銀色のあのこ
酒造の裏には、小高い丘がある。青々とした牧草に覆われた丘で、時折牛などの家畜がのんびり歩いていたりする。
その頂上には一本の古木が立っており、古木の根っこはちょうど座れそうなくらいのサイズだ。あれから、僕はそこに登って、トサントの村とヴァレンタイン伯爵邸を眺めるのが日課になった。
トサントは人口およそ千人ほどの大きい村だ。
それだけを支えるに十分な量の畑と、水と、土地がある。家と道もかなり整備されているし、街の真ん中には運河が流れている。外れの方には古ぼけた時計塔もある。
それら全ては、はるか東の向こうの衝天山脈という馬鹿でかい山脈から流れる水がもたらしている恵みだ。その山岳地帯は別の貴族が治めているらしい。
酒造も酪農も農業も、もちろんその水を使って行われている。時計塔も、その川の流れを水車で受け取って、動いている。
結局、さらに半年経ったけれど、伯爵も皇帝も来なかった。それでは倒れた〈ブレンダー〉があまりにも浮かばれない。
僕はその理由がわかるかと期待を込めて、この伯爵邸を眺めている。酒造全体の敷地よりやや狭い──といっても、僕の基準からすればすごく広い──ニュートロイ・ゴシック様式なる建築様式の、白と緑を基調としたお館だ。
朝から夜まで、伯爵邸はいつも規則正しいルーティンで回っている。
時計塔が朝、八の鐘を鳴らす頃に窓が全て開けられ──カーテンは閉まったままだが──煮炊きの煙が上がる。そこから正午にもう一度煮炊きの煙が上がる間、騎士が訓練を実施する。時折トサントの街中を、重装備で走り回ることもある。
まるで伯爵邸全体が一つの生物であるかのように、侍従が日々の清掃をしたり、その他の業務をしたりする。
伯爵には僕よりふたつ年上のご令嬢がいらっしゃるらしいけど、その子の影を捉えたことはない。
そして、時折酒造から伯爵邸へ酒樽を運ぶ荷車が走ること。これは不自然ではない。伯爵は大酒飲みだと聞いているし、使用人も時に飲んだりするのだろう。
ここまでが、僕が家の倉庫から発掘した遠見の筒でわかったことだ。そして、これ以上はわからなかった。ある日、僕がいつものように伯爵邸を眺めていると、突然隣に男が座ってきたからだ。
その坊主頭の男は僕の二倍ほどの身長で、鼻が削げ落ちており、また耳も片方しかなかった。また首から頬にかけて肉が弛んでおり、その下には肉を支えるべき顔骨がもうないことを伺わせている。
その恐ろしい風体の男が、何も言わずに僕のことをじっと見つめているのだ。退散するしかない。
「何してるんですか」
「お前のことを見ている」
それ以上の会話をすることはできなかった。
次の日、僕は深夜に家を抜け出して丘に行った。
そしたらまた、あの男が五分も経たずに現れた。これをやっているのがヴァレンタイン伯爵にしろ〈子爵〉にしろ、それは偏執的なまでに用心深い人物だ。
僕は丘から家に帰る途中、一つのことに思い至った。あの「皇帝が来る」という噂は、ヴァレンタイン伯か〈子爵〉が流した、意図的な偽情報なのではないか。
そういえば、あれきり、樽運びのジョンを見かけた試しがない。酒樽は、魔法でポンポン運ばれるようになった。管理もミュシャが直接やっているらしい。
この長閑で美しいトサントも、一皮剥いてしまえば泥臭い政治劇の舞台が現れるのだろうか。
二年としばらくが過ぎた。
その間も幾度となくさまざまな憶測や偽情報が飛び交ったが、もはやそういうものだとして、僕も慣れつつあった。
五歳を目前にして自由な行動が許されたので、僕は一日のほとんどを外で過ごすようになった。
午前はだいたい、外れの時計塔の中に弁当などを持ち込んで本を読む。時計の音がある種の催眠じみて働き、おかげさまで僕は本によく集中できる。
本を読むのに疲れたら、村の子どもたちと開拓者ごっこをしてみたりもする。近くの森まで、近所の土産屋で揃えた木剣や盾を構えて、走り回ってちょっとした冒険なんかをしてみせるのだ。
