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コード・マギウス あるいは最強の息子として転生した僕が最高のスパイとなる物語  作者: 城木仁輔
序章 トールキンかと思ったらジョン・ル・カレでした。チクショー。編
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〈征東の魔女〉

 およそ一年半が過ぎて、僕は二歳になった。


 二歳であることの素晴らしい点とは、自分の足で歩くことができるということだ。驚くべきことに、なんと歩くだけではなく走ることもできる。

 それ以前の移動は、地面を這うかミュシャの腕の中に抱かれて一緒に動くことに限られていた。しかし、今は違う。自分の足で歩けるというだけで、今までとは比べようもないほどに自由に動くことができる。


 例えばこんなことがわかった。

 リクランドは、リクランド連邦帝国の七つの中核州のうちの一つであること。ヴァレンタイン伯爵は普段は帝都ニュートロイにいて、ここトサントの執政は〈子爵〉なる人物によって行われているということ。

 そして父は伯爵お抱えの騎士団で中隊長をやっているとのこと(これは割と誇らしい)。

 でも、父も誰も〈子爵〉に会ったことはないとも聞いている。これは妙な話だ。


 それに、子どもであることの利点も維持されたままだ。大人──多くの場合は蒸留所か醸造所で働いている人々──の後ろをついて回っても、決して怪しまれることはなく、邪魔さえしなければ疎んじられることもない。むしろ微笑ましい視線を向けられ、時には誇らしげに仕事の説明をされる時もある。


 例えばこんなことがあった。

 樽ごとに違う香りの蒸留麦酒──ウイスキーを混ぜて、ちょうどいい香りにする職業の男がいる。彼は専ら〈ブレンダー〉と呼ばれているので、僕もそう呼ぶことにしている。


 それは、ヴァレンタイン伯爵と皇帝が来られるという噂が最大限まで高まった時のことだった。〈ブレンダー〉が酒の飲み過ぎで倒れたのである。

 すなわち、皇帝もウチの酒をお飲みになられるとのことで気合が入り、最高傑作を作ろうとしたが、結局どれもピンと来ず、様々な配合を試しているうちに意識を失ったということだ。その時、僕はまさに彼が倒れる瞬間を目撃していた。

 樽が積まれている薄暗い倉庫。一年中、少し肌寒いくらいの温度に調整されていて、いつもほんのりとした酒精の香りと、それ以外の複雑な甘い香りが漂っている。

 僕はそこで、つい最近ここに勤め始めることになった樽運びのジョニーと一時の会話を楽しんでいた。とはいっても、ジョニーは僕の二倍ほどの身長なので、僕は彼の肩に乗っているのだが。


 彼は樽詰めされた原酒を貯蔵庫まで運び、樽の数などの管理をすることを仕事としている。またジョニーはとてつもない怪力とバランス感覚を誇っており、台車に積み上げられたおよそ十樽を一切揺らさずに運んでいる。魔法的だが、一切魔法は使っていないらしい。


「ジョニーさん、それってコツはあるんですか。その台車を押すときの力とか」

「ゆっくり加速させて、ゆっくり減速させるのがいいんだよ。そうすると、揺れが一番少ないんだ」


 物理的には妥当だ。加速と減速を限りなくゆっくりやれば、変な力がかかっても対応しやすいし、もちろん理論上は揺れることがない。僕はその答えに満足しつつ、ふと前を向いた。積み上げられた樽の間を、誰かが横切った気がした。


 あくまでも気のせいと片付けることはできたかもしれないが、ジョニーのややかたい表情を見るに、彼も僕と同じものを見たのだと思う。気のせいである確率はこれでかなり減った。


