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12.February

「これから話すことは推測に過ぎない。だから、見当違いの可能性も大いにある。それでも――」

 彼女の姿を見つけるなり、俺は口を開いていた。話しながら彼女との距離を詰める。

「それでも、君に確認したいことがあるんだ」


「物事を考えるにあたってまずしなければならないのは、何を考えるかを決めることだ。すなわち、問題提起だ。今回の問題は、俺の認識と君の証言が食い違っていることだ。俺は君が俺とのデートを楽しんでいない、無理をしていると認識していた。対して君は楽しかったと言った。その場合は、どちらかが間違っていると考えるのが普通だ。だから俺は、君が嘘を吐いていると判断した。これについては許してほしい。だって、自分の認識を信じられなくなったら、一体何を信じればいいんだ?

 でも、君は言ったな。信じてほしいと。だから俺は一度だけ信じてみることにした。君の証言を、信じることにした。しかしそうするとどうだろう。認識と証言の齟齬をどうやって解消すればいいのか。俺は考えた。

 そのうちふと、この2つは必ずしも食い違っていないことに気づいた。君は楽しかったと言った。これは君の感情を直接表している。しかし、俺の認識はどうだろう。君の感情をどうやって判断したのか。すぐに気づいた。俺は君の笑顔を以って、感情の判断材料としていた。君が笑わなかったから、俺は楽しくないと認識したんだ。ならば、君が楽しくても笑わなければ、俺は君が楽しんでいると認識できなかった。それが認識と証言の齟齬なんじゃないか。でも、そんなことはありえるのだろうか。普通、楽しかったら笑うものじゃないのか。次の問題はそれだった。

 ここで俺は、ある仮定をした。君は笑わないのではなく、笑えないんじゃないか。何らかの原因で笑うことができなくなっているんじゃないか、とね」

 ここで俺は話を一旦区切って、彼女の様子を伺った。彼女の表情は変わらない。俺の考えが合っているのか間違っているのか、判断がつかない。俺は続けた。

「その場合、原因は2パターンに分けられる。精神的な原因か、身体的な原因かだ。精神的な原因とはつまりうつ病や何かのトラウマによって笑うことができないということだ。でも、この前君は感情を表に出した。それで判明した。君は、少なくとも声には感情を出そうと思えば出せるんだ。精神に問題があるならそんなことはできないと俺は思った。だから、それは否定された。

 では、身体的な問題とは何か。繰り返して言うと、俺は君が感情を表に出すのは経験した。でも、君が感情を表情として表現したことは見たことがないんだ。表情は、顔の筋肉によって作られる。そして筋肉を動かすには神経の指令が必要だ。すなわち、脳から顔の筋肉に至るまでのどこかに異常があれば、感情を表情としてアウトプットすることはできない。なら、そうなることはありえるのか。そうなるとしたらその病名は。俺は調べた。そして、見つけた」

 再び彼女を見る。相変わらず、じっと俺を見つめたままだ。でも、ここまで異論を挟まないということはもしかすると。

「百合花さん」

 俺は呼びかけた。結論を、突きつける。

「君は、顔面神経麻痺なんじゃないか?」


 きみはがんめんしんけいまひなんじゃないか。

 冗談のような言葉だった。まるで無表情な友人をからかって言うような台詞だった。

 それでも、俺も彼女も笑わなかった。黙ってお互いを見つめていた。

「……本当に、あてずっぽうですね」

 彼女が口を開く。俺は笑った。

「だから最初に言っただろう。ただの推測だ。それも、ずいぶん突飛な。呆れたか?」

「いえ、驚いてます」

 十分な間を空けて、彼女は言った。

「その、通りです」


 寒いですね、と彼女が言った。時候は2月。1年でもっとも気温の下がる時期。こんなときに公園にいる俺たちはどうかしていると思ったが、辺りに人がいない分都合がよかった。