実際に剣術や魔法の類を使えるわけではないが、これはこれで楽しい。森に入って、綺麗な石やいい感じの枝を振り回す。これが楽しいのだ。
開拓者。魔法に次ぐ魅力的な言葉だ。それは都市の雑用から治安維持や消火などといった公共事業、それに文字通り未開の地を「開拓」して回るのが仕事らしい。最上位の開拓者はもはや英雄と等しく、それゆえに憧れる若者も少なくないんだとか。
ある日のことだった。僕はいつものように背負鞄に本を詰め、農民風のハンチングを被り、地味なフロックで自分を隠しつつ、時計塔へ向かって歩いていた時のことだ。
僕の視界の端に、銀色の髪の誰かがずっとちらついていた。
時計塔にたどり着き、管理人のおじさんに挨拶をして、歯車が詰まっている小部屋で本を開いた時も、僕の頭の端にはその銀色がちらついていた。老人の白髪ではなく、もっと瑞々しい銀。
あまりにも気になって、本に集中できなかったものだから、僕は時計塔の文字盤に備え付けられている小窓を開けて、あたりを見回した。そうして僕は、彼女と目が合った。土色のケープを目深に被っている彼女と。
最初は、鏡でも見ているのかと思った。彼女の銀色の髪から覗く幼い目──エキゾチックな黒さの目を、僕は見たことがあると思ったからだ。
それは昔の僕──蒼井莉子の目だった。世界に希望を見出せず、生きることがとても苦しくて、誰かと一緒にいても「一人とそれ以外」という疎外感をずっと持ち続けている人の目だ。
だから、僕は彼女に声をかけることにした。
「こっち来いよ! 結構悪くないぜ!」
「え──」
「時間は止まってくれないよ! ほら!」
大手を振って彼女を誘う。
彼女はしばらく周りを見て悩んだ後、首を小さく縦に振った。
管理人に時計塔の中から一声かけて、鍵を開けてもらう。彼女は危なげなく梯子を上り、僕のいる機械室までやってくる。
僕より少し背が高い彼女の瞳は、よく見たら黒の中に銀の糸が走っているようにも感じられた。
「まあ、座りなよ。とにかくさ」
「……うん。えっと、ここで何してるの?」
「本を読んでんだ。チクタクって音がちょうど良くてね」
そう言って、僕は今まさに読んでいる本を彼女に見せた。
タイトルは『ラスト・サムライ・アンド・ウィッチ・オブ・アイス』。トサントの向こうにある衝天山脈のさらに向こう、はるか東の国のサムライ──下級騎士と「氷の魔女」のロマンス・ストーリーだ。つい最近出版されたこの本だが、僕はなかなかに気に入っている。
「ちょうどこんなセリフがあってね──」
僕は本を片手に、彼女の手を取った。
「『俺は君に惚れた。君のその孤独に』──その次のセリフが、こうだ」
開いたままの本を彼女にみせる。その内容を読んだ彼女は、ゆっくりと口を開いた。彼女は頬を少し赤らめながら、息を鋭く吸う。
「か、『堅いわよ、氷は』……」
「これって今の僕らに、ピッタリじゃないか?」
釈然としなさげに眉間にしわを寄せる彼女の横に、僕は座り直した。チクタクという音が所在なさげに鳴る。
「小説の中には、僕がいるんだ。そしてきっと君もいる。だから読んで笑ったり泣いたりするのさ。君だけの世界だよ、これは」
「私だけの世界……」
「だから、辛くなったらまた来てよ。一緒に本を読もう」
そうすることで、きっと僕も──私も救われるのだから。
翌日。僕はいつものように時計塔まで行くと、すでに機械室には彼女の姿があった。昨日のような土色のローブではなく、上等な仕立ての若草色のワンピースに、右腰には杖を下げていた。
魔法が使えるのか、と僕は声をかけそうになったが、彼女がある一点を見つめているのがわかったので、僕もそこを見た。
「あれは余計な力を流すための歯車だ。大きい力がかかりすぎると、ベルトが滑ってくれるのさ」
「あの歯車、ちょっと怖がってるみたい……」
「怖がっている?」
僕は一瞬彼女の方を見た。その顔には恐れのような何かが浮かんでいた。