「ジョニーさん。今の」

「ああ、見えた。ミシェル坊、すまないが、見てきてくれるか?」


 彼は器用に片手で僕を地面に下ろす。そして台車をゆっくり引いて減速させる。

 僕はそれにぶつからないように脇を通り抜けて走った。ジョニーはすぐに台車を止め、後ろから僕のことを追いかける。

 さすがに歩幅の差は覆せない。彼はそのまま僕に追いつき、再び僕のことを小脇に抱えて走り出した。

 そこには、倒れている小男がいた。それは〈ブレンダー〉だった。彼は何かうわ言を呟きながら、樽に寄りかかっており、半ば正気を失っているようにも見えた。


「レ、レディ・ミュシャを呼んでくる!」


 ジョニーは僕を〈ブレンダー〉の脇に置いて、踵を返して走り去った。僕は彼の脇で屈んだ。

 じっと見つめる僕の視線に気付いたのか、彼は「ミシェルか……」と呟いた。その吐息には、馬鹿にならない量の酒精が含まれているようだ。

 思わず顔を顰めそうになるも、我慢して表情は動かさない。僕は彼の横にぺたんと座った。


「頑張りすぎじゃないですか? 〈ブレンダー〉さん」

「頑張らなきゃ、駄目なんだよ。情けない酒を出すことはできない」


 彼は少し落ち着いたようで、今は地面に寝そべってゆっくりと深呼吸をしている。


「酒の味はわからないですけど、いつも通りやればいいと思いますよ。僕の母上も、多分そう言うと思います」

「……時々、お前のことがちょっと気味悪く感じるよ。だってまだ二歳だろ。二歳って、もうちょっとアレだろ。なんか」

「母上のおかげです。いつも本を読み聞かせてくれるんです」


 本を読み聞かせてくれるのは嘘ではない。

 酒造の端にある家には、大きな書斎がある。そこには所狭しと本が並べられている──その本は手写で作られたものではなく、何らかの印刷で生まれたものだ。

 様々なレベルの魔法書から古典小説、それに質の悪い紙に印刷された冒険譚も。僕はそういう冒険譚を読み聞かせてもらうのと、魔法書を読み聞かせてもらうのが好きだった。

 それで言葉遣いや語彙を学んだということになる。それにしては、喋りすぎかもしれないけれど。


 魔法書には〈征東の魔女〉なる名前が頻出する。現代魔法の理論と基礎をまとめ直し、それに加えて様々な魔法を「発明」した稀代の魔女らしい。僕の感想を述べるとするならば、「古典理論としてはかなり良い」といったところだろうか。


「そうか。そういうことにしといてやるよ。魔法も奇跡もあるが、俺はあいにく恵まれなかったもんでな。だが、何が起こってもおかしくはねえ」

「そうですか?」


 魔法。魅力的な響きの言葉だが、それはいくつかのルールに支配されている。少なくとも、僕が二年間観察した結論がそれだ。何でもできそうだが、何でもはできない。


 ひとつ。魔法は思考によって導かれる。

 これは明らかだ。あの花火は詠唱によって生まれたように見えた。しかし、父ハリオスを丸洗いした時に詠唱などしていなかった。

 代わりに杖を振ったのだ。そして、僕はあのとき父が入っていた「洗濯機」を好きに回すことができていた──ような気がする。


 ひとつ。そこにないものを魔法で作るのは一苦労する。

 高位の魔法使いならできるだろうが、凡百の魔法使いは、すでにそこにあるものを転変させている。

 例えば、何もないところにハンバーガーを産むのは大変だけど、マクドナルドの店内でハンバーガーを生成することはできるということ。もっと簡単に言うと、物質創造にはそれ相応のエネルギーが必要になるということだ。


 ひとつ。エネルギーはやっぱり保存する。

 つまり、ポンポン魔法を使っていたら、いつかは必ずガス欠するということ。「魔力」という概念が最も耳馴染みがあるだろうか。


 ひとつ。魔法を使ったら、痕跡が残る。

 ちょっと前にミュシャが酒造に潜り込んだコソ泥を捕まえた時に、痕跡が云々と言っていたような記憶がある。僕には見えないけど。


 神は「マクスウェル方程式よ、あれ」と言った。そして光があった。

 これは物理学において有名な冗句だが、それはどうやらこの世界においてもそうらしい。

 ミュシャが何かを唱えて静電気が走るのは、決して不思議な現象ではなく、その背後には厳然と物理法則が存在している。

 そしてそれは、僕が読み聞かせられていた魔法書にも書いてあることだった。


 果たして、神はサイコロを振るのだろうか。もし魔法が量子的な、あるいはそれを超えた何か複雑なシステムによって起こっているものならば、この世界のミクロな物理はどうなっているのだろうか。