「いくつか、補足することがあります」

 ベンチに並んで座ると、彼女が口を開いた。

「先輩がその結論にたどり着けたのは、先輩が顔面神経麻痺についての詳細を知らなかったからです。もしもっと詳しく知っていたなら、先輩はその説をも否定していたでしょう。顔面神経麻痺は普通片側だけに起こります。そして普段の顔をしているときにも表情筋はある程度の筋緊張を保っています。だから、顔面神経麻痺になると顔の半分だけが筋収縮できなくなり、特徴的な顔貌を呈します。また、顔面神経は目を閉じる眼輪筋や口を閉じる口輪筋も支配しているので、完全に麻痺すると目を閉じたり物を食べたりといった日常動作も困難になります」

 それを聞いて俺は困惑する。彼女の顔はどう見ても正常でむしろ美人だと思うし、彼女とは一緒にケーキや弁当を食べる機会が何度もあったにもかかわらず、俺が異常に気づくことはなかった。

「じゃあ、どういう……」

「程度がごく軽いんです。普段の表情を保つ程度には筋緊張を維持できて、日常生活にも支障をきたさないレベルの。でも、表情を作ると分かってしまうんです。私の顔がおかしいってことが」

 彼女は淡々と話す。でも、もしかしたらそれはしたくてしているのではないのかもしれない。本当はもっと感情豊かに喋りたいのかもしれない。

「発症したのはごく幼い時だそうです。私は物心ついたときには、私の表情が他人を不快にさせることに気づいていました。ほんの少し片方の口角が上がらない、目尻が下がらない、眉が寄らない。それでも、他人の目にはとても奇妙な顔に映るんです。だから、私はいつしか極力表情を変えないで生活するようになりました。

 先輩はさっき神経が麻痺したから表情を変えられないんだと言いましたね。それは違います。動かすことはできるんです。ただ私は、感情と表情を意識的に乖離させることができるようになったんです。楽しいけど笑わない。悲しいけど泣かない。腹立たしいけど怒らない。そういう生活を、ずっと送ってきました。確かに冷たいと言われることもありました。でも、顔をからかわれたり気味悪がれたりするよりは、よっぽどマシでした」

 彼女は何を思ったか俺を見やり、俺が気づいて視線を交わすと顔を背けた。

「先輩には言いませんでしたけど、実は私、以前に男の人と付き合ったことあるんです。2回ほど。

 1回目は小学6年生のときでした。相手は隣のクラスの男子でした。初めての恋愛に私は舞い上がりました。でも、それも2ヶ月足らずで終わりを迎えました。振られたんです。いわく、私がいつも無表情だからつまらないと。2回目は中学2年の春でした。今度は3年の先輩で、知らない人でした。一目惚れだったそうです。

 私はどうやら、パッと見は好印象をもたれる外見をしているようなんです。だから私のことをよく知らない人ほど、私のことを褒めてくれました。でも、それは所詮表面上です。そうやって近づいてきた人は皆、私が鉄仮面であることに気づくと去っていきました。たとえどんなに美しいものでも、興味を引かれるものでも、何も変わらなければ人はいずれ飽きます。美しい絵に描かれた人間よりも現実の人間を好む人が多いのは、それが変化するものだからだと私は思います。表情も同じなんです。

 だから今度は感情を示そうと思いました。表情にできないのならせめて声で表現しようと思いました。でも、今度はもっと短かった。1ヶ月くらいで私はその人に言われました。お前の顔は変だと。それで私は気づきました。やはり感情と表情は切り離せないものだと。

 楽しそうな声を出すには、楽しそうな表情をしなければいけないんです。そうなると私は駄目でした。楽しそうな声を出すために、奇妙な貌を晒すことになる。私はやめざるを得ませんでした。無感情な声に戻すほかありませんでした。程無くして私たちは別れました。そのときもまた、私が振られた形になりました。私は思い知りました。結局、私に人を楽しませることはできないのだと」

 先月のことを思い出す。彼女が初めて感情をあらわにしたときのことを。そうだ。確かにあの時、彼女は顔を見せてはくれなかった。感情を出すためには顔を隠さねばならず、顔を見せるには感情を消さなければならない。それは何とも歯がゆいことだっただろう。

「先輩に出会ったのはそれからすぐのことでしたね。先輩はいい人でした。私が事務的な対応しかできなくても、気分を害する素振りは見せませんでした。1年半も私と一緒にして、それでも好きだと言ってくれました。だから告白されたとき、この人ならって思ったんです。

