パイナップル
夜に、チャイムを鳴らす音がした。
「ふーちゃん、開けてー」
従妹の声だ。こんな時間にどうしたのだろう。私は作業を中断し、玄関に向かった。ドアを開けると、そこにはヘラリと力無く笑う従妹がいた。
化粧や服の趣味を変えたのか、暫くぶりに会う従妹は少し派手にみえた。そして少しだけ、ささくれてみえた。
「どしたん?」
「うん、ちょっとね。……どうしてるかな、って、ふらっと寄ったの」
きっと嘘だ。湿っぽい声と赤い目に、思わずそう言いそうになるのを押さえるが従妹にはお見通しらしく、
「ふーちゃん、『嘘だ』って、言っていいんだよ。あたし、ふーちゃんのこと小さい頃から知ってるんだから」
……かなわないな。
「コーラでいい?」
従妹にグラスとペットボトルを出し、私は台所に向かう。中断していた作業に再びとりかかるためだ。
その間、ちょっと一人で飲んでてもらおう。お酒じゃなくて、コーラだが。従妹もそのほうが落ち着くだろう。
不作法なのはわかっているが、やはり中断すると気になるし、従妹も私の性格をわかっているからか、気にする様子もない。
「ありがと。ビールならもっと良かったけどなー。何、切ってるの?」
「パイナップル切ってる。それとビールはうちに無い。私も同居人も酒のまない」
手を休めずに、言葉を返す。ざくざくとまだ若い実を切り刻む。
私は完熟したあまいパイナップルより、酸っぱさが残る若く熟し足りないものの方が好きだ。同居人とはいつもそれで言い合いになる。
「同居人?」
「家賃浮かすために、気の合うヤツとシェアしてる。けど、」
「けど何?」
「パイナップルの好みは気が合わん」
手を休め、横目でちらりと従妹を見た。彼女は鳥のように、くっくっと押し殺した声で笑っていた。
「もう……毒っ気抜かれるなあ。ふーちゃんには」
子供の頃から、あたしは悩み事や嫌な事があったら、ふーちゃんに話していた。
相談ではない。話すだけだ。彼女は解決策をアドバイスしてくれる訳でも慰めの言葉をかける訳でもない。いつも、ただ黙って話を聞くだけだ。
だけど、頭ごなしの説教や上から目線の同情もされたことはなかった。だから話しやすかった。
ふーちゃんは、よく言っていた。
「愚痴は後退って、よく言われるけどさ。それこそ上から目線だよ。悩みってさ、吐き出すだけで楽になるのに」
溜め込みゃ悩みにいつか押し潰されて、ぺしゃんこにされまっせ、そんな教えがまかり通るとは、バカだよねぇ。と、嗤っていた。
キッチンからはざくざくという音が聴こえ、甘酸っぱいパインの香りがたちこめている。
コーラを飲みながら、ビールが欲しいなんて軽口を叩いた。彼女が飲まないことを知っていて。
「台所ぐちゃぐちゃ。だけど、後で片付ける」
お皿に綺麗に盛られたパインをテーブルに置き、ふーちゃんは殊更ゆっくりとした動作で座り、自分のグラスにコーラを注いだ。
「一度ノンアルコールビール買ったけど、コーラの方がよっぽどおいしい」
無表情でポツリと呟き、あたしの方へ向き直ると、
「悩みは、何ぞ?」
占い師のように問い掛けた。ふーちゃんなりのジョークだ。
「……あのね……」
あたしはゆっくりと話しはじめた。自分のことなのに、まるで世間話をするようにどこか他人事で、不思議と落ち着いた気分だった。
「あたし、別れちゃったんだ。あの人と」
従妹はわりと、すぐに人を好きになる。下心を隠して寄ってきた男を、あの人は優しいからと、すぐに好きになる。大抵いつも中身の無いろくでなしで、大抵いつも泣くのは従妹だ。
そしていつだって、私のもとへ来る。
半年程前だったか、従妹が写真をみせてくれた。従妹と、従妹の大学の先輩だという男性のツーショットだった。
「いま、付き合ってるんだ。彼、ボランティアとかもやっててね。優しいんだよ、とっても」
優しい? 写真の中の彼からは、どうしても不信感しかわかなかった。
穏やかな笑顔ではある。人を惹き付ける雰囲気もある。けれど、嫌な感じだ。何年か前に辞めた職場を思い出した。
私はある施設で働いていた。発達障害や知的障害のある人たちが働く施設だ。パン工房や農作業、木工細工などがあったが、とりわけ製パンは利用者たちに人気があった。
いつも、スタッフの運転する車に工房で焼いたパンを積んで、町役場や小学校へ売りに市内全体をまわっていた。番重を六つ程積み、利用者二人とスタッフ一人、計三人で売りに行くのだが、あるとき、それは起こった。移動販売に出た子が一人、泣きながら帰ってきたのだ。
「いっしょに行った子が車からおりてくれない。番重、もってくれない」
軽い知的障害がある子だが、仕事熱心で理由もなく泣きわめく子ではなかった為、スタッフに事情を聞いた。スタッフは苦り切った顔で、前々から困ってるんだ、と前置きして話してくれた。
