11.January
8月3日、第1話を改稿しました。
設定も若干変わっていますので、随分前に読んだという方は確認してください。
「10ヶ月……」
彼女はそう呟いた。むこうを向いているので顔は見えないが、声の調子からすると今も表情は変わっていないのだろう。
「結構、長続きしましたね」
そうだろうか。こういうものの基準というものを知らないから、俺たちの付き合いが長かったのか短かったのか、俺には分からない。でも、もしかしたら大人になって俺たちは結婚するんじゃないかと僅かにでも思っていた俺は、夢を見すぎだったのだろうか。
冬休みが明けた翌週の土曜日、デートで訪れた公園で、俺は別れ話を切り出した。彼女は10ヶ月前に俺が告白したときと同じく、淡々と対応した。嫌な顔をすることもなく、泣くこともなく、怒ることもなく。ただただ、頷くだけだった。
「……理由は、訊かないのか?」
後ろめたさがあった。未練もあった。だから俺はそう尋ねた。もしかしたら、俺は彼女に怒ってほしかったのかもしれない。泣いてほしかったのかもしれない。感情を爆発させてほしかったのかもしれない。俺のわがままだってことは分かっているから。俺が悪いんだってことは分かっているから。
「大体、想像はつきますから」
彼女はいつもの声でそう答えた。俺の好きな、凛とした声。
「……悪いな」
そう言うしかなかった。
雪が、降り出していた。
放課後の社会科講義室。
携帯電話が鳴った。画面にはカズと表示されている。通話ボタンを押した途端、怒号が鳴り響いた。
「死ね! 100万回死ね! 豆腐の角に頭をぶつけて死ね!」
ハンズフリーかという音量に、近くにいた仲本がびくりと反応する。俺は溜息をつき、声が止むのを待って携帯を耳に当てた。
「何だよ、いきなり」
「何だよじゃないでしょ! あんた百合花チャンを振ったって本当!? ふざけてんの!?」
一体どこからその情報を仕入れてきたのやら。
「ふざけてなんかいない。真面目に考えた末の結論だ」
「それがふざけてるって言ってんの! あんた何様!? 納得のいく説明をしなさい!」
「うるせーな。お前に説明する義理は無い」
「黙れボケカス! 電話で駄目なら直接訊くからね! ちょっと中庭まで来い!」
言いたいことを言って電話は切れた。もう一度溜息。これで行かないと後々もっと厄介なことになりそうだ。俺は腰を上げる。
「すまん仲本、ちょっと用事が出来たから先に帰るわ。鍵閉めておいて」
しかし返事は聞こえてこない。不審に思って仲本のほうを向くと、なんとも奇妙な顔をしていた。
「……彼女さんと別れたの?」
ああ、聞こえてたよな。
「まあな」
「どうして……」
「別に。よくあることだろ、付き合う奴がいれば別れる奴もいるさ」
仲本は俯く。こいつも何やら心配しているらしい。
「……私の、せい、かな」
「そんなわけないだろ」
「だって! 私が……!」
口をつぐんでしまう。どうやら榊のことを言いたいらしい。確かに、それも理由の1つではある。でも、それは俺に事実を突きつけたに過ぎない。俺が彼女と分かれる理由は、もっと根本的なところにあった。
「おかしいよ……だって、榎本君、去年はもっと仲良さそうだったじゃない。一緒にお弁当食べて、土日にどこそこにデートに行って。そんな話を、楽しそうにしてくれてたじゃない」
そうだっただろうか。どうも俺はのろけ話をしていたらしい。次回からは気をつけよう。
「考え直す気は……無いの?」
「どうして。俺はもう決めたんだ。結論は出た。納得してるよ」
「嘘!」
「どうして」
「だって……榎本君、すごい悲しそうな顔してる」
……そうだろうか?
彼女と別れる理由は、別に複雑な事情ではなかった。ただ単に、俺は彼女に相応しくないと思ったからだ。俺が彼女の彼氏でいる資格はない、そう判断した結果だった。
彼女は付き合ってからというもの、いや、出会ってから一度も、笑顔を見せてはくれなかった。
彼女はいつも言っていた。「楽しいです」。「嬉しいです」。でも、本当にそうだろうか? 俺に気を使って、嘘をついていたのではなかろうか。だって普通なら、楽しかったら、嬉しかったら、自然と笑みがこぼれるものじゃないのか?
