アイスクリーム
「フーちゃん? あなた、フーちゃんだよね?」
何気なく入った喫茶店で、懐かしい子に会えた。もっとも、向こうは覚えてない。というより、わからないようだった。
「おきまりになりましたら、お呼びください」
不自然に口角を上げた、完璧な接客スマイル。知り合いでなく、その他大勢の客に対する対応。
彼女は、決してふざけている訳ではない。人の顔の区別がつきづらいのだ。私はあのとき以来、長かった髪を切ってしまっていたし、彼女の症例はある程度わかっていたので、忘れられていることは、ある程度予測はついていた。
「私よ、ほら、前いたところのスタッフの、襟裳。いつも赤い色の服着てたでしょ?」
「……赤い色の服……? ああ、えりさん! 髪切ったんですね」
『赤い色の服』で、彼女は思い出したらしい。主に彼女が呼んでいた渾名を言うと、表情を僅かに和らげた。付き合いが浅い者にはわからないくらいの、かすかな変化だが。
「街で暮らしてるって聞いたとき、びっくりしたわ」
「ここは、生きやすいです。いろんな人、いろんなところにいろんな考えでいて、いろんな場所にバラけてますから」
あの頃の彼女とは別人かと思うほどの、晴々とした声だった。
「そろそろ、注文しようかな。なにがオススメ?」
「ここの売りはサンドイッチとかトースト系なんだけど……えりさん、きっと、どちらもだめですよね?」
彼女は、申し訳なさそうに言った。
「そうなの。……未だに、ね……。ちょっと」
そう、私はパンそのものや、パンを使った料理、そしてクッキーやマドレーヌなどの焼菓子全般が食べられない。アレルギーではなく、あることがトラウマになり、それ以来食べられなくなったのだ。
「あ、アイスクリーム! あれだったらあの施設で作ってなかったし」
「そうね、じゃあ、それにしようかな。あ、ラムレーズンがあるんだね。珍しい」
「うちのはドライフルーツが沢山入ってるんですよ。そこそこ、人気あります」
そこそこ、と言っちゃうところがフーちゃんらしいな。
数年前、私はとある福祉施設のスタッフとして働いていた。きっかけとなった出来事は、確かチャリティーショーだったと思う。施設長のスピーチを聞いて感動し、これが自分の進むべき道だと思った。
あのときは。
『障害者も 私達健常者も 皆同じ仲間なんです 彼らは とても純粋な だけなんです 』
確かそんな言葉でスピーチを終えた後、自作の歌を弾き語り、時折、正義感ぶった言葉を混ぜこんでいた。今にして思えば、なんて安っぽくて陳腐な芝居だったろう。だが、在学中の青二才だった私には、とても素晴らしい人にみえた。
なんのことはない。一見、気高くみえるハリボテにかぶれただけだ。
大学を卒業した後、そこへ就職できたときは有頂天だった。これから社会を担ってゆくんだ。レイシストは皆悪人。差別のないシアワセな世界を作ってゆくんだ。そう、本気で思っていた。
その施設……パン工房や農場施設の利用者は、不登校や発達障害などで社会にうまく対応出来ない人たちもいたが、大半は知的障害者だった。人数的には明らかにキャパオーバー。市にそういった人たちを受け入れる施設が他にないからというのが理由らしかったが、本当のところはどうだかわからない。だって施設長は、こう言っていたのだから。
『社会から 見捨てられた 彼らたちを 僕たち 健常者が まもってやらないと』
捨て犬や捨て猫が可哀想だと無責任に沢山拾い集め、手術をするなんて自然じゃないと増えるにまかせる……。そんな考えに近かった。
社会的弱者を踏み台にして、立派な人、気高い人に見られたい、そんな歪んだ承認欲求だ。
パン工房で働く利用者に、ちょっと問題のある人がいた。知的障害のある大柄な男性で、利用者やスタッフの女性の身体を触ったり抱きついてくるため、若い女性利用者からは怖がられていた。唯一、怖がらなかったのはフーちゃんだ。触られたとき、罵声を浴びせて追い返したという。
「あいつと関わらん方が良いですよ。被害にあっても、こっちがバカをみる」
そのときの私は軽く考えていたが、
「ああいうことはエスカレートするんです。施設長は止めるタイプじゃないし。寧ろ野放し」
性犯罪者の約一割は、知的障害者ですよ。と、フーちゃんは吐き捨てた。
ぶっきらぼうな物言いをするが、他の人たちには優しいのになあ、と、当時は不思議に思った。
私は、その男性利用者に、なるべく話しかけたり、サポートをすることにした。本人に原因があるにしろ、孤立気味なのはいけないと思ったし、まあ大丈夫だろうとタカをくくっていた気持ちもあった。
彼はただ純粋なだけ。性的欲求など無いと。
そんな激しい思い違いにも気付かずに。
「だから、言ったじゃないですか」
フーちゃんは、ゾッとするほど冷たい目で床のものを見下ろしていた。視線の先には、あの男性利用者が下半身剥き出しでのたうち回っている。私はただガタガタと震えるばかりだった。
「私はレイシストかもしれません。でも言わせてください。スタッフが利用者からの性被害にあっても泣き寝入り。その逆なら社会的問題になって自称人権派団体が騒ぐ。施設長みたいな、ね。知的障害者がただ純粋なだけ、そんな考えも差別的だと思いますけど。純粋なだけ。そんな人間なんていない。『知的障害者はただ純粋なだけ』っていうのは人間扱いしてないってことじゃないですか。真面目な子もいれば、優しいのもいる。小狡い奴もいれば、自分の障害を逆手に取る犯罪者予備軍だっていますよ」
視線の先にあるものを、もう一度蹴りつけてフーちゃんは言った。
「使いものに、ならなくしときます? ナイフありますしね」
私は首をぶんぶん振った。もちろん横に。そこまでしたら、フーちゃんが犯罪者だ。
「冗談ですよ」
あながち冗談には、聞こえなかった。
「今日付けで、ここやめるんで、最後にコイツぶん殴っておこうと思って寄ったんだけど。利用者同士ならただの喧嘩ですませますからね。ここは。コイツみたいに叱り難い人たちには甘々で、こっちが悪者扱いのくだらないお説教は聞かされると思うけど。ずーっとそうだった。……だから私、悪者になってやったんだ」
ざまあみろ。感情の読みとれない声で、そう言い残しフーちゃんは出ていった。
それは誰に対してだったのか、何に対してだったのか。聞くのは怖かった。きっとその『ざまあみろ』には私も含まれているだろうから。
あれから私は、パンやクッキーが食べられない。施設の仕事は、とっくに辞めているのに、フラッシュバックとでもいうのか施設に関連するものを見るたび、あのときの事が鮮明に脳裏に浮かぶからだ。
洋酒が程よく香るアイスクリームは、口の中で甘さと僅かなほろ苦さを残して溶けてゆく。気づけば、もう空っぽ。
記憶も溶けてしまえば、いいのに。
記憶も思い出も、アイスクリームみたいに溶けてしまえばいいのに。そんなことをぼんやりと思いながら席を立つ。
「また、いらしてくださいね」
あのときの、自分をレイシストだと自嘲した冷たい目のフーちゃんはどこにもいない。目の前にいるフーちゃんは、やや表情のかたい、どこにでもいるような普通の女の子だった。