ともすれば、彼女は何かに共感しているのかもしれない。腰に下げた魔法の杖が少し震えたような気がした。僕は再び歯車を見る。特に変わった様子は見受けられない。
杞憂かとは思うが、とりあえず彼女の感覚を信じてみることにする。
「窓の外は、山の方はどうなっている?」
「雲がかかってる……雨かな、雪かな」
「どっちにしろ、嬉しくはない……」
よく見ると、歯車の回転軸が少しずれているような気がする。ネジがうまくはまっていないのか。それとも、何か別の原因なのか。
「ねえ、あれが取れるとどうなるの」
「えっと──」
僕は部屋の中の機構を指で辿る。
まず、川の動力を伝える太いワイヤがある。その力は二つに分けられる。
一つは時計そのものを駆動する力。つまり、ゼンマイに力を蓄える役割を持っている。それが時計の二本の針を動かしているのだ。
もう一つの流れは、普段はどこにも繋がっておらず、キリの良い時間が近づくと近くの歯車に接続して、鐘を動かす役割を持っている。
例の歯車が繋がっているのは、時計を動かす方。その歯車は抵抗の役割も果たしている。つまり、それが壊れて水車が空転を始めたら、おそらくは共振によって──
「つまり、それが壊れると、もしかするとここがバラバラになるかも……」
「バラバラって──あっ」
時間が止まったような気がした。
それはまるで、長い間宇宙に慣れた宇宙飛行士が重力を忘れて空中に物を置いてしまった時のように、静かに始まった。それはむしろ終わりと形容したほうが良かったのかもしれない。
その歯車が、音もなく外れたのだ。
「ええいっ!」
迷っている暇はない。僕は近くを走っている太いワイヤに飛びついた。
止めることは贅沢でも、少なくとも動きが遅くなってくれればいい。そうすれば時間は稼げる。チクタク、チクタク。時計は止まらない。
僕はワイヤーを止めることはできなかった。それどころか、速度も大して減らず、僕の体はワイヤーが巻き付いているプーリーに吸い込まれていく。
しかし、諦めることもできない。僕がここで手を離したら、ここがバラバラになる。掴まったままでも、僕はいずれ巻き込まれて十中八九死ぬ。
またくだらないことで死ぬのか。僕は自問自答する。
「大丈夫」
その声に、僕はハッとさせられた。それは間違いなく彼女の声で、彼女は杖を僕に向けていたのだ。あまりに力のある声だったから、僕は自分の危機すら忘れて、彼女に魅入ってしまった。
「時よ、止まれ」
彼女の杖の先から朧げな鎖が伸びて、僕が掴まっているワイヤに巻き付く。
その鎖のおかげで、機械自体がだんだんと止まりはじめる。
心に余裕ができた──次するべきことは、管理人のおっちゃんに気づいてもらうこと。
「おっちゃん! おっちゃん! 全部止めてくれ! 壊れたんだよ!」
全力で叫ぶ。管理人は眠そうな顔を自室から突き出して僕らの方を見た。彼は一瞬で顔を引き攣らせ、また自分の部屋へと戻った。しばらくしないうちに、全てが止まった。
僕はワイヤから機械室の床に降りて、そのまま大の字になって寝そべった。彼女は僕の顔を覗き込んで、微笑みを浮かべた。
「怖かったね」
「ああ、怖かった……」
彼女はそのまま僕の目をじっと見て、何も言わなくなってしまった。少しの気まずさに目を逸らそうとすると、彼女は僕の顔を両手で押さえ、動きを封じてきた。
「あなた、不思議な目をしているわ。何かを探しているの?」
「探している……?」
僕は何かを探しているのだろうか。もしそうだとすれば、僕は何を探しているのだろうか。
歯車が怖がっていると表現した彼女の感受性──あまりにも鋭く、あまりにも輝いているものだから、彼女の言葉が僕の心をバラバラにして、実は異世界から落ちてきたのだという事実をそのまま明かしてしまいそうだった。
しかし、それは杞憂に終わった。彼女は僕の顔から手を離し、天窓の外をぼんやりと見た。不思議な子だ。不思議さで言えば、僕も負けたものではないと思うけれど。
明日は二回行動します。心してください。