俺はそのことに気づかない振りをしていた。無意識のうちに考えないようにしていた。俺は彼女を幸せにしてあげられているんだと、自分に言い聞かせていた。榊の言葉は、そんな俺を現実に引き戻した。
榊は言っていた。彼女が笑っているのを見たことが無いと。俺が彼女を笑わせようと無理をしているように見えたと。その通りだった。俺は無理をしていた。彼女の笑顔を自分の物にしたくて交際を申し込んだのに、彼女は一向に笑ってくれなくて。
彼女に笑ってもらおうと面白い話題を探した。おどけて見せた。冗談を言ったりもした。でも、客観的に見れば、それは明らかにおかしな光景だったのだ。俺ばかりが笑い、彼女は無表情でそれを聞き流す。そんな関係があっていいものだろうか。おかしいんだ。俺たちは変なんだ。だったら、何がおかしいんだ?
答えは分かりきっていた。俺が釣り合わないんだ。彼女を笑顔にできるだけの力が、俺には無かったんだ。
彼女を笑顔にしようという俺の目的は、達成されることはなかった。俺の力不足で。それでも、彼女は俺に尽くしてくれた。告白を受け入れてくれて、デートに誘ってくれて、弁当を作ってくれて、一緒に下校して。恋人としての役割を、十分に果たしてくれた。でも、俺はそれに応えることができなかったんだ。彼女を幸せにできなかったんだ。それどころか俺は彼女を利用してしまった。彼女は生徒会に干渉して、社会科講義室を守ってくれたのに。俺と彼女と力を合わせて守った部室だったのに。それも無意味となった。社会科講義室は尾崎の問題の解決と共にその必要性を失い、来年度は別の部活に使用されることになるだろう。全て無駄だった。彼女の努力は、すべからく報われることはなかったのだ。俺のせいで。俺のわがままに、彼女はずっと振り回されてきた。だから、もういいだろ。彼女を解放してやれよ。彼女を笑顔にできる、俺なんかよりもっといい男が、きっといるさ。あとはそいつに託そう。彼女の幸せを本当に願うなら。
「ふざけんな」
一蹴された。俺の数日にも及んで悩んだ挙句の苦渋の決断を、カズは一言の下に付した。
「ああそうかい、それでえのっちは満足だろうよ。自己満足に浸っていればいい。美しい自己犠牲に耽溺していればいいさ。でもね、百合花ちゃんはどうなのさ。あんたの勝手な主張に振り回されて、可哀想だと思わないの!?」
「思ってるさ。申し訳ないと思ってる。だからこそ、この状態を続けないために、さっさと別れることにしたんじゃないか」
「違う! あんたは何も分かっちゃいない!」
びしりと俺に人差し指を突きつける。カズの声が反響する。
「自分のことしか考えてない。百合花ちゃんがどう思うかなんて、全然考えてないでしょ! 百合花ちゃんがあんたのせいでどれだけ傷ついてると思ってるの!?」
「彼女の気持ちは分かってる。俺には彼女を幸せにはできなかった」
「そんなことない! あんたは百合花ちゃんの気持ちなんてこれっぽっちも分かってないでしょ!」
「分かるさ! これでも1年近く付き合ってきたんだ! 彼女は一度も笑ってくれなかった。それが何よりの証拠だ」
「それは……百合花ちゃんが……ッ!」
珍しくカズが言葉につまる。その期を逃さず俺は話を終わらせにかかった。もうたくさんだ、何もかも。
「とにかく、俺は彼女と別れる。もう決めたことだ。今更撤回するつもりは無い。彼女も承諾した。第三者のお前が口を挟む余地は無い」
踵を返そうとしたその時。
「……ふざけんな……」
地獄から立ち上るような低い怒りに満ちた声。それがカズの声だと気づくのに、俺は数瞬を要した。
「ふざけんなよ! あんたに百合花ちゃんの何が分かるっていうんだ! 失望したよ! 前々から頼りがいの無い男だとは思っていたけど、それでも百合花ちゃんのことはちゃんと考えてくれていると思っていたのに! ここまでクズで腑抜けで鈍感で意気地なしで最低な人間だとは思わなかった! 何が彼女も承諾しただ! 百合花ちゃんはあんたのために身を引いたんだよ! そんなことも分からないっての!? 調子に乗ってるんじゃねえよ! 私はね、あんたなんかよりずっと百合花ちゃんのこと知ってるんだよ! あんたに振られた日、百合花ちゃんね、私に電話かけてきたんだよ? 電話の向こうで彼女、泣いてたよ。私言ったよね? 百合花ちゃんのこと泣かせたら許さないって。ふざけんじゃねえよ! 男なら、付き合った彼女の一人くらい、幸せにしてみせろよ!」
怒鳴る。怒鳴る。怒鳴る。
何事かと校舎から窓を開けてこちらを覗くのが数名。だがカズは一向に気にする気配を見せない。感情をそのまま俺に向けて叩きつける。そんなカズを俺は見たことがなかった。
だが、待て。今カズは、おかしなことを言ってはいなかったか?
