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コード・マギウス あるいは最強の息子として転生した僕が最高のスパイとなる物語  作者: 城木仁輔
序章 トールキンかと思ったらジョン・ル・カレでした。チクショー。編
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クソであるか、そうでないか。それが問題だ

ふと数年前、友人に「お前の文章はネット向きじゃない。古本屋の隅で寂れてるのがお似合いだ」と言われたのを思い出したので投稿してみます。

 一つ分かったのは、この世はクソだということだ。

 それはもちろん、あの世がクソでないことを意味するわけではない。あの世もこの世も等しくクソなのだ。


 それは、彼──あるいは前は彼女だった──が二つの「この世」と一つの「あの世」を経験して分かったことだ。厳密に言えば、二つ目の「この世」を今まさに経験している最中であるが、それはそれで「クソである」という結論に影響しない程度の些細なことだ。


 私の名前は蒼井莉子。二〇二五年の日本で、素粒子物理学を専攻していた女子大生。

 少なくともそういう記憶が頭の中に詰まっているし、私が私であるというふうに、自我の連続性も認識している。

 私は研究室の飲み会でしこたま酒を飲んだ後、千鳥足で家へ向かっていた途中に何か素晴らしいアイデアを思いついて、その直後に何らかの理由で死んだ。

 死の瞬間は覚えていない。こんなことになっているのだから、きっとそれもクソくだらない理由に違いないと思うことにしている。

 とにかくそうやって死んだ後は、長い間どことも知れぬ暗闇を彷徨って、気がついたら私はもう一度「存在」を始めていた。


 一つめの「この世」がクソな理由。

 それは私が「女の子らしい」あれこれに一切興味を持てず、代わりに使い古された機械をどこからか拾ってきて分解するような子供だったから。

 そして二〇二五年にもなって「女だから」という理由で理工系に行くことを阻まれた挙句、流行病でおよそ一年のあいだ体と頭が使い物にならず、しまいに留年したから。

 そうして望まれない縁談を持ってこられた時に、実家に三行半を突きつけたから。

 セクハラをしてきた他学部の准教授を殴って、一ヶ月の停学処分を喰らったから。尤も、処分の真の理由は「所詮は女のパンチだな」と侮られた後にぶっ放した二発めがその准教授の顎にクリーンヒットし、ノックアウトしてしまったからだが。

 そういった理由ならいくらでもあげられるけれど、二十五年ばかりの人生で、生きるのは基本的に苦しみしか生まないということをわかったから。

 時々楽しいことはあるけど、それはあくまで「時々」でしかない。巨視的に見た時、生きることは苦しみなのだ。


 指導教授は「うまくいかない時が一番楽しい。全部スムーズなのはつまらない」と口癖のように言っていた。私も概ね同意──つまりうまく行った瞬間が一番気持ちいい──だが、うまくいかなすぎると楽しさを通り越してイライラしてくる。


 「あの世」がクソな理由。

 それは単純に、あの世は真っ暗闇で、何もなく、クソつまらなかったからである。私があの世に行った時に、外界を感じるセンサーたる身体を持っていなかったのも理由だろうけど、それはあの世がクソではないと結論づける理由にはならない。

 では、二つめの「この世」がクソである理由は何だろうか。

 それは、今に明らかになる。



 僕の名前はミシェル・ウェバー。

 僕が僕であると認識したその瞬間に、僕は自分の正気を疑った。理由は先に述べた通りだ。


 それで、僕は果たして今まで何回「クソ」という言葉を思考の中に浮かべただろうか。もしかすると、そのうち何回は、実際の悪態として僕の口を動かしたのかも知れない。

 「女の子なんだからそんな汚い言葉使っちゃだめよ」と言われることは絶対にない。なぜなら、今世は男の人生を歩むことになるからだ。

 男ならば、何回「クソ」と言っても咎められることはない。


 しかし、今の僕は何かを言える状態にない。何かを見ることもできないし、味わうこともできない。塩っぱくて温い液体が僕の口と肺を満たしているからだ。

 することといえば、壁を蹴って遊ぶか、外の音に耳を澄ませるかだ。

 僕は今、生まれてすらいない。


 最初の頃こそ、戸惑いもした。外から朧げに聞こえてくる男の声と、体の中を響き渡る女の声が話しているのは明らかに日本語ではなく、それに蒼井莉子が知っている如何なる言語でもなかったからだ。

 やることがなさすぎて退屈していたので、耳を澄まして「もっと聞きたい」と念じていたら、いつの日かその声もクリアに聞こえるようになった。


 まだ生まれてすらいない赤ん坊とはいえ、人間の適応能力に感心しているうちに、それはどうやらSVO型の言語──英語と似たような文法構造を持っている──で、僕の名前がどうやらミシェル・ウェバーらしいことがわかった。


