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10.December

「……誰だ?」

 放課後、部室に入って早々、俺はそう言った。本棚の前に、見知らぬ人影があったのだ。

「す、すみません! ちょっと用事があって……」

 その相手はあたふたと手にしていた本を本棚に戻す。男だった。靴紐の色からして、1年生だ。どことなく自信無さげな、でも利発そうな少年だった。

「もしかして入部希望者?」

 僅かな期待を込めて、俺は訊いた。しかし少年は気まずそうに俯く。

「いえ、そういうわけでは……」

「……なんだ、違うのか」

「すみません、勝手に部室に入ったりして」

「……まあ構わないが、部の持ち物を勝手に触るのは感心しないな。部員の誰かから許可は取ったのか?」

 そう尋ねると、少年は一拍おいて意外な言葉を口にした。

「えと、はい、吉沢一穂先輩から」

「……は? カズ?」

 俺は面食らう。この少年はカズの手先だというのか? 何の目的で?

 そこで俺は思い出す。カズが依然、俺にこの部屋を明け渡させるために別の方法を考えると言っていたのを。これが、作戦なのか……?

「……あの野郎、また勝手なことを……」

「あ、えと、すみません、ダメでした?」

 申し訳なさそうに訊いてくる。おどおどとした態度が妙に癇に障るが、同時に可哀想にもなってくる。どうせ彼もまたカズに使われているだけなのだ。この少年に罪は無い。まあいいさ、何をするのか、お手並み拝見といこうじゃないか。

「……いや、まあ、いいさ。あいつと知り合いなら、まあ」

 そう言うと、彼はホッとしたようだった。俺が手近な椅子に腰掛けると、彼も俺の前に来て座る。

「それで、文芸部部長の榎本先輩に用があってきたんですけど……あなたですか?」

「ああ、そうだ。俺がここの部長だ。ん? なんか用事でもあったのか?」

「あ、はい、ちょっと訊きたいことが……」

「訊きたいこと? まあ、どうぞ」

「実は、」

 彼はそこでいったん言葉を区切り、数瞬の後、思い切ったように吐き出した。

「文芸部がここを部室として使っている理由についてなんですが」


「……またその話か……」

 俺は呆れたようにそう呟いていた。

 これでもう疑いの余地は無い。彼は、この部屋を取り上げるためにカズが送り込んできたのだ。だが、随分と直球だ。いや、後輩を使うという回りくどい手ではあるが、しかし。

「あ、すみません。話しにくいことだったりしますか?」

「あ、いや、いいんだ」

 俺は薄く笑う。それが自嘲か、空元気かは分からない。

「やったのは俺だからな。予想はできたことなんだ」

 そう。尾崎の居場所を守ると決めたときから、カズから宣戦布告を受けたときから。こうなることは分かっていた。俺が何とかしなければいけないんだ。

 そして俺は話し始めた。以前は大勢の部員がいたこと。この部屋は文芸部の部屋として正当な理由があったこと。俺が部長になったとき、1年が入ることを願って部室の変更をしなかったこと。それらをごく簡潔に。尾崎の話はしなかった。言うべきではないし、言う必要も無いと判断した。

「――結果は知っての通りだ。入ってきた1年は……実質1人だな。……時代の流れってヤツなのかね……」

 俺はそう締めくくる。

 馬越が来なくなり、榊が退部し、尾崎1人が残された。榊の退部についても、とやかく言う人はいなかった。もう3年生はほとんど来ないし、事情を察しているらしい仲本も「そっか」と言うだけだった。尾崎は驚いていたようだったが、追求するようなことはなかった。

 3年が卒業すれば、文芸部は実質たった3人になる。俺と仲本と尾崎。それだけだ。それだけで、一体どうなるのだろう。

「……この部屋は、これからも使い続けるつもりですか?」

 彼はそう尋ねる。

「来年はどうするか?」

「はい」

「……さあね。あいつに任せるよ」

 嘘だった。変えないつもりなのは、既に決めてあることなのだ。それはカズも知っているはずだ。尾崎がこの学校にいる間は、この部屋を尾崎のために残してやりたい。そのために俺は生徒総会を戦い、今もこうして間接的にカズと対峙している。

 でも、それでいいのか? ふと、そんな思いが頭をよぎる。尾崎が心を許せる場所を守る。それは立派なことだ。だが、それはえらく消極的ではないか。根本的な解決策にはなっていない。それで俺は尾崎を助けることになっているのだろうか。