「何で……彼女がお前の電話番号を知ってるんだ……?」
俺の認識では、彼女とカズの間に繋がりは無かったはずなのに。
「はあ!? そんなの私が教えたに決まってるじゃない! 何!? あんた、私と百合花ちゃんは赤の他人だと思ってたわけ!? だったら何で私があんたと百合花ちゃんが付き合い始めたことを知ってたのよ! 百合花ちゃんが生徒会にいるってことを! あんたが尾崎君のために部室を維持しようとしたことを! 百合花ちゃんがあんたのために生徒総会で暗躍したことを! どうして百合花ちゃんがあんたに振られたことを知ってるっていうのよ! 傲慢も大概にしろよ! 自分が知ってることが全てだと思うな! 私はね、あんたが百合花ちゃんに会う前から百合花ちゃんのこと知ってたんだから!」
突然明かされる事実に俺は面食らう。
確かに、考えてみれば分かることだった。あの塾には2つの中学の生徒が通っていた。彼女もカズも俺とは違う中学。ということは、彼女とカズは同じ中学だということだ。そしてカズは中学の頃生徒会に所属していた。彼女も、今は生徒会に所属している。なら、中学の時もやっていた可能性は高いのではないか。その2人の間に絶対につながりが無いなんて、どうして言えようか。
でも、ということは。
「お前は……俺と彼女が何をしたかって、逐一知ってたわけか」
「そうだよ。それが?」
「ふざけてんのはお前だろ!?」
俺も負けじと声を張り上げる。
「ああ、確かにお前は楽しいだろうよ! 情報を集めて、人を動かすのが得意だっていうのは認めるよ。でもな、観察される側の気持ちを考えたことがあるか!? 動かされる身になったことがあるか!? はっきり言ってな、気持ち悪いんだよ! 見透かされているような気がして、お前の掌で躍っているような気がして! もううんざりだ! 俺は俺だ! 俺の行動は自分で決める! これ以上俺に関わるなよ!」
そう言った瞬間、カズの顔から血の気が失せた。瞳孔が開く。俯く。へたりと座り込む。唇を震わせる。
「そんな……私は……」
先ほどとは打って変わった、今にも途切れそうな声だった。
「私はただ……2人に幸せになってもらいたかっただけなのに……」
その場を立ち去る俺の耳に、それだけが聞こえた。それが、いつまでもいつまでも、俺の耳から離れなかった。
彼女から電話がかかってきたのは、その翌週だった。曰く、2人で話がしたいという。
もう嫌だった。いい加減終わりにしたかった。俺は、これを最後にするつもりで、彼女と待ち合わせをした。場所は、俺が彼女に別れを切り出した、あの公園だった。
「カズと2人で相談するのは楽しかっただろうな。今度はどんな策を練ってきたんだ?」
出会い頭に俺は精一杯の嫌味を込めてそう言った。
彼女に嫌われたかった。俺のことを何とも思わないのであれば、せめて嫌いになって欲しかった。そうすれば今後こそ本当に別れられる。例え後味が苦いものになるとしても。
でも、彼女は全く動じる素振りを見せなかった。いつものように。それが酷く腹立たしい。
「吉沢先輩との間柄を隠していたのは、すみませんでした」
そう言って頭を下げる。そんなことは最早どうだっていいのに。
「でも、どうやら誤解があるようなので、言っておきたいことがあるんです」
「誤解?」
「はい」
俺との距離を1歩詰める。
「他のことは何と思われても構いません。でも、これだけは」
一拍置いて。
「私は、先輩のことが好きです」
「……情けは要らない」
「本当です。本当に、私は、先輩が、好きなんです!」
彼女はそう叫んだ。
叫んだのだ。
「……え?」
叫ぶとは、感情をむき出しにすることを意味する。今まで何の感情も表に出さなかった彼女が、声に感情を込めたのだ。驚いた俺が彼女の顔を見ると、何を思ったか彼女はくるりと回って俺に背を向けた。
「何を言われても仕方ないと思います。私は先輩にそれだけのことをしてきました。でも、それでも! これだけは本当です。私は、先輩が好きです!」
震える声で、精一杯の声で、彼女はそう言った。今までに聞いたことの無い、感情のこもった声。皮肉なものだ。それを聞きたくて付き合ったのに、別れるときになって初めて聞くとはな。
「別れたくない! 本当なら、別れたくないんです。私は、ずっと先輩と一緒にいたかった!」
「だったら、どうして――」
「先輩は、私のこと、嫌いですか?」
「そんなはずはない」
「だったら!」
彼女は叫ぶ。ありったけの感情を乗せて。必死さが伝わってくる。前から彼女はこういう人だったと錯覚しそうになる。
「だったら、何も問題は無いはずじゃないですか。このままで、いいじゃないですか!」
このままで、いい?
