嘘──その二
そうして瞬く間に一月が過ぎた。
その間に僕は体の採寸を済ませ、さまざまなマナーを叩き込まれた。誕生日パーティーのおよそ一週間前にその正装は届いた。
黒を基調とした、地味なれども品の良いもので、一介の平民に過ぎない僕が着ても良いものなのかと少し疑ってしまうほどだ。その正装はまるで羽のように軽く、着たままブレイクダンスでもできそうなほど動きやすいものだ。
このひと月の間、どこに行っても彼女と会うことはなかった。まるで、最初から誰もいなかったかのように彼女は消えてしまっていた。時計塔にも、僕らの秘密基地にも、彼女の残り香すらなかった。
パーティー会場は、古い熟成庫を改造したものだ。煉瓦造りの重苦しい建物の壁に穴を開けてガラスをはめ、シャンデリアなどの照明を備え付けた瀟洒な会場。
そこには小さな丸テーブルがいくつも設置され、酒造のキッチンから続々と美味しそうなものが運ばれてくる。川魚を焼いたものに、鳥の腹に麦を詰めて焼いたもの、その他果物やパン類、もちろん酒も運ばれてくる。
僕は酒が飲めないので、炭酸水のグラスを渡されたのだが。
母に連れられて、会場の一番奥に彼女と一緒に立った。馴染みの酒造の面々──〈ブレンダー〉も、もちろんいる。しかし、父の姿がどこにも見当たらない。
その時、扉が四度叩かれた。少し間を置いて、もう四度。それを追いかけるようにして、「開門! 開門!」という大声の合図が聞こえた。それは間違いなく父の声だった。
母は懐から杖を抜いて、それを一振りする。
熟成庫の扉が滑るようにして開いた。まず、父が現れた。背筋を伸ばして、最も正式な礼服を着て行進するその姿は、今まで見たどんな父よりも格好よいものであった。
彼に導かれるようにして、まずは白髪の壮年男性が、一人の女児を連れて入場した。それは彼女と、彼女の父だ。一瞬、僕と彼女の視線が交錯したような気がした。彼女は僕に微笑みかけた。
最後に、格の違う男が現れた。先ほどの男と年齢は同じくらい──しかし、纏っている雰囲気の重さが違う。あれはどう考えても皇帝陛下だ。
「どういうことです?」
「サプライズ・ゲストよ。しゃんとしなさい」
サプライズが過ぎると思う。前情報なしにホイホイと来ていいものなのか。いや、むしろ前情報がないから良かったのか。政治のことはわからない。わからないからこそ、少しだけ面白いと思った。
父ハリオスは、僕らの前で立ち止まり、完璧な敬礼を決めた。
「お客様をお連れした!」
「ご苦労!」
母が敬礼を返す。彼女の頬に刻まれている傷跡が輝いたような気がした。
父は僕を挟んで母の反対側に立つ。そして、僕らは揃って一歩下がる。
前に伯爵とその令嬢、皇帝陛下が立ち、侍従の者が彼らにグラスを持たせる。その中には、泡立つ蜂蜜色の液体──ウイスキー・ソーダが入っている。皇帝はヴァレンタイン伯爵に耳を寄せた。
「これ、俺がスピーチすんだっけ?」
「ふざけないでください。段取り通りに、ご存知でしょう」
「分かってるよ、ファンボーイ。俺流の冗談さ」
二人は笑い合い──皇帝の笑顔に比べて、伯爵の笑顔はやや引き攣っていた──皇帝は伯爵の肩を二回力強く叩いた。
彼は眉間に皺を浮かべる。皇帝が聴衆に向き直り、グラスを掲げた。そして彼は笑顔──後ろから見てもわかるくらいとびきりの笑顔を浮かべて、こういった。
「今日は無礼講ぞ!」
あなたが言わないでください。その言葉を飲み込むので、僕はやっとだった。
挨拶を終えた後、僕は皇帝と伯爵をほっぽって、酒造の人々と話をしてくると言ってあの場から逃げ出してきた。
無礼講だと言うのであればこれくらいは許してほしいし、こうしてみんなと話す間に、僕の身の振り方を考えたかった。
とはいっても話題は皇帝陛下と伯爵のことで持ちきりだし、酒造の誰もが二人の来ることを知らなかったのだが。
そうして逃げ回るにも限界はある。僕はやがて母に捕まり、伯爵とそのご令嬢と対面していた。ふと父のことを探すと、彼は酒を飲みながら、男衆と集まってちょっと下品な冗談を飛ばし合っていた。
「君が噂の息子さんか。私はトサント伯フェダストゥス・ヴァレンタイン。ここの領主をやっている」
「私が申し上げるのも何ですが、なかなかできた子です」
「そう見える。実に利発そうな、いい子だ」
その男を描写するならば、魅力という言葉以上に当てはまるものはないのだろう。整い過ぎていない顔立ちと、少し散らかった髪の毛、それに親しみやすい低い声。
それでいて、完璧に着こなした礼服の迫力が、彼は上流の人間であることを示していた。
その娘──彼女の、黒に銀糸の入ったエキゾチックな瞳は変わらず僕のことを見つめていた。僕は彼女の瞳を見つめ返して、顔に微笑を浮かべる。
ええと、こういう時は、確か自己紹介をするんだ。夢の中の自己紹介ではなく、現実の自己紹介を。
「ウェバー。ミシェル・ウェバーです。お初にお目にかかります」
「……ヴィヴィアナ・ヴァレンタイン。初めまして」