「逃げなのかもしれないけど……でも……」

「え?」

「……いや、こっちの話」

 そうだ。何を言ってるんだ。俺にできることはこれくらいしかないって、分かっているじゃないか。

 反抗期の頃、俺は親の言葉に対して、いつも思っていた。大人のくせに、子どもの気持ちなんて判らないくせに、知ったような口を利くなと。今も同じだ。俺は2年で尾崎は1年。たった1歳の差だけれど、学年の違いは大きい。俺が何を言ったところで、1年生の目には尾崎が先輩に庇われているようにしか見えない。それじゃあ駄目なんだ。対等な関係の人間にしか、積極的な解決は出来ない。尾崎に向けられる目を変えることはできない。俺にできることは、これくらいしかないんだ。

 言い訳のように、俺は付け足した。

「来年も駄目だったら、変えざるをえないだろうけどな」


「ありがとうございます、大体分かりました」

 そう言って少年は深々と頭を下げた。俺は拍子抜けした。てっきり、何か反発を受けるかと思っていたからだ。

「用はそれだけか?」

 俺がそう問うと、彼は僅かに眉をひそめた。

「そのつもりだったんですが……少し気になることが」

「気になること?」

「この本なんですけど」

 彼は本を取り出す。見ると、それは尾崎の棚にある本だった。さっき取り出してずっと持っていたらしい。

「この本が入っている棚の本は、全部尾崎君のものですか?」

 意図を掴みかねる。

「そこの棚? ああ、あいつの持ち物だ」

「さっきいくつか軽く読ませてもらいました。勘違いだったら悪いんですけど、みんな同じ傾向の本じゃないですか? いや、ジャンルは色々なんですけど、ストーリーの流れというか」

 俺は驚いた。確かに、尾崎の持ってくる本には共通点があった。一見しては気づかない。作者も国内外問わず、ジャンルも怪奇小説からファンタジー、青春物語と幅広い。だが、ストーリーの軸、もしくはその結末は同じだった。

 家族の絆を扱った物語。そして最後はみんな仲良くハッピーエンド。それに気づいたとき、俺は笑ったものだ。よくもこれだけ集めてこれたと。

 しかし、彼は文芸部員ではない。ここの本など、ほとんど読んでいないはずだ。いくつか軽く読んだとは言ったが、尾崎の本は数十に上る。とても短時間で読みきれたものではない。ということは、ここにあるほとんどの本を、彼は読んだことがあるということだ。

「……ハハハ、確かに。偏ってるよな。それが分かるってことは、結構君も……」

 読書家ということだ。それも、かなりの。

「どうだ? ウチに入らないか?」

 冗談交じりにそう言ったが、彼は狼狽した。

「あ、えと、その、僕は……」

「……いや、無理にとは言わないさ。悪かった」

 確かに部員が少なくて困ってはいるが、無理矢理引き込むわけにもいくまい。それに、恐らく彼はカズの後輩、ということは生物部なのだろう。兼部するとなると彼も大変だし、何より俺も面倒なことになるだろう。

「……それで、この本なんですけど」

 再び彼はそう言うと、終盤のページを広げて見せた。

「……え? それがどうかしたか?」

「ところどころ、皺が寄ってますよね。円形に。これって、濡れた跡ですよね?」

 見ると、確かにページの上のほうに、水を一滴垂らして乾かしたように丸い皺がある。彼はページを繰る。他の紙にも、それは散見された。

「……ああ、確かに濡れた跡だ。よく気付いたな、こんなもの」

 俺がそう答えると、彼は俯いて唇を噛んだ。寂しそうな表情をしていた。親友がひた隠しにしてきた秘密を何かの偶然で知ってしまったときのような、申し訳なさそうな表情だった。