俺は彼女と付き合い続けていいのか?
甘美な誘惑に、俺は釣られてしまいそうになる。だが、寸でのところで踏みとどまる。違う。それは、彼女のためにならない。
「もういいよ」
優しく、俺は言った。
「もういい。俺を庇う必要なんか無い。本当のことを言ってほしい。君は……俺のことなんか、何とも思っちゃいないんだろ?」
「そんなことありません! 私、本気です!」
「だって! 君は1度も笑ってくれなかったじゃないか!」
「……」
彼女は答えない。その背中から、俺は肩に手をかける。
「本当だというのなら、俺の顔を見て言ってくれ」
「……分かりました」
しかし彼女は振り向かない。その体勢のまま、10秒、20秒。いい加減彼女の前に回り込もうと思ったとき、彼女はやっと振り向いた。
しかし、その顔に表情は無かった。
「好きです、先輩」
その声にも、感情は無かった。以前の彼女の、淡々とした、事務的な声だった。
「……ゲームセットだ」
俺は吐き捨てる。所詮は偽りだ。何のつもりか知らないが、彼女は俺を騙そうとしている。
「先輩……」
「もうやめてくれ。これ以上続けると、本当に君を嫌いになってしまいそうだ」
……でも、その方がいいのかもしれない。
俺は彼女のことが好きだ。本当なら、ずっと付き合っていたい。でも、彼女は俺のことが好きじゃないんだ。ただ俺に付き合ってくれているだけだ。
それが一方的な好意に過ぎないのであれば。
そんなもの、いっそ無くなってしまった方がいいのかもしれない。
「さよならだ。君に出会えてよかった。楽しかったよ。ありがとう」
別れを告げる。今度こそ、終わりにしよう。
しかし背を向けて歩き出した俺の背中に、彼女はまたも言葉をぶつけた。
「楽しかった!」
感情をむき出しにした、あの声。
「信じてください! 私も、楽しかった!」
振り返ることは無かった。
どうしてだろう。
俺は納得して答えを出したはずなのに。
カズは俺と彼女に幸せになってほしかったと言った。
彼女は俺のことを好きだと言った。
どうして。
どうしてこんなにも惑わされるんだろう。
彼女らは一体俺をどうしたいのだろう。
分からなかった。
分からなかった。
本当に、分からない。
俺は、どうしたいんだろう。
ベッドに突っ伏していた俺の耳が、携帯の着信音を聞きつけた。メールだった。仲本からだ。
そこには、たった一文、こう記してあった。
『彼女さんのことを信じてあげてください』
……
……
……ははは。
どうしたらいいのか?
そんなこと、俺に分かるわけがない。
でも、どうしたい、だったら。
俺がどうしたいのかは。
もう分かってるはずだろう?
『Seeing is Believing』。
体験は、何にも勝る証拠となる。
でも、おれはその薄っぺらな情報に惑わされてはいないか?
彼女を信じたいんだろう?
だったら、信じてみろよ。
俺の表面上の経験よりも、彼女の言葉を信じてみろよ。
もとより、もう俺に失うものなんて無いんだから。
今までの記憶を呼び覚ます。授業で習ったことを、今までの経験を、そしてカズと彼女の言葉を。足りない情報を、パソコンで調べる。
そして俺は、1つの結論を得た。
彼女にメールを出す。
『来週の土曜日、この前と同じ場所で待つ』
彼女を信じるなら。
可能性は、これしかない。