彼女は完璧なカーテシーを決めたあと、僕の視線から逃げるようにして目を逸らした。その時僕は気づいた。僕はクソボケだ。
「父様、私は酒造の皆様とお話ししてきてもよろしいでしょうか?」
「ああ、好きにしなさい、ヴィヴィアナ」
僕は去り行く彼女に向かって手を伸ばしかけた。しかし、拳を握って自分の腕の動きを止める。情けない。ちょっと前に怖い嘘をつかないって約束をしたばっかりじゃないか。
「振られちゃったわね、ミシェル」
「うちの娘は気性が難しいものでな」
二人の会話が、まるで遠いところにあるかのように聞こえる。いや、焦っている場合ではない。早く自分を取り戻さなければ。
「あら、気性の難しさで言ったら、ミシェルも相当ですよ」
「私には、普通の子どもに見えるが……」
母──ミュシャと伯爵の会話は、少し気安いようにも聞こえる。むしろ、伯爵が母に少し遠慮しているのか。まるで少年のような憧れの目を、伯爵は母に向けているような気がする。
それに気づいた瞬間、僕の頭の中で点と点が線で繋がった。
しかし、今はこんなことを考えている場合ではない。彼女と──ヴィヴィアナと話さなければ。僕は彼女のことを目で追った。
彼女は〈ブレンダー〉と親しげに話している。今頃、〈ブレンダー〉は自分の鼻と舌の精度の良さを自慢しまくっているところだろう。僕は一歩踏み出しそうになった。しかし、それも見事に出鼻を挫かれることとなる。
今まで好き勝手に酒造のメンバーと話していた皇帝陛下が僕らに近寄ってきて、「やってる?」と気さくに声をかけてきたからだ。
「うまいことやってますよ、陛下」
「そう固くなるなよ、フェダストゥス。俺たち同級生だろ? アカデミーの」
「それはそうですが、あなたは皇帝陛下で、私は一介の伯爵なのですよ」
どちらも殿上人あることに変わりはない。親しげに会話をしている二人を、母は優しい視線で見つめていた。
「レディ・ミュシャ……陛下はいつもは真面目なお方だが、公務でお疲れなのだ」
「お前も座ってみればわかる、フェダストゥス。皇帝の椅子は絞首台ぞ……そういえば、お宅のミシェルは開眼したのか?」
「まだでございます、陛下」
「では、俺に任せてはもらえぬか」
おいおい、すごいことを言い出したぞ。「開眼」の儀式がこの世界でどういう意味があるのかは知らないが、元の世界においては名付け親などに相当するものか、それ以上に意味の重いものであるに違いない。
しかし、断れるはずもない。なぜなら目の前にいるのはこの国の最高権力者であり、僕は一介の平民に過ぎないからだ。
「ええ、光栄にございます」
僕抜きで話を進められる。陛下は屈んで僕と視線を合わせて「ちゃっちゃと済ませよう」と言い、懐から黒い艶消しの美しい杖を取り出す。彼はそれを僕に渡すと、僕の手の上からその杖を優しく握った。
「いいか、俺に続いてこう唱えるんだ。『光よ、あれ』」
一瞬、意趣返しとしてマクスウェル方程式を唱えてやろうかと思ったけれども、そんなことをしたら誰かの首が飛びかねない。
「『光よ、あれ』」
その瞬間、僕は色を聞いて音を見た。
ありえぬ色彩の中に放り込まれ、ありとあらゆる記憶が僕の脳内でリフレインする。
初めて立った時の足裏で感じるベッドの感触。
初めて言葉を話した時の父母の表情。
あの恐ろしい男の顔。
ヴィヴィアナ・ヴァレンタインの笑顔。
彼女の失望。
ありとあらゆる記憶は混ざり合って意味を失い、そして世界が弾けた。
「うまくいかない時が一番楽しい。全部スムーズなのはつまらない」教授の言葉が、僕の脳内でリフレインする。
「ヴィヴィアナ・ヴァレンタイン……」
僕は無意識のうちに、彼女の名前を呟いていた。いつの間にかに、皇帝の手が離れている。僕は先端に熱のない光を灯す杖を持っていた。
「おい、フェダストゥス。俺はフラれたぞ」
「そのようですね、陛下」
フェダストゥス・ヴァレンタインは、初めて彼の目を僕に向けた。それは彼の髪と同じく、銀色の目だった。
「強い男になりなさい、ミシェルくん」
彼は演技じみてそう言って、僕の目の前から立ち去った。皇帝も同じように「じゃ、俺は〈ブレンダー〉を探してくる」と言って、その場を辞する。
宴も佳境、いつの間に現れた楽団が音楽を奏で、丸机と食べ残しが魔法で片付けられていく。ああ、見える。魔法が。魔法の痕跡が、全て。
三拍子のワルツ。各々が好きにペアを組み、好きに踊っている。田舎風のタップダンスを踊る者も居れば、真っ当なワルツを踊る者もいる。
その中で、一際目を引くペアが二つ。一つは、僕の母ミュシャとフェダストゥス・ヴァレンタインのペア。
完璧なワルツで、文字通りにパーティ会場を股にかけている。
もう一つは、僕の父ハリオスと、おそらくはヴァレンタイン伯爵夫人。二人は田舎風のダンスを楽しそうに踊っていた。
夫妻同士ならいつでも踊れる。今日は、いつでも踊れるわけではない人と踊る日なのだろう。
僕は一人だった。ヴィヴィアナ・ヴァレンタインの姿はどこにもない。一人で壁に寄りかかりながら、炭酸水を舐めるほかなかった。