 実際、先輩は恋人として申し分なかった。いつも笑顔でいてくれた。いつも私を楽しませてくれた。私はいつしか、本当に先輩が好きになっていました。それが10ヶ月も続いたんです。本当に、幸せだった。」

 彼女はずいぶん長続きしたと言っていた。出会ってから2年以上、付き合ってから10ヶ月。それは確かに、彼女の経験からすれば長いものだったのだろう。

 ようやく気づく。デートを提案するのは彼女からのほうが多かった。弁当も作ると言ってくれた。生徒会として俺を助けてくれた。彼女の雰囲気に似合わないその積極性は、感情の代わりだったのだ。表情で嬉しさを伝えられない分、それを積極的な行動で示そうとしていたのだ。

「だったら!」

 俺は思わず口にしていた。

「だったら、どうして言ってくれなかった? どうして君は感情を表に出せない病気だと俺に伝えてくれなかったんだ? 言ってくれれば俺は……」

 君と別れようなどとは、思わなかったのに。

 馬鹿馬鹿しい。言いながらも俺は気づいていた。分かりきったことじゃないか、そんなこと。彼女は顔を背ける。

「だって……それって、逃げじゃないですか」

 それで俺はすべてを悟った。

 彼女がそのことを俺に打ち明ければ、なるほど俺は納得するだろう。彼女の楽しいという言葉を信じ、彼女につき合わせているのではと悩むこともなかっただろう。でも、同時に、彼女を哀れだと思わないだろうか。憐憫の眼差しを向けたりはしなかっただろうか。彼女を障害者だと認識した途端、俺たちの関係は彼氏と彼女という関係から障害者と介護者という関係に変わる。それは最早対等なものではない。

 俺は恐れたはずだ。彼女が俺を好いてくれないことを。好意が一方的なものになることを。それと同じだ。一方が一方に与えるだけの関係を、彼女は是としなかった。対等な人間関係が崩れることは、彼女のプライドが許さなかったのだ。

「これで答え合わせは終わりです。納得していただけましたか?」

 彼女は淡々とそう言った。でも、俺がそこに残酷さを感じることはもうなかった。

「……ああ」

「じゃあ、さよならです」

 彼女は立ち上がった。

「待てよ!」

 思わず呼び止める。が、続く言葉が見つからない。

「これでいいのか……? この結末に君は満足しているのか?」

「満足はしていません。でも、納得するしかないんです。今まで本当に楽しかったです。ありがとうございました」

「そんな! そんな、もう終わったことのような言い方をするなよ!」

 俺は立ち上がった。彼女の背中に言葉をぶつける。

「終わってない! 俺たちの関係はまだ! もう別れる理由なんてないはずだろう!? なのにどうして!」

 分かりきったことだった。さっきも言ったじゃないか。俺は彼女のことを知ってしまった。知ってしまった以上、元の関係ではいられない。対等でない関係を続けていくよりは、他人になってしまったほうがいいと、彼女はそう言っているのだ。でも、だからといって!

「だって……君は苦しんでいるじゃないか!」

 夏休みのあの日、カズは言っていた。彼女のことを守ってやれと。

 彼女は俺の無理な要求を通すために、生徒会の中で無理に動き回った。その結果として、彼女の人間関係に大きな影響を与えることはなかった。当時の俺はそう判断した。

 でも、違うのだ。それは彼女が、俺以外の人の前では普通に笑っているという仮定の下の話だった。

 表情は、人間の大切なコミュニケーションの手段だ。笑顔を形作れるのは人間だけだという話も聞く。だからこそ、それを持たない人間が受ける不利益は並大抵のものではない。笑顔を見せないだけで、人間関係でどれだけの損をするか。どれだけの誤解を生むか。俺はもう分かっているはずだ。ただでさえ彼女は不利だったというのに、俺はさらに無理をさせてしまった。先輩方の不興を買うようなことをさせてしまった。今彼女が生徒会でどのような状況にあるのか、彼女の証言を信用することはできない。その責任は、俺が取らなくてはいけないはずだ。