 それを確かめることは簡単だ。しかし、僕は今そうしようとは思えない。


 もし神はサイコロを振らず、二本のスリットを通過した粒子が二本の線しか生まなかったら、僕はきっと恐ろしくてたまらなくなる。

 では神はサイコロを振って、しかもそのサイコロが見るたびに出た目の変わる妙なサイコロだったらどうか。

 それはそれで、じゃあ魔法って何だよという話になる。それを確かめるためには、おそらく一生をかけても足りないだろう。

 何せこの世──少なくともリクランドに来てから、電子機器らしいものや魔法機器(当然ながら、電子機器の魔法バージョン)を見かけたことがないからだ。

 ここトサントが特殊なだけかもしれないが、酒造は電子機器を使った方が確実に効率が良くなるのに、それらしいものは一切ない。あるのはせいぜい温度計と圧力計くらいだ。


 そういえば、ミュシャの執務室で見た、水とエタノールの共沸点の温度は、僕の──というよりも蒼井莉子の持っている知識とかなり一致していなかったか。


 僕は無意識のうちに、座ったままで両手の指を組んだ。「何だよ、急に黙ってさ……」と〈ブレンダー〉が言う。

 そして、風が吹いた。大気分子が圧力によって動かされたのではなく、ただそこに風があった。あたたかく、やさしい風だ。僕の肩に誰かの手が置かれて、耳元で「大丈夫よ」と囁かれる。


「〈ブレンダー〉は大丈夫よ、本当に飲みすぎちゃっただけみたい」

「母上……いつの間に……」

「魔法よ。これが」


 いつになく、彼女は厳しい口調でそう告げた。

 僕の勘違いでなければ、ミュシャはただそこに現れたのだろう。走ってきたわけでも飛んできたわけでもなく、ワープをしてきたのだ。

 僕の知っている様々な法則を散り散りに破り捨てている。これがただの魔法で、実は世界中の誰もがこんなことをできるのであれば、この世の因果律はめちゃくちゃだ。

 でも、〈ブレンダー〉の表情を見ると、そんなことはなさそうだ。驚きとかそういう感情ではなく、むしろ崇拝の念が見て取れる。その視線を一身に集めるミュシャは、インクのシミがついている手で懐から杖を取り出した。

 さっきまで書類仕事をしていたのだろうか、という僕の視線に気付いたようで、彼女が自分の手を一瞥した後、杖を構える時には、まっさらな手になっていた。

 今のミュシャは、少し怖い。まるで人というより、機構か何かのように感じる。彼女は実際に人間なのだろうが、そう自分に言い聞かせたところで僕の中のおそれが消えてなくなるわけではない。

 僕は彼女の脚に体を寄せた。あたたかい。これが人のあたたかさだ。


「怖いの?」

「うん」

「珍しいこともあるものね。いいわ、私のことを見ていなさい」


 指揮者のように、彼女は杖を振った。そして、光があった。それは〈ブレンダー〉の身体に降りかかり、彼の顔色に正気を取り戻させる。ミュシャは僕のことを抱き上げ、数歩あるいたあと、ちょうど戻ってきたジョニーと〈ブレンダー〉の方に向き直った。


「いつも通りになさい。気張ることなく、いつも通りの酒を作りなさい。伯爵も帝も、それをお求めになるわ」


 ミュシャは僕の目を塞いだ。一歩、二歩。彼女が進んで、僕の目から手がどけられると、そこは彼女の執務室だった。

 壁にはいつか見た水とエタノールの共沸点を示したグラフが貼られている。

 ミュシャは僕のことを地面に降ろして、自分の執務机へと腰掛けた。そしていつも通り何かの書類仕事を始めた。


「……転移、魔法?」

「そうよ。私って結構すごいのよ、実は」

「〈征東の魔女〉とどっちがすごいの?」


 この質問は、ちょっとした意地悪のつもりでしたものだ。ミュシャは僕の方をチラリと見て、そしてペンを置いた。彼女は椅子を回転させ、自分の腿を軽く二回ほど叩いた。


「こっちおいで、ミシェル」

「はい」


 彼女は僕を足の上に乗せ、「うりうり〜〜」と言いながら僕の頬を両手で捏ね始めた。困惑しながら上を向いてみると、ミュシャの顔には確かな疲れが浮かんでいた。


「私、疲れちゃった。二回も転移して、回復もしたから」

「うん」

「〈征東の魔女〉なら、多分余裕でやってみせるよ」


 そういうことらしい。ならば、そういうことにしておこう。

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