「……どうか、したのか?」

 声をかけるとはっとしたように顔を上げ、慌てて本を閉じる。

「すみません、用は済みました。ありがとうございました」

 そう言って立ち上がった。


「あ、すみません、最後にやっぱりもう1つだけ」

 扉に手をかけようとして、彼は振り返った。なんとも言葉に一貫性の無いやつだ。

「先輩は尾崎君の噂、知ってますか?」

「……ああ」

 馬鹿馬鹿しい話だ。尾崎は父親の権力を行使できるから、歯向かうとろくなことにならないという。

「正気を疑うね。そんなのを広めるやつも、信じるやつも」

 俺はそう言って笑った。だが彼はさらに口を開く。

「尾崎君が部室をここにしたという話もですか?」

「え?」

「尾崎君が部長に決まったのも、尾崎君がそうなるように仕向けたとのことでしたが」

「はあ!?」

 俺は驚いた。驚きのあまり、否定する言葉すら出ない。だってそうだろう? あまりにも馬鹿げている。それじゃあまるで独裁者だ。そんなことを信じるやつが、本当にこの学校にいるというのか? しかし、もしそうだというのなら……

「でも、それはデマでしたね。ここは元々文芸部の部室だったし、尾崎君が部長になったのは1年生が1人だったから必然だった。それだけのことですね」

 彼はそう言って笑って見せた。だが、俺は言葉を返せなかった。

 その解釈には若干間違いがある。俺が尾崎を部長に選んだとき、榊はまだ部に在籍していた。だから尾崎が部長になったのは必然ではないのだ。それは俺が決めたことだ。部室だって、俺がわがままを言ってそのままにしてもらったことだった。それらが、俺のとった行動が、尾崎を苦しめていたなんて。

 俺は呆然とした。彼は逃げるように去っていった。

「……どうしたの、榎本君」

 入れ替わりに仲本が入ってきた。尾崎の姿は無い。恐らく、生徒会の仕事があるのだろう。あの少年も、それを見越して今日ここに来たのかもしれない。

「なんか、色々と知ってるみたいだったね、さっきのコ」

「そうだな」

 外で立ち聞きしていたのだろう仲本の言葉に、俺は短く答えた。

 本にあった丸い皺。濡れた跡。あれの正体。スポイトで水を垂らしたなんてわけはない。外にいて雨に降られたのでなければ、答えは1つ。

 尾崎は、本を読みながら泣いていたのだ。

 理不尽な噂。それを信じる同級生。偏見の目。それらに耐えて、尾崎は頑張っていた。できれば学校なんか、来たくなかっただろう。この社会科講義室は、その学校という差別の場で、尾崎が本来の自分でいられる唯一の場所だったのだ。

 ふと、あの少年なら、尾崎を救えるかもしれないと思った。噂を知り、その真相を知り、本当の尾崎を知った彼なら。同じ1年生である彼なら。尾崎を積極的に助けることができるんじゃないか。


 1週間後のことだった。尾崎が遠慮がちに俺に話しかけてきた。

「先輩、あの……この部屋のことなんですけど」

「ああ、何だ?」

 何の構えなしに聞いた。だから。

「来年度、別の所にしましょう、部室」

 尾崎の言葉の意味を、しばらく理解できずにいた。

「……どうして……」

「もう俺は、大丈夫ですから」

 尾崎ははにかむ。

「前々から思ってはいたんです。このままでいいのかって。でも、先輩が頑張って俺のためにこの部屋を守ってくれたのに、みすみす明け渡すなんて出来なくて……」

 ハッとした。8月の榊との会話が思い出される。

 生徒総会で、文芸部の仲間達は俺の味方をしてくれた。榊も言っていたじゃないか。友達にまで助力を頼んだと。そして、入船先輩がそれを先導していたということも。仮に俺が皆からの尊敬と信頼を集める人間だったとしても、そんなことができるだろうか? それは予め俺が社会科講義室を死守するつもりであることを知っていたから起こせる行動だ。勝ち目が薄く、失敗すれば大きな問題になる。学校に慣れていない後輩ならともかく、先輩がそれに加担しようとするだろうか? 俺がその気だったから? それだけじゃあ理由には足りない。俺が何故そんなことをしているのかを知らなくてはならない。

 そして、11月の榊の言葉。

『いつだってそうです。先輩は、何だって許してしまう。妙に優しくて、変なところで生真面目で。尾崎君のことだって、入船先輩のことだって、今の私のことだって』

 尾崎のこと? 俺が、尾崎を許した? いつ?