「もういいんです、先輩」

 先月、俺が彼女に言ったように、彼女は俺に言う。

「先輩の優しさが嬉しかった。でも、それに甘えるわけにはいかないんです。先輩に頼るわけにはいかない。迷惑をかけ続けるわけにはいかない」

「そんなことない!」

「……何に対して、ですか?」

「君は、俺を助けてくれた」

「生徒総会のことですか? あんなの、全然大したことじゃないです。そんなことで――」

「それだけじゃない!」

 苦いものがこみ上げる。思い出したくもなかった。でも、今言わなければならなかった。

「俺、中学のころ、不登校児だったんだ」


 発端が何だったのか、よく憶えていない。でもどうせ、大したことではなかったのだろう。きっかけなんて、多くの場合えてして瑣末なものだ。そう、尾崎が教頭の息子だというだけで根も葉もない噂を流されたように。

 1年生のときは何の問題もなかった。俺は楽しく中学生活を送っていた。2年に上がってクラス替えがあっても、俺は良好な人間関係を築いた。そのはずだった。

 2年の冬からだった。俺を取り巻く環境が一変したのは。

 言葉や行為として表に出ることはなかった。でも、明らかな悪意が、そこにあった。遊びに誘われることがなくなった。一緒に弁当を食べる相手もいなくなった。そもそも話しかけられることすらなかった。

 敢えて言うなら「無視」という名のいじめになるのだろう。学校での居場所を見失った俺は、次第に家にこもるようになった。俺は自信をなくした。己の価値が、存在意義が、分からなくなった。

 一方で悔しくもあった。奴らを見返してやりたいと思った。俺は勉強だけは独学で続けていた。

 しかし、1人で勉強をするにも限度があった。見かねた両親が3年の夏休み、俺を塾の夏期講習に連れて行った。家からさほど遠くない、同じ中学の生徒も大勢通う場所ではあったけれど、知っている奴はほとんどいなかった。人間関係がリセットされたその場所は、とても心地よかった。新しい友人も何人かできた。

 共に学び、共に笑い。日常のどうもいい話題に花を咲かせ。現実なんてこんなもんさと知ったような口を利き。俺が俺であることを感じられた。俺の居場所を、ここに見つけたと思った。

 その中に、カズや彼女がいた。

「君である必要はなかったなんて言わせない! だって、現に俺は今、君のことが好きなんだから!」

 初めて会ったとき、綺麗な子だと思った。それがきっかけだった。

 無表情なのが奥ゆかしかった。笑顔を見たいと思った。

 そして何より、彼女は聡明で優しかった。

 彼女に出会えたことが嬉しかった。

 彼女と話ができるのが嬉しかった。

 彼女を好きになれたのが嬉しかった。

 彼女と付き合えるようになったのが嬉しかった。

 この世界にいられて良かったと思った。

 俺はこの世界を見捨てずに済んだ。

「一方通行なんかじゃない! 君が俺に頼るというのなら、俺も君に頼る! 君が俺に迷惑をかけるというのなら、俺も君に迷惑をかける! それでいいじゃないか! お互い様だ!

 だから! 俺が君のことを好きであるのと同じように、君に俺を好きであってほしい! 俺が君のことを想うのと同じくらい、君も俺のことを想っていてほしい! 俺が幸せであるのと同じくらい、君にも幸せでいてほしい! 俺は、君が好きだ!」

 後から彼女を抱きしめる。きつく、きつく抱きしめる。

 震える声で、彼女が言った。

「……私も……先輩のことが、好き、です」

「俺も君のことが好きだ。お互い様だ」

 彼女が振り返る。いつもの顔だった。今の俺には分かる。口こそ弧を描いてはいないが、これが彼女の笑顔なんだと。


 しんしんと雪が降っていた。凍えそうな気温だったが、それを苦に感じることはなかった。

 その中で。

 俺たちは、初めて、キスをしたのだ。

水を差すかもしれませんが一応注釈を。

今回出てきた顔面神経麻痺ですが、はっきりいって架空の病気と思ってもらったほうがいいかもしれません。

顔面神経麻痺という病気は確かにありますが、彼女のような状態になった例を自分は知りませんので。あくまで小説上の症状です。

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