 ミシェル──女性っぽい響きの名前だ。「女の名前なのに、なんだ男か」と煽られた時に、そいつを殴ってしまわないか不安になってしまう。

 そうこうしているうちに、聞こえてくる言葉から簡単な単語を拾うことができるようになった。「私」「あなた」「ミシェル」「ハリオス」「ミュシャ」などといったぐあいだ。

 おそらくハリオスが父で、ミュシャが母の名前なのだろう。簡単な自己紹介なら今すぐにでもできてしまいそうだ。

 生まれた時に泣き叫ぶのではなく、「やあ! ハリオスとミュシャ、僕はミシェル・ウェバー。産んでくれてありがとう!」とでも言ってみようか。

 泣き叫ぶのは間違いなく母親の方になるし、ともすれば悪魔憑きだのなんだの言われて僕が殺されかねないから、そういうことはしないが。


 僕がこうやって高速でものを考えているのはなぜか。

 それは、僕の大きさ的にも、この母体が横になる回数的にも、僕が世界と触れ合うことになる時間が目前まで迫っているからだ。

 理屈はわからないが、僕がいるこの空間が規則的に収縮を始め、そして、周りを満たしている水が外に流れ出しつつある。


 すぐに全てが──僕の認知している全てが僕にのしかかってきて、僕は頭から外に飛び出した。

 そこは、異様に眩しくて、異様に寒くて、異様にうるさい世界だった。

 息ができない。当然だ。羊水が喉の奥から肺に至るまで詰まっているからだ。なぜかクソみたいな匂いもする。これについては本当に訳がわからない。僕はここで死ぬのかと自問自答する間もなく、僕は誰かに片足を持ち上げられて、思いっきり尻を引っ叩かれた。

 あまりの痛さに、僕は泣き叫ぶことしかできなかった。

 僕はさっきまで馬鹿みたいなことを考えていたことを、少し後悔し始めた。


 生きるということは、必死だ。それは必ず死ぬという文字通りに受け取ると自明だが、どうやらこの世界においては少々事情が異なるらしい。

 ひとしきり泣き叫んだ後、僕は眠ってしまったようで、それからしばらくして夜中に目が覚めた。ここでも特にすることがないので、僕はあたりを見回した。

 ぼやけた視界がだんだんとピントを結び、意味のある像を僕の脳に送り始める。

 僕が生まれた場所はおそらく自宅のどこかで、先ほどまでのクソみたいな匂いは鳴りをひそめ、今はわずかな酒精と果実の香りがあたりを支配している。


 暖炉の火はいつの間に消えてしまっているようだった。その暖炉の上の壁には、何か大仰な杖と優美な曲刀が飾ってある。

 僕は母の腕に抱かれている。何とか頭を動かして彼女の顔を見る。眠っているので目の色を伺うことはできないが、とんでもなく美しい、金髪の女性だ。

 よく見ると、右の頬に薄い傷跡のようなものが残っているのがわかる。


 今のところ、この世はクソだ。

 つまり、僕は男の身に生まれて、将来はあの准教授のような中年男性になることが宿命づけられているということ。

 もう一つは、なぜか胎児の身に意識が芽生えたこと。

 さらに、生まれた瞬間が最悪だったこと。

 三対ゼロでこの世はクソだ。ハットトリック、タイム・アップ。チーム「クソ」の勝ち。


 僕のくだらない思考を読み取ったのか、僕が頭を動かしていたせいで目を覚ましたのか。母ミュシャの瞼の裏から現れた、空の底のような青色の瞳を見て、僕はそれが後者であることを確信した。

 それは、息子が意味不明な思考をしていることを心配したり恐れたりする色ではなく、間違いなく慈愛に溢れた母親のものだったからだ。


「あら、どうしたの。ミシェル」

「ぶゎぁ」


 何かを言おうとしても、口から出てくるのは意味不明な声だけだ。だから、何かを言おうとする試みは初めて泣いた時に放り捨てた。「わからないものね……」とミュシャは呟きながら、片方の胸を露出させた。

 いや違う。腹が減っているわけではない。頭を振って拒否すると、ミュシャはさらに困ったような顔をして、部屋を見渡した。


「そう、暗いのね。暗いって怖いものね」

「だぁ」


 彼女は僕を抱えたまま立ち上がり、暖炉の前まで歩いた。そして注意深くしゃがんで、火かき棒で燃えさしをひとしきり掻き回したあと、暖炉脇に積まれていた大枝小枝を暖炉に放り込み、何かを唱えた。


 それは僕が知っている言葉ではなかった。言葉というよりも、そもそも言語が違うように思えた。

 バチ、という音とともに、何もないところから火花が走った。

 それは明らかに静電気の光だった。直後にツンとした匂いが鼻を刺したことからも、それは明らかに静電気なのだ。


 そして、暖炉に火が灯った。これは知らない現象だ。何もないところに、何もしないで火花が走るわけがない。

 僕の──というよりも、蒼井莉子の中にある「常識」がこの現象を否定しにかかった。しかし、すでに常識で計り知れないことなど飽きるほどに起こっている。そもそも転生などという現象がおかしいのだ。


「魔法よ。言葉を唱えると、世界が変わるの」

「わぁ……」


 魔法。魅力的な響きだ。

 それが起こったということは、それが実際に現象として存在しているということだ。曲がりなりにも物理を齧っていた記憶がある以上、知らない現象を見過ごすことはできない。


 魔法。これは「クソではない」に数えてもいいだろう。むしろ、そうでなければならない。知らない現象がそこにある以上、それは何らかの法則に支配されているに違いない。

 そういえば、まだ母の胎の中にいた頃、ぐぐもっていたはずの声が急にクリアになったのも、魔法によるものなのだろうか。

 僕は暖炉の火に向かって手を伸ばした。そこに神秘がある。その神秘に触れたい一心で。


 クソが三点、クソではないが一点。タイム・アップにはまだ早い。


 僕はくだらないことばかり考えて、事実を忘却してしまっていたようだ。結局のところ、この生は始まったばかりなのだから。

ネット小説らしくなって、帰ってきたじゃないか……

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