前編
もう引き返せない──私は雑踏の中を早足で歩いていた。
途中、誰かと接触したらしく怒鳴り声が聞こえたが、構うことなく先を急ぐ。
もはや私にとって、人の群れは背景画のようにしか認識できない。
あと二時間もすれば、すべての他人が、この世界の何もかもが私とは無関係になるのだから。
目を反らし、耳をふさぎ、心を閉ざし、まっすぐ見慣れた駅舎へ向かう。
スマホをかざして自動改札を抜けたところで、私は異変に気付いた。
(誰もいない……?)
ホームは無人だった。まるで最終便の発車後みたいに閑散としている。
見慣れぬデザインの電車が、たった一両だけ停車していた。
普段ならまだまだ利用者がいる時間帯である。私の前後にも改札を通過した人間がそれなりにいたことを覚えている。第一、駅員の姿も見えないのはおかしい。
不穏な考え事をしながらだったので周囲をよく見てはいなかったが、どこかで私以外の人間が消えてしまったのだ。
停車中の車両をのぞいてみるが、やはり内部にも乗客はいない。
まるで私以外が神隠しに会ったかのようだ。いや、私だけが無人の駅へ転移したというべきか。
「まさか、無意識に俺の自制心が働いて、こんな幻を見せているんじゃ……」
青ざめたところで、だしぬけに声をかけられた。
「君! この電車が見えるのか⁉」
振り向くと、三十半ばの私と同年代らしい男だった。
「見えるんだよね⁉ ね、そうだろ⁉」
「え、ええ、そりゃ目の前にありますからね」
相手の勢いに圧されて、とりあえず率直に答えるしかなかった。
「よかった! じゃあ、これをあげるから僕の代わりに乗ってくれよ」
男は財布から真っ赤な切符を一枚取り出し、私に押し付けた。
「咎人駅行き……?」
「ちゃんとした切符だよ。君の下車したい駅で下りればいいからさ」
「こんな駅名聞いたことないんですけど」
「いいからいいから! ほら、発車しちまう!」
男にどんっと押されて、私は車両の中へ仰向けに倒れた。
「何をするんだ!」
「あとは頼んだぜ」
起き上がるより先にドアが閉まり、電車が動き始める。
遠ざかるホームで、何を喜んでいるのか男が小躍りしているのが見えた。
それから咎人駅なる場所へ着くのには十分もかからなかった。
(何が君の下りたい駅で下りればいいからだ!)
完全にオートメーション化されているのか車両には運転手もおらず、いきなり終点のアナウンスが流れたときには毒づかずにはいられなかった。
咎人駅とは一体どこなのか。走行時間的に乗車駅のすぐ隣のはずだが。
ともかく、状況を確認しようと下車した途端、異様な光景に私は息をのんだ。
線路と外界を隔てる鉄柵の向こう側で、戦争が行われていた。
戦争などと言うと大仰だが、百人以上と思われる人数が、だだっ広い草原で、乱闘を繰り広げているのだ。
取っ組み合い、罵り合い、手にした棒切れで激しく叩き合う。
遊びでないことは、頭を割られて流血している者や、腹を武器で抉られて呻いている者がいることからも明白だった。
「何なんだここは……?」
凄惨な闘争パノラマに思わず後ずさったところを、いきなり両腕を掴まれた。
「待っていたぞ新入り」
「咎人駅へようこそ」
喉の奥から掠れた悲鳴が漏れた。
右には牛の顔をした青い肥大漢、左には馬の顔をした赤い長躯の男。いわゆる牛頭と馬頭。
謎の駅で私を歓待してくれたのは地獄に棲むとされる獣人たちだった。