「あの子と一緒に販売に行った子おるやろ? 一年くらい前は木工細工の方におったんやけど、パンの方にいきたいって駄々こねてな。そしたら助手席に乗ってはしゃぐだけで、番重運ぶのも販売も全然手伝わんで……あげくのはてに、二、三ヶ所まわったら帰りたい帰りたいって、車ん中で暴れて、売り物のパン滅茶苦茶にしてな。車ん中も滅茶苦茶や」
スタッフはため息をついた。今日だけでなく、毎回あるのだという。
「勘弁してほしいわ。俺の車、軽やろ? 助手席にずっと乗ってるだけの、コックコートみたいな白い作業服着た子がいると目立つんや。あの子はどこか具合が悪いんですかって、たびたび聞かれるし、他の利用者にしてみたら、何もしないのに同じお給料もらってる、って不満が溜まっとるんや。……こういった施設じゃ利用者の適性みるのが普通やけど、うちの施設長は利用者のやりたいようにやらせるっちゅう考えやけんな……」
原則として、スタッフは販売そのものは手伝わないし口出しもしないが、彼は見るにみかねて一緒に販売に行ったらしい。
後日、あのスタッフが注意を受けていた。販売の間、利用者を車の中に一人にしたからという理由らしかった。あのときの状況や、元木工細工班の子が普段からどんな態度かを話したが、施設長はこう言った。
「うん、まあ、大変だと思うけど、もう少し あの子の 可能性を 信じて みようよ。あの子は 障害者だから しょうがないし 僕たちはみんな 神様がつくった この地球っていう 宇宙船の中の 家族なんだからね」
…………は?
なんの解決策にもなっていない。耳を疑うというレベルではなかった。障害者だから仕方ないなど、施設側が言う言葉ではない。
自分の車を出してくれるスタッフや一緒に販売に行ったあの子が、大変だとか可能性を信じるとか言うんなら、まだわかる。一年の間、我慢したのだから。
だけど、何もわかってない施設長がそれを言うか。自分のワガママが通らないからって、スタッフ個人の車で暴れ、毎回売り物のパンを滅茶苦茶にするような子の、何を信じろと言うのか。
施設長は、自分が善だと信じきっている顔で穏やかそうな笑みを浮かべていた。
(脳ミソ湿気ってんのかな。施設長)
…………偽善者め。
従妹が見せてくれた写真の中で笑う彼は、そのときの施設長と同じ顔だった。ペテン師の笑みを浮かべた偽善者の顔だった。
私は従妹が深みにはまらないよう願った。
祈るのではない。願うのだ。
存在しない神になど、誰が祈るものか。
つきあってるんだ、と写真をみせたとき、ふーちゃんは少しだけ険しい顔をした。そして、
「私なら、この人とは親密にならない。なんか嫌な感じ」
と、ふーちゃんらしからぬ事を言った。
「ごめんね。……でも、心に留めとって。この人は独善的な人だと思う。自分が善い事だと信じたら、必用に応じて平気で他人に嘘をつくよ」
あたしは、そのとき、ただの嫉妬としか取らなかった。
でも結局、ふーちゃんの言った事はあたった。
キミは僕がいなくても大丈夫だろ? 彼女は僕がいないとダメなんだ。キミは強いから平気だろ? 彼女は弱いから僕が守ってやらないと。
薄っぺらな言葉が、くるくるとまわる。優しいと思っていたあの人は、ただ独善的で、独りよがりなだけだ。
「なんか、ふーちゃんに話したら、別れたことどーでもよくなっちゃった。つまんない男と過ごした時間、半年ですんで良かった」
「ブレーキだよ」
パインをもしゃもしゃ食べながら、ふーちゃんは呟いた。
「愚痴は後退じゃなくて、心がどんどん悪い方にいかないためのブレーキだよ。吐き出してスッキリしなきゃ、ろくなことにならない。……もっとコーラ飲む?」
遠慮する。これ以上飲むとお腹パンパンになっちゃう。パインをフォークで突き刺し、口に運んだ。
「酸っぱーい……。もうちょい待ってれば甘くなったんじゃない?」
あたしは想像していた味とは違う酸味に顔をしかめた。ふーちゃんはそんなあたしを尻目に、コーラ片手にマイペースにもしゃもしゃと食べている。
「パイナップルは追熟しない。それに、完熟したのは好きじゃないから。未熟さが残るくらいがちょうどいい。果物も、人間も。完熟したら、後は腐るだけ。甘くておいしいふりをして、中身腐った人間なんて、この世にゃごまんといるからね」
……ふーちゃん、見てきたからね。そんな人。
「ふーちゃんは、嫌な事とか悩みがあったら、どうするの?」
あたしに言わないだけかもしれないが、ふーちゃんは悩みを話さない。それが、ちょっと気になった。ふーちゃんこそ、ずっと我慢してるんじゃないか。心配するあたしを余所に彼女は、
「コーラ飲んで忘れられるような悩みは、たいした悩みじゃない」
飄々と、人を食った態度で笑った。
「あたし、恋するのやめようかな。いつもあんなのばっかり捕まえちゃう」
「そしたらまた、私のとこ来ればいいよ」
何でもない事のように、ふーちゃんは言った。
今度は、ただのおしゃべりに来るよ。