん、そんなもの! それよりも川遊びでもしよう! だって、こんなにも──」
美しい。
どんなに綺麗なディスプレイで行くことを夢見ることしかできないような絶景を見るよりも、どんなにいいヘッドホンで最高の音楽を聴くよりも、自分の五感すべてで捉える世界とは、これほどまでに清々しいものだったのか。
冬だから木はすっかり枯れてしまっているけれど、それはそれで巨人の手みたいで面白い。
風に吹かれると、その巨人は大きな手を振るのだ。さようなら、さようなら。私の過去。ようこそ、ようこそ。僕の未来。
約束された過酷な運命がなんだ。それが一番面白いんじゃないか。時間は前にしか進まないんだ。昔のことでぐちぐち悩んでどうする。
僕は足元の水をすくって、ヴィーヴィーにかけた。
寒い冬の日がなんだ。冷たい川の水がなんだ。そんなことはもはやどうでもいい。僕らには魔法があるのだ。寒かったら魔法で暖まればいい。
ヴィーヴィーは最初こそ少し戸惑ったものの、僕と同じ結論に至ったようで、負けじと僕に水を振りかける。
それは魔法による水玉の撃ち合いに発展し、最後は二人して川の浅瀬に寝そべった。そうして見上げる青空はどこまでも広がっている。遠い空で、銀色の雲が風に吹かれている。
「ミシェルって名前、私は好きよ。あなたと同じで、ちょっとカワイイわ」
「可愛いって、あのなあ」
僕は立ち上がり、ふと陽光に照らされる彼女のことを見た。白い頬が薄赤に染まり、彼女のワンピースが水に濡れて、ヴィーヴィーの体のラインを浮き上がらせている。
こんなことを考えてはいけない気がした。僕は居た堪れなくなって視線を逸らす。そんな僕の様子を不思議に思ったのか、彼女は立ち上がり、僕のことをじっと見つめた。
昨夜、周りが楽しそうにダンスしている中、僕は一人で炭酸水を舐めていた。しかし、今は違う。目の前にはヴィーヴィーがいて、しかも彼女は僕のことを見ていてくれる。
「ダンスには誘ってくださらないの?」
「え、ああ」
誘おうとしたその瞬間に、ヴィーヴィーにせっつかれたもんだから、僕は一瞬だけ面食らってしまった。即座に跪く。そして右手を彼女に差し出す。
「レディ・ヴィーヴィー。僕と、踊ってくださいます?」
「ええ、喜んで」
握り返される手は、あの時と変わらず、ただ一つ確かなもののように思えた。僕らはそのまま手を組み、肩と背中を抱き合って、半歩だけずれた状態で腹と腹をくっつけた。昨日見た、母とヴァレンタイン卿の見様見真似だ。
どちらからともなく、僕らは動き出す。拙いステップで、音楽もない。
しかし、川のせせらぎや鳥の鳴き声が僕らを祝福しているかのようでいて、今の僕らにはそれ以上を望みようもなかった。
踊る分には何の問題もない。むしろ、自分たちで自分たちのリズムを作り出すというのは、気持ちがいいことだ。
一歩、二歩。僕の動きに合わせて、彼女が動く。彼女が行こうとしている方向に、僕が合わせる。初めてだというのに彼女の動きがよくわかるのは、きっと魔法のおかげなのだろう。
「こうしてるとさ、他のことを考えなくていいから、ちょっとホッとするんだよね」
「そう? 僕は結構、いろんなことを考えちゃうんだけど」
ステップを踏みながら、言葉を交わす。彼女は口の端から笑みをこぼして「どんなこと?」と聞いてきた。
「くだらないことだ。たとえば、上から見る人がいたら、今の僕らは歯車に見えるのかなって」
「確かにくだらないわ。それじゃ、何も考えてないのと同じよ」
「そうかもね」
三拍子──寄せては返す波のようなワルツ。
ステージは川面、観客は僕ら以外の大自然すべて。
川の中で踊っていたはずなのに、いつの間にか僕らは水面を踏み締めてステップを決めていた。ヴィーヴィーと僕の魔法が共鳴したのだろうか。煩わしく足に絡みつく水がなくなったから、僕は思い切って大きな一歩を踏み出した。彼女は顔に驚きの花を咲かせつつも、僕についてくる。
演者はミシェル・ウェバーとヴィヴィアナ・ヴァレンタイン。僕らは他の誰かではなく、自分自身を演じていた。そうして二分かそこら踊ったあと、僕らは河原に戻った。
「ねえ、ミシェル。私も一つ、謝らなくちゃいけないことがあるの」
繋いだ手を離して、彼女は少し俯いた。銀色の髪が重い夏の雲のように垂れ下がって、彼女の顔を少し陰らせた。
「私ね、父上に言われて、あなたと仲良くなるようにって」
「……ヴァレンタイン卿は、どうしてそんなことを?」
「わからない」
おおかた僕が毎日深刻な顔をして、伯爵邸を睨みつけていたからとか、そういう理由だろう。ともすれば、酒造そのものが伯爵を裏切るのではないかという不安もあったのかもしれない。
いずれにせよ、僕は彼の思惑を推し量る以上のことはできない。
「ヴィーヴィーはさ、今楽しい?」
「楽しいよ、そりゃ。もっと楽しみたかったな」
「それは、君だけの感情だと僕は思う」
ヴィーヴィーは自分の手を胸の真ん中に当てて、濡れた服をその手で握りしめた。
川は素知らぬ顔で流れ続けていて、枯れ木は陽気に手を振っている。全てが動き続けている中で、彼女だけが止まってしまっているみたいだった。
服が彼女の体にぴったりとくっついているのと、彼女の白さも相まって、まるで彫像か何かのようにも見えた。
彼女は杖を自分自身に向けて、何かを唱えた。ヴィーヴィーの服と体から余分な水が散る。それは冬の鋭い太陽に照らされて、一瞬だけの虹を作り出した。
「私だけの感情なら、ミシェル。勇気を頂戴、私に」
「勇気?」
どうすればいいのだろうか。前世を含めて、人を勇気づけたことなど数えることしかない。彼女の顔がもっとよく見えるように、僕は河原に座った。
彼女は右手で僕の髪の毛、左手で僕の顎を掴んで、僕のことを引っ張り上げた。顔と顔同士が急速に接近していき、ぶつかる寸前に僕は目を閉じる。そして、唇に柔らかい感触があった。
数秒、もしくは数十秒。体が熱い。風邪でも引いたら洒落にならないぞ。リクランドは国民皆保険制じゃないんだ。
くだらないことを考えるものの、どうして体が熱いのかは自分でもよくわかっていた。
顔を離す。いつもは秋の雲のように白い彼女の顔だからこそ、頬から耳までが赤く染まっているのがよくわかる。
「ヴィー、ヴィー……」
「それじゃあ、さよならミシェル」
彼女はそれきり僕と目を合わせることなく、川の下流の方に歩いて行った。ヴィーヴィーの背中が小さくなって、見えなくなるかと思った直前、彼女は僕に振り返った。
「私ね! 帝都のインペリアル・アカデミーに通うんだ! 父上と陛下と同じようにさ! 三年後なの! だからきっとね!」
僕の返事を待つことなく、彼女は背中を向けて走り去った。
「きっとだ……ヴィーヴィー……」
僕は上を向いた。ヴィーヴィーの感情が彼女だけのものであるならば、僕のこの涙も僕だけのものなのだ。だから、一滴たりともこぼしたくはない。
帝国暦四八八年、一冬の冒険。何かが始まる前に、全てが終わっていた。
序章、完!