 1つしかないじゃないか。尾崎のために俺が生徒総会で戦ったことだ。それを、榊は知っていた。俺の行動理由を、知っていたんだ。なら、同学年の尾崎がどうしてそのことを知らないと言える? 尾崎もまた知っていたんだ。だからこそ、一層この部屋に固執せざるを得なかった。俺の努力を無駄にしまいと。

 俺は尾崎を助けるつもりで、よりこの部屋に縛り付けてしまったのかもしれない。だったら……俺のしたことは、間違っていたのだろうか。

「何が、大丈夫なんだ」

 俺はやっとのことで尋ねた。それに対して尾崎が悲しそうに笑ったと見えたのは、俺の主観だっただろうか。

「先輩は、知ってますよね、俺に関する噂」

「……多分な。根も葉もないデタラメだろう」

「はい、出鱈目です。それどころか、現実とは真逆です」

「逆?」

「俺、父親とはもう何年も話してませんでした」

 さらりと言われる。その意味を飲み込むのに、俺は少々時間を要した。

 この学校の教頭である尾崎の父親。彼に対して、息子が無理を言って自分の要求を通した。それは噂に過ぎなかった。しかし、実のところは家庭ですら一切の会話が無かったという。

 俺は驚いた。が、考えてみれば推測の余地があったことでは無いだろうか。

 あの少年が気にしていたことだ。尾崎の持ってくる本は、皆親子の幸せにまつわる話だった。尾崎はそれを読んで泣いていた。俺はてっきり学校生活がつらいのだとばかり思っていたが、そうではなかった。尾崎は追い込まれていたのだ。校内でも、家庭でも。

「でも、この前風見に――あ、クラスメートなんですけど――言われましてね。もっと馬鹿になれって。なんかムカつきましたけど、その通りにしました。その夜、父親とぶつかったんです。ほとんど徹夜で、話をしました。そしたら本当に……解決しちゃったんですよね。あっけないくらいに簡単に」

 尾崎にどういう家庭の事情があったのかは分からない。俺に訊く権利も無いだろう。でも、尾崎は幸せそうだった。心から笑っていた。だから、これでいいのだろう。

「だから、もう大丈夫です」

 話が飛躍した。でも、俺にはその行間を汲み取ることができた。

 尾崎は強いやつなのだ。それが今まで苦しんできたのは、学校と家庭、双方に問題があったからに他ならない。家庭の問題が解決した今、尾崎には居場所がある。こんなちっぽけな場所じゃない、もっと完全無欠な拠り所が。尾崎を理解してくれる人が、いる。俺だけじゃない。仲本も、風見とかいう同級生も、何より両親がいる。尾崎は強いのだ。もう無敵なのだ。ちっぽけな噂なんぞ、屁でもないのだ。無視を決め込むこともできる。噂を吹き飛ばすこともできる。今となっては尾崎にとってそんなこと、簡単なことなのだ。

 だから、大丈夫なんだ。


 夕闇の中、俺は外を見つめていた。尾崎は家族の用事があると言って帰り、部室には俺と仲本だけが佇んでいた。

 俺は、やっとのことでカズの真意に気づいた。

 カズは俺に部室を手放させようとしていた。そのために、幾度と無く忠告してきたし、生徒総会では衝突した。俺は頑としてそれを拒否した。それが尾崎のためだと思ったから。

 それを受けてカズは方針を転換した。俺が部室にこだわる理由を解消しようとした。だからあの少年を送り込み、同級生に真相を伝え、尾崎を救おうとしたのだ。見事な手腕だった。実際に尾崎は問題の半分を解決し、残る問題が消えるのも遠くないだろう。

 そうだ。カズはハナっからうちの部室を奪おうとしていたのではない。尾崎を救おうとしていたのだ。

 俺には無理だと思っていた。先輩である俺には、消極的な方法でしか尾崎を救うことはできないと思っていた。守りに徹することしか考えられなかった。カズはやってのけたのだ。間接的にではあるけれど、積極的に、尾崎の環境を変えることができた。対して俺はどうだ? 結果を見れば、俺は尾崎のために何かしてあげられたのか? 俺は何も分かっちゃいなかったのではないだろうか。逆に尾崎の首を絞めているだけだったのではないか。

「……俺は……間違っていたのかな」

 誰ともなしにそう呟いた。傍らにいた仲本が、優しい声で応えた。

「間違ってない。正しいかは分からないけれど、間違ってなんかいないさ。いつだって、誰だって」

 不意に涙が溢れた。泣くのなんて何年振りだっただろう。


 その後幾日とせずに終業式を迎えた。クリスマスには、彼女に会わなかった。親の実家に帰省し、年末を過ごした。

 俺は決心した。

 彼女と、別れよう。

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